2020年6月27日土曜日

武蔵国郡境を行く、豊島郡と新羅郡

風土記によれば、新座郡と豊島郡の郡境は、

"東、豊島郡に隣り大抵白子川を界とす"

と、あります。

明治維新から間も無い明治13~19年(1880~1886)に作られた迅速測図でも、ほぼ、白子川が郡境になっています。

律令の時代はどうか

webで調べてみてもそれらしい情報は見つかりませんね。。。

まぁ、川が郡境というのは非常に分かり易い話です。

ですから律令の時代の郡境も白子川だった可能性は十分にあると思います。

これまで、このテーマでは、川そのものではなく川の利権がどの郡に属すかが問題で、だから分水界が郡境になっていたんだろうということで進めてきましたから、"白子川は新座郡の川だ。", ということならば、川そのものではなくて分水界という可能性もあります。

迅速測図を見てみましょう。

迅速測図における荒川と白子川、黒線が迅速測図が示す豊島郡と新座郡の郡境なんですが、今現在辿れるルートにしていますから少しずれています。
少し上流に行き、川越街道付近に、豊島郡側に出る支流が2つあります。
田柄川が接近する辺り、この辺りは支流がありません。
さらに上流、やはり支流はありません。左下の青点は井頭池で、白子川源流の1つ。湧水池です。
最後に、多摩郡、豊島郡、新座郡の3郡郡境付近です。ここにも支流はありません。

と、言うことで、何か、白子川そのものを郡境にした理由が分かるような気がしてきました。

豊島郡側に出る支流が2つしかないんです。じゃあ、もう川で良いや、ということになったのかもしれません。

一応、紫線で、支流も含む白子川水系を横断しないルートを描いてみました。実走ではこちらを行きましょう。



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さて、実走です。南から行きましょう。

富士見池を擁する武蔵関公園です。


武蔵関の、"関" とは、練馬区によれば、風土記に、豊島氏が石神井城にいた頃、関を作ったことに由来するということです。

また、直ぐ東にある天祖若宮八幡宮の由緒を見ると、1974年に関村鎮守の天祖神社と若宮八幡宮を合祀しているんですが、若宮八幡宮の方はというと、奈良時代、この地は京都から奥州に行く道筋で、武蔵関塞が設置された時、その守護神として祀られたと伝えられているそうです。

関は普通、境界に設置しますね。

この辺りが、もしかしたら奈良時代、つまり律令の時代から、郡境だった可能性が出てきました。

でも富士見池は石神井川で、石神井川は豊島郡の川ですから、これまでこのシリーズで言ってきたように、違和感があります。

が、石神井川は小金井が源流で、そこまで遡るのもエリア的にそれはそれで違和感がありますから、富士見池を境としたのでしょう。富士見池も湧水池なので、水利と言う点ではここで石神井川を分断しても、豊島郡としては十分ということかもしれません。そう理解しておきます。

先に進みまして、白子川の源流の1つ、井頭池に寄り道します。"イノカシラ" 池ではなく、こちらは、"イカシラ" 池です。

井頭池から下流を望む

迅速測図を見るとここから更に上流がありますが、この池は湧水池で、よって、白子川の源流の1つであることは間違いありません。

先に進みます。

妙福寺です。


妙福寺ですが、あの、慈覚大師円仁を開基とする天台宗のお寺で、当時は慈東山大覚寺と称し、850年の開創と伝えられている古刹でした。

天祖若宮八幡宮の所で、この地は京都から奥州に行く道筋で、だから関が設けられたと書きましたが、滋覚大師円仁の伝承もあるとは、この地が奥州道であることを補強する状況証拠ですね。円仁も東国巡礼時に通ったんでしょうか。

また、鎌倉時代に中山法華経寺歴代の日高・日祐上人の巡錫に会い、1322年、日祐上人により、法種山妙福寺として日蓮宗に改宗したということです。

イヤイヤ、実はずっと気にかかっていたことですが、この辺りは三十番神が多いですね。

原因は妙福寺だったんですね。

西の中山と称され、実際、山号は西中山。日蓮宗大本山の中山法華経寺の日高、日祐が開いたとなるとここも相当な寺格。

そんな大寺がここで開いたとなると、一気に日蓮宗が席巻しますね。

だから、三十番神も広がっていったのだと思います。

妙福寺境内の三十番神

天祖若宮八幡宮
本立寺

諏訪神社
本照寺

北野神社
妙延寺

しかも、郡を跨いでますね。郡境は物ともせず、日蓮宗が広がっていったことが分かります。

三十番神分布、赤が三十番神神社で、オレンジがその別当寺、勿論日蓮宗。現代地図で確認の場合、上記GoogleMaps参照のこと。

この妙福寺がある辺りは嘗て、"小榑村" と呼ばれたエリアで、諸説あるんですが、この、"小榑(コグレ、コクレ)" は、"コクリョ(高句麗)"から来ていると思うんです。

そもそも新座郡は、758年に新羅からの渡来人を、開発の為に移住させる目的で出来た郡です。

その前後、渡来人に関する出来事は以下のようになっています。
  • 666年、百済人男女2,000人余りを東国に移住させる
  • 684年、百済人僧尼以下23人を武蔵国へ移す
  • 687年、高麗人56人を常陸国、新羅人14人を下野国、高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住させる
  • 689年、下野国へ新羅人を移住させる
  • 690年、新羅人12人が武蔵国に、更に新羅人の若干が下野に移住させる
  • 716年、高麗郡の設置、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1779人を武蔵國に移す
  • 733年、埼玉郡の新羅人徳師ら53人に金姓を与える
  • 758年、新羅郡(後の新座郡)の設置、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移住させる
  • 760年、新羅人131人を武蔵の地へ移住させる
高麗(高句麗)人は、新座郡ではなく、主に、新座郡と同じ経緯で716年に出来た高麗郡に移住させられたんですが、687年に高麗の僧侶を含む22人を武蔵国に移住させていますし、これだけ連続して半島の渡来人を東国に移住させていることから、ここに記載した以外にも移住はあったと思われ、その時に、このエリアに高麗人を住まわせ、地名を小榑としたのではないかと思ってます。

実際、新座市と朝霞市には駒形権現があり、朝霞市の方は、風土記にも、

駒形権現社
除地、一段一畝十五歩、字駒形にあり、本地正観音にして、垂迹は詳ならずと云、今或は高麗方権現ともかけり。是も法蔵寺持。

と、あります。

また、郡境となっている白子川の、"白子(シラコ)" は、"新羅(シラギ)" から来ているという説もありますし、"志木(シキ)" も同様です。

新羅郡は、後、新座郡と書いて、"ニイクラ" 郡と名前を変え、更に後、漢字はそのままに読みが、"ニイザ" 郡になっていて、この中の、"ニイクラ" は、"新倉" という地名に残っています。

先に進みます。

大泉氷川神社です。


先程、この辺りは、日蓮宗の勢力圏内だという話をしましたが、白子川を遡っていくと、この辺りからは氷川神社の勢力圏内に変わっていくんですね。

面白いです。

上記のGoogle Mapsを確認下さい。黒ポイントが氷川神社です。

この大泉氷川神社、風土記によると、祭神は在五中将、つまり、在原業平で、業平東国下向の時、庄、春日、江古田の三人が業平を慕ひ、この地に祀ったということです。が、最後に、

"信ずべからず"

と、あるんですが。

まぁでも、ここからも、この地が京都からの道筋であることが伺われますね。

これが本当なら平安期に遡れる古社ということになります。

そこまでじゃなくても、風土記にある、"庄" とは、庄氏のことで、武蔵七党の児玉党に属す氏で、と、なると、これも平安後期ですね。

こういったこともあってか、文永年間(1264年~1274年)の創建と言う伝承もあるそうです。

それから蛇足ではありますが、同じ庄氏持ちの神社で同じく旧橋戸村にあるのが大泉八坂神社です。


明治7年に氷川神社が橋戸村の鎮守になるんですが、それまでは八坂神社が鎮守でした。

また、迅速測図をみると、両方に鳥居マークあるんですが、八坂神社の方に、"氷川神社" との記載があるんですよね。


どっちが正しいのか混乱します。

同じエリアで同じ庄氏持ちですから、この2社はセットで考えた方が良いかもしれませんね。

先に進みます。

長久保氷川神社、赤塚氷川神社、豊川稲荷神社・氷川神社、下新倉氷川神社をやり過ごし、

東明寺、吹上観音です。


この辺りは建武の新政後、足利尊氏、直義の領地となった関係で、縁の寺があります。

ここ東明寺もそうで、尊氏から、尊氏の師匠、夢窓疎石国師の実の甥、普明国師に寄進され、鎌倉建長寺の末となりました。普明国師は建長寺第54世でした。

また、ここの観音様は行基伝承があります。

まぁ、行基伝承は話半分で聞いておかなければならないんですが、でも、ここが足利尊氏・直義兄弟の領地になった時点で、謂れが分からないくらい以前から存在していた観音様があったことは事実です。

先に進みます。

金泉寺です。


金泉寺は、足利尊氏の師匠、夢窓国師が開山となり創建しました。東明寺と同じく、鎌倉時代の遺構ということになります。

先に進みます。

今回は豊島郡と新座郡の郡境をexploreしているわけですが、風土記による新羅王居跡が、ここ、午王山遺跡となります。


残念ながら証拠となる遺跡は発見されていませんが、ここは迅速測図を見てもお分かりの通り面白い地形で、遺跡があっても不思議ではないと思いました。

画面真ん中、青ポイントがある台地が午王山遺跡です。等高線が3本ですから30m程、周りより高いんですね。頂上は平らです。城の本丸、二の丸のようにも見えます。西南部分以外はストンと落ちてますね。面白い地形です。何かあってもおかしくない感じですね。

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如何でしたでしょうか。

郡境exploreだったんですが、日蓮宗と氷川神社の勢力の状況が分かり、また、京の都から府中を通り奥州に抜ける道筋だったようで、興味深かったです。

ただの街中サイクリングですが、視点を変えると面白くなりますね。

皆さんも是非!!
何なら案内します。

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