2020年11月23日月曜日

深大寺から奥多摩・青梅へ 4, 深大寺エリア、稲城と青梅の関係2、渡来の道

このシリーズの前回は、深大寺エリア、稲城、青梅・奥多摩の、延喜式論社を取り巻く奇妙な関係(下表)から、深大寺エリア、稲城、青梅・奥多摩間で、多摩川を軸にした高句麗渡来人の移動があったのではないか、という仮説を、ロマン含め構築し、深大寺エリアと稲城を実走しました。

深大寺エリア稲城青梅・奥多摩
青渭神社
有無
御神体真名井
御祭神青渭大神大国主命
虎狛(柏)神社
有無
御神体深大寺開創満功祖母虎
(N/A)
霊石、蛇
御祭神大歳御祖神大歳御祖神、惶根神
大麻止乃豆乃天神社
有無有(武蔵御嶽神社)
御神体
(N/A)
(N/A)
御祭神櫛真智命
穴澤天神社
有無有(布多天神社)有(羽黒三田神社)
御神体
少彦名命
湧水湧水
御祭神少彦名命高皇産霊神、少彦名命
妙見信仰
有無有(妙見寺、北辰妙見尊)有(西分神社等)
御神体
(N/A)
御祭神

今回は、青梅と奥多摩の、深大寺エリアと稲城にあった延喜式論社の対抗論社を巡ります。

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奥多摩まで輪行。羽黒三田神社に向かいます。

羽黒三田神社、いやぁ、奥多摩駅から取り付きまでは直ぐなんですが、ここまではちょっとした登山でした。

860年、出雲の人、土師連行基(あの、行基ではありません。)が、東国に下り、御嶽山で修行中、神のお告げがあり、この地に高皇産霊神と少彦名を祀り穴澤天神社としたという伝承があって、社地南の山麓には崖横穴があり、そこから御神水が流れていて、穴澤天神の名の起こりとなったという伝承もあり、御祭神、伝承共に、稲城の穴澤天神社との共通点が見られます。

こんなにも似た伝承が、稲城から奥多摩へ来ているということは、多摩川伝いに人の移動があったと、ロマン含め、妄想しても良さそうな気がします。

稲城にいた高句麗渡来人達が、ここ奥多摩に移動し、稲城で祀っていた神を、同じような条件 = 崖横穴 + 湧水を見つけ、祀ったのでしょうか。。。

・・・・・実はこの記事、一年前に記事自体は書いていて、残すは実走のみという状態だったんです。

つまり、この記事を書いてから1年余経過しているわけですが、この間、私も色々な所を訪れたり調べたりして、知見が増えました。

勿論、渡来人の可能性もあると思いますが、出雲族の可能性もあるのではないか、今ではそう思っています。

ここにも書きましたが、布多天神社と穴澤天神社は多摩川を挟んだ対の神社で、穴澤天神社と対なのがこの羽黒三田神社なのではないか。

共通点は出雲族です。

少彦名は出雲の神ですし、羽黒三田神社の由緒には、"出雲の人" とありますし、土師連は出雲の人、野見宿禰を祖としています。

出雲族と言えば氷川神社です。

奥氷川神社

ここも、大蔵、宇奈根、喜多見の氷川神社とのペアです。

奥多摩町史によれば、

"牟邪志(後の武蔵)最初の国造は出雲臣伊佐知直ですが考証によれば、この出雲臣は当初多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見、ここへ祖神の氷川神を勧請したのが武蔵に数多い氷川神社の起源で、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国街を府中に移して氷川神を中氷川へ、さらに大宮へ移したのだろうといわれるのです。"

と、ありますから。

愛宕山、に、しても形がスゴイですね。

また、同じく奥多摩町史には、

"景行天皇の御代、日本武尊東国平定の折、素戔嗚尊、大己貴命が陣中を守護され、これによって祀られたのを起源とする。
貞観二年(860), 簸川修理大輔土師行基が再興して社号を奥氷川大明神とする。
嘉応三年(1171), 相殿として建御名方命を祀る。
貞治三年(1363), 細川頼春の家人、村野武清、祭祀を起こしその裔相継ぎ奉仕して近代に及ぶ。"

と、ありますから、奥氷川神社と羽黒三田神社は、同じ人物、出雲の人、土師連行基によって、同じ年、860年に、創建、再興せらるる、ということになります。

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青梅街道を東へ。青梅に向かいます。

御嶽の駅を過ぎますが、ここからケーブルカーで御嶽山山頂に行くと、武蔵御嶽神社があり、ここが、稲城にもある大麻止乃豆乃天神社の論社となります。

しかし、どうなんでしょうか。由緒を見てみると、以下のようです。
  1. BC91年、四道将軍武渟川別命が大己貴命、少彦名命を祀ったのが起源。→またもや出雲!!!!!!
  2. 110年、ヤマトタケル東征の折り、この地で白狼の先導によって難を逃れ、奥の院に武具を納めた。これが、"武蔵" の由来。
  3. 736年、行基(こちらは、あの、行基です。)が勅を受けて東国へ下向、御岳山はヤマトタケルの古蹟であり、東国鎮護の源であるとして、蔵王権現の像を安置。
  4. 1234年、前摂政・九条道家が四条天皇に奏上し、勅をもって大中臣国兼を祭祀の司職とし、地主神の大麻止乃豆乃天神社を合祀して仏式から神式に改め、御嶽山大権現と号を改めた。
  5. 1869年、社号を大麻止乃豆乃天神社と改め、式内社に比定するよう上申した。
  6. 1874年、県社(神奈川県)に列格し、御嶽神社と改称する。
うーん、1のオオナムチ・スクナヒコは、上記の流れからして出雲族を考えますが、蔵王権現の習合なので、今回の場合は蔵王権現を祀った時に後付したと思われ、2はお馴染みの伝承で、且つ、山一つ越えた秩父の伝承と全く同じですし。

しかし、3は、時期的にも修験道が盛んになった時期なので、行基は別にしても、確からしい感じです。

で、4で突然、大麻止乃豆乃天神社が出てくるんですね。しかも、位置付けが地主神だと。元々ここにいた神だったと。うーん、突然感が強いな。

で、明治に入り、廃仏毀釈もあったからか、名前を大麻止乃豆乃天神社に改め、落ち着いた頃にまた御嶽神社に戻したと。ずっと蔵王権現で来ちゃってたから、廃仏毀釈で神社系にしないといけないということで、縁のあった大麻止乃豆乃天神社が引っ張られた、そういう感じがします。

でも、太占神事は江戸時代の記録がありますから、廃仏毀釈で急に大麻止乃豆乃天神社を持ってきたわけでは無いんですね。少なくとも江戸時代は大麻止乃豆乃天神社はあったんですから。

まぁ、でも、元々、大麻止乃豆乃天神社で祭神は櫛眞智命だったようには思えないですね。山ですから。自然崇拝、アニミズム、山岳信仰、仏教の流行と共に修験道化、蔵王権現、というのが自然なのかなと思います。

御嶽神社、数年前訪問時の写真

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先を行きます。沢井駅付近には青渭神社があります。

青渭神社里宮、奥宮は山頂なんで時間も無いし里宮で、と、思ったんですが、里宮もここまで侮れない勾配でした。

BC91年に、時の崇神天皇が、疫病退散を祈願し、神地神戸を賜り、官祭に預かったという伝承があります。と、いうことは、BC91年には既にあったということですね。

奥宮近くに真名井という枯れることのない井戸があり、別名を青渭の井と言って、神社名の元となったと言います。

真名井までは行かなかったのでその下流を。非常に澄んだ水で岩魚と思しき魚も泳いでました。

うーん。BC91年て、さっきも出てきましたね、武蔵御嶽神社で。口承伝承が混ざったかな?!, よくあるんですよ。

水が御神体、御祭神の大国主大神は水神だから、ということですから、深大寺エリア、稲城と共通点が多いですね。

やはり、深大寺エリア、稲城の高句麗渡来人達が持ち込んだんでしょうか?!

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先に進みます。

青梅駅に到着です。今回、初めて知ったんですが、青梅は妙見信仰が盛んですね。

これは稲城の妙見寺から来てるんじゃないかと思ってましたが、どうやら平将門の間違いだったようです。

青梅から奥多摩を領地としていた三田氏は平将門の後裔と称していましたから、妙見信仰も盛んだったんでしょう。

その名も、妙見山宗徳寺

その守り神、西分神社

少し離れて金毘羅神社です。

金比羅神社の北の守護神、玄武

金比羅神社の七星大権現

最後に、虎柏神社です。

虎柏神社、良い空気が流れてました。

青梅市史によれば、創建は崇神天皇のころ神地を給わり、ということで、これも青渭神社とほぼ同じ伝承です。

武蔵御嶽神社(大麻止乃豆乃天神社), 青渭神社、虎柏神社はほぼ同じ崇神天皇時代に創建伝承があります。

これはどういうことなんでしょうか?

また、深大寺エリアの虎狛神社は、"虎狛" で、"こま" と読み、鎮座地狛江郷、高麗と通じ、同エリアには高句麗渡来人の伝承が色濃く残り、"虎狛" という名付けに納得感がありますが、こちらの方は、何故、"虎柏"なのかがサッパリ分かりません。地名的にも、"虎柏"という熟語の意味も分かりませんし。

やはり、深大寺エリアから移動してきた高句麗渡来人達に持ち込まれたんでしょうか。

"虎狛"で持ち込まれ、後に延喜式が、"虎柏" と誤記した為、それに合わせ、"虎柏" としてしまった、そういうことでしょうか。

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如何でしたでしょうか。

大麻止乃豆乃天神社は怪しいですが、それ以外の穴澤天神社、青渭神社、虎柏神社は、深大寺エリア・稲城から持ち込まれた可能性があるのではないか、そう思わせるexploreだったのではないかと思います。

しかし同時に、出雲族の移動もあったんでしょう。

こっちの方が先ですかね?!

歴史とは、当たり前ですが重層的であることを改めて感じました。

また、高句麗渡来人の移動ルートをトレースしていると、何故か出てくるアラハバキは、これが原因だったと思うに至りました。

深大寺エリア、稲城、青梅・奥多摩の、延喜式論社を巡る奇妙な関係シリーズ、これで完結です。

2020年11月16日月曜日

武蔵国郡境を行く、久良岐郡

前回も言いましたように、都筑郡の初回では、都筑郡の郡域を、下図のように想定したんでした。

左上から、まず南南東にグレー太線→黒線→黒線が東へ→黒線二股に分かれるもそのまま東へ→黒線海へここは帷子川河口。次に東へピンク太線→南の黒線→紫線→ピンク太線→黒線北→短いピンク太線南へ→黒線東南東→短くピンク太線→紫線→一瞬黒線→紫線で海へここは鶴見川河口。

早渕川~鶴見川のラインと赤線のすぐ北にあり平行している黒線に囲まれたエリアが麻生郷で、忌部氏による麻栽培開発と杉山神社の関係、都築郡の中心エリア、そういう話をしました。

そして前回、ポッカリと空いてしまう都筑郡中心エリアの南西部について、立野牧の痕跡が残る立野郷 = 小山田と、八朔郷の西八朔杉山神社をexploreしました。

そこで今回は、ポッカリと空いた麻生郷の南東部をexploreします。

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少し調べてみました。

都筑郡郡域南東部をzoom up

黄マーカに注目してください。右上が寺尾、その少し左上、青マーカと重なってしまっていて分かりづらいんですがそこが諸岡(師岡), 左下黄マーカが星川で、これらはどうやら嘗て久良岐郡だったようなんです。
  • 小田原衆所領役帳(1520~1555年)に、"諏訪三河守、二百貫文、久良岐郡寺尾"
  • 和名類聚抄(931~938)に、久良郡八ヶ郷として、"諸岡郷" の記載アリ
  • 和名類聚抄(931~938)に、久良郡八ヶ郷として、"星川郷" の記載アリ
少し調べれば分かることを、橘樹郡は多摩川水系、都筑郡は鶴見川水系という推論の確立に興奮し、手を抜いてしまったんですね。


そうして改めて迅速測図を地形視点で見てみると、まず北西と北東を鶴見川に囲まれた台地、寺尾、諸岡(師岡)がある地域ですね、ここは久良岐郡だと。

そのまま黒線(これは鶴見川)を西に行くと、ピンク太線が2つありますが、これは帷子川と鶴見川の分水嶺なんですね。

都筑郡初回も言ったように、鶴見川は都築郡の川だというなら、このピンク太線より南の帷子川水系エリアは久良岐郡だと、帷子川は久良岐郡の川なんだと、そう言うとスッキリするんですが、このエリアにある赤マーカ、ここは今の二俣川なんですが、和名類聚抄に記載がある幡屋郷で都筑郡なんですね。

と、なると、どこかで線引きしなければならないんですが、逆に、何かの理由で線引きしたものが、迅速測図における橘樹郡と都築郡の郡境ということなんでしょうか?

いやぁ、でもそうすると星川村(下星川村)は久良岐郡で上星川村は都筑郡になってしまうんですよね。これは違和感です・・・

また、榛谷御厨も気になる所です。その領域は、凡そ、保土ヶ谷区と旭区で、これは、帷子川水系とビタッと重なります。

いやぁ、どっちなんでしょうか。。。

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タイトルを久良岐郡としていますが、久良岐郡はその殆どを相模国と接していて、だから郡境は武相国境ということになって、それは既に完走してますから、何れにせよ、今回のスコープは、上記の、北西と北東を鶴見川に囲まれた台地、寺尾、諸岡(師岡)がある地域ですね、ここと、帷子川水系エリアに絞りたいと思います。

町田まで輪行。町田から、武相国境道 = 町田街道を南東へ。東名の横浜町田インターを過ぎて直ぐ左折し、鶴見川と帷子川の分水嶺尾根古道に入ります。

ここが良かった。癒やされました。

畑の中を分水嶺尾根古道が通ります。

尾根から盆地に降ります。

先程の尾根を降りるとこの盆地、撮影場所は更に1つ先の尾根から。ここの畑は迅速測図にも見られるので、少なくともその時代から続いているのでしょう。横浜ですよ!!!!!

三保市民の森の尾根道です。自転車は押しですが、通れます。

で、エリアに到着です。川井地区ですね。

正直言って、これと言った律令時代の痕跡手がかりは無さそうですが、まずはこちらにお邪魔しました。

川井山観音院長源寺

山号からして、川井の中心だったろうことが想像されますね。

739年、あの行基による開山との伝承もあります。

印融(1435〜1519)による中興という話もあるので、少なくとも、室町には存在していたということになりますが、何れにせよ、真言宗がこの辺り、勢力を張ってたということになります。

先を行きましょう、上川井神明社です。

上川井神明社

この神社も面白いですね。

まず、創建年ですが、詳らかならずも鎌倉期には川井郷の総鎮守だったとの伝承がありますが、このエリア = 榛谷御厨で神明社ですから、神明社として創建されたなら、最も早くて神戸神明社と同じ970年頃と言うことになりますし、元々は他の神社で、榛谷御厨成立後に神明社になったのなら、これはまた違う回答になります。

ということで神明社として創建されたなら祭神は天照大御神だろうとチェックすると、ナント!!, 国常立尊じゃあないですか。

妙見など、神仏習合で祭神を国常立尊にした神社はあるようですが、最初から国常立尊を祀ってる神社なんてあるんでしょうか?

無さそうなのですね。と、いうことは、元は妙見で、榛谷御厨成立時に神明社にさせられたのかな、、、と、思いきや、更に調べたら、伊勢神道では、豊受大神と国常立尊は同一神とされているそうです!!!!

だから合ってるんですね。神明社で国常立尊はおかしくない。

上川井神明社は、神明社として創建され、だから祭神は豊受大神と同一神の国常立尊で、と、なると、最も早くて970年の創建、かもしれない。と、いうことです。

神戸神明社の伝承では、天照大御神が榛谷の地に影向し、川井、二俣川、保土ヶ谷と三遷したという内容がありますが、川井の地にあることといい、天照大御神でもなく豊受大神でもなく国常立尊が祭神だということ、何だか意味深と言うか、もしかしたらここが件の地なのかもしれませんね。

川井の古い寺社はこれくらいなので分水嶺尾根に戻りましょう。

しかし、分水嶺尾根に取り付くにはズーラシアを経由しなければならないんですが、そうだろうとは思ってましたがやはり通れません。

大きく迂回し、車に轢かれた狸などをやり過ごし、ようやく里山ガーデンの分水嶺尾根に取り付きましたが、途中、なかなか良い道もありました。

アスファルトですが幅一間の古道

分水嶺尾根から、次は二俣川です。

ここには件の本村神明社があります。

本村神明社、今日は七五三が多い

ここも上川井神明社と同じく、創建年詳らかならず、風土記に神明社とはあるが祭神無し、今の祭神は国常立尊ではなく神明社としてはノーマルな天照大御神です。ここは、川井、二俣川、保土ヶ谷と三遷した二俣川の件の神社とされています。

先を行きましょう。分水嶺尾根に戻り星川に入ります。

ここではここを訪れなければなりません。神戸神明社です。

神戸神明社、夕方のような空気感ですがまだ2時過ぎ。秋の日は釣瓶落としですね。

件の神明社、3つ目です。

ここの神社は非常に素晴らしいですね。清掃が行き届いているし、ホームページも素晴らしい。

既述のように、上川井神明社、本村神明社、神戸神明社の由緒は、970年に、天照大御神が、まず、本村神明社に来て、その後、上川井に移り、再度、本村に来るもそれは仮で、最終的に神戸に来てそこで落ち着いた、というものですが、これは勿論真実ではなく、神明社は榛谷御厨に伴うものであって、榛谷御厨は、小山田有重の寄進によるものだから、970年ではなく1150年〜の平安末期の頃となるし、本村→川井→本村→神戸というのは、榛谷御厨の範囲拡大を表しているということでしょう。

そうして今一度地図を見てみると、黒ポイントが現存する神明社(合祀されたものは基本的に反映してません。)ですが、ものの見事に今回のスコープエリアに集中していることが分かりますね。



ここでもう一つ、星川に紫マーカが集中しているのも分かると思います。

これは、


ということで何れも別当が東福寺に繋がっていく杉山神社ということになります。

都筑郡でも指摘しましたが、既にあった杉山神社を土台・道筋にして、真言宗勢力が進出・拡大を図った痕跡なのか、あるいは、真言宗勢力が拡大する為に杉山神社を次々と創建していったのか。

後者なら、せいぜい遡って、東福寺開山の1243〜47年ということになり、論社ではないということになります。

何れにせよ、この辺りは東福寺を中心として真言宗が広がっていったんだということが分かりますね。

さて、緑マーカも杉山神社なんですが、真言宗に繋がってない神社なんです。

逆に言えばこの2つの神社は、真言宗から独立している点で、論社の可能性も出てくると思いますが、星川杉山神社は、江戸名所図会で論社だと言われている杉山神社となります。

星川杉山神社、いやぁ、ここまでの登りが凄かったですね。

江戸名所図会の星川杉山神社、右上の説明に、論社との記載がある

別当は真言宗ではなく日蓮宗の法性寺と、風土記に書かれていますし、、、日蓮宗というのが引っ掛かったんで、詳しく調べてみた所、横浜市史稿に、

"往古、當寺境内に近く大日山蓮華寺と云へる眞言宗の一宇が在つた。此寺の僧某、日在の法門を聽き、深く日宗に歸依し、文祿の頃、遂に日蓮宗に改めた。元和二年、日在は今の地に一宇を創建し、開基檀那より奉納した日法上人自作の祖師尊像と、比企能員の手寫と稱する紺紙金泥の法華經一部八卷を奉安し、光榮山法性寺と號した。"

と、ありまして、追って蓮華寺について調べた所、中野に移転していることが分かりました。

中野の蓮華寺の由緒によれば、蓮華寺は池上本門寺第4世の日山聖人により、星川の地に開かれたとのこと。

日山聖人は、川越の妙昌寺を1375年に開いているので、蓮華寺も同じ頃も思われます。

でもちょっと辻褄が合いませんね。

蓮華寺が日在によって日蓮宗に改宗したのは元和2年頃ですから1616年頃、その蓮華寺は日山により開山で時期は1375年頃、もうその時は日蓮宗ですよね。

まぁでもどうなんでしょう。あまり根拠も無いですが、何となく、真言宗の蓮華寺はそれ以前からあって、1375年辺りに日山によって改宗されたということでしょうか。

と、いうことで星川杉山神社は、1375年辺りまで遡れるものの、紫マーカの杉山神社と同じく、真言宗勢力の進出・拡大に関連する杉山神社で、もしかしたら平安期より後、室町期の創建かもしれませんね。

時期的に符合するので、もしかしたら、蓮華寺も東福寺の末だったかもしれません。

1200〜1300年頃の、東福寺を中心とし、杉山神社をそのルートとした真言宗勢力の拡大が見えてきました。

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如何でしたでしょうか。

都筑郡の初回2回目は、郡成立時、律令時代の痕跡をexplore出来た感じがしますが、今回は久良岐郡成立時の痕跡は見つけられませんでした。が、その少し後の時代、平安後期から鎌倉期の、榛谷御厨の痕跡は大いに発見できました。

サイクリングとしても楽しかったです。雰囲気のある古道が多かったですし、尾根で見晴らしも良かったし。up & downも多く鍛えられました。

それにしても横浜って広いですね。

是非

2020年11月8日日曜日

武蔵国郡境を行く、都筑郡の続き

前回都筑郡では、都筑郡の郡域を、下図のように、今思えばやや強引に、想定しました。

左上から、まず南南東にグレー太線→黒線→黒線が東へ→黒線二股に分かれるもそのまま東へ→黒線海へここは帷子川河口。次に東へピンク太線→南の黒線→紫線→ピンク太線→黒線北→短いピンク太線南へ→黒線東南東→短くピンク太線→紫線→一瞬黒線→紫線で海へここは鶴見川河口。

そして、橘樹郡が多摩川の郡であるように、都筑郡は鶴見川の郡とし、この都筑郡郡域の中にある赤線、これは、ほぼ、早渕川~鶴見川のラインなんですが、この赤線とその赤線とほぼ並行している赤線のすぐ北にある黒線(これは都筑郡と橘樹郡の郡境で、鶴見川と多摩川の分水嶺), この両線に囲まれたエリアが麻生郷(荘、庄)で、ここが、中央氏族としての忌部氏、部民阿波忌部氏が海路進出し、麻栽培の開発をして、大和王権に麻布を献上していた、都築郡の中心エリアだという話をしました。

しかし、そうなると、都筑郡中心エリアの南西と南東が、中心エリアより大きく、放置されてしまいます。

素直に若干の違和感というか、ここはどんなエリアなんだ?, ここにもstoryがあるだろう、という興味が、探求心が出てきてしまいました。

と、言うことで今回は、都筑郡の続きとして、麻生郷の南西側をexploreしたいと思います。

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都筑郡郡域の一番左上部分、そこは、立野郷と推定しました。

立野郷の "立野" は、立野御牧の立野で、この辺り = 小山田地区は、馬に関する地名が多く残り、

小山田公園内の野球場とサッカー場があるこの窪地は、"馬場窪"。この地形は確かに馬場にはうってつけですね。

こちらは、"馬駆"。牧場というと大草原を思い浮かべますが、こうした谷戸も、谷戸入口に冊をしてしまえば、残りの三方は尾根に囲まれてますから、好適地でした。ここ馬駆はご覧の通り谷戸の詰め部がこの通りの断崖絶壁で、正に、好適地でしょう。

また、この辺りを領していた小山田有重は、別当と呼ばれていました。御牧の管理者も別当と言います。

小山田有重の初見は1155年の大蔵合戦ですから、立野牧成立が909年なので、時期がズレますが、立野牧を御牧のまま、あるいは私牧として引き継いだのが小山田氏だとすれば解消されます。

嘗ての小山田城、大泉寺

小山田神社、小山田有重の妻を祀る。

テーマには関係ありませんが、この辺りは東京都内ですがホントに癒やしエリアです。

稲刈り後、干してました。

そしてこれは知る人ぞ知る、なんですが、大泉寺前のバス停です。

何ともレトロなバス停、現役です。

しかし残念なことにこのバス停、exploreした翌日に取り壊しになったようです。

画面やや右に取り壊しの張り紙が。それと、バス停内の広告の電話番号に注目して頂くと分かりますが、相当に古いですよ。

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癒やしの小山田を後にし、恩田川と鶴見川の分水嶺を行きながら、恩田川沿いの杉山神社を訪ねましょう。

木もれ陽の七国峠

薬師公園、ここでランチ

前回で、杉山神社とは?, ということについても一定の解を得たように思ってます。

杉山神社は、中央氏族としての忌部氏と阿波忌部氏の、麻栽培開発の為の早渕川・鶴見川遡上進出に伴うもので、この地域を麻生郷と言う、そういう内容でした。

ですから早渕川と鶴見川沿い以外の杉山神社は、、、

逆に言えばそういう感じなんですが、でも、恩田川沿いにも杉山神社はあります。

成瀬杉山神社

この成瀬の杉山神社は、鶴見川水系最上流とのこと。

いやいや実はここまでが杉山神社の勢力圏、忌部氏の勢力圏、麻生郷はここまでだったんだ、、、ということなのかと言うと、そうではないように思うんです。

この成瀬杉山神社、風土記では、図師の修験寺である大蔵院持ちと記載されています。

図師の修験大蔵院はもう無いようですが、図師修験大蔵院で検索すると、小山田の白山神社や図師の熊野神社、町田駅前の熊野神社などがヒットしてきますし、小山田有重との交流もあったようです。

はい。つまり、杉山神社勢力が恩田川に沿ってここまで進出してきたというよりは、小山田勢力の範囲がここまでに及んでいた、そう考えた方が良いように思います。

恩田川と鶴見川の分水嶺は玉川学園で遮断され、つまらない道を行きます。しかも、折角登ったのに降るを繰り返す、イヤな道です。

桜台上交差点でようやく尾根道に入りますが、住宅街のやはりつまらない道でした。

246, 東名とやり過ごし、着いたのはここです。

西八朔杉山神社、両部鳥居が神仏習合の名残でしょう。すぐ隣は極楽寺(真言宗豊山派)ですし。

論社の1つです。

その根拠と、ここは本命ではないとする根拠は説明済なので省略しますが、実際に訪れてみて思ったのは修験ですね。

つまらない住宅街の尾根道からこの杉山神社がある南西斜面に降りると西光寺緑地があり、その辺りから空気がガラッと変わりまして、杉山神社まで続いています。

西光寺は真言密教の秘儀、火祭の風習が残っていますが、西光寺緑地で行うそうです。

ここは和名類聚抄の都筑郡針圻郷です。

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如何でしたでしょうか。

麻生郷の南西側、北部は立野郷で、地形や地名に立野牧の痕跡が感じられました。

南部は八朔郷で、論社杉山神社はありますが、それ以外、八朔郷とは、を感じさせる痕跡は見つかりませんでしたし、杉山神社も、後世の遺跡だと思いますから。

全く触れませんでしたが、このエリアには店屋郷(町谷)もあります。ただの交差点なので寄りませんでしたが。

次回は都筑郡の南東部をexploreしたいと思います!!

ではまた