2019年2月17日日曜日

続き、目黒、名所江戸百景

前回の続き

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さて、広重に成り代わって今の名所江戸百景を確認し終えた所で、江戸庶民に倣って目黒観光を楽しみたいと思います。

やはり、入りのルートは、日本橋から来たとした場合、東海道を三田まで来て、三田3丁目の丁字路から聖坂を上がり、東海大学高輪台高校で天神坂に入り、白金、目黒と来て、行人坂を下ってエリアに入るルートでしょう。



太鼓橋を渡って、突き当りが岩屋弁天のある蟠龍寺です。

この辺りの寺社は全部江戸名所図会に描かれています。蟠龍寺もそう。岩窟の中にある岩屋弁天が有名だったようです。江戸名所図会には、空海作と記載されてます。ついでに言えば、本尊は円仁作だと書いてありました。マジすか?!

岩屋弁天

さて、江戸庶民は次に蛸薬師に行くはずです。蛸薬師こと成就院も江戸名所図会に描かれた名所ですが、何が名所かと言うと、信じて願えば何でも治るでお馴染みの、"おなで石"ですね。老中松平定信が、イボが取れたとその効果を絶賛しました。

蛸薬師こと、成就院。江戸名所図会と御本堂の向きが違いますね。
江戸名所図会の蛸薬師堂

でも私的にはそう言えばここは薬師さんだということと、江戸名所図会を見たらなんとナント!!!金精様があるじゃないですか!!!!!また、蛸薬師の由来が、円仁が若い時から目が悪かった為、薬師さんの小像を肌身離さず持っていて、それがご本尊の元になっているという話も正に産鉄の話であって、ここ蛸薬師にも、例え消そうとしても決して消えない、産鉄という土地の記憶が染み出しているのが垣間見えて良かったです。

お隣の安養院も江戸名所図会に描かれた名所で、ここは寝釈迦と呼ばれた涅槃像が名所の所以のようです。

安養院

安養院を参ったらいよいよ本命のお不動さんです。もうここはたくさん描かれています。ので、写真だけ載せて、詳しい説明は既述のようにwikiなど他に任せて次に行きましょう。

目黒不動、瀧泉寺

直ぐ西の古道を北に行き、目黒通りに出たら、今はもう無いですが、嘗てはここに金毘羅さんがありました。

左のマンションの辺り

金毘羅さんについては、ここに素晴らしいサイトがあります。

また、ここで大発見もしてしまいました。ここに通俗荏原風土記稿の目黒村の記載があり、そこに、

"目黒村の開闢年代は明かでないが、此の地には承和年間(末年?)慈覺大師の開基に係る瀧泉寺がある。承和の元年は今から一千七十九年前に當るから、其の頃は已に幾分か土地も開発せられて居たろうと思う。遠く其の以前に遡つては、人類学会雑誌に「上目黒村にて発見したる石棒の巨大なるもの二本あり、一は長さ三尺周(アマ)り一尺、一は長さ一尺九寸周り八寸。此の近地到る處に原人遺跡あり云々」とあるから、太古は人の棲住した地であろうと察せらるる。"

と、ありました。やはり、産鉄なんですよ、産鉄。この石棒が蛸薬師の金精様でしょうか?!

目黒通りを東に行くと大鳥神社です。酉の市で人気でした。

大鳥神社

大鳥神社から環六を南に、先ほどの行人坂、蟠龍寺、蛸薬師、安養院と行って、安養院の参道の脇にある外崎焦商店は嘗ての目黒飴桐屋です。

嘗ての目黒飴、桐屋。飴屋は廃業したそうだが、この商店に代々引き継がれている。

聖があれば俗もある、というのがこういったところの常識ですが、目黒には遊郭が無かったのです。こりゃいかん、目黒だけで帰るわけにはいかない、ということで、男たちは品川宿へ寄ってから帰ったそうです。その様子がうたわれています。

「言訳けの おみやを召せと 桐屋言い」

奥さんから、一体全体どこほっつき歩いてたの? と詰問された時の言い訳として、目黒詣の名物、目黒飴を買って帰りなさいと、目黒飴屋の桐屋に言われるという川柳です。

江戸庶民に倣い、品川宿によって帰りましょう。

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さて、帰り道に寄った東光寺と氷川神社もご紹介しておきます。

東光寺
氷川神社。鳥居のすぐ奥にある二本の大木、これは鳥居の原型では無かろうか。だとするとかなり古そうだし縄文の香りもしますね。だからこれも鉄ですね。

それにしても、意外や意外、鉄分が多かったですね。こんな大都会の真ん中の高級住宅地に。消せないんですね、土地の記憶は。

これだから止められない、時空を超えたexplorerは。

それではまた。

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