2019年4月17日水曜日

深大寺、渡来の道

深大寺縁起

『縁起』によれば、どこからともなくこの地に現れた、深大寺を開いた満功上人の父福満が、郷長温井右近長者の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵の故事を思い浮べ、深沙大王に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父温井右近長者も母虎もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。

長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、遣唐使で南都に法相を学び、帰郷後、この地に一宇を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(733年), これが深大寺開創の伝説であります。

※深大寺サイトより

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

  • 733年、満功上人、深大寺開山
この時、仮に、満功上人が40歳だとすると、
  • 717年、満功上人、遣唐使として唐に渡る
  • 718年、帰国
については、733 - 718 = 15, 40 - 15 = 25歳で帰国、24歳で唐に渡ったことになる。
  • 729〜749年、祇園寺開山
満功上人が、733年で40歳なら、祇園寺開山が最も遅かったとして、749年は、749 - 733 = 16, 40 + 16 = 56歳

と、いうことで、深大寺開山前の遣唐使、後の祇園寺の数字検証を経ても、辻褄は合う。なので、この仮説、 "733年40歳" で、以下、話を進める。

すると、満功上人が生まれた年は、733 - 40 = 693年。子供ができるまでの期間を考えると、この693年の5〜10年前、だから683〜688年頃に、満功上人の父福満が、ここ狛江の地に来たことになる。

また、福満の義理の父温井右近長者は、嘗ての高句麗エリアである江原道金剛山温井里の出身とも言われている。

満功上人が生まれたこの時、娘が20歳、温井右近長者は45歳だとし、温井右近長者が20歳の時に、ここ狛江の地に来たとすると、683〜688 - (45 - 20) = 658〜663年だということになる。

話は変わって大磯の高麗若光伝説によれば、666年、あるいは668年に、高麗若光ら高句麗の人々が大磯に上陸、716年の高麗郡設立まで、大磯に土着している。

ここで、渡来関係の年表は以下の通りとなる。
  • 660年、百済滅亡
  • 666年、百済の男女2,000を東国に移住させる
  • 668年、高句麗滅亡
  • 684年、百済の僧尼、俗人23人を武蔵に
  • 687年、新羅の僧尼と百姓男女22人を武蔵に
  • 690年、新羅の韓奈末許満ら12人を武蔵に
  • 716年、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国に住む高麗人1,799人を武蔵に移住させて高麗郡設置
  • 758年、新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武藏国に住まわせ新羅郡を建郡
※「街道の日本史18 多摩と甲州道中」の巻末年表より

正に、温井右近長者、満功の父福満が狛江の地に来たのは、渡来の波が東国に押し寄せていた時。もしかしたら、大磯からの移動もあったかもしれない(684年に白鳳地震が起きている。大磯は津波の被害を受けたかもしれない。移住の契機になったかもしれない。)。

どこからともなく現れた男とその土地にいた娘が結婚し、土着し、やがて、その地の中心的位置付けになっていくという伝承は、外から来た、東国であれば畿内や朝鮮半島などから来た集団が、その地に入り根付いていく様子を言い表していて、よく言われるように、深大寺縁起も然りで、この地に高句麗からの渡来人がやって来て、根付いていく様子を言い表しているのではないかと思います。

恐らく、多摩川下流域に古墳を造った古代の人々のように、渡来人たちも多摩川を遡ったのでしょう。深大寺を中心とする渡来の里は、田園調布古墳群、野毛古墳群、そして、狛江古墳群の先に位置しています。

迅速測図、右下方向が多摩川河口。右下のマーカ群は田園調布古墳群と野毛古墳群。少し離れて狛江古墳群。マーカの意味は、丸が円墳、四角が前方後円墳、星は帆立貝式古墳。色は、青が4世紀、紫が5世紀、赤が6世紀。そういった古墳群の先に深大寺エリア(黒の神社マーク、寺マーク。途中にあるのはひとまずここでは無視してください。)がある。あたかも、東京湾から多摩川に入り、手前から物色していって、古墳はよく見えたと思います、船から。田園調布、野毛、狛江、と、既に埋まってるエリアをやり過ごし、ようやく、空いていたエリアに上陸した、そういう感じが伺えます。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

それでは、核心エリアに入る前に、まずは大蔵・宇奈根・喜多見から行きます・・・って言うか、逆に、どうも、ここが始まりのようなんです。

吉祥院

理由は良く分かりませんが、ここ大蔵、宇奈根、そして西隣の喜多見は、Deepなエリアです。

その筆頭がこの吉祥院。740年、行基が開基。行基作の地蔵菩薩像を安置し、東覚山地蔵寺と称しました。その後、良弁が、不動明王を自ら彫り開山しました。今でもこの不動明王が本尊です。

ただ、行基、良弁というスーパースターが登場し、古い寺、というだけではありません。その昔この地に60才位の老女がおり、いたく地蔵尊を信仰していたので、秦氏某が糧材を喜捨して堂宇を建立したという伝承が残っています。と、言うことで、渡来の香りがする古寺なのです。

だからか、境内にはこの彫像がありました。

境内の、恐らくはご住職のお住まいの門前には朝鮮式の彫像が。

この伝承を帰宅後に発見したので、実走では、吉祥院周辺のお屋敷の名札をチェックしなかったですが、今でも秦さんがいらっしゃるかもしれません。

次に訪れたのが宇奈根氷川神社です。

宇奈根氷川神社、だだっ広い境内に黒松が聳え、田舎の海辺の神社のよう。好きです、この雰囲気。

氷川神社には、以下のような史実、伝承があります。
  • ここ大蔵、宇奈根、喜多見には氷川神社が3つあり、三所明神と呼ばれていて、同じ木から御神体をつくったといった伝承もある。
  • 鎌倉時代に多摩川の上流から龍ヶ渕(竜王淵)に三人の兄弟が流れ着き、その三人が宇奈根、喜多見、大蔵の氷川神社に祀られたという伝承もある。
  • 大蔵出身で幕府の書物奉行にもなった石井至穀の書いた「大蔵村旧事項」によると、宇奈根に大己貴尊(一の宮), 大蔵に素戔嗚尊(二の宮), 北見(喜多見)に奇稲田姫(三の宮), 石井戸大神宮に手摩乳(四の宮), 岩戸八幡(狛江市)に脚摩乳(五の宮)が勧請されたとある。
  • 大蔵氷川神社には、永禄八年(1565年)の「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神四ノ宮」と記されている棟札がある。
総合すると、この3つの氷川神社は独立したものではなく強い関係があり、宇奈根氷川神社が最も位置付けが上だった感じがします。

また、
  • 宇奈根氷川神社に関し、新編武蔵国風土記稿には、「小名中通りにあり、村内の鎮守なり、本社四尺五寸四方の東向、上屋二間半四方、前に木の鳥居を立つ、神体は白幣、いつの頃鎮座せしと云ことを云へず、村内観音寺持」と、創建年は不明
  • 一方、喜多見氷川神社の創建は740年との伝承あり
  • 喜多見氷川神社は、延文年間(1356~1360年)に多摩川で洪水が起き、神社そのもの、古文書などの一切が流失

大蔵、宇奈根、喜多見の陰影図

で、これは大蔵、宇奈根、喜多見の地形を現した陰影図ですが、寺マークが先程の吉祥院、神社マークが、右(東)から、大蔵氷川神社、宇奈根氷川神社、喜多見氷川神社です。

大蔵氷川神社は仙川と野川の谷に挟まれた台地の東端にあります。喜多見氷川神社は、微妙なんでよく見て下さい。その南側より若干ではありますが微高地になっていますね。それにこの2社は宇奈根氷川神社より内陸にあります。

一方、宇奈根氷川神社は最も多摩川近くにあり標高も低いです。

以上から、洪水で流されたのは実は宇奈根氷川神社で、宇奈根氷川神社が最初に今の位置にあり、創建は740年で、その後の洪水によって流され、喜多見、大蔵に還座された、というように考えることができるのではないでしょうか。

また、既述の赤字にした伝承も気になります。時代は鎌倉となっていますが、それが間違いで、もっともっと古代の伝承だったとしたら、深大寺縁起同様、畿内や渡来など外から来た人たちを想像させます。

吉祥院の開基は行基、今はもう洪水で流され現存しませんが、氷川神社の神像も行基作。行基は多分に伝説めいてはいるものの、行基、あるいは行基でなくともその時代の人がこの地を訪れ、開けていったのは間違い無さそうですが、では、何故、この地に行基は来たのか。

最初に多摩川を遡ってきた渡来人や畿内の人たちが宇奈根に上陸します。上陸地にお社を立てます。そのお社はその後多摩川を遡ってくる渡来人や畿内の人たちにとっての上陸の目印になり、次々と、渡来人や畿内の人たちがやって来て発展していきます。発展すると、付近の東国の人たちもここに集まってきました。大磯からも来たでしょう(その時は船越を越えてきた?!)。行基も良弁も秦さんも・・・と、いうようなことは想像できませんでしょうか。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

さて、次は狛江なんですが、その前に、ここに寄ります。

迅速測図、駒井
狛江6小南の交差点、旧駒井村のこの辺りが中心地

勿論、 "狛江市" として、 "狛江(高麗江)郷" の地名は残っているんですが、 "駒井(高麗居)"も残った地名の一つです。

で、泉龍寺です。

泉龍寺、サイトによれば、 "奈良東大寺の開山として名高く、伊勢原の雨降山大山寺を開いた良弁僧正が天平神護元年(765年), この地にやってきて雨乞いをし、法相宗・華厳宗兼帯の寺を創建したのが泉龍寺のはじめとされています。"

良弁ですね。良弁と言えば、このExplorerでは吉祥院です。繋がりましたね、良弁で。

が、良弁の主な年表を見ると、
  • 740年、華厳経の講師として金鐘寺に審祥を招く
  • 740年、吉祥院、開山
  • 745年、律師
  • 751年、東大寺初代別当
  • 755年、大山寺開基
  • 756年、大僧都
  • 765年、泉龍寺開基
と、言うことで、吉祥院が早過ぎる感が否めませんものの、泉龍寺開基の765年近辺だとしたら素直に繋がります。

この良弁、出自に関して様々な言われがあります、鎌倉生まれ、あるいは福井県小浜市下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられた、そして極めつけは、近江国の百済氏の出身、です。

更に、良弁は既述のように、大山寺を開基してます。大山寺の直ぐ近くには、日向薬師がありまして、そのお寺は行基が開基。またまた繋がりましたね、今度は行基で。この時、行基が薬師像を彫る為の良い材が無く困り果てていた所に、高麗若光が桂の霊木を寄付し、無事、行基は薬師像を彫ることができたという伝承があります。

と、言うことで、吉祥院、泉龍寺、大山寺、日向薬師が、行基、良弁と高麗若光(渡来人)で繋がりました。

狛江エリア、次は、伊豆見神社です。

伊豆見神社の旧地、水神社。伊豆見神社は889年にここで創建。大塚山といったそうで、ここも古墳か?
現在の伊豆見神社、1550年にこの地に還座。珍しく、北向きなんですね。これは本家の大國魂神社を模したのでしょうか。

既述のように伊豆見神社は889年に今の水神社の所で創建されました。多摩川の直ぐ脇です。

陰影図、和泉

これは和泉の陰影図です。ちょうど真ん中に伊豆見神社旧地、水神社を配置しました。その右(東)が今の伊豆見神社、さらに東が泉龍寺です。

地形に注目していただきたいんですが、水神社の位置、ちょうど、岬のようになっていませんか?

水神社から西は、段差は、まず北に向かい、弧を描くように西に続いています。東も、まずほぼ真東に段差が伸び、続いて直角に真南に曲がっているのが分かりますね。一方が北でもう一方が東ですから、ちょうど、四角形の一角のような岬となっています。

岬の上に立つ伊豆見神社。その場所は大塚山。伊豆見神社が出来る前から聖地で何かしらのお社があったとしたら、多摩川を遡ってきた渡来人や畿内の人々にとって、目印になったのではないでしょうか。あるいは、目印としてお社を建てたのかもしれません。ここも、宇奈根氷川神社と同じような役割を持ったお社だったのかもしれませんね。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

いよいよ核心エリアに入ります。まずは多摩川沿いのエリアから。

下布田遺跡

ここは縄文時代後期の下布田遺跡。写真のように崖地にあり、嘗てはここが多摩川岸だったかもしれません。ここに、縄文時代後期に集落がありました。土偶・土版・独鈷石・石剣・石刀・石冠などの呪術的遺物、石棒祭祀を物語る特殊遺構や紅バラの大輪を思わせる赤く塗られた滑車型土製耳飾(国指定重要文化財)が出土、方形配石遺構や合口甕棺墓なども確認されました。

その直ぐ西隣には古天神遺跡があります。

古天神遺跡

ここはその名の通り、布田天神の旧地です。加えて、1万年位前の旧石器や4, 5千年前の縄文時代の人々の生活跡、5世紀ごろの墓、7世紀の堅穴住居、鎌倉時代から室町時代頃の地下式横穴墓、河原石を積んだ室町時代から江戸時代の墓が発見されています。

下布田遺跡からここ古天神遺跡にかけての嘗ての多摩川岸には、石器時代から室町まで続く祭祀、生活の場があったのです。そこから真っ直ぐに、実に真っ直ぐに北に向かう道があり、その道の行き着く先が、深沙大王堂なんだから実に面白いですね。

多摩川岸から真っすぐに続く深沙大王堂参道。一番左(西)が本道で、左下の神社マークが布田天神旧地(古天神公園), 真っ直ぐに北に向かい到着するお寺マークが深沙大王堂。本道以外にも幾筋もある。

まるで、多摩川を遡ってきた渡来人たちを迎える船着き場が下布田遺跡、古天神遺跡で、その目印として布多天神が創建され、そこから真っ直ぐに渡来ロマンの里、深大寺エリアに行く道が整備された、そう、思わざるを得ません。

その、行き着く先の一つが、虎狛神社です。

虎狛神社
"狛江郷" の文字。ここが狛江郷だった証拠。

ここはナント!589年創建との伝承が残る古社中の古社で、延喜式論社でもあります。また、深大寺開山の満功上人の祖母虎を祀っているとも言われています。また、元は "高麗" 神社で、 "高麗" が、 "狛" となり、祖母虎を名も付して、今の虎狛神社となったという説もあるようです。

しかしなぜ北向きなんでしょうか。深大寺を向いている、そういう気がしてしまいます。

虎狛神社を東へ。祇園寺があります。

祇園寺
吉祥院と同じ朝鮮式彫像が

祇園寺は、満功上人の祖父母、温井右近長者と虎の館跡との伝承があります。

この祇園寺の南東の今は畑となっている窪地が、深大寺縁起に見られる湖だと思うのですが、どうでしょうか?

今は畑、左奥が祇園寺です。

そして神明社が温井右近長者と虎との娘がいた中の島なんじゃないかと思わせる程、雰囲気がすごいです。土も盛り上がってるし。

神明社

山を越え、深沙大王堂参道に復帰、深沙大王堂、深大寺に向かいます。

深沙大王堂参道
深沙大王堂
深大寺

"山を越えて" と、言いましたが、陰影図を見てください。

一番左上が深沙大王堂、その右が深大寺、その右が青渭神社。この段差は野川が削った国分寺崖線、その崖下にある神社マークが虎狛神社、その右が祇園寺。

深沙大王堂と深大寺は野川が削った国分寺崖線の奥にあるんですが、台地上にあるのではなく、谷にありますね。だから、参道を行くと山越えになるんですが、ここに、深沙大王堂と深大寺が、虎狛神社、祇園寺の近くに位置しなかったのかの理由があるのではないかと思います。

深沙大王ですから、水であり、湧水が豊富なこの地が選ばれたのではないかと思うのです。御覧のように谷は2つあるんですが、東の方は青渭神社が既にあったのではないかと推測しております。逆に言えば、青渭神社は733年より前からあったということになります。

青渭神社

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

如何でしたでしょうか。

濃厚です。非常に濃厚に、渡来の香りがするエリアでした。

また、虎狛神社、青渭神社、布田天神と、延喜式論社が3つもある、東京で最も早くから開けたエリアなのです。渡来人の影響も少なからずあると思われます。

1,000年以上前に日本にやってきた渡来人たち。馴染んで、交じって、今はもう日本人です。こうした歴史をしっかり理解することが、大切なのではないかと思うのです。

今回、大変参考にさせていただいたサイト:



大蔵、宇奈根、喜多見から深大寺向かうのは、基本は多摩川だと思いますが、陸路ならこのハケの道だと思います。ここは私のお気に入りの場所。渡来人もこの富士山を見たのでしょうか。

2 件のコメント:

  1. ここ数年『民族の移動』にハマっている者です。
    Facebookからヨギデンプシーさんのブログを知りました。
    私が知っている神社や遺跡跡地などがでてきて、ロマン(妄想)が広がりました(笑)
    今後の記事も楽しみにしております。

    返信削除
    返信
    1. コメントありがとうございます!引き続き、ご覧頂ければと思います。渡来人は私のライフワークです。

      削除