2017年12月11日月曜日

武田信玄小田原攻め、退路

1569年の武田信玄小田原攻め、その進軍ルートは、これまで、以下のようにご紹介してきた。

信玄旗本ルート
先衆ルート
二ノ手ルート

今回は退路である。



退路は2つのルートが使われたようだ。一つは三増峠、もう一つは志田峠。

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この退路は単なる退路ではなく、ここを舞台に戦国時代最大の山岳戦と言われる三増峠の戦いが繰り広げられたのですが、それについてはたくさんの戦国ファンがご紹介しているので、是非それらを参照頂きたいと思ってます。

私が今回のExplorerで何より感じたのは、残念ながらそのような歴史ではなく、と、言うよりはそれを大きく上回って、河岸段丘が作り出す景色の美しさでした。

では時系列でご紹介します。

三増峠。トンネル手前に入口があり、勾配、足場、共に、結構険しい登りを経て辿り着きました。15分ほど頑張った後、険しい登りを鋭角に左折するといきなり開けこの典型的な峠ビューです。通行止めの看板以外は完璧でした。計画ではこのまま前進でしたが、この後、仕方無く、険しい道を戻りました。
三増峠から戻って、三増峠の戦いの碑です。この碑がある山裾で戦いが繰り広げられたそうです。碑の向こうに見える山が、信玄が陣取った中峠です。
志田峠に向かう上り。三増峠は本当に急峻で、だから真っ直ぐには上れず、九十九折だったのですが、こちら志田峠は勾配が緩くほぼ真っ直ぐに上っていきます。整備されたダブルトラックが峠手前まで続きます。
志田峠。ここを左折すると峠なんですがその手前を振り返って。
でもここで熊出たんですか、、、
下りは全面舗装路だったので一気に。で、韮尾根のこの絶景です。
最後は長竹の信玄道です。河岸段丘の美しい風景が続いてました。
今度は桜の季節に再訪したいです。

2017年12月7日木曜日

上海の歴史、南翔

清代同治年間に、日華軒が古猗園で南翔大肉饅頭を売っていました。が、客たちはいつも饅頭の皮をちぎっては池の中に投げ入れ魚の餌にしていました。

そこで日華軒は、饅頭の大きさを小さく、皮を薄く、具を多くつめるように改良を重ね、大いに繁栄しました。

日華軒

清朝末期、西太后は突然悪寒がして、胃の調子が悪くなりました。御膳房は西太后の体調に合わせて体の温まる山菜・海鮮の珍味を西太后が住む体和殿の御膳に届けましたが、西太后はそれらを食べようとしませんでした。

そこで、太監は、上海からある大臣が手土産として持参した南翔小籠包を思い出し、蒸し直してそれを西太后に勧めてみました。西太后は白玉でつくった小さな饅頭のようなものをじっと見て、一つ口へ運んでみました。すると、直ちに胃の調子が良くなり食欲が出て、この味は天下逸品だ!と称賛した後、小籠包を一皿全てたいらげてしまいました。西太后は暫く興奮ぎみでしたが、宮仕えの女官に墨と筆を用意するよう命じ「天下第一包(天下一の点心)」と半紙に生き生きと書きつけました。

日華軒の小籠包

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南翔は、古くは槎渓といわれ、南朝梁天監4年(505年)に白鶴南翔寺が建てられ、南翔鎮は寺を由来に名づけられ、今日まで1500年の長い歴史を有します。

今はその名を留雲禅寺と言う
そこかしこで祈祷が
大雄殿

南翔寺の門前町として栄えた南翔。今も続いて賑やかです。








週末の小旅行に、是非

2017年12月5日火曜日

小野路道

小野路道

という道がある。

八王子と小野路を結んだ道なのだが、現在の野猿街道が、昭和の初めまで小野路道と言われていたようだ。

野猿街道は八王子と一ノ宮を結んでいるが、と、いうことは、堀之内の辺りから小野路に向かっていたと思われる。

小野路道の謂れは何なのか。何故、八王子と小野路を結ぶ必要があったのか。

  • 延長2年(924年)、武蔵守、小野隆(孝)泰は、武蔵国多摩郡横山に、石清水八幡宮を勧請し八幡神社を創建した。
  • 天禄年間(970~973年)、国司として武蔵国に赴任した小野隆(孝)泰は、小野路に先祖小野篁を祀る小野神社を創建した。


若干の矛盾(延長2年と天禄年間では約50年も間が空いている。人生50年の時代に無理がある。)はあるものの、八王子と小野路は小野隆(孝)泰で繋がっていたのだ。

でも何故、小野隆(孝)泰は、”小野路に”小野神社を創建したのか。

そもそもこの小野隆(孝)泰とはどんな人物か。

小野妹子や小野小町、上記の小野篁を輩出した小野氏一族で、篁の七代後。子は義隆(孝)で、横山党の始祖となった。

この義隆(孝)は、情報が錯綜しているのだが、一説によると、天慶2年(939年)に勅旨牧の一つである小野牧の別当になっている。父隆(孝)泰がバリバリ働いてる時だし、小野神社創建よりずっと前だし、と、年代的におかしいからどっちかの情報がおかしいんだろうが、いずれにせよ、小野一族が小野牧の別当になったということだ。

少し時代は下って平安末期、小野路のすぐ西隣の小山田にも牧があった。

小野牧は相当規模が大きかったようで、小山田の牧もその一部だったとしたら、横山も小野路も小野(横山)一族の管理地だったということになり、小野神社を、小野路に建立したのも合点がいくというものだ。

今回はその小野路道をExplorerしてきた。下図のように複数ルートが考えられるが、今回は本線の黒~紫~黒のルートを行った。

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Explorerのスタートはやっぱりここです。

八幡八雲神社

八幡八雲神社には、横山氏の祖、横山義隆(孝)を祀る横山神社があります。

横山神社

山田川に架かる橋の名は小野路橋でした。

小野路橋

先を行くと古道の証、地蔵が佇みます。

古道の風景、サンタ

この直ぐ先はJR横浜線と京王線の踏切ですが、名前が良いです。この古道沿いで、先の橋とこの踏切が、唯一の小野路道の目に見える痕跡です。

野猿街道ではなく、小野路街道の名が残る踏切

北野駅の手前には、横山党の一族が創建したという北野天満宮があります。これも痕跡ですね。

銀杏の落葉が美しかった。

さて、ここからえっちらこっちら上りに入ります。住宅街の中、と、今一つ、趣にかけますが、それは気の持ちよう。1,000年前、小野路道が成立していた頃を想像しながら坂を詰めます。

住宅街の旧道を上ると、絹ヶ丘二丁目手前に出ます。

さて、ここからなんですが、

これは現代地図

現代地図
これは明治42年

明治42年

野猿峠は今とほぼ同じ道筋ですね。

でも、これは明治13年なんですが、

明治13年

今の道筋は全く見つけられませんね。
今の道筋(薄紫)の一本東の道筋(紫)だけです。つまり、明治13年から42年までの間に道が現在の道筋に付け替えられたというわけですが、今回は1,000年前の小野氏・横山氏ゆかりの小野路道ですから、紫を行きます。でもその前に、これを。

水飲み場

これも正面に見えるモチーフが猿ですから、野猿峠と言われるようになってから作られたものだということになり、1,000年前は野猿峠とは呼ばれてないから、こちらの道筋は小野路道ではないということが分かります。

さて、小野路道に戻って、住宅街の中をえっちらこっちら坂を上り詰めると、長沼公園の絶景に辿り着きますが、今日は地元のボーイスカウトが入団式をやってて、絶好のランチ場が使えません。仕方が無い、写真だけ取って先へ。

小野路道、長沼公園入り口
癒される~

折角上ったのにあっという間に下り、気が付けば、横山氏にも所縁の永林寺です。

永林寺、赤門

永林寺を過ぎると大栗川沿いのつまらない道になります。道は、堀之内の辺りから南に折れていたと思われますが、今はゴルフ場です。その後、よこやまの道、小野路浅間神社を経て、小野路に至ります。

小野路浅間神社裏、切り通し

この道はこの先横浜麻生道路に接続します。つまり、絹の道でもあったわけです。
また、長沼峠を通るルート(こっちの方が大きな道だ、明治13年地図では)や勾配のきつい野猿峠越えではなく白山神社迂回ルートもあるようで、今後も楽しめそうです。

2017年12月1日金曜日

上海の歴史、泗泾

前回に引き続き、同じ松江区内にある泗泾をご紹介します。

前回ご紹介した嘗ての松江府城、その前は華亭県城が、唐代(618~907)からの歴史があることはご紹介済みですが、同じ松江区内にあるここ泗泾はどうなのか。

北宋の時代(960~1127)に村は起こったといいます。村の名は会波村。南宋の時代(1127~1279)には七間村と変わり、元代(1271~1368)には、当地の外波泾、洞泾、張泾、通波泾の4つの泾が交わる所という意味で、泗泾という名となりました。泗泾は千年の歴史を持つ古鎮なのです。。。

と、まぁ、こういうことなんですが、ここで終わったら面目無い話で、なので、脳内Explorerを続けますが、一時代前、ここから南西に数キロの松江中山中路に華亭県の県衙が出来た。一時代後、ここに泗泾鎮が起こった、ということで、では何故、ここなのか。

色々と考えたくもなるんですよね。

地図を見れば、泗泾溏は南へと続き松江府中心地へと達します。



更にこの水路は南へ行くと黄浦江に接続しています。と、いうことは太湖に繋がっているということになり、太湖~長江という水路の大動脈沿いに位置していたから、泗泾という村が起こったと考えることが出来るのではないでしょうか。

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926年、泗泾に陸宝庵が移転してきて、呉越王から妙法金字蓮華経を賜るなどしてこの辺りは一大仏教エリアとなっていった。967年には泗泾塘を下った浦汇塘沿いにある七宝教寺が開山し、1008年には、今は福田净寺と名を変えた東田禅寺が開山した。

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太湖、黃浦河、泗泾塘、浦汇塘と繋がる水運の大動脈。その河畔に村が出来、寺が出来、そうして、泗泾鎮が成立していったということになりそうです。

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鴨、上海のローカル地区に行くとこの時期よく見られる光景
清代か民国時代の建築
その2
安方塔
福田浄寺
福連橋
橋上から
江達南路

以上

上海の歴史、松江

今ちょうど大河で直虎を放送してますが、その中で、井伊谷の新たな産業として綿花を栽培するというシーンがありました。

日本における綿花栽培はあの頃から本格化したと言われていますが、その前は輸入に頼っていました。

どこから輸入していたか?

主に明と朝鮮でした。ナント!!! 明の時代(1368~1644)、松江の総生産量の90%は日本に輸出されていたそうです。

私は仕事で上海に一年の半分、滞在しています。今や日本経済は中国無しでは考えられませんが、明の時代から、日本と中国は密接な結び付きがあったんですね。

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今の松江は上海市松江区で、その中心地は地下鉄9号線と松江中山中路が交差する辺りでしょうか。車は常に渋滞し、道行く人も多く、非常に賑わっています。

”松江”という地名が登場するのは元の時代(1271~1368)の”松江府”ですが、唐の時代(618~907)から、この辺りは華亭県と呼ばれていて、華亭県には華亭県城があり、県衙は松江中山中路付近と言われていますから、唐の時代から変わらず中心地だったということになります。

雲間第一楼、嘗ての松江府城中心部に再建された。下に、清代の松江府城地図を載せたが、ほぼ中央に、”松江府”と記載があるのがこれだ。

華亭県城はそのまま松江府城となりましたが、地図を見るとその痕跡が見事に残っています。



薄紫のポリゴンが堀と城壁に囲まれた松江府城のエリア。南と、南から東門へ至る堀は残っています。又、東門には東門村という地名が、北門にも北門街という地名が、南門にも南門村という地名が残っています。東西を貫く松江中山中路は、嘗ての東西のメイン水路でした。

清代の松江府城

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"痕跡"こそ残れど、嘗ての松江府城内はすっかり現代の町並みと化し、フォトジェニックさは見られませんが、松江中山中路を西進し、西門を過ぎ、沈泾塘を秀野橋で渡ると、明清時代の建造物が今も未だ残る松江老街に至ります。

清代の建築

しかし何と言ってもハイライトは大倉橋でしょう。

大倉橋、明代の建築
大倉橋前の石畳
橋上から東を望む
川沿いを行く

川沿いに数百メートルしかない老街ですが、逆に、全く観光地化されておらず、地元の人達の生活が垣間見れます。

今回は遠慮して生活の様子を撮れませんでしたが、再訪し、チャレンジしてみたいと思いました。

以上

2017年10月5日木曜日

上海の歴史、真如寺

正殿全景

南宋の嘉定年間だから1208〜1224年に、今の場所より少し東側に万寿寺として開山したのが始まり。

正殿、ズームアップ。この日は若い親子が熱心にお祈りしていました。

その後、元代に入り1320年に今の場所に移動し、名前も真如寺とした。

太平天国の乱で正殿を除く建物がことごとく破壊されたが、正殿の柱や梁は元代のものが残るという古刹です。

境内、非常に清潔。禅寺らしい。

若いお坊さんが修行している姿が垣間見れたり、境内はとても清潔で手入れも行き届いていて、気持ちが良かったです。