2020年7月12日日曜日

武蔵国郡境を行く、新羅郡と多摩郡 / Sub Title: 深大寺から小榑村へ、渡来の道



それにしても歪(いびつ)ですよね。

画面真ん中やや左、南北に伸びる線が多摩郡と新座郡の郡境(西が多摩郡、東が新座郡)なんですが、"角" が3本多摩郡側に突き出ています。

これは何なんだということになりますが、これまでのこのシリーズ(1, 2, 3)で得た知見からすると、川の水源があるのでは?, ということになりますが、果たしてどうなんでしょうか。

南から見て行きましょう。

南の角

川は無いっすね。

で、上保谷 "新田" と、あります。

これは、上保谷村が新田として開発したエリア(村)ということでしょう。

この辺りで新田開発と言えば、以前ご紹介したコレからもお分かりの通り、江戸時代の明暦の大火、玉川上水の開削に伴う新田開発と思われますが、どうでしょうか。

調べてみますと、風土記には、
  • 本村の民伊右衛門なる者開発せり其年歴詳ならす、地形は東の方へ長く千川上水の水涯に至り凡十八町許西は多摩郡田無村に隣れり、江戸を離れること六里
  • 上保谷新田は郡の東北にあり、享保年中上保谷村より開きし故に斯唱えしか
と、ありますので、総合して、上保谷村の伊右衛門が中心となり享保年中に開発されたということが分かります。

享保年中ということですと、明暦の大火とは無関係ですね、1657年ですから。

1722年に、あの、大岡越前が責任者となって始まった武蔵野新田開発ということになります。

阿波洲神社は、1722年から開発が始まる武蔵野新田の一つ、上保谷新田の鎮守神として、1752年に、粟嶋明神を勧請して始まりました。新田開発の痕跡ですね。

と、言うことは、このあまりにも歪な形、もしかしたら、新田開発の為、西に延長された故の角、という可能性がありますね。

つまり、律令時は素直に紫線が郡境で、武蔵野新田開発時に、黒線の状態まで拡張された、と。

水は玉川上水(1653年)と千川上水(1696年)を使ったのだと思います。

先に行きましょう、真ん中の角です。

真ん中の角

ここにも川はありません。

下保谷村とあります。角の付け根部分も下保谷村。

調べますとこちらもやはり享保の改革に伴う新田開発で、角の東にあります下保谷村が、切添で開発した新田とのことでした。

切添とは、既にある耕地の奥を地続きで開発することだそうですから、もう、ドモロ、そのまんまですね。延伸したんです。その結果、角になった。

しかし、よく見て下さい。

開発されたはずが、明治13~19年ですから、江戸時代が終わってから10数年しか経ってないこの時期に、畑は無く、雑木林のままです。

今尚残る武蔵野の森

このことから、切添で下保谷村が新田開発しようとしたものの、水が確保出来ず、断念したことが想定されます。

田無神社、今の田無神社の北に当たる宮山に、田無神社の旧称である尉殿大権現が祀られていました。鎌倉期の創建と伝わります。江戸期に、田無神社と保谷の尉殿神社に分祀されました。尉殿大権現は水神で、ゾウトノ、ジュウドノ、ズードノなどと呼ばれ、埼玉や群馬でも同じ呼び名の水神様が確認されています。宮山には白子川の源流部がありますから、その付近に鎮座していたんでしょう。その水を頼りに新田開発しようとしたのだと思いますが、この川は大雨の時だけ川になる川だったようで、新田開発には至らなかったのだと思います。
尉殿神社
白子川源流

ラスト、北の角です。

北の角

こちらには野火止用水がありますね。

野火止用水開削後、新田開発されたのではないでしょうか。

と、調べてみると、若干違いましたが、ほぼ、そのようです。

榎本弥左衛門の萬之覚によると、玉川上水の工事が命じられた1653年、川越藩主老中松平信綱は、野火止に新田を開発しようと、50軒程の農家をここに移住させました。この時に出来たのが野火止村、西堀村、菅沢村、北野村ということです。

野火止用水はその2年後に開削されてますから、それより早く開発し始めたということですが、本格化したのはその頃からと思われます。

今も(恐らく)当時のまま残る畑
撮影した畑の明治13~19年当時の状況、当時も畑だった。
野火止用水
河越藩主老中松平信綱の遺命によって1663年に岩槻からの美止めに移転となった平林寺の仏殿

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さて、3本の角の原因は分かりました。

同時に、江戸時代の新田開発前の、ですから恐らくは758年の新座郡成立時の郡境も分かりました。

が、そもそも、何故、ここが多摩郡と新座郡の郡境になったのか?

武蔵国と相模国の国境は東京湾と相模湾の分水界でした。

荏原郡と豊島郡も分水界。荏原郡と多摩郡も同じ。新座郡と豊島郡も。

豊島郡と多摩郡は、神田川の支流部分と本流部分で分けていました。

何れも川、つまり、水、水の利用権を行政界としていたわけです。

この流れで言えば、新座郡と多摩郡も・・・と、思いたくなりますが、全く、そうではありませんね。

柳瀬川、黒目川、白子川がありますが、全て基本的に西から東に流れてますから、この郡境は柳瀬川と黒目川を横断してます。

川、水じゃないなら、何?

この問に対しては、大胆な仮説をご提案したいと思ってます。

この郡境は、川や水、つまり水利で引かれたわけではありません。

この郡境道は、深大寺エリアから新座郡への、高麗人(高句麗人)の移住の道だったのです。(ジャジャーーーーーン)

深大寺縁起

どこからともなくこの地に現れた、深大寺を開いた満功上人の父福満が、郷長温井右近長者の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵の故事を思い浮べ、深沙大王に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父温井右近長者も母虎もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。

長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、遣唐使で南都に法相を学び、帰郷後、この地に一宇を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(733年), これが深大寺開創の伝説であります。

※深大寺サイトより

深沙大王
深大寺、
祇園寺、祇園寺は、満功上人の祖父母、温井右近長者と虎の館跡との伝承があります。
虎柏神社、589年創建との伝承が残る古社中の古社で、延喜式論社でもあります。また、深大寺開山の満功上人の祖母虎を祀っているとも言われています。また、元は "高麗" 神社で、"高麗" が、"狛" となり、祖母虎を名も付して、今の虎狛神社となり、誤字で、"柏" となったという説もあるようです。しかしなぜ北向きなんでしょうか。深大寺を向いている、そういう気がしてしまいます。

こんなこと言ってる人、誰もいません。私の大胆な仮説、妄想と言っても良い。

が、私なりの根拠は以下の通り。
野火止塚、新羅人の野火によって火田を作る焼き畑農法の際、延焼を防ぐ為に設けられたと思われています。

新座郡は最終的に新羅人を移住させる為に出来た郡だったんですが、その前は、武蔵野原野で、開発の為に、試験的に渡来人が次々と送り込まれていたんでしょう。

その中で、深大寺エリアから、新座郡の小榑村を中心としたエリアにも移動があったのではないでしょうか。

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如何でしたでしょうか。

新座郡と多摩郡の郡境を巡るexploreだったわけですが、3つの角の経緯から、1,300年前の武蔵国の様子が透けて見えてきましたね。

新座郡側が、あのように延伸しても、多摩郡としても別に構わなかった、それほど、不毛の地であったということ。

武蔵野台地が如何に水に苦しんできたのかが分かります。



そして時代は下り、江戸時代の新田開発ですね。

あれ?, 渡来人に開発させたんじゃなかったっけ?, と思いますよね。

やっぱり水が無く開発しきれなかったんだと思います。それほど厳しい土地だった、武蔵野台地は。

渡来人は水が豊富で低地部分が広い白子川、黒目川、柳瀬川河口付近に集中して住んでたんじゃないかと思います。

また、新田開発しなければならないほど、江戸の町が人で溢れかえったということです。その背景には平和があったんでしょう。

いやぁ、面白い。

皆さんも是非!!何ならツアーします。