2018年12月30日日曜日

やまなみルート、三浦半島の古代東海道、古代東海道

武相国境シリーズが完結したので、三浦半島の古代東海道シリーズを再開します。

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三浦半島の古代東海道は、幾つかルートが考えられます。

前回は、朝比奈切通しを通る六浦ルートを行きました。

六浦ルートは、朝比奈切通し開削以降は間違い無く、鎌倉と六浦を結ぶ主要ルートだったんですが、それまでについてはハッキリしていません。

十二所までは、杉本寺など、奈良平安期の寺社があり、可能性は高いと思わせますが、十二所以降は、奈良平安期の寺社が全く確認出来ません。

確かに、鎌倉郡衙から切通しまではずっと川で、峠を越えたら入江という地形は可能性を高めます。実走した感想としても、峠までは高低差はそこまで激しくありませんでした。これで、船越とか曳船とかの地名があれば完璧、、、と、言いたいところですが、切通しは相当な高さがあったことも事実ですね。切通し前に、あそこを"船越"するのはかなり難しいように思います。総合的に、"まぁ、無いことは無い。"、という程度でしょうか。

そんな中、ネットで色々調べてたら、私が信頼するサイトで、このような記述を見つけました。

"・・・斬られたのは上総介平広常で広常の屋敷はここから少し先の朝比奈切通への分岐を直進した七曲谷戸と呼ばれる平地にあったと伝えます。その屋敷跡から山越えの道を七曲坂といい、七曲坂は朝比奈切通が開削される以前の六浦への旧道とも考えられている道なのです。"

と、朝比奈切通し開削以前のルートがあるようなんです。

古地図を見てみましょう。まず、谷戸が確認できます。"水"の文字もあることから水田があったんですね。その谷戸に徒歩小径(1本点線)が描かれてます。この道は東京湾と相模湾の分水嶺尾根に接続しています。また、その道からの分岐も2本ありますね。更に尾根のルートもあるようです。

明治13年頃の古地図、七曲谷戸

現代の道と合わせてみましょう。

電子国土での七曲谷戸

谷戸の道は本線と2本の分岐全て残ってますが、尾根道は消失しているようです。

しかし、鎌倉から六浦を結ぶ道として考えると、六浦ルートは、

明治13年古地図、六浦ルート

十二所でグイっと北に行き、弧を描くように十二所の真東の位置まで下りて来てます。

朝比奈切り通しには行かず、七曲の古道を行くとすると、グイッと北に行った後ですから、一旦北に行ったのをまた南に戻るような感じがして不自然ですね。

古地図、七曲坂

だったら相模国の鎌倉郡と三浦郡の郡境尾根の方が自然なような気がします。調べると、中世から続く生活道で、現在はやまなみルートと呼ばれ、ハイキング道として存続しているようです。

古地図、やまなみルート

古代東海道シリーズ、三浦半島の古代東海道、今回はこのやまなみルートを行きたいと思います。

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小田急で藤沢まで、東海道線に乗り換え大船へ、横須賀線に乗り換え鎌倉まで輪行です。

前回六浦ルートでは訪れなかった奈良平安期の寺社を巡ります。

まずは参道の石畳が美しい寿福寺です。開山は1200年と鎌倉期ですが、ここは頼朝の父、義朝の居館があった地。平安期には既に開かれていた地ということになり、寿福寺前の道である六浦ルートも、少なくとも平安期には既にあったということになります。

寿福寺

踏切渡って直ぐに岩窟不動尊。岩窟不動尊は、吾妻鏡の記述で、1188年には既に存在していたことが分かっています。

岩窟不動尊

鶴岡八幡宮を通り過ぎ次は荏柄天神社です。荏柄天神社は、1104年社殿創建の言い伝えがあります。

荏柄天神社

次は鎌足稲荷に行かなきゃならないんですが、忘れてしまいました。この道、狭くて車からのプレッシャがきついですよね。ついつい先を急いでしまいます。

と、言うことで十二所に到着です。明石橋のミニストップで握り飯補充し、やまなみルート取り付きを目指します。

明治13年頃の古地図、十二所の取り付き部分。尾根を通る村道(1本点線1本実線)の取り付きを探したが・・・

しかし、村道の取り付きは見つからず、相模国鎌倉郡と三浦郡の郡境から取り付きます。ここは清寿苑脇です。

さぁ、ここからはパラダイスでした。乗車率30%程でしたが、久々の山サイは楽しかったです。写真をどうぞ。

今日は山メインなのでSIRRUSです。私のSIRRUSは2005年モデルなのでMTBベース。タイヤをシクロクロス用に履き替えれば29erに早変わりするんです。

切り通し

で、ここが先ほどの村道とやまなみルートの接続部分。現代の地図には何も描かれてないんですが、

現代地図

何やら古地図通りに掘割道が付いてます。

掘割道
ズンズン進んでみます。

軽い藪漕ぎで、、、

きれいな掘割道が続いてました。流石、村道!!!
どうですか。明治13年には皆ここを通ってたんですよ。いやぁ、感慨深い。この先少し進んでみましたが、続いてました。ミニストップまで行けるかもしれません。

きれいな掘割の村道!!!

さて、このやまなみルートは相模国鎌倉郡と三浦郡の郡境尾根を行くんですが、この尾根が米軍池子住宅との境界でもあるんです。なので、こんな感じで道は付いています。

鉄線

壁バージョン

それでも落ち葉フカフカのシングルトラックは快適でした。

掘割状

笹トンネル

米軍に接収される前の海軍弾薬庫の扉だそうです。

足元を見ると紅葉の落ち葉が。見上げるとそこにまだ紅葉が。
絵になる、これぞ切り通しです。

切り通し

程無く果樹園に着き、見晴らし台に寄ったところ、これが絶景でした。

富士山とSIRRUS

富士山と三浦半島のやまなみ、これ、絶景でした。スマホなんで広角だから伝わるかな・・・

ここでランチ。贅沢なランチでした。

ランチ大休止の後、先に進み、相模湾と東京湾の分水嶺尾根に到着、北上し、七曲谷戸からの道を探しますがこの状況。見つかりませんでした。

この正面にあるはずなんですが・・・

諦めてやまなみルートに戻り、横横を渡って住宅地に入ります。Time Travelから帰還です。帰りは金沢八景から京急蒲田まで輪行で帰りました。

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いやぁ、久し振りの山サイ、最高でした。

道はほぼシングルトラックで、ただでさえ細尾根のところに、米軍池子住宅の鉄線やら壁やらがあるので狭いんですね。で、片面が崖ですから危ないんです。なので乗車率は30%程度だと思いますが、でも、楽しかったです。

見晴らし台の絶景、村道が見つけられたのも良かったです。

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で、肝心のテーマ、"この道が古代東海道だったのか"についてですが、まず、細尾根でとても幅10m (古代官道の平均的な道幅)の道は通せませんから、それは無いんだと思いました。

次に、このやまなみルートは、朝比奈切通開削以前の鎌倉と六浦湊を結ぶ道ということなんですが、この変遷を整理すると、以下のようになります。

  1. 朝比奈切り通し開削以前: やまなみルート、相模国鎌倉郡と三浦郡郡境尾根を通るルート
  2. 朝比奈切り通し開削以降、瀬戸橋架橋以前: 六浦ルート、朝比奈切り通し、白山道を通るルート
  3. 瀬戸橋開削以降: 六浦ルート、朝比奈切り通し、瀬戸橋を通るルート
で、2と3の変遷ですが、瀬戸橋を架けたから変遷したんですね。瀬戸橋は、下図で言うと、青マーカが4つありますが、画面やや右に2つ並んでる左の方、これが瀬戸橋です。

この瀬戸橋が架かったから、瀬戸橋の向こうに行くことができるようになった、だから瀬戸橋の向こうがGoal = 六浦湊ということになり、瀬戸橋の右のマーカがそれです。

瀬戸内海

で、紫ラインなんですが、これは当時の海岸線なんです。紫ラインの内側が入江だったんですね、この時代。その名も"瀬戸内海"です。画面左にあるマーカが朝比奈切り通しですが、ここから六浦湊に行く為には、瀬戸内海があるので大回りしなければならず、それが白山道(朝比奈切り通しの少し先で北に折れ瀬戸内海を大回りしているブルーライン)だったということになります。これが変遷の項番2の状況。

で、瀬戸橋が架かったので、ショートカットできるようになったわけです(朝比奈切り通しからそのまま東に行くブルーライン)。項番3です。

この変遷を考えた時に、更にその前であるやまなみルートの時代は当然大回りしなければならないわけです。そうなると、合理的なのは尾根を越えて白山道に接続することだと思われます。

が、これはなんだか不自然なような気がします。クイっと北に行かなければならないので。六浦湊ではなく、ただ単に六浦に行く為、つまり生活道だったら、北にクイっと行く必要が無いのであり得ると思いますが。なので、やはり、やまなみルートは中世の、よしんばそれ以前だとしても、官道ではなく生活道だったのだと思います。

更に、上図の薄緑ラインは武相国境なんです。そうなんです、六浦湊は武蔵国なんですね。東海道ですから、東海道に属す相模国からやはり東海道に属す上総国に行かなければならない。東山道に属す武蔵国は経由してはならないのです。やはり、六浦ルート、やまなみルートは、古代東海道ではないということになりそうです。

ま、武相国境がその当時もココなら、という前提ですが。

それにしてもここが入江だと、相当な良港ですね。また、六浦湊に真っ直ぐ続く道の先、少し高地で大水となっても安心な場所にあるのが称名寺です。ただのお寺ではなさそうですね。

2018年12月17日月曜日

武相国境道、その10, 完結編

武相国境道シリーズ

第一弾は草戸峠から町田駅まで。第二弾は武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)に沿って展開する産鉄地名、第三弾は鎌倉街道沿いの産鉄地名、第四弾は鶴見川水系に沿って展開する産鉄地名を巡りました。

そうなんです。

完結編なので、前回のこの話の説明から間が空いてますし、改めて説明しますが、武相国境道は産鉄の道、それをテーマとしたexplorerだったんです。

武相国境道周辺には産鉄地名が沢山あり、ヤマトタケル東征の道とも重なるので、ヤマトタケルは鉄を求めて、あるいは産鉄の方法を教えながら、武相国境道を行ったのではないかというロマンある話もあります。

あるいは東北人とすれば、坂上田村麻呂の東征・征夷によって産鉄に従事させる為、連れて来られた同胞の悲しみに触れる旅でもあります。

第五弾は横浜市南区別所の産鉄地名を巡り、第六弾はいたち川沿いの産鉄地名を巡りました。そして、第七弾は東光寺や白山神社などが嘗てあった舞岡をexplorerし、第八弾は瀬上市民の森、金沢市民の森、横浜自然観察の森と公園に連なる尾根道をトレッキングで巡りました。第九弾ですが、その名も"金沢", "釜利谷"の、その名もその名も"白山道"をエクスプローラーしました。

で、今回は、いよいよ、完結編です。

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金沢八景まで輪行、R16から県道23と行き、鼻欠け地蔵に到着です。

前々回の記事から

所で前々回言うべきでしたが、武相国境は、三国山に端を発し、朝比奈切通しまでは、相模湾と東京湾の分水嶺を忠実にトレースしてきました(町田付近の境川が武相国境になったのは太閤検地以降、このテーマの時代 = 産鉄 = 概ね平安時代は分水嶺と思われる。)が、朝比奈切通し直前にクイッと東の支尾根に逸れてしまいます。その道は鼻欠け地蔵の所に出てくるんですが、鼻欠け地蔵から東は入江だったそうですから、そこをゴールとしたかったんだとしたらまぁ、納得しないこともないんですが、また分水嶺に戻るんですよね。じゃあ何故ここで東に逸れたのか?謎ですね。

赤線が武相国境です。図中央南北の薄青線が三浦半島主尾根 = 相模湾と東京湾の分水嶺で、現在の鎌倉・横浜市境です。図の上(北)から来た武相国境道は、一度東に逸れた後(赤線と県道23の交点が鼻欠け地蔵さん),
また戻ってますよね(少し切れちゃってるけど)。

さて、鼻欠け地蔵さんの真正面の道を行きます。侍従川の支流が作った谷戸の道ですから、最後、横横を越える時はえらい急で長い階段を上ります。三信住宅に入りますがここも急ではありませんが長い上り。ようやく武相国境尾根道への取り付き口に到着です。

に、しても急

パッと見、80度くらいあんじゃないかと思いましたが、だとしたら登れないですもんね。ギリギリ、手を使わなくても登れるくらいです。事前学習時はいつものようにチャリ担ごうと思ってましたが、とても無理!止めといて良かったです。

快適なシングルトラックが続きますが、

登ってみたら快適な道

これに行く手を阻まれます。

この看板の向こうに武相国境尾根が

古道エクスプローラーしていてこれで4回目ですね、米軍に阻まれるの。

折り返して、来た道を戻り、再び横横を越えて、折角上ったのに下り、三信住宅入口を右折、横横を潜り、もう一度横横を潜り、横横沿いに上りです。上り切った所に公園があり小休止。この公園の横にある階段で、もう何回目だ?もう一度横横を越え、山道に入るんですが、ここも、チャリは止めときました。

長い長い階段を登り、横横を越えて、墓地の脇を抜けて、山道に入るとこういう道もありながら、

掘割状の

こんな、見つけにくい道標に従い先を行きます。

地図を見ながらであれば大丈夫。私も、行き過ぎたかな? と思って振り返ったら見つけました。

すると、こんなシングルトラックや、

笹のトンネル

こんな眺望を経て、

奥に海がうっすら見える。に、しても電線の交差点ですな。

丁字路に到着します。ここを左が武相国境の続きで、右はその道の両サイド(東西)共に相模国ですが、現在の横須賀・逗子市境です。なので左は現在で言えば横須賀・横浜市境となり、3市の境ということになります。

丁字路

横須賀・横浜・逗子市境で折り返して、チャリを置いた公園に戻り、六浦南小を目指します。この学校の裏から尾根道にアプローチするんです。

で、今回はここがハイライトでした。

左の金網越しに住宅地が見える。

尾根がホソ!結構な細尾根なんです。切り立った壁のようで、ここは頑張ってチャリ担いだんで乗車してみたんですが、細過ぎて無理でした。が、その分、眺望は良いですね。

六浦の海が見える。
武相国境尾根が良く分かる写真です。尾根が切れてます。向こうに見える山は和田山です。尾根が切れた所に京急とR16が通ります。切り通したんですね。
明治13年頃の古地図。赤線が今回走った武相国境道です。左から2番目の黄色マーカが上の写真撮影ポイントですが、本当の国境は薄青線ですね、私が行ったルートも古道(荷車小径)ですが。これを見るとやはり切り通してないですね。昭和5年に京急はこの路線開通したようですからその時に切り通したんでしょう。
切り通された武相国境尾根の断面。写真左に、横須賀市と横浜市金沢区の境界標。

と、ここで、六浦南小に行く頃から降り出した雨が本降りになってきたので、Goal目前でしたが、止む無く中断としました。でも殆どGoalだからこれで完結編です。

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武相国境シリーズ、ようやく完結です。1年掛かりましたね。9月までは半分上海人でしたから、ということもあると思いますが。でも面白かったです。いつの日か、まとめをしたいと思います。

2018年12月11日火曜日

武相国境道、その9, 金沢・釜利谷の白山道

武相国境道シリーズ

第一弾は草戸峠から町田駅まで。第二弾は武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)に沿って展開する産鉄地名、第三弾は鎌倉街道沿いの産鉄地名、第四弾は鶴見川水系に沿って展開する産鉄地名を巡りました。

第五弾は横浜市南区別所の産鉄地名を巡り、第六弾はいたち川沿いの産鉄地名を巡りました。そして、第七弾は東光寺や白山神社などが嘗てあった舞岡をexplorerし、前回、第八弾は瀬上市民の森、金沢市民の森、横浜自然観察の森と公園に連なる尾根道をトレッキングで巡りました。

今回第九弾ですが、その名も"金沢", "釜利谷"の、その名もその名も"白山道"をエクスプローラーしたいと思います。

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さて、金沢の釜利谷にある白山道です。東光寺まであって、揃い踏みですね。

まずは金沢ですが、金沢は、畠山重忠の領地でした。その前から畠山重忠の領地だった秩父にも金沢という地があり、秩父金沢は産鉄地で、今でも、"たたらの里"と言われています。

畠山重忠は、横浜金沢を領地とした時、ここも産鉄地と知り、秩父金沢からたたら師を連れてきて、それが横浜金沢の地名の由来であるとも言われています。

次に、釜利谷ですが、カナクソが発見されていて、たたらがあったと言われています。

更に、金沢には片吹という地名もありますね。この連載でも何度か出てきていますが、"吹き"は産鉄地名です。炉内や鍛冶の火床へ風を送り込むことから来ています。

最後に、白山道ですが、これは、"しらやまみち"と読みますが、白山道にある白山妙理大権現から来ているものと思われます。この白山妙理大権現ですが、別当寺は嘗てこの地にあった白山寺で、称名寺の末であることから、創建時期は、称名寺が開山された1258年以降に創建されか、あるいは、元々あったものを末として組み入れたかのどちらかとなります。

"はくさん"とは言わず"しらやま"と言っていることから、シラ信仰から来ているかもしれず、実際、祠には自然石も祀られているとのことですから、そうなら、やはり、坂上田村麻呂による奥州征伐によって連れてこられた東北の奴隷たちが持ってきた神様でしょうか。時期としては8世紀末から9世紀初頭です。

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今回も非常に興味深い、良いエクスプローラーになりました。では、レポートです。

京急蒲田から輪行で金沢文庫まで。まずは称名寺を目指します。

称名寺、伝1258開山

毛越寺みたいで非常にきれいですね。

本日のルート、白山道は、1305年に金沢貞顕が瀬戸橋を竣工させるまで、鎌倉と鎌倉幕府公式港である六浦を結ぶ主要ルートでした。

朝比奈切通しは1241年に工事開始し、1250年には補修工事をしていますから、朝比奈切通し開通後、約50年程、白山道が鎌倉と六浦を結ぶ主要ルートだったということになります。

その頃から、鎌倉幕府で重役を務めた北条実時が金沢に居館を持ちましたが、鎌倉とその居館とを行き来するルートにもなりました。その居館内に建てた持仏堂が称名寺の元と言われています。

そのルートを今日は称名寺から逆に辿ります。

称名寺の次は谷津浅間神社です。

1017-1020年、藤原道長がこの地に来た時、能見堂より正面の入江の上に見える松の森を、塗桶の形に似ているので塗桶山と名づけ浅間大神を勧請した。

ここは色々と見所がありました。まずはこれ。

浅間神社から南の眺望

浅間神社の南に真っ直ぐに伸びるこの尾根は、嘗ては、浅間神社がある尾根続きだったと思われます。だとするとここは切り通したわけで、結構な高さがあるから、さぞ、大工事だったに違いありません。

が、この切通、明治13年頃には既にあった。ナント!!! 最近切り通したのではないのです。
じゃあいつ切り通したんでしょうか???

明治13年古地図、精度の問題でズレているがお分かりかと思う。この地図を見ても分かるが、尾根続きだった。

それともう1つ、これは地形図なんですが、

地形図

全体的に青っぽいと思いますが、そうなんです、ご想像の通り、嘗てはここは入江だったそうなんです。そうなると、これは入江に突き出た岬、そういうことになります。上の岬の写真の両側(右側が分かりづらいですが)は海だったんです。

と、いうことでこれは岬の右側ですが、この写真も、遠くに見える尾根の手前は全て海だったなんて。

嘗ては海

もう1つの見所はこれです。

左に丸石

これは拝殿手前左脇の祠ですが、丸石が祀られていました。この地で丸石だと、アラハバキでしょうか。

先に行きます。

正法院です。

山号は赤井山

この正法院ですが、山号を赤井山と言います。赤い水が出たから赤井なんです。つまり鉄分の多い鉱泉ですね。実際、もう潰れてしまったようですが、近所に赤井温泉があったそうです。

徐々に徐々に鉄分が濃くなってきましたね。

7・11の交差点を左折し、釜利谷の交差点を過ぎ、宮川沿いに進みます。途中、寄りませんでしたが、自性院があり、ここも、産鉄に絡む伝説があります。

やがて東光寺につきます。

東光寺、日曜日の座禅会をやっているようで、元気な子供たちの笑い声が響いてました。

東光寺は、元々鎌倉の薬師ヶ谷、今の鎌倉宮辺りで、畠山重忠の開基により、1282年に開山したお寺です。応仁年間(1467~69)にこの地に移ったと伝えられています。

何故、この地に移動したのか。

東北産鉄民を慰める為だったのでしょうか。

直ぐ手前には、畠山重忠の息子、重保に因んだ六郎橋がありました。

六郎橋

さて、いよいよ、本日のメインイベント、白山妙理大権現です。

ここへは道路から階段を上がってアプローチするんですが、何と言いますが、背筋がゾクッとするような、かと言って恐怖心ではないんですが、緊張感と言いますか、そういう空気感でした。

白山妙理大権現

3つ扉がある内の向かって左の扉、ここが、自然石が祀られている所のようです。少し扉が開いてましたので、失礼して御開帳させて頂きました。

ここにも丸石

谷津浅間神社と同じですね。真中のものは、上に石が乗っている分、公田のアラハバキにソックリです。

やはり、ここ金沢、釜利谷は、東北産鉄奴隷達が移住させられた所だったのだと思います。

同じ東北人として、またもや、何とも切ない気持ちになりました。

ふと宮川に目をやるとこれでした。オレンジ、水酸化鉄です。

山側から染み出す水酸化鉄

白山妙理大権現から少し先には白山寺の関係すると思われる白山磨崖仏があるはずなんですが、、、

真ん中辺りにあるらしいが

と、言う感じで識別できません。

更にその先、どんづまりには宮川の水源となる池があるんですが、その左手に尾根道の入口があります。ここから、上の白山道奥公園までの状況をどうぞ。

切り通し1
切り通し2, 道の真ん中に大石
切り通し3

これ、切り通してますし、道の真ん中に進行を妨げる目的の大石が配置されてます。

で、この道、朝比奈切通しからの道に繋がるんです。なので、朝比奈切通しのルート上の、朝比奈切通しに続く二重のゲートウェイではなかったかと思われます。

白山道古道

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今回も鉄分多めなexplorerでした。いやぁ、本当に、武相国境は鉄の道ですね。次回は武相国境シリーズ最終回の予定です。

以上です。