2017年12月17日日曜日

矢倉沢往還(古東海道)、松田惣領~千村

このルート、much better than I expectedでしたよ!

特に、掘割道がたくさん残ってて、1000年前にタイムスリップ出来ました。

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最寄駅は開成なんですが、急行が止まらず鈍行に乗り換えということなので、新松田で降り、チャリをsetupして出発です。

北口から西へ。矢倉沢往還を左折、酒匂川を渡り南へ。足柄大橋で再び酒匂川を渡り左折、1ブロック行った辺りが鎌倉期の矢倉沢往還で、酒匂川の渡河地点です。

ここがまた見事!

ど正面に富士!!!

ここから本日のExplorerスタートです。


※赤ラインが今回のルート

矢倉沢往還の室町以降の道筋は川音川北岸ですが、この鎌倉期矢倉沢往還は南岸を行きます。住宅街ですが、旧家が残っていて趣があります。

直ぐに東名の橋脚に辿り着きます。ここを右折、ここからひたすら上りですが、上り口の神山神社を訪れました。

紅葉が少し残ってました。
創建は室町期ですが、頼朝富士巻狩りの言い伝えもあります。このルートが平安・鎌倉期であることの一つの証拠です。

ここからひたすら、ひたすら、ただひたすらに標高248メートルまで上りです。しかも、割と急。

ですが、ここから怒涛の掘割道のオンパレードでした。

今日のハイライト!!! これを見つけた時は嬉しかったです。迅速図には載ってたんですけど、電子国土地図にも載ってなかったので諦めてたんですが、だからからか、見事な掘割が残ってました。でも、3分も上ると深い藪で掘割は残るも前進不可。仕方無く引き返しました。
上の写真の掘割はここに出てくる。
ここもうっすらと掘割

で、ようやく辿り着いた富士見塚です。この絶景。

頼朝富士巻狩りの言い伝えがあります。

ここから道は下って三嶋神社に出ます。

頼朝創建の言い伝えもある。

ここから一山越えて又上がっていくんですが、そこがまた掘割。

大きな掘割です。コンクリ舗装でなければ、、、

で、上り切ると尾根道になりますが、ここがまた絶景でした。

太平洋が

北側も絶景

霊峰大山

いやぁ、乗車率5%でしたが、楽しかったです。と、やっぱり富士山て気分上がりますね。

2017年12月11日月曜日

武田信玄小田原攻め、退路

1569年の武田信玄小田原攻め、その進軍ルートは、これまで、以下のようにご紹介してきた。

信玄旗本ルート
先衆ルート
二ノ手ルート

今回は退路である。



退路は2つのルートが使われたようだ。一つは三増峠、もう一つは志田峠。

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この退路は単なる退路ではなく、ここを舞台に戦国時代最大の山岳戦と言われる三増峠の戦いが繰り広げられたのですが、それについてはたくさんの戦国ファンがご紹介しているので、是非それらを参照頂きたいと思ってます。

私が今回のExplorerで何より感じたのは、残念ながらそのような歴史ではなく、と、言うよりはそれを大きく上回って、河岸段丘が作り出す景色の美しさでした。

では時系列でご紹介します。

三増峠。トンネル手前に入口があり、勾配、足場、共に、結構険しい登りを経て辿り着きました。15分ほど頑張った後、険しい登りを鋭角に左折するといきなり開けこの典型的な峠ビューです。通行止めの看板以外は完璧でした。計画ではこのまま前進でしたが、この後、仕方無く、険しい道を戻りました。
三増峠から戻って、三増峠の戦いの碑です。この碑がある山裾で戦いが繰り広げられたそうです。碑の向こうに見える山が、信玄が陣取った中峠です。
志田峠に向かう上り。三増峠は本当に急峻で、だから真っ直ぐには上れず、九十九折だったのですが、こちら志田峠は勾配が緩くほぼ真っ直ぐに上っていきます。整備されたダブルトラックが峠手前まで続きます。
志田峠。ここを左折すると峠なんですがその手前を振り返って。
でもここで熊出たんですか、、、
下りは全面舗装路だったので一気に。で、韮尾根のこの絶景です。
最後は長竹の信玄道です。河岸段丘の美しい風景が続いてました。
今度は桜の季節に再訪したいです。

2017年12月7日木曜日

上海の歴史、南翔

清代同治年間に、日華軒が古猗園で南翔大肉饅頭を売っていました。が、客たちはいつも饅頭の皮をちぎっては池の中に投げ入れ魚の餌にしていました。

そこで日華軒は、饅頭の大きさを小さく、皮を薄く、具を多くつめるように改良を重ね、大いに繁栄しました。

日華軒

清朝末期、西太后は突然悪寒がして、胃の調子が悪くなりました。御膳房は西太后の体調に合わせて体の温まる山菜・海鮮の珍味を西太后が住む体和殿の御膳に届けましたが、西太后はそれらを食べようとしませんでした。

そこで、太監は、上海からある大臣が手土産として持参した南翔小籠包を思い出し、蒸し直してそれを西太后に勧めてみました。西太后は白玉でつくった小さな饅頭のようなものをじっと見て、一つ口へ運んでみました。すると、直ちに胃の調子が良くなり食欲が出て、この味は天下逸品だ!と称賛した後、小籠包を一皿全てたいらげてしまいました。西太后は暫く興奮ぎみでしたが、宮仕えの女官に墨と筆を用意するよう命じ「天下第一包(天下一の点心)」と半紙に生き生きと書きつけました。

日華軒の小籠包

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南翔は、古くは槎渓といわれ、南朝梁天監4年(505年)に白鶴南翔寺が建てられ、南翔鎮は寺を由来に名づけられ、今日まで1500年の長い歴史を有します。

今はその名を留雲禅寺と言う
そこかしこで祈祷が
大雄殿

南翔寺の門前町として栄えた南翔。今も続いて賑やかです。








週末の小旅行に、是非

2017年12月5日火曜日

小野路道

小野路道

という道がある。

八王子と小野路を結んだ道なのだが、現在の野猿街道が、昭和の初めまで小野路道と言われていたようだ。

野猿街道は八王子と一ノ宮を結んでいるが、と、いうことは、堀之内の辺りから小野路に向かっていたと思われる。

小野路道の謂れは何なのか。何故、八王子と小野路を結ぶ必要があったのか。

  • 延長2年(924年)、武蔵守、小野隆(孝)泰は、武蔵国多摩郡横山に、石清水八幡宮を勧請し八幡神社を創建した。
  • 天禄年間(970~973年)、国司として武蔵国に赴任した小野隆(孝)泰は、小野路に先祖小野篁を祀る小野神社を創建した。


若干の矛盾(延長2年と天禄年間では約50年も間が空いている。人生50年の時代に無理がある。)はあるものの、八王子と小野路は小野隆(孝)泰で繋がっていたのだ。

でも何故、小野隆(孝)泰は、”小野路に”小野神社を創建したのか。

そもそもこの小野隆(孝)泰とはどんな人物か。

小野妹子や小野小町、上記の小野篁を輩出した小野氏一族で、篁の七代後。子は義隆(孝)で、横山党の始祖となった。

この義隆(孝)は、情報が錯綜しているのだが、一説によると、天慶2年(939年)に勅旨牧の一つである小野牧の別当になっている。父隆(孝)泰がバリバリ働いてる時だし、小野神社創建よりずっと前だし、と、年代的におかしいからどっちかの情報がおかしいんだろうが、いずれにせよ、小野一族が小野牧の別当になったということだ。

少し時代は下って平安末期、小野路のすぐ西隣の小山田にも牧があった。

小野牧は相当規模が大きかったようで、小山田の牧もその一部だったとしたら、横山も小野路も小野(横山)一族の管理地だったということになり、小野神社を、小野路に建立したのも合点がいくというものだ。

今回はその小野路道をExplorerしてきた。下図のように複数ルートが考えられるが、今回は本線の黒~紫~黒のルートを行った。

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Explorerのスタートはやっぱりここです。

八幡八雲神社

八幡八雲神社には、横山氏の祖、横山義隆(孝)を祀る横山神社があります。

横山神社

山田川に架かる橋の名は小野路橋でした。

小野路橋

先を行くと古道の証、地蔵が佇みます。

古道の風景、サンタ

この直ぐ先はJR横浜線と京王線の踏切ですが、名前が良いです。この古道沿いで、先の橋とこの踏切が、唯一の小野路道の目に見える痕跡です。

野猿街道ではなく、小野路街道の名が残る踏切

北野駅の手前には、横山党の一族が創建したという北野天満宮があります。これも痕跡ですね。

銀杏の落葉が美しかった。

さて、ここからえっちらこっちら上りに入ります。住宅街の中、と、今一つ、趣にかけますが、それは気の持ちよう。1,000年前、小野路道が成立していた頃を想像しながら坂を詰めます。

住宅街の旧道を上ると、絹ヶ丘二丁目手前に出ます。

さて、ここからなんですが、

これは現代地図

現代地図
これは明治42年

明治42年

野猿峠は今とほぼ同じ道筋ですね。

でも、これは明治13年なんですが、

明治13年

今の道筋は全く見つけられませんね。
今の道筋(薄紫)の一本東の道筋(紫)だけです。つまり、明治13年から42年までの間に道が現在の道筋に付け替えられたというわけですが、今回は1,000年前の小野氏・横山氏ゆかりの小野路道ですから、紫を行きます。でもその前に、これを。

水飲み場

これも正面に見えるモチーフが猿ですから、野猿峠と言われるようになってから作られたものだということになり、1,000年前は野猿峠とは呼ばれてないから、こちらの道筋は小野路道ではないということが分かります。

さて、小野路道に戻って、住宅街の中をえっちらこっちら坂を上り詰めると、長沼公園の絶景に辿り着きますが、今日は地元のボーイスカウトが入団式をやってて、絶好のランチ場が使えません。仕方が無い、写真だけ取って先へ。

小野路道、長沼公園入り口
癒される~

折角上ったのにあっという間に下り、気が付けば、横山氏にも所縁の永林寺です。

永林寺、赤門

永林寺を過ぎると大栗川沿いのつまらない道になります。道は、堀之内の辺りから南に折れていたと思われますが、今はゴルフ場です。その後、よこやまの道、小野路浅間神社を経て、小野路に至ります。

小野路浅間神社裏、切り通し

この道はこの先横浜麻生道路に接続します。つまり、絹の道でもあったわけです。
また、長沼峠を通るルート(こっちの方が大きな道だ、明治13年地図では)や勾配のきつい野猿峠越えではなく白山神社迂回ルートもあるようで、今後も楽しめそうです。

2017年12月1日金曜日

上海の歴史、泗泾

前回に引き続き、同じ松江区内にある泗泾をご紹介します。

前回ご紹介した嘗ての松江府城、その前は華亭県城が、唐代(618~907)からの歴史があることはご紹介済みですが、同じ松江区内にあるここ泗泾はどうなのか。

北宋の時代(960~1127)に村は起こったといいます。村の名は会波村。南宋の時代(1127~1279)には七間村と変わり、元代(1271~1368)には、当地の外波泾、洞泾、張泾、通波泾の4つの泾が交わる所という意味で、泗泾という名となりました。泗泾は千年の歴史を持つ古鎮なのです。。。

と、まぁ、こういうことなんですが、ここで終わったら面目無い話で、なので、脳内Explorerを続けますが、一時代前、ここから南西に数キロの松江中山中路に華亭県の県衙が出来た。一時代後、ここに泗泾鎮が起こった、ということで、では何故、ここなのか。

色々と考えたくもなるんですよね。

地図を見れば、泗泾溏は南へと続き松江府中心地へと達します。



更にこの水路は南へ行くと黄浦江に接続しています。と、いうことは太湖に繋がっているということになり、太湖~長江という水路の大動脈沿いに位置していたから、泗泾という村が起こったと考えることが出来るのではないでしょうか。

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926年、泗泾に陸宝庵が移転してきて、呉越王から妙法金字蓮華経を賜るなどしてこの辺りは一大仏教エリアとなっていった。967年には泗泾塘を下った浦汇塘沿いにある七宝教寺が開山し、1008年には、今は福田净寺と名を変えた東田禅寺が開山した。

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太湖、黃浦河、泗泾塘、浦汇塘と繋がる水運の大動脈。その河畔に村が出来、寺が出来、そうして、泗泾鎮が成立していったということになりそうです。

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鴨、上海のローカル地区に行くとこの時期よく見られる光景
清代か民国時代の建築
その2
安方塔
福田浄寺
福連橋
橋上から
江達南路

以上