今の武蔵野 国木田独歩 1898年
1898年に国木田独歩が、"今の武蔵野"で描いた武蔵野の美は、当時は林でしたが、嘗ては、一面の萱(茅、ススキなど)の原でした。
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東は五日市街道が神明通りと交差する地点から、西は、五日市街道が千川上水と交差する地点まで、五日市街道の周囲に広がるエリアは、嘗て、江戸幕府御用達の茅刈場で、武蔵野御札茅場千町野と呼ばれていました。
そうです。
江戸時代のある時点まで、この辺りは、嘗ての武蔵野の美を象徴するエリアだったのです。
迅速測図を見てみましょう。
このエリアは、茅場千町野だったわけですが、迅速測図は明治13~19年作成ですから、
- 1657年に明暦の大火がありましたが、延焼の一つの原因が茅葺屋根だったということで、茅葺屋根が禁止となり、茅刈場が不要になった。
- 延焼を防止する目的で、火除地を設けることとなり、そのエリアにいた住民を移住させる必要が生じた。
- 1653年に玉川上水が敷設されていた。
と、言うことが重なった結果、茅刈場を廃止し、火除地となり移住の必要が出た住民を移住させ、次々と、新田として開発されていった後の姿となります。
ある時点とは1657年の明暦の大火でした。
江戸幕府御用達茅刈場だから人家も無いし、地形的にも、迅速測図を見て分かる通り、善福寺池・善福寺川と、井の頭池・神田川に挟まれた台地で、起伏も無く真っ平らですから、道は自由に引けたんですね。
だから、五日市街道は本当に直線ですし、五日市街道と直角に交差する道~地割~も、直線です。
真っ直ぐな五日市街道、遠くまで見通せます。家康江戸入府時、荒廃していた江戸城再建の為、漆喰の材料である石灰は青梅から青梅街道で、石材は五日市から五日市街道で運びました。だから五日市街道は江戸初期に成立したものと思われます。青梅街道は1603年です、ほぼ同時期でしょう。 |
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五日市街道が出来てから50年後の1653年に玉川上水が出来ます。
そして、1657年に明暦の大火が起きます。
武蔵国豊島郡関村の名主、井口八郎右衛門は、武蔵野御札茅場千町野の野銭を徴収し代官に納める野守でした。
が、既述のように、明暦の大火によって武蔵野御札茅場千町野が廃止となり、言ってみれば、仕事が無くなった、収入源が1つ絶たれたわけですね。
そこで井口八郎右衛門は、900両の上納金をもって武蔵野御札茅場千町野の開発をしたわけです。
その井口八郎右衛門が創建したのがこの大宮前春日神社です。
恐らく地元関村にあったんでしょう。入植時に遷座したものと思われます。
地割について、幅2間ですから3.6mの五日市街道の両サイドに60戸分地割しました。
地割の間口は20間ですから36m, 奥行は全部で250間ですから450mという細長い短冊型。
配分も決まっていて、まず家屋が5畝10歩ですから15m弱、次に、上畑、中畑、下畑という畑地で、最後に林でした。
下記写真は大宮前春日神社の少し西の、五日市街道から正に10数メートル北に入った所に残っている畑です。1658年当時の痕跡ですね。
五日市街道を西へ進むと、西高井戸松庵稲荷神社があります。
迅速測図を見て下さい。松庵村という文字の直ぐ下に、"稲荷社"という文字が見えますね。で、五日市街道を挟んで直ぐの所にも、"稲荷社"とあります。
五日市街道の北が松庵村の鎮守のお稲荷さんで、南が中高井戸村の鎮守のお稲荷さんだったんですが、昭和9年に中高井戸村の鎮守のお稲荷さんが松庵村鎮守のお稲荷さんに合祀され今の形となっています。
迅速測図を見るとその様子が分かりますね。
松庵村は1658~1660年に、松庵という医者が開いたと伝えられています。開村の背景は不明ですが、時期からして、大宮前新田同様、明暦の大火、玉川上水が関連しているものと思われます。
中高井戸村は、一説によると、玉川上水の為、移住させられた高井戸の住民により開かれと言われています。
水は高い所から低い所に流れますから、上水は、標高が高い所から少しだけ低い所を選んで、それを繰り返し開削していきますので、移住させられる人たちもいたんだと思います。
更に西に進み、緊急事態宣言解除で賑わってしまっている吉祥寺も過ぎて、西窪稲荷神社を訪れます。
1657年の明暦の大火で、時の将軍家綱から移住を命じられた芝西窪城山町の住民が、地元の氏神様だったお稲荷さんも遷座しここに祀られています。
大宮前春日神社 |
地割について、幅2間ですから3.6mの五日市街道の両サイドに60戸分地割しました。
地割の間口は20間ですから36m, 奥行は全部で250間ですから450mという細長い短冊型。
配分も決まっていて、まず家屋が5畝10歩ですから15m弱、次に、上畑、中畑、下畑という畑地で、最後に林でした。
下記写真は大宮前春日神社の少し西の、五日市街道から正に10数メートル北に入った所に残っている畑です。1658年当時の痕跡ですね。
今尚残る畑 |
迅速測図での大宮前新田、真ん中やや左上に大きく、"大宮前新田"の地名が記載されています。ど真ん中の青点が春日神社、地図にも説明記載がありますね。赤線が五日市街道で街道沿いに家があるのが分かります。この幅が20間ということです。地割は上下の紫線まであります。上の畑の写真は春日神社から西に2つ目の点線辺りかと思います。 |
現在の空中写真です。黄色点が撮影地。撮影地の左と右2つの地割は五日市街道から15mの家屋、その次に畑があるのが分かります。流石に江戸時代当時のままとはいかず、途中から畑が売られたんでしょう、一般の家々が並んでますし、林も無くなってます。 |
西高井戸松庵稲荷神社、ピントがチャリに合っちゃいました。 |
迅速測図、明治13~19年当時ということになります。 |
迅速測図を見て下さい。松庵村という文字の直ぐ下に、"稲荷社"という文字が見えますね。で、五日市街道を挟んで直ぐの所にも、"稲荷社"とあります。
五日市街道の北が松庵村の鎮守のお稲荷さんで、南が中高井戸村の鎮守のお稲荷さんだったんですが、昭和9年に中高井戸村の鎮守のお稲荷さんが松庵村鎮守のお稲荷さんに合祀され今の形となっています。
迅速測図を見るとその様子が分かりますね。
松庵村は1658~1660年に、松庵という医者が開いたと伝えられています。開村の背景は不明ですが、時期からして、大宮前新田同様、明暦の大火、玉川上水が関連しているものと思われます。
中高井戸村は、一説によると、玉川上水の為、移住させられた高井戸の住民により開かれと言われています。
水は高い所から低い所に流れますから、上水は、標高が高い所から少しだけ低い所を選んで、それを繰り返し開削していきますので、移住させられる人たちもいたんだと思います。
更に西に進み、緊急事態宣言解除で賑わってしまっている吉祥寺も過ぎて、西窪稲荷神社を訪れます。
西窪稲荷神社 |
1657年の明暦の大火で、時の将軍家綱から移住を命じられた芝西窪城山町の住民が、地元の氏神様だったお稲荷さんも遷座しここに祀られています。
少し西に行った所には、関前八幡神社があります。
関前八幡神社、氏子の皆さんが境内を清掃中でした。 |
ここは明暦の大火から少し間を置いた1678年に創建されています。
関前村は、北にある千川上水を越えた先に武蔵関公園がありますが、そこら辺りに関村があり、そこの住民が進出し新田開発した村となります。
これまでご紹介した大宮前新田、中高井戸村、松庵村、西窪村は、明暦の大火の直後に入植、開発されていましたが、ここ関前村はその凡そ20年後。更に、明暦の大火の被害に遭わなかった練馬の人によって開発されました。
と、言うことは、新田開発が上手くいっていたということなのではないでしょうか。だから、俺達も、ということで、まだ空いていたこのエリアの開発に名乗りを上げたのだと想像します。
ん?!
関村と言えば大宮前新田を開発したのも関村名主井口八郎右衛門でしたね。
大宮前新田開発の成功により、2匹目の泥鰌ということでしょうか。
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さて、国木田独歩が言う武蔵野の美、武蔵野御札茅場千町野の開発の歴史を見てきたわけですが、もう一度、迅速測図を見てみましょう。
マーキングしちゃったんですけど、武蔵野御札茅場千町野だったから人家は無いし、地形的にもほぼフラットだから道は自由に真っ直ぐに引ける・・・と言っていたのに、突然の斜め道ですね。
これは何なのかと言うと、こういうことなんだと思います。
迅速測図における関村と関前村の位置関係、黄色ポイントしてます。 |
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さて、国木田独歩が言う武蔵野の美、武蔵野御札茅場千町野の開発の歴史を見てきたわけですが、もう一度、迅速測図を見てみましょう。
武蔵野御札茅場千町野 |
マーキングしちゃったんですけど、武蔵野御札茅場千町野だったから人家は無いし、地形的にもほぼフラットだから道は自由に真っ直ぐに引ける・・・と言っていたのに、突然の斜め道ですね。
これは何なのかと言うと、こういうことなんだと思います。
3八幡と井之頭弁財天 |
- 井之頭弁財天、平安時代の天慶年間(938~947年)に、関東源氏の祖、源経基が創建
- 武蔵野八幡宮、延暦8年(789年), 坂上田村麻呂が奥州征伐に向かう際、この地で兵馬が病気となり、進軍できなくなった。そこで坂上田村麻呂は、持っていた宇佐八幡宮の御分霊を井の頭池北の丘陵地に安置、祈願したところ、たちまち兵馬は回復した。坂上田村麻呂は、奥州征伐凱旋の途中、この地に立ち寄り、社を建立した。
- 荻窪八幡神社、寛平年間(889~898年)に創祀されたものと伝えられ、永承6年(1051年)に、源頼義奥州東征の際、戦捷を祈願、康平5年(1062年), 凱旋時に社を修めた。
- 井草八幡宮、創建当時、春日社だったが、源頼朝奥州征伐(1189年)の際、戦勝祈願をし、以来八幡宮を奉斎するようになった。
(東北人としては、こうして改めて何度も征伐されたことを思い出させられ、複雑ですが。)
武蔵野の美、江戸時代に武蔵野御札茅場千町野と呼ばれた一面の茅(ススキ)の原は、しかし、一筋の奥州古道だけは、存在していたということになります。
想像してみて下さい。
一面のススキの原に、騎馬武者が進んでいくのを。
井之頭弁財天 |
武蔵野八幡宮 |
荻窪八幡神社 |
井草八幡宮 |
因みに、明暦の大火と、実は翌年には吉祥寺火事もあったんですが、これによって、更にその翌年、吉祥寺門前の住民には、幕府御用の茅刈り場であった札野が替え地として与えられ、移住を命じられました。これが今の吉祥寺村です。
ですから吉祥寺村も、大宮前新田、中高井戸村、松庵村、西窪村、関前村と同じく、明暦の大火キッカケで開発されたんですが、違いは、神社は持ってくる必要が無かったという点ですね、武蔵野八幡宮という立派なものがありましたから。
1657年の明暦の大火によって火除地とされた神田連雀町の住民25人は、代替地としてここ茅場千町野を指定され、新田開発しました。村の名は元の連雀としました。
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