2020年8月28日金曜日

世田谷、狛江、調布、渡来の道

この渡来の道シリーズで、深大寺を最初に取り上げました。

深大寺エリアの、深大寺、虎柏神社、祇園寺だけでなく、その周辺エリアもご紹介しましたが、前回、小榑村をexploreした結果、国領を含む、深大寺までのエリアを行き直したいと思いました。

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まずは世田谷は鎌田の、鎌田山吉祥院地蔵寺です。

本堂

風土記によれば、740年、あの行基による開基との伝承があり、世田谷区教育委員会によると、本尊は不動明王坐像で、開山良弁僧正の作と伝えられているということです。

また、風土記には面白い伝承もあり、

"其比多磨郡鎌田の郷に齢六旬許の貧女あり、地蔵信仰のゆへに行者となり、朝夕御称を唱へて止ときなく供養せしが、其比帝の御願として行基菩薩勅を承り、諸国に伽藍建立の時堂舎を立給ふ、或時彼貧女末来成仏解脱の法をしめし給へと、行基にこふに其志を憐み、数月をへて翌十三年正月廿四日行基再び此里に至り。

地蔵の尊像を彫刻し、礼拝供養すべしとてあたへり、其後貧女剃髪染衣の身となり、精舎を建るの志を企てけるに秦氏の某といへる富豪其志を感じ田園をそこばく寄付したれば、堂宇僧坊まで営みしが、、、"

と、百済系渡来氏族の行基、秦氏と、渡来濃度が高いお寺です。

そう言われれば境内は、、、

境内には半島由来と思われる彫像が。この羊ですが、中国や朝鮮半島では、お墓や陵墓を守護し、霊を鎮魂する、鎮魂獣の一つとして、陵墓に置かれるということです。

こちらは亀 = 玄武 = 高麗王玄武若光を想起させます。

と、ただならぬ渡来濃度です。

先を行きましょう。次は駒井です。

"駒井" は、"高麗井" で、"狛江" の遺地名です。狛江郷は深大寺エリアを含む、広大な郷だったようですが、その中心地はどこだったのでしょうか。

少なくとも、迅速測図時点の、ですから江戸期もそうなんでしょう、その頃の中心地は、以下の辺りと思われます。

青ポイントが想定駒井中心地、上には円住院、日枝社のキャプション有。因みに黒線は今回のexplorerルート。

迅速測図を見ると、狛江六小南交差点の辺りに住宅が密集しています。また、今も続く旧駒井村御嶽講の辻札2つの内1つはここに供えるそうで、写真にも写っています。後輪の向こうに。

もう1つの中心地は駒井村鎮守日枝神社があるエリア。この写真にも辻札が写っています。祈願交通安全の幟のすぐ右です。

先に行きましょう。

調べても直接の関係性は見い出せませんでしたが、高句麗渡来人の移動ルートに何故か重なるアラハバキです。

熊野山観音院玉泉寺

ここ玉泉寺にある帝釈堂は、おしゃもじ様と言われ、風土記でも、

"石神祠。寺の入口南方にあり、九尺四方、豊磐間戸、櫛磐間戸の兩神を祭る、神體木の坐像三寸餘、境内鎮守なり。"

帝釈堂

と、石神様→シャクジン様→シャモジ様ということだと思いますが、大宮氷川神社の風土記での記載に、

"摂社 門客人社、男体社の東にあり、祭神は豊磐窓命・櫛磐窓命の二座にて、古は荒脛巾神社と号せしを、氷川内記神職たりし時、神祇伯吉田家へ告して、門客人社と改号し、手摩乳・脚摩乳の二座を配すと云"

と、ありますから、これはもうアラハバキなんです。

そう言えば、ここから泉龍寺、旧堤防を経由して水神にある庚申塔は、

水神の庚申塔

と、草鞋が供えられていて、

また、少し戻って喜多見氷川神社には、

喜多見氷川神社の石棒

と、石棒も祀られていて、アラハバキ濃度が高いエリアですね。

さぁ、泉龍寺です。

泉龍寺

泉龍寺ホームページによると、

"伝説によれば、奈良東大寺の開山として名高く、伊勢原の雨降山大山寺をも開いた良弁(ろうべん)僧正が天平神護元年(765年)、この地にやってきて雨乞いをし、法相宗・華厳宗兼帯の寺を創建したのが泉龍寺のはじめとされています。"

はい。良弁さんです。繋がりました、良弁さんで、泉龍寺と吉祥院が。

また、ここにも書いてありますが、良弁さんと言えば大山寺なんです。

大山寺と言えば、この渡来の道シリーズの大磯の回でご紹介しましたが、日向薬師なんです。

"716年、行基が薬師を彫ろうと良い木材を探していた所、高麗若光が良い木材を提供してくれて、無事、薬師如来を彫ることが出来た。"

この話、どこかで聞いたような気がしませんか?

"其後貧女剃髪染衣の身となり、精舎を建るの志を企てけるに秦氏の某といへる富豪其志を感じ田園をそこばく寄付したれば、堂宇僧坊まで営みしが、、、"

薬師を彫る、と、精舎を建てる、の違いと、秦氏と高麗若光の違いはありますが、基本的に、同じ話ですね。

しかも、行基が訪れた日向薬師にとっての大山寺、やはり行基が訪れた吉祥院にとっての泉龍寺、共に、良弁なんです。

これはね、もう、同じ話が、人々の移動によって、異なる地に伝わったということなんだと思うのです。

これもね、このエリアが高句麗渡来人の痕跡を残すエリアなんだという証拠の一つだと思います。

同じような話が、大磯と深大寺にもあります(Link先記事の最後の部分)。

先を行きましょう。

ここは江戸時代まで、国領神社があった所です。今の常性寺も同じ場所ということですから、この辺りが国領の中心地だったということでしょうか。

杉森遺跡公園

こちらは移動した後の国領神社

国領神社

先を行きます。

旧金子村の厳島神社です。

旧金子村鎮守厳島神社

金子村は入間郡金子郷を本拠とする村山党金子氏の一族が移住してきた地と言われています。

村山党金子氏には、1546年に発行された北条氏康の判物があることから、1546年以前のどこかの時点で、後北条氏勢力に組み敷かれたと判断できます。

それを踏まえて改めて境内を見てみると、

厳島神社の手水舎

賽銭箱

と、後北条氏家紋の三つ鱗がそこかしこにありました。

どうやら調布の旧金子村も村山党金子氏縁の地のようです。

旧金子村を流れる入間川。地名の共通性も見られる。

これだけだと単に入間と調布が金子氏で繋がっただけですが、その金子氏、高麗神社が1259年に出火により系図焼失。そこで、高麗一門からでた各氏族が自家の系図を持ち寄って再編集したんですが、その中に入っているんです。

この金子氏とその金子氏が同一か分かりませんが、高麗郡は入間郡から派生した郡であり、実際に至近で、大磯からの高句麗渡来人移動ルートに乗っています。

さて最後は、子之三島神社です。

子之三島神社

ここは嘗て、妙見を祀る妙見神社だったということです。

妙見といえば玄武、高麗王玄武若光です。

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如何でしたか。

深大寺エリアだけでなく、多摩川からそこに至るエリアも、高句麗渡来人の濃度が高かったですね。

そういった歴史の積み重ねで今があり、その痕跡は、注意深く観察すると、見えてきます。

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