2018年7月18日水曜日

武相国境道、その5, 別所の石棒と公田のアラハバキ

武相国境道シリーズ。第一弾は草戸峠から町田駅まで。第二弾は寄り道シリーズで武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)に沿って展開する産鉄地名、第三弾も寄り道シリーズで鎌倉街道沿いの産鉄地名、第四弾も寄り道シリーズで鶴見川水系に沿って展開する産鉄地名を巡りました。

前回の記事でも説明しましたが、産鉄地名は、武相国境、郡境、古道沿いというよりは、(ある意味)"ただ単に"鶴見川水系沿いに展開しているということが分かりましたので、今回はそういった寄り道はせず武相国境を行きます。



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今回は武相国境道と大山道との接続点からスタートです。東名を潜り、旧上瀬谷通信施設エリアに入ろうとしたのですが、当初予定していた所はロープが張られており入れず、予備として考えていた他2箇所も入れずで大きく迂回、ようやく、エリアに入れましたと思ったら、ここ、想像を超えるだだっ広さ!、何も無さ!!、で、こんな所、東京のすぐ隣にまだあったのか!!!、と、本当にビックリしました。

50mmレンズでは広大さが今一つ伝わってないですね。。。

上瀬谷通信施設から瀬谷市民の森に入り往時のままの姿を残す武相国境道を楽しみ、

美しいです。


街に出、三ツ境を過ぎ、ズンズンと漕いでいきます。にしても尾根走りは気持ちが良いです。思っていたよりも早く万騎ヶ原のこども自然公園に着きました。ここにも往時のままの姿を残す武相国境道があります。

似たようなアングルになってしまいましたが

武相境道の説明版

が、ゴルフ場で道は遮断されています。大きく迂回し、横浜新道を越え、境木に到着です。ここは気持ち良いですね。尾根だから見晴らしも良いしモニュメントもあり非常にキレイにされていて。

きれいな所でした。

江戸期東海道の権太坂には行かず、その少し先を右に折れ南下します。現在の国道1号線を過ぎ、あっと言う間に別所に到着です。で、ここが今回のハイライトでした。

別所の古地図。北の道で別所に入り、南の道で武相国境道に復帰しました。南の道は鎌倉街道下の道です。

寄り道して良かった。

写真は拝殿の脇にある石碑等が寄せられたところなんですが、右から二番目に注目してください。石棒が祭られています。

別所という地名、鎌倉街道を境に隣町が最(塞)戸、そこに白山神社、と、揃いに揃っています。で、石棒でした。

更に、その先の鍛冶ヶ谷には、アラハバキ神がご鎮座です。

こちらは丸石でしょうか。にしても雰囲気あり過ぎです。

と、鉄分の多い旅でした。

2018年7月15日日曜日

武蔵国・相模国 古代官道シリーズ、古代東海道(大化の改新~771年), その2

前回の続きです。

いちいちlink先参照するの面倒でしょうから今号にも地図を。


前回言いましたが、赤ルートが断然、大化の改新から771年までの間の古代東海道だと思うんですが、まずは青ルートを行きます。理由は単純、赤ルートは名越切通があって、web上の写真を見ると、道幅が狭く、どうも、薮と蚊の猛攻に耐えられそうもなかったからです。一方、青ルートは、朝比奈切通は山道ですが、道幅が広く、少なくとも藪漕ぎは不要と推定され、選んだのです。

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藤沢まで輪行。藤沢から鎌倉郡衙までは赤ルートで行きます。

鎌倉郡衙までの赤ルートを俯瞰すると、腰越と長谷に青マーカー(奈良平安期寺社)が集中しているのが分かります。頼朝鎌倉入りの前から、腰越と長谷はそれなりの集落だったことが分かります。

まずは腰越です。たくさん寺社があるんですが、下記2ヶ所に立ち寄りました。

片瀬諏訪神社下社、ナント!!! 養老七年(723年)創建の古社です。本社同様、上下両社有ります。本社以外では珍しいそうです。
こちらは上社、距離は離れていないんですが、上社は山の上にあります。



江ノ電と共に小動で海っぺりに出る手前には義経腰越状で有名な満福寺があります。

744年開山

いやぁ、久し振りに海に来ましたが、やっぱり良いですね。チャリにボード積んで海に向かう人やウェットや水着でボード持って街歩いている人見ると、自分が波乗りしていた頃を思い出します。スローな感じが良いですね。

で、地図だけを見ていた時は、この鎌倉郡衙までの赤ルート、海っぺり過ぎて津波や台風時の高潮なんかに耐えられないんじゃないか、だから紫ルート(大仏坂切り通し)の方が正しいんじゃないか、と、思ってましたが、実走してみると嘗ての古代東海道、今のR134は、海レベルから十分高さがありますね。やはり、奈良平安期の寺社の分布を見てみても、正式ルートは赤ルートで、紫ルートは災害時の緊急ルートだったのではないか、そう思いました。

かの有名な、鎌倉高校前のビーチ。いやぁ、に、しても、波乗り再開したくなったな。

稲村ケ崎で海に別れを告げ、極楽寺を抜け、長谷に向かいます。平安時代後期創建の御霊神社参道との辻には創業300年の力餅家さんがあります。

権五郎力餅を頂きました。

次に立ち寄ったのは鎌倉最古の古社、甘縄神明宮です。

ナント!!! 710年創建

長谷を抜けたら六地蔵で左折、鎌倉郡衙エリアに入ります。
鎌倉郡衙跡を意識したのか、それにしてもいつ見ても立派な、御成小学校です。

この北隣が鎌倉市役所。1300年前の郡衙と同じ場所に市役所が建つなんて。

そして今は誰も振り返りませんが、坂上田村麻呂が801年に創建した巽神社です。

今は地味な感じ

さて、三連休で観光客がごったかえす鶴岡八幡宮を抜け、杉本寺エリアに行きます。

相変わらず苔の石段が美しい、734年開山の杉本寺

その先、十二所からはいよいよ朝比奈切り通し、武相国境越えです。チャリをで行こうと思ってました。Web上の記事でもチャリで行っている方たちも見えましたし。が、行ってみると、入口にバイクとチャリ両方ダメとの看板が。仕方無く、チャリを置き、徒歩で峠に向かいます。

朝比奈峠の切り通し。峠の向こうは武蔵国。に、しても、結構な高さ、切り通してますね。切り通したのが泰時の時代(1224~1242)ですから、その前はとてもじゃないけど船は曳けませんね。また、川もかなり細いです。

峠からは折り返し、チャリに戻り現代の金沢街道を峠越えです。きつかった・・・35度超えの中の峠越えは。

武蔵国に入ってからは、あまり見るものないんですが、これが青ルートの古代東海道の可能性の根拠である、931年創建の雷神社です。

雷神社

でもこの雷神社、よく見ると武相国境を超えた所にあるんですね。

歴史的農業環境閲覧システムより。分かりにくいですが、画面左下にある、3つに分かれている薄い青線が武相国境なんですが、左上から来て、そのまま素直に右下に消えていくのではなくて、右上、雷神社(青マーカー)の方に来るのが武相国境です。右下に消えていくのは三浦半島縦断尾根で、相模湾と東京湾の分水嶺です。

そして終点、夕照橋です。

夕照橋

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まず、鎌倉をこんなにじっくりと走ったのは初めてだったので、35度を超える猛暑でしたが楽しめました。

で、青ルートが古代東海道かどうかと言えば、アリなんじゃないかと思いました。泰時の時に切り通したわけですが、その前から道自体はあって、より、物資を運び易くする為に切り通したんだと思います。道が無いところに、急に切り通しを作り、切り通しが出来たからそこを通す道を作った、というのは無理があるような。

青ルートも峠近くまで川なので、地図だけ見てた時は赤ルート同様、船越だったのかなと思ってましたが、実際行ってみると、既述のように、難しそうでした。

次は緑ルートの予定です。

では

2018年7月14日土曜日

武蔵国・相模国 古代官道シリーズ、古代東海道(大化の改新~771年), その1

武相国境道シリーズを、その7まで続けてきましたが、この後の道筋は円海山周辺の山道となります。

ということで、薮、蚊が酷いこの季節、山道は避け、アスファルトの道を行こう!ということで、武相国境道シリーズは冬までお休みです。

代わりに選択したのは、やはり途中で終わっていた、武蔵国・相模国の古代官道シリーズです。771年の続日本紀により、武蔵国が東山道から東海道に編入されるまでの、三浦半島から房総半島に抜けるルートを行きたいと思います。

地図です。

l

、、、と、言いつつ、スムーズには始まりません。北から青、赤、緑の3つのルートがあります。鎌倉までは1つのルート(細かく言うと赤だけでなく紫もあるんですが、ほぼ、1つのルートということで)なんですが、鎌倉から分かれるんですね。

定説は緑なんです。根拠は古事記、日本書紀で語られているヤマトタケルノミコトの東征ルートで、走水から海路上総に渡ると記されています。

しかし、ハッキリとは分かってないんですね。専門家の方々が長年研究して分からないんだから、私が答えを出せる訳ありませんが、まぁ、私なりに考えてみました。(これも楽しみの1つなんです。)

専門家の方々とは違うアプローチで、、、って言うか単に知識が足りないだけですが、頼朝鎌倉入り前からある寺社をプロットし、青、赤、緑、どれが確からしいか検討してみました。そうです、地図上の青マーカーは奈良平安期の寺社なんです。

まず、鎌倉駅、鶴岡八幡宮付近に青マーカーが集中しているのが分かります。これは、鎌倉が、頼朝鎌倉入り前から、それなりの都市だったということを表しています。実際、鎌倉市役所とその隣の御成小学校付近から、相模国鎌倉郡の郡衙が見つかっています。それにしても、1300年前の郡衙と同じ場所に市役所を建てたなんて偶然とは思えない、必然の何かがあるんでしょうね。

次に気付くのは青、赤、緑全てのルートで、多少はあるものの、ルート沿いに奈良平安期の寺社が認められるということです。つまり、3つ全て可能性があると。

が、比較すると、赤ルートが最も数も多く綺麗に沿っています。青ルートは中間付近に寺社が無いし、緑ルートは逆に鎌倉郡衙から葉山町までに寺社がありません。更に、赤マーカーは古墳なんですが、赤ルート沿いには長柄桜山古墳群があり、同時代の古墳が海を渡った上総にも散見され、三浦半島から房総半島へのルートを現しているように見えます。

もう1つ、赤ルートを推す理由があります。まず赤ルートは三浦半島の根本で、横断するには最も距離が短いんです。それと、西から田越川が三浦半島縦断尾根まで侵食していて、東からもやはり名も無き川が侵食していて、船で川を遡り、船を降りて陸路、とは言っても峠越えですが、でもたった数キロ行き、待たせてある船に乗って川を下り、そのまま浦賀水道を渡れば上総に行ける。更に更に、三浦半島縦断尾根を超える峠は"船越"という地名なんです。

以前、

古代史の謎は海路で解ける

という本を読んだんですが、この本を読んで私的に衝撃だったのが、

  1. 川は遡れる。
  2. 今回の赤ルートのような地形の場合、陸路を船を曳いていくことがある。
  3. そういった地名を船越と言う。
以上、3点で、正に赤ルートがこれに該当するじゃないですか! ということで俄然赤ルートを推したくなってきました。この仮説は、私が日頃スゴイなと思ってるこの方も仰ってらっしゃいます。

赤ルートの地形図。横浜横須賀道路の直ぐ東に三浦半島縦断尾根が見える。そこが船越峠。その西側も東側も川であることが分かる。ここを船で行き、尾根は陸路か船越で越え、再び船に乗り換えそのまま海路上総へ。

でもこの赤ルート、船で来て、そのまま田越川を遡って、船越峠を越えて、っていうんならもうこれ以外無いと思うんですが、陸路で鎌倉郡衙まで来て、名越を通り、田越川に来て船に乗り換えて、船越峠でまた乗り降りして、というと、どうも面倒な気がしないでもないです。

こうなると他との比較になるわけですが、青ルートと緑ルートを見てみましょう。

青ルートの地形図。意外にも、赤ルート同様、東西入り江で赤ルート的なことができるが、赤ルートと比較すると、全体の距離が長いのと、陸路も長いので不便。
最後に緑ルートの地形図。やはり、東西入り江。に、しても、三浦半島って一塊ではないんですね。赤ルートと比較すると一目瞭然で距離的に赤ルート優位ですね。

と、言うことでやはり比較的にも断然赤ルートに軍配が上がります。

それに、これは他でお目にかかったことが無い説ですが、つまり、完全なる自説なんですが、武相国境道が、それまで、忠実に相模湾と東京湾の分水嶺だったものが、船越峠の手前で急に東に折れるんですね。まだ、尾根(分水嶺)は続くのに。

なぜ、ここで東折しなければならなかったのか。

これを、分水嶺尾根の最後まで、分水嶺尾根の最後はちょうど緑ルートなんですが、そこまでを武相国境とすると、田浦のあたりは武蔵国になってしまうんです。そうすると、東海道としては都合が悪いですね。東海道は、相模国から東山道の武蔵国は経由せず、同じ東海道の上総国に直接接続されなければならないわけですから。

そうなんです。東海道を維持しようとしたら、武蔵国は、分水嶺尾根最後まで辿れないんです。逆に言えば、六浦で武蔵国を終わらせた理由は、六浦の南から相模国としたかったから。ということは、そこに渡河地点があったから、と、考えられはしませんか、というのが私の説なわけです。

ちょっと分かりずらいかもしれませんが、尾根に這う薄い青線が現在の行政境で、この記事で語っている時代と同じ境界です。青ルートの少し南で東に折れてます。これが往時の武相国境。見て分かる通り、三浦半島縦断尾根 = 分水嶺は赤ルートを越えてもまだまだ続く。にも拘らず、その手前で東に折れている。これは赤ルートを相模国にしたかったから、ではないだろうか。名座なら赤ルート終点が渡河地点だったから。

長くなりましたので実装レポートは次回に

2018年7月1日日曜日

武相国境道、その7, 舞岡の東光寺、白山神社跡を訪ねる

武相国境道シリーズ。第一弾は草戸峠から町田駅まで。第二弾は寄り道シリーズで武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)に沿って展開する産鉄地名、第三弾も寄り道シリーズで鎌倉街道沿いの産鉄地名、第四弾も寄り道シリーズで鶴見川水系に沿って展開する産鉄地名をExploreしました。

武相国境道沿いには産鉄地名が多く、鑪の道ともいわれています。しかしながら地図を細かく見てみると、"沿い"というよりは"周り"と言った方がしっくりくるような分布具合。そう思いながら地図を眺め続けていると、規則性が感じられる分布を幾つか発見。それが、武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)であり、鎌倉街道であり、鶴見川水系だったのです。

が、第四弾の鶴見川水系でハタと気付きます。武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)も、鎌倉街道も、単に、鶴見川水系だということに。産鉄地名の分布に、武相国境も含めて規則性は無く、というか唯一の規則性は鶴見川ということだったわけです。そう思って改めて地図を眺めてみると、河口に向かってもやはり鶴見川水系に分布していました。国境の相模国側など、鶴見川水系ではない所でも、やはり、境川水系など、川沿いなんです。

最初、武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)沿いに分布を発見した時は、いやはや、奥州俘囚の移配地はやはり行政境=無縁の地なのか?!とか、鎌倉街道は産鉄地を結んだ道なのか?!とか、浮足立ったんですが、単に、この辺りは砂鉄を多く含む土地で、川に鉄が集まるのだということだったようです。

と、言うことで、第五弾は寄り道せず武相国境道を行きました。行きつつ、分布の規則性というよりは、鉄分の濃そうな、私的に興味深い所に寄り道することとし、横浜市南区別所の産鉄地名を巡りました。第六弾も同様に、いたち川沿いの産鉄地名を巡りました。

で、今回は、東光寺や白山神社などが嘗てあった、舞岡をexplorerします。

ここで改めて東光寺や白山神社が何故産鉄なのかについてですが、菊池山哉と柴田弘武さんによれば、産鉄の為、蝦夷征討によって捕らえられた東北の俘囚たちが移住させられたエリアには、東光寺、薬師堂、白山神社(本地仏十一面観音)を祭り、また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなどの特徴があるとのことです。

武相国境全体地図です。


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舞岡地区の産鉄地名は、舞岡地区を南北に流れる舞岡川沿いに分布していますが、東の尾根には鎌倉街道中道があるので、今回は、まずはこの鎌倉街道中道を行くことにしました。

下永谷で降り、輪行バッグを解きます。早速上り。日限地蔵の峠を回り込み鎌倉街道中道に入ります。この道、東海道まで続くんですが、意外に未舗装路が多く、往時の面影が残っていました。

意外にもこういう道が残っている。70%位?!

鎌倉街道中道はやがて江戸期東海道にぶつかります。ここで御嶽神社に寄りました。
この神社は建仁2年(1202)に、日本武尊の御功績を追慕して創建されたと伝えられています。1202年と言えば頼朝が鎌倉に幕府を開いてから間も無い頃ですね。と言っても頼朝は関係無さそう。ヤマトタケルと御嶽神社も関係無いことは無いですが、ヤマトタケルだったら大鳥神社とかの方がしっくり来ます。何か、ちぐはぐですね。元々は違う神が祭られていたのでしょうか?! でも境内にはそれらしきものはありませんでした。石棒を探したんですが。。。

御嶽神社

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鎌倉街道探索を終え、産鉄地名巡りです。"薬師台(下)"と、"梶(鍛冶)路免"に行きました。
ここは開けた尾根で風が気持ち良かったです。

ここは駐車場の名にあるように、"薬師台"です。
薬師台の北側の谷戸部分は"梶路免"

次は白山神社跡に向かいますが、Google Mapにも、鳥居マークがあったので、もしや、と期待したんですが、どうも、もう既に、鳥居や神社の跡は無いようです。

この立派な長屋門の後ろの山に嘗て白山神社があった。

明治時代に一村一社令によって白山神社はこの舞岡八幡に合祀されたようです。

舞岡八幡
碑の右に見えているのが白山

少し先には"東光寺"跡がありました。

双体道祖神があるコンクリ基礎の上に東光寺があったそうです。

その東光寺にあった薬師堂が、今は少し先にあります。今日はここがハイライトでした。。。

東光寺薬師堂、ここに移転された。
地元の小学校生徒が書いたと思われる案内板。"目の悪い人が拝むと良い"
薬師堂の脇に道祖神と石棒が・・・

"目が悪い人が拝むと良い"というのは、産鉄では、炉の中を絶えず見ていなければならず、目を悪くする人が多いことから、産鉄地の薬師さんには、このような伝説が残るそうです。

石棒については、縄文時代前期に北海道、東北に現れ、その後、関東や関西に広がっていったと思われていて、東北を象徴する遺跡であり、薬師、白山と共に、移住させられた東北人たちが持ち込んだのではないでしょうか。

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今回、色々と巡って最後に薬師堂を訪れたんですが、コンクリートで整備された参道を行くんですが、その右に土も露わな参道らしきものが見え、でも気にせずコンクリートの方を行き、写真撮影し、お賽銭もして、さぁ帰ろうと振り返えり、歩き出したら石棒が視界に入ってきたんです。

その瞬間、"あぁ、やっぱりここもそうだったんだなぁ", "さぞや苦労したことでしょう、今はゆっくり休んでください。"と、言う気持ちが溢れてきました。東北人の血のなせる業でしょうか。

2018年6月10日日曜日

武相国境道、その6, いたち川沿いの産鉄地名

武相国境道シリーズ。第一弾は草戸峠から町田駅まで。第二弾は寄り道シリーズで武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)に沿って展開する産鉄地名、第三弾も寄り道シリーズで鎌倉街道沿いの産鉄地名、第四弾も寄り道シリーズで鶴見川水系に沿って展開する産鉄地名をExploreしました。

武相国境道沿いには産鉄地名が多く、鑪の道ともいわれています。しかしながら地図を細かく見てみると、"沿い"というよりは"周り"と言った方がしっくりくるような分布具合。そう思いながら地図を眺め続けていると、規則性が感じられる分布を幾つか発見。それが、武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)であり、鎌倉街道であり、鶴見川水系だったのです。

が、第四弾の鶴見川水系ではたと気付きます。武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)も、鎌倉街道も、単に、鶴見川水系だということに。産鉄地名の分布に、武相国境も含めて規則性は無く、というか唯一の規則性は鶴見川ということだったわけです。

と、言うことで、第五弾は寄り道せず武相国境道を行きました。行きつつ、分布の規則性というよりは、鉄分の濃そうな、私的に興味深い所に寄り道することとし、横浜市南区別所の産鉄地名を巡りました。

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さて、第六弾は横浜市栄区のいたち川沿いに展開する産鉄地名をExplorerします。


※全体図なので、今回のルートを探す必要がありますが、JR根岸線の本郷台駅を探して頂くと良いです。黒線が武相国境道で、青線がExplorerルートです。赤マーカが訪れた地点です。

城山橋

いたち川に架かる城山橋です。"城山"は"白山"からの転化と言われています。この辺りが嘗て白山と呼ばれていたこと、何故ならば白山神社があったから、と、推測されます。

この白山神社ですが、舒明天皇の御代(624~641年)に、本郷6ヶ村の鎮守として鍛冶ヶ谷神戸に創立したと言われています。

この辺りが嘗て白山神社があった所と言われています。

正中元年(1324年)9月には光明ヶ谷神戸に遷座しました。

白山神社跡です。拝殿に上がる階段と基礎が確認できます。
崖を切り出したやぐらも見られました。

関東大震災で大破し、その後、昭和3年に拝殿と本殿が分離して建立されましたが、その時の拝殿が今の思金神社となります。

思金神社

本殿は、昭和51年10月に、現在地に移転しています。

今の白山神社

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菊池山哉と柴田弘武によれば、蝦夷征討によって移住させられた俘囚たちが住まわされた所を別所と言い、特徴として、白山神社が祀られていること、薬師を本尊とする東光寺、東光院、東照寺などの名を持つ天台寺院があるなどと共に、産鉄地であることが挙げられるそうです。

産鉄遺跡である上郷深田遺跡

この辺りは産鉄地名だけでなく実際に産鉄の遺跡が見つかっています。

白山神社旧社地の昇龍橋

遺跡だけではなく、今でも、鉄が染み出る地質であるようです。白山神社旧社地への参道橋と考えられている、いたち川に架かる昇龍橋で、水酸化鉄が見られました。それにしても濃いオレンジです。

白山神社

これは白山神社境内の片隅にある、恐らくは旧社地にあった祠を移設し一ヶ所に集め祀ったものですが、注目してもらいたいのは左隅にある石棒です。

石棒は縄文時代前期後半に北海道と東北に現れた遺物で、何らかの祭祀目的、信仰対象として製作・使用されたと考えられています。

白山神社にある石棒も東北を意味しているのでしょうか。

ここ横浜市栄区のいたち川沿いには、前回もご紹介したアラハバキ神が御鎮座されています。再登場です。

アラハバキ神

アラハバキ神について、東北から移住した鍛冶集団の神である可能性を栄区は言及しています。

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第五弾の横浜市南区別所では、別所という地名そのもの、白山神社、石棒がありました。少し南に下りますが、武相国境を超えた相模国の横浜市栄区でも、白山神社、石棒、産鉄遺跡、水酸化鉄がありました。やはりこの辺りは、蝦夷征討で移住させられた東北の俘囚たちが産鉄に従事した土地だったのではないでしょうか。

生まれは東京ですが、両親が東北出身である私にとっては、興味が尽きないテーマです。

2018年4月30日月曜日

武相国境道、番外編。世田谷区代田のダイダラボッチ伝説を追う。

私は世田谷区代田に住んでいる。

ここの所、武相国境道の産鉄地名を追っているが、そう言えば、我が地元は"代田"じゃないか。と、いうことで、GWの一瞬の隙きを突いてご近所explore, 世田谷区代田のダイダラボッチ伝説を追おうと思う。

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ダイダラボッチの"ダイダラ"は、"タタラ(鑪)"から来ているという話がある。

あるいは、ダイダラボッチは一つ目、片足で、製鉄では火の温度が極めて重要で、三日三晩目を離してはならず、失明する者も多かったこと、火力を保つ為に風を送る鞴は片足で踏み付けて風を作るので足が悪くなる者も多かったことから、産鉄地ではダイダラボッチを祭っていたとも言われている。

このように、ダイダラボッチは産鉄と関係が深そうだが、一方で、巨人伝説としてのダイダラボッチもある。

産鉄と巨人がどう、繋がっているのか。

製鉄には大量の炭が必要で、山が禿山になるほどだと言い、その様が巨人による仕業だと言われたり、製鉄技術は秘儀だったから、周辺住民にしてみれば、山谷に籠もって、片目片足の人達が、何をしてるのかと思ったら鉄を作り出していて、何とも不思議というか、神秘的というか、そういったことが、架空の存在である巨人と結びついたのか。

いずれにせよ、産鉄と巨人は明確な結び付きの論が無いようだ。

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世田谷区代田の地名の由来はダイダラボッチから来ているらしく、ダイダラボッチの足跡があるとのことだ。つまり、巨人伝説の方だ。

代田の古地図、明治初期

この古地図は明治13年頃のものだが、画面上、東西方向にジグザグに流れているのが玉川上水、一部それに沿って画面右上に伸びる一際太い道が甲州道中、画面やや左、南北方向に伸びる道はほぼ今の環七で鎌倉街道中道支道、その右にやや大きな文字で、縦に、"代田村"の文字が見えるが、ちょうど、"田"の文字がある場所、そこが、川が削った窪地で、ここが足跡らしい。

早速行ってみた。

ダイダラボッチの足跡

写真は谷頭から下流向きを眺めたもの。川跡らしい絶妙な蛇行と、川沿いに並ぶ家々の土台の高さは、ここが、間違い無く川であったことと、その川の谷の深さを感じさせる。

守谷小学校崖上から崖下向き

この写真は守谷小学校南の崖上から川跡と、その向こうの尾根を眺めたもの。崖の高さが、谷の深さが分かる。

この辺り、嘗ては池があったようだ。江戸時代の古地図、目黒筋御場から。

画面ほぼ中央のオタマジャクシがそれ。下北沢で森厳寺川に合流後、北沢川に合流

川はやがて京王井の頭線を抜けるが、そこでもう答えが出てしまった。

赤かった
こちらは支流

一枚目はこの川、二枚目は支流。オレンジ色の水酸化鉄が確認できた。ここで鉄が採れるのである。巨人伝説と産鉄とが繋がった瞬間だった。

目黒川の蛇崩川合流部

北沢川を下り、目黒川に行った。目黒川は何度も来ているが、そういう目で見たことが無かったので、今日初めて気づいたが、そこかしこに水酸化鉄が認められた。目黒川水系は、鶴見川水系同様、産鉄エリアだったのだ。

そういえば代田村の西隣は"赤"堤村。"赤"は酸化鉄の赤、あるいは風化した花崗岩に含まれる鉄の色。目"黒"の"黒"もクロガネから来ているのかもしれない。

追記:
まさか、代田に石棒なんて無いよね?
と、調べてみたら、まさか、まさか、代田八幡にあるようだ。今度、見せてもらおう。