2019年9月21日土曜日

深大寺から奥多摩・青梅へ 3, 深大寺エリア、稲城と青梅の関係1、渡来の道

このシリーズの前回は、府中崖線を立川から青梅までexploreしました。

深大寺エリアにいた高句麗渡来人の集団は、基本、多摩川を遡ったと思われますが、陸路で行った班もいたろうし、陸路の場合は府中崖線を行ったのではないかと推測したのです。

崖上は見晴らしも効いてriskを早く察知できるし、崖下に下りれば水が確保できる。だから縄文の時代から生活の場で、縄文・弥生遺跡、古墳、寺社が多く見られます。

そういった生活の場を繋ぎ自然発生的に発展していったのが、今回の陸路だったのではないか、ということでした。

前回で深大寺エリアから青梅まで完走したわけですが、今回は、深大寺エリア、稲城と青梅の式内社を巡る奇妙な関係を見ていき、実走としては、再びの深大寺エリアと稲城をexploreしたいと思います。

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まずはこの地図を見て下さい。



マーカの説明ですが、青が青渭神社、赤が虎狛(柏)神社、黒が大麻止乃豆乃天神社、緑が穴澤天神社です。※紫、黃は後で

4社とも、927年編纂の延喜式神明帳に記載されている古社で、且つ、所謂、"式内社"ですが、何故、複数あるのかというと、何れも確証が無く、推定の域を出ない、所謂、"論社"だからなんです。

そんな中、私が偶然とは思えないなと非常に興味深く思っているのが、その立地なんですね。整理すると下表の通り。

神社深大寺
エリア
稲城青梅
(むあきる野、奥多摩)
青渭神社
虎狛()神社
大麻止乃豆乃天神社
穴澤天神社

深大寺エリア、稲城、青梅に、きれーーーいに集中してます。

4社共、武蔵国多摩郡にあるんですが、多摩郡は今で言うと世田谷を東西半分にした線から西側東京都の全部ですから、もっとバラけて良いはずなんですが、何故、この3エリアなのか???

この内のどれか1つが本物だということになるんですが、逆に、こうは考えられませんか?

最初の地でその神社が出来て、人の移住と共に、元の場所にあった神社を持って行った(勧請した)と?

深大寺エリア⇔稲城⇔青梅の3エリアで人々の移動があり、信仰の対象も移動したなら、どれかが本物というより、どれも本物で移動しただけということになります。


今回の整理から、深大寺エリア→青梅、深大寺エリア→稲城→青梅、稲城→青梅の3パターンがあったのではないか、と、ロマン含め、思っているわけなんです。

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と、いうことで実走です。まずは、もう何度もお邪魔している深大寺エリアの青渭神社です。

深大寺エリアの青渭神社

青渭神社は、珍しく、ほぼ東と言っても良いくらい、東南東を向いています。

何故か?

その先には今は東京都立農業高等学校神代農場がありますが、ここは小規模な谷戸となっていて窪地となっています。今は湧水がチョロチョロと流れているだけですが、嘗ては、湧水の量も多く、満々と水を貯めていた大池だったんです。青渭神社はその谷戸頭に鎮座されてますから、御神体はこの水なわけですね。だから、今設定されている御祭神も記紀に記されている水神様です。

大池跡。少し分かりづらいですが、画面左下の縦の黒い線が、湧水の流れで、撮影地は青渭神社前の道路ですが、ここからストンと落ち込み、大きな窪地になっていることが分かります。

深大寺エリアの青渭神社周辺陰影図。画面左上から右下にかけての崖が国分寺崖線。その南、画面半分まで国分寺崖線に沿っているのが野川。国分寺崖線の上だから武蔵野台地の湧水点から野川の支流となる谷戸が幾つかある。青マーカが青渭神社。その谷戸の1つの谷戸頭に青渭神社があることが良く分かる。因みにその直ぐ西の谷戸は深大寺。

この青渭神社が、人々の移動と共に、稲城に移動したのではないか。あるいは、深大寺エリアが拡張して多摩川対岸の稲城に至ったのではないか、と、いうように想定しているのです。

次は虎狛神社です。

虎狛神社

色々と説はあるのですが、私はこの神社は大磯からこの地にいしてきた高句麗渡来人たちが創建したと思っていて、元は、"高麗(狛)神社"で、後に、深大寺開創の満功の祖母、"虎"の名を合わせて、読みは、"こまじんじゃ"のまま、表記を、"虎狛神社"としたのだと思います。

ですので何を祀っているのかと言えば、満功の祖母、虎です。

それが後の世で、記紀の女神の大歳御祖神になったのではないか、と思っています。

この虎狛神社は、深大寺エリアから直接多摩川を遡り、あるいは府中崖線を行き、青梅に向かった高句麗渡来人たちと共に、青梅に移動したのです。

青梅の虎柏神社も祭神は大歳御祖神です。

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稲城に移動します。

稲城の青渭神社

稲城の青渭神社も大きな沼がありそれがご神体で、御祭神は水神様になっていますが、立地は基本的に多摩川の氾濫原なんですが、加えて、三沢川とその支流の扇状地の扇の要の位置でもあり、水量も多く、沼が形成されたんでしょう。

深大寺にいた高句麗渡来人たちが、深大寺エリアと同じくここ稲城でも沼を見つけ、青渭神社にしたのですね。

真ん中の青マーカが稲城の青渭神社。右上には多摩川が見えている。青渭神社の位置は三沢川とその支流が作る扇状地の扇の要の位置でもあるということが分かる。

青渭神社は、この後、高句麗渡来人の移動と共に、青梅に移動します。

青梅の青渭神社の御祭神は大国主ですが、これは大国主が水神だからで、名の起こりは奥宮付近の枯れることのない霊泉と言われる真名井、つまり、水です。

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さて、ここ稲城には、深大寺エリアには無い、穴澤天神社と大麻止乃豆乃天神社があります。

高句麗渡来人たちが深大寺エリアから稲城に拡張した後、ここ稲城で新たに構築した信仰なのか、あるいは、元々ここにあり、高句麗渡来人たちが土着していく中で、それを信仰していくようになったのか?

穴澤天神社

穴澤天神社の御祭神は少彦名命ですが、本来の御神体は、穴澤天神社の名の起こりである神社下の崖横穴からの湧水(穴澤), つまり、水なのではないかと思ってます。

江戸名所図会、穴澤天神社。穴澤天神社よりむしろ、巌窟と沢のほうが強調された描き方となっています。

今の、穴澤。江戸名所図会の穴澤は崩れてしまいこれは2代目。
本殿裏の谷戸にある横穴

穴澤天神社はあきる野市深沢と、青梅市の先、奥多摩町にありますが、あきる野市深沢の方は、祭神が、
  • 高皇産霊神
  • 神皇産霊神
  • 伊奘諾神
  • 少彦名神
  • 事解之男神
  • 速玉男神
  • 大山祇神
  • 豊受姫命
で、一方、風土記には、深沢村の神社は、
  • 稲荷社
  • 熊野社
  • 白髭社
  • 山神社
  • 第六天社
があったそうで、熊野が速玉と事解と伊弉諾、山の神は大山祇なんだと思いますが、それ以外の御祭神は、少彦名を含め、出自が不明な状態で、地名の棚澤から穴澤となったに過ぎないという通説の1つがやはり有力なのではないか、と思わせます。

一方、羽黒三田神社の方は、出雲の人、土師連行基が、東国に下り、御嶽山で修行中、神のお告げがあり、この地に高皇産霊神と少彦名を祀り穴澤天神社としたという伝承があって、社地南の山麓には崖横穴とそこから御神水が流れ、穴澤天神の名の起こりとなったという伝承もあり、稲城の穴澤天神社との共通点が見られます。

次は大麻止乃豆乃天神社です。

大麻止乃豆乃天神社

何て読むかも分からない、八幡とか熊野とか稲荷みたいなメジャーな名前ではないですが、これは、"おおまとのつのてんじんしゃ"と読みます。旧社地は南多摩水再生センターの辺りでした。

祭神は櫛真智命。記紀にも系図にも登場しない、ただ、延喜式神明帳に、大和国天野香久山神社の祭神として記載されているだけの、謎多き神様です。ト占の神様と言われています。

稲城の大麻止乃豆乃天神社は、深大寺エリアから高句麗渡来人たちが移動してきた時には既に存在しそれを信仰したのか、あるいは高句麗渡来人たちが創建したのか?

恐らく前者でしょう。この神社は、既述の状況から、大和国天野香久山から来たのは間違い無いでしょう。

延喜式によれば、ト占を仕事とする人たちを占部といい、占部は対馬、壱岐、伊豆の三国から選ぶそうで、更に、下図は、ト占遺跡の分布図です。対馬の先には半島がありますからそれも加えると、モノの見事に、

半島→対馬→壱岐→関門海峡→瀬戸内海→大和国→紀伊半島→伊豆→三浦→多摩川→稲城→青梅

という、大和国から稲城→青梅の流れと、更に遡って半島からの流れが見えてきます。

史料・神事にみる卜占の手法より

尚、青梅の大麻止乃豆乃天神社は武蔵御嶽神社ですが、御祭神は稲城と同じく櫛真智命です。

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さて、整理してみましょう。

神社御祭神
御神体
深大寺
エリア
稲城青梅
青渭神社御祭神青渭大神(水神)青渭大神(水神)大国主命(水神)
御神体大池(水)大沼(水)真名井(水)
虎狛(柏)神社御祭神大歳御祖神(N/A)大歳御祖神
御神体深大寺開創満功上人祖母虎(N/A)霊石
大麻止乃豆乃天神社御祭神(N/A)櫛真智神櫛真智神
御神体(N/A)(N/A)(N/A)
穴澤天神社御祭神(N/A)少彦名命高皇産霊神、少彦名命
御神体(N/A)穴澤穴澤

と、言うことで、祭神が同じなのはある意味当たり前なんですが(じゃないと論社になってませんから), 多摩川や府中崖線で繋がっているし、共通点も多く、深大寺エリア、稲城、青梅が、単に地理的なだけでなく、文化的にも繋がっていそうなことは分かりました。



では、稲城はどうでしょうか?

調べてみると、決定的な伝承が見つかりました。

少し分かりづらいですが、画面真ん中の土盛りが鐙塚です。上記地図の紫マーカーです。

この写真の鐙塚がある周辺は、鐙野や鐙原と呼ばれていて、高句麗渡来人の伝承があります。

鐙野

新編武蔵風土記稿の高麗郡の総説に、武蔵鐙というものがあり、それは高麗人(高句麗人)が作ったものだという記事があります。

武蔵名勝図会では、多摩郡坂浜村の項で、ここは武蔵鐙を作った者たちが住んでいた所だとの説明があり、武蔵鐙は高麗人が作りはじめたから、ここに高麗人(高句麗人)が住んでいたんだろうという記述があります。

同じく武蔵名所図会の鐙野の項では、同じような内容で、ここは昔鐙作りの者たちが住んだ所で、だから鐙野というのだが、その鐙は武蔵鐙に違いなく、鐙師は高麗人(高句麗人)が先祖だと説明しています。

繋がりましたね。稲城、深大寺エリア、青梅が。高麗(高句麗)で。

更に、稲城と言えば取り上げざるを得ないのがこの妙見寺、妙見尊です。

妙見寺、上記地図黄マーカー
妙見尊、上記地図黄マーカー

妙見尊の蛇より行事の蛇

妙見と言えば、大磯から寸分の狂い無く真北である高麗郡に、高句麗知来人の集団を引き連れ大移動した、高麗郡の郡司となった高句麗の王、高麗"玄武"若光を思い出します。

稲城の妙見は、高麗"玄武"若光の痕跡でしょうか・・・

次回は青梅です。

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