2018年6月10日日曜日

武相国境道、その6, いたち川沿いの産鉄地名

武相国境道シリーズ。第一弾は草戸峠から町田駅まで。第二弾は寄り道シリーズで武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)に沿って展開する産鉄地名、第三弾も寄り道シリーズで鎌倉街道沿いの産鉄地名、第四弾も寄り道シリーズで鶴見川水系に沿って展開する産鉄地名をExploreしました。

武相国境道沿いには産鉄地名が多く、鑪の道ともいわれています。しかしながら地図を細かく見てみると、"沿い"というよりは"周り"と言った方がしっくりくるような分布具合。そう思いながら地図を眺め続けていると、規則性が感じられる分布を幾つか発見。それが、武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)であり、鎌倉街道であり、鶴見川水系だったのです。

が、第四弾の鶴見川水系ではたと気付きます。武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)も、鎌倉街道も、単に、鶴見川水系だということに。産鉄地名の分布に、武相国境も含めて規則性は無く、というか唯一の規則性は鶴見川ということだったわけです。

と、言うことで、第五弾は寄り道せず武相国境道を行きました。行きつつ、分布の規則性というよりは、鉄分の濃そうな、私的に興味深い所に寄り道することとし、横浜市南区別所の産鉄地名を巡りました。

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さて、第六弾は横浜市栄区のいたち川沿いに展開する産鉄地名をExplorerします。


※全体図なので、今回のルートを探す必要がありますが、JR根岸線の本郷台駅を探して頂くと良いです。黒線が武相国境道で、青線がExplorerルートです。赤マーカが訪れた地点です。

城山橋

いたち川に架かる城山橋です。"城山"は"白山"からの転化と言われています。この辺りが嘗て白山と呼ばれていたこと、何故ならば白山神社があったから、と、推測されます。

この白山神社ですが、舒明天皇の御代(624~641年)に、本郷6ヶ村の鎮守として鍛冶ヶ谷神戸に創立したと言われています。

この辺りが嘗て白山神社があった所と言われています。

正中元年(1324年)9月には光明ヶ谷神戸に遷座しました。

白山神社跡です。拝殿に上がる階段と基礎が確認できます。
崖を切り出したやぐらも見られました。

関東大震災で大破し、その後、昭和3年に拝殿と本殿が分離して建立されましたが、その時の拝殿が今の思金神社となります。

思金神社

本殿は、昭和51年10月に、現在地に移転しています。

今の白山神社

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菊池山哉と柴田弘武によれば、蝦夷征討によって移住させられた俘囚たちが住まわされた所を別所と言い、特徴として、白山神社が祀られていること、薬師を本尊とする東光寺、東光院、東照寺などの名を持つ天台寺院があるなどと共に、産鉄地であることが挙げられるそうです。

産鉄遺跡である上郷深田遺跡

この辺りは産鉄地名だけでなく実際に産鉄の遺跡が見つかっています。

白山神社旧社地の昇龍橋

遺跡だけではなく、今でも、鉄が染み出る地質であるようです。白山神社旧社地への参道橋と考えられている、いたち川に架かる昇龍橋で、水酸化鉄が見られました。それにしても濃いオレンジです。

白山神社

これは白山神社境内の片隅にある、恐らくは旧社地にあった祠を移設し一ヶ所に集め祀ったものですが、注目してもらいたいのは左隅にある石棒です。

石棒は縄文時代前期後半に北海道と東北に現れた遺物で、何らかの祭祀目的、信仰対象として製作・使用されたと考えられています。

白山神社にある石棒も東北を意味しているのでしょうか。

ここ横浜市栄区のいたち川沿いには、前回もご紹介したアラハバキ神が御鎮座されています。再登場です。

アラハバキ神

アラハバキ神について、東北から移住した鍛冶集団の神である可能性を栄区は言及しています。

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第五弾の横浜市南区別所では、別所という地名そのもの、白山神社、石棒がありました。少し南に下りますが、武相国境を超えた相模国の横浜市栄区でも、白山神社、石棒、産鉄遺跡、水酸化鉄がありました。やはりこの辺りは、蝦夷征討で移住させられた東北の俘囚たちが産鉄に従事した土地だったのではないでしょうか。

生まれは東京ですが、両親が東北出身である私にとっては、興味が尽きないテーマです。

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