2020年5月23日土曜日

武蔵国郡境を行く、荏原郡と多摩郡

コロナで遠出が出来ないので、ネタ探しで迅速測図の自宅周辺を眺めていたら、我が荏原郡と、西のお隣多摩郡の郡境が目に入り、それを追っていたら、面白いことに気付きました。

黒線が荏原郡と多摩郡(当時は北多摩郡)の郡境@迅速測図

砧公園内を行くこの道は、実は、多摩郡と荏原郡の郡境で律令に遡れる古道中の古道。向かって左が多摩郡、右が荏原郡。

上記迅速測図の真ん中、南北の黒線が、荏原郡と多摩郡の郡境なんですが(今の時点では赤線は無視してください。), 多摩川から順調に、垂直に伸びてきた郡境が、不自然に、直角に西へ行き、直後、東へ戻ったと思ったら、再び、北を目指し、その後、大きく西へ進んでいます。

その後、東へ戻るので、出っ張りのようになってますね。

これ何だろうと思って大きく西へ行った所をzoom upしてみたら、、、


北沢川だったんです。

郡境は、北沢川の源流部を囲んでいました。

世田谷区立上北沢きんもくせい広場、この辺りが北沢川源頭と思われます。井戸もありますね。

そして直感的に、”あっ、この郡境、北沢川の分水界なんじゃない?", と、思ったわけです。

"北沢川(目黒川)は、荏原郡の領分だ。", という感じですね。

そういえば、武相国境も東京湾と相模湾の分水界でした。古代の行政界は分水界、あるいは海、川なんじゃないかと大発見した、、、と一瞬思いましたが、考えてみれば今の行政界もそうですね。

いや、今の行政界が古代の行政界を踏襲しているだけで、やはり、律令の時代、国を作り、郡を作り、郷を作っていったわけですが、その行政界は、分水界、海、川が基準だったんだと思います。

ということでもう一度多摩川まで戻って今一度それを頭に入れた状態で荏原郡、多摩郡の郡境を見ていきましょう。

多摩川~千歳船橋

いやぁ、見事に分水界ですね。

多摩川からの郡境は、等々力渓谷の谷沢川と砧公園を流れる谷戸川の間を縫っています。谷戸川の源頭部を横断しているのが少し気になりますが。

六郷用水(左)と谷戸川(右), にしても澄んでますね。湧水だからです。
少し上流になりますが、谷沢川です。蓋がされた暗渠で、橋も残ってますね。

しかしその後、この仮説は打ち砕かれます。

千歳船橋~北沢川源頭

既述した、"不自然に", 西に東に直角に曲がり、再び北を目指し、再度、西へ行く所で烏山川を横切ってしまうのです。

よりによって烏山川ですよ!!

烏山川は、この迅速測図には載り切れてませんが、もう少し東で北沢川と合流します。同じ水系、目黒川水系なんです。

わざわざ出っ張ってまで、北沢川を守ったんなら、烏山川を切り捨てるのは何か不自然です。

と、言うことで、私が考えた本来の荏原郡と多摩郡の郡境は下図の赤線の通りです。

私的荏原郡・多摩郡郡境、谷戸川源頭部

まず、谷戸川源頭部は横切らずちゃんと避けます。

谷戸川源頭部には弁天公園。"弁天"が、川があったことを示しています。

おあつらえ向きに古道が走ってるじゃあないですか。この古道を郡境としましょう。

品川用水に当たったらそのまま北西へ。

この道、六郷田無道じゃあないですか。いやあ、六郷田無道よ、あなたはやはり律令に遡れる古道中の古道だったんですね。

これまで、六郷田無道は、律令に遡れる古道だと言われてはいたんですが、その根拠が自分としては今一つ腹落ちしてなかったんですが、ストンっと落ちて気持ちが良いです!!

荏原郡と多摩郡の郡境だった、国・郡を作った時にできた、だから、律令に遡れる古道だということです。

次ですが、六郷田無道をそのまま北西に行きます。

烏山川源頭

ここは仙川と烏山川(西)の分水界ですね。烏山川 = 目黒川は荏原郡だけど仙川は多摩郡の領分だということです。

烏山川(西)が終わった所で北へ折れ、烏山川東西の源頭を掠めるように東に行く道を行きます。

源頭を掠められた烏山川(西)
同じく、烏山川(東), 高源院の池が烏山川の水源の1つ

この道は旧人見街道じゃあないですか、やはり、あなたも古道中の古道。いやぁ、ホントにストンっと落ちて気持ちが良いですね。

そして、迅速測図の郡境である黒線に接続します。

なんか線自体もスムーズだし、良いんじゃないですかね。

私的荏原郡、多摩郡郡境

黒線に接続後、迅速測図による荏原郡と多摩郡の郡境は東へ、ほぼ、甲州道中沿いに進みます。

荏原郡、多摩郡郡境、甲州道中付近

ふと目を北にやると神田川が流れています。南は北沢川支流がヤマタノオロチの竜頭の如く、ニョロニョロとあり(下向き矢印)その源頭を掠めて進んでいきます。

源頭を掠められた川の1つ、だいだらぼっち川、良い曲がり具合ですね。水は低い方へ低い方へ流れますからこのような自然な美しい蛇行となります。この窪みが、柳田邦男曰く、だいだらぼっち(伝説の巨人)も足跡です。

あぁ、ここは正に目黒川水系と神田川水系の分水界なんだなとつくづく思わせられます。

なので、この部分は迅速測図の通りの郡境で文句無しです。

先に行くと、やがて、荏原郡と多摩郡の郡境線は二手に分かれます。北が豊島郡と多摩郡の郡境、南が荏原郡と豊島郡の郡境です。



今回は荏原郡と豊島郡の郡境を追いたいと思いますので南に行きます。

ご覧いただいてお分かりの通り、迅速測図が示す荏原郡、豊島郡の郡境は、目黒川水系と古川水系の分水界なんですね。

目黒川は荏原郡の川なんだ、ということで、これまでの見方の通りではあるんですが、どうしても気になるのがヤマタノオロチの竜頭なんですね。

この構図、先程の図と全く同じじゃないですか?!

東京湾に注ぐ目黒川、古川。ほぼ南北、やや北西から南東に流れるこれらの川は、甲州道中の下に、甲州道中に沿って見えない崖があり、その崖から染み出した湧水が源頭となって流れだしてる、だからヤマタノオロチの竜頭のようにキレイに並んでいる、そんな感じがしませんか?!

そうすると、甲州道中は、何か特別な感じがして、取っておきたい衝動にかられます。

ということで改めて調べてみると、和名類聚抄によると、荏原郡には、蒲田、田本、満田、荏原、覚志、御田、木田、桜田、駅家の9郷があり、御田は三田だし、桜田は桜田門の桜田なので、古川は遠く越え、当時の平川(神田川、日本橋川、東京湾)が荏原郡と豊島郡の郡境で、江戸幕府が置かれたため、江戸御府内は武蔵国として認識されず、江戸域外が荏原郡となり、江戸府域と荏原郡の境が古川ですから、江戸無き後の荏原郡の郡境は古川が継承されたようです。

と、言うことでやっぱり、甲州道中を荏原郡の境としましょう。

最後に整理します。

多摩川から黒線で北に上がり、赤線にバトンタッチして北沢川を回り込み、甲州道中沿いに黒線、青線と行き、半蔵門に到着、その後、外堀を時計回りし神田川に至り、日本橋川で東京湾に至るのが、私的荏原郡の郡境線で、郡成立時、つまり、律令の時代に遡れる古道中の古道だということになります。

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