2017年8月17日木曜日

延喜式古代東海道 相模国·浜田駅〜武蔵国·店屋駅のルートB: 深見神社・中原街道ルート

ここの所、

  • 橘樹郡衙〜武蔵国衙
  • 都筑郡衙〜武蔵国衙
  • 久良岐郡衙〜武蔵国衙

と、武蔵国の各郡衙から国衙までの官道をexplorerしてきた。

こうなると次は豊島郡衙か荏原郡衙ということになるが、これらは幾度となく行っているし、思いっ切り町中だしで、今一つ。

だけど、乗ヌマ駅と豊島駅の位置によっては杉並ルートと大田ルートがあるので、ぐるっと一周コースになり、それはそれで何かの時に使えそう。とっとこう。

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色々調べると、延喜式古代東海道の相模国·浜田駅から武蔵国·店屋駅間のルートが、2通りありそうだ。

  • 矢倉沢往還ルート、走破済
  • 深見神社·中原街道ルート、未走

深見神社·中原街道ルートを推す理由は以下の3つのようだ。

  1. 式内社、深見神社が官道に面するようになる(逆に、矢倉沢往還ルートだと深見神社と官道が遠過ぎる。他に相模国六社も式内社も無い。)。
  2. 瀬谷は日蓮が池上に向かう時一泊した妙光寺があり、又、北条の頃は宿場が設けられていた往古からの交通の要所
  3. 相模国分寺誌で、『駅路は大住郡箕輪駅より愛甲郡愛甲の辺りを経て、鮎河即ち相模川を渡りて浜田駅に至り、国府に達し、更にい出て深見、瀬谷を過ぎ都筑郡に通じたのである。その古道は浜田より打越、四十坂、国役奴と続いて今尚形跡を存している。』という記述がある。

こうなると、店屋(まちや、みせや、と、2通りの読み方が考えられる。)は、町谷原(まちやはら)ではなく三瀬谷(みせや、上瀬谷·中瀬谷·下瀬谷)で、更に、瀬谷から北上して矢倉沢往還ルートに復帰するのではなく、瀬谷からそのまま東進する中原街道が駅路となる。

まぁつまり、店屋駅が町谷原なら矢倉沢往還ルートだし、瀬谷なら深見神社·中原街道ルートだということか。

確かに、直進性も確保されてるし、深見神社をちゃんと通るってのもデカイ。

赤が深見神社・中原街道ルート、青は矢倉沢往還ルート

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その深見神社、創建は478年、祭神は闇龗神(クラオカミ)、式内社。
クラオカミのクラは日光が滅多に届かないような暗く深い山間の谷を表し、オカミは龍を表す。所謂水神様。直ぐ脇を流れる境川が大本の御神体か。

と、いうのも、元の拝殿本殿は境内西端の東向の稲荷社とのこと。参道が残っており下りればそこは境川。この辺りは丁度蛇行もキツく川底はえぐられ深い水 = 深見だったのだろう。

ということは古道も、東からの参道脇に出る一本実線がそれで、鹿島橋の位置にあった渡しで瀬谷に渡ったものと思われる。
渡った先も、途切れてはいるものの直進路の痕跡が見え、俄然、こっちなんじゃないの?!という気がしてきた。

左の神社マークが深見神社、その直ぐ上の赤ライン、迅速図では一本実線が記事中の古道、その境川を渡った東側に、中原街道まで、途切れ途切れだが直進路の痕跡

もう1つ。

地形図で川に注目すると、矢倉沢往還ルートは川が作る谷によるUp and Downを避けているが、深見神社・中原街道ルートは突っ切っている。この突っ切り具合が官道っぽさ満点なんだが。

しかも、矢倉沢往還ルートの谷の避け具合が絶妙過ぎる。正に避ける為のルート設定でしょう。と、なると、便利な道から不便な道に変更はしないだろうから、少なくとも、深見神社・中原街道ルートの方が矢倉沢往還ルートよりも古いんじゃないかと思う。

地形図

でも瀬谷は武蔵国じゃないんですよね。相模国·鎌倉郡なんですよ。それはでも秀吉の時に境川を武相国境としたからでしょ?との反論もあると思いますが、その前の武相国境は相模湾と東京湾の分水嶺、今の三ツ境の辺り。瀬谷区の中心地、瀬谷区役所は三ツ境の駅の近くにありますが、瀬谷村の中心地といえば宗川寺や妙光寺がある鎌倉街道沿いでした。なのでやはり瀬谷は相模国かな。

やっぱりあり得ないかなー?!
が、ということで今回は未走の深見神社·中原街道ルートを行きたいと思います。

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海老名駅まで輪行。自転車を組み上げいざ出発!!と思ったらパラパラと細かい雨が降り出してきました。せっかくの夏休みもずっと雨でストレスいっぱいだったので、今日は非常に楽しみにしてましたから、無視して出発!!

東口を出て国分関免を左折、程無く相模原台地に上がります。浜田町の丁字路の脇にあるのは浜田歴史公園で、ここが浜田駅の比定地の1つとなっています。

浜田歴史公園、浜田駅比定地の内の一つ。ひっそりとした公園です。

県道406に出、北上すると直ぐ、ひさご塚公園。ここは4~5世紀の前方後円墳です。古代東海道が通る律令より前にこの地は栄えていたということが分かりますね。

ひさご塚

ひさご塚公園の向かいの細道を行きます。この道は、相模国分寺誌に出てきた四十坂。目久尻川に向かって一気に下ります。

四十坂、ここには関があって40文の通行料を取っていたそうです。

目久尻川にかかる橋は今は小園橋、往古は国役橋と言いました。相模国分寺誌に出てきた橋です。

国役橋、その名の通り、国役として作った橋だそうです。国道(国レベルの官道)だったということですね。

国役橋を渡り次の交差点を左折、すると今なお往時の面影が残る伝古代東海道となります。

伝古代東海道

当時のまま、道祖神も

上から。掘割状の道となっているのが分かる。

ここを過ぎると暫くは延喜式古代東海道と同じ道筋となり、大塚本町の交差点一つ手前を右に折れるのが今回のルートBです。

こちらも直進性は確保されている。

その後、厚木基地で道は途切れるが、あとみ坂を経て深見神社に至り、このルートBは終了します。

昼なお暗いあとみ坂

深見神社、この入り口が往古の正式と思われる。

階段を上がると正面に見えるのは嘗て拝殿、本殿があった今のお稲荷さん

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帰りはそのまま中原街道筋を使いましたが、Up & Downが意外に激しく消耗しました。それを考えてもこっちは不便な道。やはり、その点からも、古代東海道ではなかったとしても、延喜式より前にあった道と思われます。