2019年1月5日土曜日

走水ルート、三浦半島の古代東海道、古代東海道

三浦半島の古代東海道シリーズ、第4弾です。

第1弾は実走無しの全体説明、第2弾は六浦ルート、第3弾はやまなみルートを行きました。

やまなみルートを行ったなら、天園ルートも行きたいところですが、こっちはメジャーで人多そうだし、チャリは禁止っぽいので止めておきましょう。

と、言うことで第4弾は嘗ての本命!走水ルートです。

久し振りに現代地図を見て下さい。



緑ラインが走水ルートです。

大町大路から小町大路を南に折れ(ここで名越ルートと岐れます。), 材木座、小坪、堀内、一色、上山口、木古庭、金谷、小矢部、大津、走水と行くルートです。

古事記に、ヤマトタケルノミコトが相模国から上総国に渡海する際、

"走水の海を渡った時に、その海峡の神が、波を起こし、船をぐるぐる回すので、進み渡ることができない・・・"

という記述があることから、走水が渡海点であるとし、鎌倉郡衙から走水へのルートが、嘗ては、三浦半島の古代東海道として最有力だったのです。

私的には、地図上のマーカは頼朝鎌倉入り前の寺社を中心とした史跡なんですが、緑ラインが最も万遍なく分布しており、その点については有力性を高めているのではないかと思ってるところです。

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鎌倉まで輪行、西口を出て、西口から南北に走る道を南に、大町大路を東に、小町大路との辻を南に折れ材木座に向かいます。

途中、横須賀線の踏切を渡って直ぐのこれが、1063年源頼義創建の元鶴岡八幡宮、由比若宮です。

住宅街にひっそりと佇む若宮様、1/4ですが、静かでした。

材木座では光明寺の裏山に上り小坪坂を下ります。

小坪峠から一気に姥谷戸に急降下します。階段じゃなかったとしても乗車できないほどの急勾配です。

小坪坂は、1180年、石橋山の戦いの際、ここ小坪で平氏方畠山軍と源氏方三浦軍が合戦を繰り広げた所です。三浦軍は、衣笠城への帰路の途中、ここ、小坪坂で畠山軍と遭遇し、合戦へと発展します。1180年当時、ですから恐らくその前からも、ここは衣笠への道筋だったのです。

明治13年頃の古地図、画面左上が鶴岡八幡宮、若宮大路が真っすぐ由比ガ浜に伸びています。その東の薄緑線が鎌倉郡と三浦郡の郡境、今で言うと鎌倉市と逗子市の市境です。ここは尾根なんです。鎌倉はよく三方を山で守られた要害の地という言われ方をしますが、東側はこの尾根で守られているわけです。そこを抜けるルートの1つが小坪峠(今回のexplorerルート、緑ライン)、もう1つが名越切り通し(赤ライン)です。この鎌倉防衛尾根ですが、因みにそのまま東に行くと前回のやまなみルートとなります。

小坪坂を下り切った所にあるのが須賀神社です。今回はハイライトが2つありますが、その内の1つの一部となります。後述します。

須賀神社ですから御祭神はスサノオノミコト

須賀神社の後は披露山に向かいます。また、上りです。振り向くと、披露山公園の駐車場に行き着く手前に切通しがありました。

披露山公園駐車場手前、披露山神社前の切り通し

ここを、来た道と逆方向に行くと庚申塔が3基祀られています、富士の絶景が見える所に。

富士山と庚申塔、この切り通しが古道であった証明です。

駐車場に入り尾崎行雄記念碑の裏に回ります。今回のハイライト1つ目、披露山七曲の掘割道です。

切り通し1, 入って直ぐの所
出口近く。石垣があるのは近世まで使われていた証拠。明治13年古地図では里(郷)道(村道と県道の間レベル)でした。

綺麗に残ってますね。

さて、掘割道を堪能した後は、逗子開成中学高校の西側の直線路を行き、田越橋で田越川を渡って、鐙摺の切り通しを抜け、日影茶屋、葉山マリーナを抜けて、葉山元町、嘗ての堀内村に到着です。しかし、この辺り、本当に良い所ですね。東京に通勤しなくてよくなったら、この辺りに住むのもアリだと思いました。

葉山元町から、道は、海岸沿いをおさらばし、東に向かいます。マーロウ辺りまでは谷戸なんで楽なんですが、ここから山を越え、一色村に入り、本日2つ目のハイライト、大峰山に向かう為、西に折れます。

ここに、玉蔵院と森山社があります。

森山社。玉蔵院は写真撮り忘れ。

玉蔵院と森山社は共に749年開山・創建で、奈良東大寺初代別当で鎌倉出身と言われる良弁が開いたと言われています。更に、共に、元は、大峰山山頂にあったと言われています。
今の位置はちょうど遥拝所ですね。大峰山が山岳信仰の山だったことが窺われます。

ではその大峰山に登ってみましょう。と、ここで、チェーン鍵を忘れたことに気が付き、チャリを下に置いていこうと思ってたのが担ぐ羽目に。。。これがきつかった!!!

でも頑張って登った御褒美がこの絶景でした。今回はここでランチです。贅沢でした。

大峰山から富士を望む

さて、ここで葉山の地名の由来ですが、端山(はやま)信仰という説があります。端山とは、民が住む里から遠くにある、信仰的にも高さ的にも高い山(奥山、深山)に対して、自分達の里にある、奥山に行く山脈ルート上の低い山(端山)のことを言うのですが、端山信仰では、村で人が死ぬと、死体は端山の麓に葬り、やがてその人の魂は肉体を離れ、端山に登るとされ、しかもそこで33年間、留まると考えられていて、その間、正月、彼岸、盆には里帰りもして、残した家族を見守ると考えられています。そうして、もう大丈夫だと思った33年後に、山脈伝いに奥山に登って、そこから天に行くと考えられています。

しかし、山脈伝いにある奥山が三浦半島にはありません。が、大峰山に登って、奥山は、もしかしたら富士山なのではないかと思いました。

大峰山は端山であり、葉山の由来なのではないかと思うのです。

大峰山の北に、やはり富士山がよく見える仙元山があります。仙元は浅間で、実際、山頂には浅間社があります。富士山が良く見える山の山頂には、浅間社が祭られますが、この仙元山もそうです。

大峰山も富士山が良く見えるんですが、何故、仙元山にはならなかったのか。それは、それ以前から別のカミサマが祭られていたから。それが森山社、玉蔵院であり、更に昔には、端山信仰があったからなのだと思います。

さて、その森山社と小坪の須賀神社は、1200年続く行合祭を執り行っています。行合祭とは、須賀神社のスサノオノミコトが森山社のクシナダヒメノミコトに33年に一度会いに行くというお祭りです。33年です、33年。端山信仰の33年が、いつしか、スサノオとクシナダ夫婦の33年に変化したのではないでしょうか。

さて、この先、走水ルートを行くと、滝の坂不動吾妻神社があります。

滝の坂不動吾妻神社、ここも上りでした。

ヤマトタケルノミコトが上総国に向かう途中、ここで喉を潤したとの伝説が残っています。また、この神社は森山社との関係もあります。

上山口の旧道を楽しみながら先に進みます。木古庭に入った所にあるのが、瀧谷山瀧不動堂です。小坪の所で話した畠山・三浦の戦いの続きがこの辺りで繰り広げられました。

瀧谷山瀧不動堂、ここも上りました。

少し先には滝が。チョロチョロかと思ってましたが結構本格的でした。

畠山重忠が衣笠合戦の戦勝の御礼として不動明王を勧請したその日から滾々と湧き出した滝

瀧谷山瀧不動堂から荷車小径を下り里道に復帰します。その後、アップダウンを繰り返しつつ到着したのは、弘仁年間(820~824)開山の西来寺です。

西来寺

そして、本日最後に訪れたのは、行基開基の伝承が残る曹源寺です。ですから恐らく奈良時代でしょう。

曹源寺

まだ走水には到着してませんが、帰りの時間を考えるとここらが潮時、衣笠駅から輪行で帰りました。

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まず、この走水ルートが古代東海道だったかについてですが、無いことは無いという感想です。その理由ですが、スタートからゴールまで、頼朝鎌倉入り以前の寺社が万遍無く分布していることです。古代東海道ではなかったとしても、奈良平安期からの古道ではないかと思います。

しかし、今回は、古代東海道かどうかというメインテーマより、葉山の地名由来に関することが非常に興味深かったですね。