2020年5月31日日曜日

武蔵国郡境を行く、豊島郡と多摩郡

前回(荏原郡)の続きです。

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下記迅速測図を見て下さい。左下から来ている黒線、これは、荏原郡と多摩郡の郡境です。

この線が南北二手に分かれて、前回は南の線について語りました。

下に抜けていく黒線が、迅速測図が言う荏原郡と豊島郡の郡境で、これは目黒川水系と古川水系の分水界なんですが、元々は甲州道中→平川(神田川、日本橋川)が荏原郡と豊島郡の郡境で、江戸時代に入り、武蔵国には属さない特別行政区だった江戸御府が、荏原郡と豊島郡の間にスポッと割り込んで来た感じとなって、荏原郡と江戸との境 = 目黒川水系と古川水系の分水界が、江戸無き後の迅速測図当時の荏原郡と豊島郡の郡境になったという話を前回しました。

今回は多摩郡を追って、北に分かれた郡境線を行ってみましょう。


北に別れた線は、しっかり川を避けてますね。

この線より北側、つまり多摩郡側にある川は神田川です。神田川は多摩郡の川、この川は豊島郡の川、という感じです。

郡境はこの川と神田川の分水界のようです。セオリー通りですね。

先に進みます。やがて、多摩郡と豊島郡の郡境は神田川と重なります。。。って言うか、さっき避けた川は神田川の支流じゃあないですか!!

どうやら和泉川と呼ばれているようですが。

神田川水系なのに豊島郡側に追いやられた和泉川

同じ神田川水系で郡跨ぎするのはこれまでのセオリーから外れますね、おかしい・・・


違和感を抱きつつも、先に進みますが、先に進むと、この違和感が本格的なものになりました。。。


ちょっと小さくて分かりづらいかもしれませんが、その場合は画像をクリックしzoom upしてください。

図の吹き出しの通りなんですが、多摩郡と豊島郡の郡境は、和泉川と神田川の分水界を行った後、神田川に乗り、その後、神田川支流の妙正寺川に乗り、一旦離れた後、妙正寺川支流の江古田川に乗り、しかし、源頭直前で江古田川を横切り、でも善福寺川はわざわざ感を以てしっかり避けています。

神田川水系はズタズタに分断されています。

しかも、お気付きの方もいらっしゃると思いますが、東進後、西進ですから、豊島郡と多摩郡の郡境はこうなります。


この出っ張り、今の中野区と杉並区のエリアなんですが、スッポリと、多摩郡に吸収された感がありますね。

神田川水系をぶった切っているという点、多摩郡が大きく東に張り出している点、って言うか、多摩郡が大きく東に張り出した結果、神田川水系がぶった切られたとも言えますが、これは、これまでのセオリーからすると大きな違和感です。

が、
  • 延喜式の武蔵国多摩郡海田郷が中野に比定されていて、
  • 多摩郡中野郷は1362年の熊野那智大社の古文書に認められ、
  • 1451年の上杉文書では、和田、和泉、堀の内が武蔵国多摩郡中野郷と記載されている
そうですから、違和感大ありなんですが、ここはどうやら太古の昔から多摩郡ですね。

そう言われてもう一度、多摩郡と豊島郡の郡境を辿ってみると、神田川って、下流から見ると、まず、妙正寺川が分かれるんですが、そういった意味でいうと、確かに、和泉川と江古田川は分断されてるんですが、それを除くと、意図して、妙正寺川分岐より上流部分をカバーしようとしていることが伝わってくるんですよね。


丁寧に避けられた善福寺池

それと、北側は、これはもう明瞭で、神田川水系と石神井川水系の分水界と言うことなんだと思います。千川上水ですね。

と、言うことで、多摩郡が出っ張ってることは、最初は違和感ありましたが、最終的には納得行ったので、細かい所を直した私的豊島郡、多摩郡郡境です。

まずは和泉川付近

和泉川付近、迅速測図では左下から真ん中やや右上に抜ける黒線ですが、神田川支流和泉川も多摩郡に入れるべく、青線→紫線とします。
この窪みは和泉川上流部の牛窪という所です。牛窪を避けるように、この写真を撮っている場所付近が源頭であり、私的郡境です。
牛窪を作った和泉川支流

次に神田川と妙正寺川の分岐付近と妙正寺川の葛ヶ谷を流れる支流付近

妙正寺川分岐
迅速測図によれば、この写真の奥辺りで神田川と妙正寺川が分岐していたものと思われる。
右の道が妙正寺川葛ヶ谷支流の源頭、ビルを挟んで左が私的郡境。ここをしっかり避けるルートにした。

最後に江古田川支流付近

江古田川支流
江古田川支流源頭、ここを避けるルートとした。今写真撮っている場所が私的郡境。

和泉川も妙正寺川の葛ヶ谷支流も江古田川もキチンと豊島郡に取り込むように修正しました。

こっちの方が良いんじゃないですかね、スムーズになりましたし。また、お誂向きに古道もあるんですよね。

最後に妙正寺川の源頭です。

妙正寺川の源頭、切り通し公園

結果的に今の千川上水通り、嘗て、千川上水が流れていた、神田川水系と石神井川水系の分水界尾根です。

やっぱり、千川上水通りは、この直線性といい、豊島郡と多摩郡の郡境であることといい、古道中の古道のようです。

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でも、そこまでして何故多摩郡を出っ張らせたんでしょうかね?

神田川水系の水源まで豊島郡にしてしまうという手もあると思うんですが。

さて、この迅速測図を見て何かお気付きでしょうか?


そう、やたらと道と地割が真っ直ぐですよね。

何故、こうなったのか。

答えは、元々、何も無かったから、なんです。

元々、この辺りは本当に何も無かった、武蔵野原野だった所なんです。だから自由に道を作れたんですね。だから真っ直ぐ。

以前、武蔵国の古代東海道で作った平安期以前の寺社をマッピングした現代地図です。赤丸が神田川水系から西のエリアで、ここだけ、きれいさっぱり平安期以前の寺社が無いんです。神田川までのエリア、少し南の野川、少し北の柳瀬川、黒目川、白子川流域にはあるのに。

この辺りは、江戸時代の始め、新田や、火事によって江戸御府から移住させられた人達の移住先として開発されました。

例えば、連雀は神田連雀町から、吉祥寺は本郷の吉祥寺から、中高井戸は高井戸からの移住者達の開発地です。

江戸になって初めて人が入ったくらいですから、律令の時代がどうだったか、推して知るべしですね。


では何故、原野だったのか?

試みに、少し範囲を広げて、且つ、水系表示ONにしてみたら意外なことが分かりました。

このエリアには、全く川が無いんです!!

だからだぁ。

だから、出っ張ってまでして、神田川水系の分岐部分を多摩郡に入れ込んだんだと思います。

じゃないと生きていけません。

ストンと落ちました。

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