2018年7月14日土曜日

概説、三浦半島の古代東海道、古代東海道

武相国境道シリーズを、その7まで続けてきましたが、この後の道筋は円海山周辺の山道となります。

ということで、薮、蚊が酷いこの季節、山道は避け、アスファルトの道を行こう!ということで、武相国境道シリーズは冬までお休みです。

代わりに選択したのは、やはり途中で終わっていた、武蔵国・相模国の古代官道シリーズです。771年の続日本紀により、武蔵国が東山道から東海道に編入されるまでの、三浦半島から房総半島に抜けるルートを行きたいと思います。

地図です。

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、、、と、言いつつ、スムーズには始まりません。北から青、赤、緑の3つのルートがあります。鎌倉までは1つのルート(細かく言うと赤だけでなく紫もあるんですが、ほぼ、1つのルートということで)なんですが、鎌倉から分かれるんですね。

定説は緑なんです。根拠は古事記、日本書紀で語られているヤマトタケルノミコトの東征ルートで、走水から海路上総に渡ると記されています。

しかし、ハッキリとは分かってないんですね。専門家の方々が長年研究して分からないんだから、私が答えを出せる訳ありませんが、まぁ、私なりに考えてみました。(これも楽しみの1つなんです。)

専門家の方々とは違うアプローチで、、、って言うか単に知識が足りないだけですが、頼朝鎌倉入り前からある寺社をプロットし、青、赤、緑、どれが確からしいか検討してみました。そうです、地図上の青マーカーは奈良平安期の寺社なんです。

まず、鎌倉駅、鶴岡八幡宮付近に青マーカーが集中しているのが分かります。これは、鎌倉が、頼朝鎌倉入り前から、それなりの都市だったということを表しています。実際、鎌倉市役所とその隣の御成小学校付近から、相模国鎌倉郡の郡衙が見つかっています。それにしても、1300年前の郡衙と同じ場所に市役所を建てたなんて偶然とは思えない、必然の何かがあるんでしょうね。

次に気付くのは青、赤、緑全てのルートで、多少はあるものの、ルート沿いに奈良平安期の寺社が認められるということです。つまり、3つ全て可能性があると。

が、比較すると、赤ルートが最も数も多く綺麗に沿っています。青ルートは中間付近に寺社が無いし、緑ルートは逆に鎌倉郡衙から葉山町までに寺社がありません。更に、赤マーカーは古墳なんですが、赤ルート沿いには長柄桜山古墳群があり、同時代の古墳が海を渡った上総にも散見され、三浦半島から房総半島へのルートを現しているように見えます。

もう1つ、赤ルートを推す理由があります。まず赤ルートは三浦半島の根本で、横断するには最も距離が短いんです。それと、西から田越川が三浦半島縦断尾根まで侵食していて、東からもやはり名も無き川が侵食していて、船で川を遡り、船を降りて陸路、とは言っても峠越えですが、でもたった数キロ行き、待たせてある船に乗って川を下り、そのまま浦賀水道を渡れば上総に行ける。更に更に、三浦半島縦断尾根を超える峠は"船越"という地名なんです。

以前、

古代史の謎は海路で解ける

という本を読んだんですが、この本を読んで私的に衝撃だったのが、

  1. 川は遡れる。
  2. 今回の赤ルートのような地形の場合、陸路を船を曳いていくことがある。
  3. そういった地名を船越と言う。
以上、3点で、正に赤ルートがこれに該当するじゃないですか! ということで俄然赤ルートを推したくなってきました。この仮説は、私が日頃スゴイなと思ってるこの方も仰ってらっしゃいます。

赤ルートの地形図。横浜横須賀道路の直ぐ東に三浦半島縦断尾根が見える。そこが船越峠。その西側も東側も川であることが分かる。ここを船で行き、尾根は陸路か船越で越え、再び船に乗り換えそのまま海路上総へ。

でもこの赤ルート、船で来て、そのまま田越川を遡って、船越峠を越えて、っていうんならもうこれ以外無いと思うんですが、陸路で鎌倉郡衙まで来て、名越を通り、田越川に来て船に乗り換えて、船越峠でまた乗り降りして、というと、どうも面倒な気がしないでもないです。

こうなると他との比較になるわけですが、青ルートと緑ルートを見てみましょう。

青ルートの地形図。意外にも、赤ルート同様、東西入り江で赤ルート的なことができるが、赤ルートと比較すると、全体の距離が長いのと、陸路も長いので不便。
最後に緑ルートの地形図。やはり、東西入り江。に、しても、三浦半島って一塊ではないんですね。赤ルートと比較すると一目瞭然で距離的に赤ルート優位ですね。

と、言うことでやはり比較的にも断然赤ルートに軍配が上がります。

それに、これは他でお目にかかったことが無い説ですが、つまり、完全なる自説なんですが、武相国境道が、それまで、忠実に相模湾と東京湾の分水嶺だったものが、船越峠の手前で急に東に折れるんですね。まだ、尾根(分水嶺)は続くのに。

なぜ、ここで東折しなければならなかったのか。

これを、分水嶺尾根の最後まで、分水嶺尾根の最後はちょうど緑ルートなんですが、そこまでを武相国境とすると、田浦のあたりは武蔵国になってしまうんです。そうすると、東海道としては都合が悪いですね。東海道は、相模国から東山道の武蔵国は経由せず、同じ東海道の上総国に直接接続されなければならないわけですから。

そうなんです。東海道を維持しようとしたら、武蔵国は、分水嶺尾根最後まで辿れないんです。逆に言えば、六浦で武蔵国を終わらせた理由は、六浦の南から相模国としたかったから。ということは、そこに渡河地点があったから、と、考えられはしませんか、というのが私の説なわけです。

ちょっと分かりずらいかもしれませんが、尾根に這う薄い青線が現在の行政境で、この記事で語っている時代と同じ境界です。青ルートの少し南で東に折れてます。これが往時の武相国境。見て分かる通り、三浦半島縦断尾根 = 分水嶺は赤ルートを越えてもまだまだ続く。にも拘らず、その手前で東に折れている。これは赤ルートを相模国にしたかったから、ではないだろうか。名座なら赤ルート終点が渡河地点だったから。

長くなりましたので実装レポートは次回に

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