2020年11月16日月曜日

武蔵国郡境を行く、久良岐郡

前回も言いましたように、都筑郡の初回では、都筑郡の郡域を、下図のように想定したんでした。

左上から、まず南南東にグレー太線→黒線→黒線が東へ→黒線二股に分かれるもそのまま東へ→黒線海へここは帷子川河口。次に東へピンク太線→南の黒線→紫線→ピンク太線→黒線北→短いピンク太線南へ→黒線東南東→短くピンク太線→紫線→一瞬黒線→紫線で海へここは鶴見川河口。

早渕川~鶴見川のラインと赤線のすぐ北にあり平行している黒線に囲まれたエリアが麻生郷で、忌部氏による麻栽培開発と杉山神社の関係、都築郡の中心エリア、そういう話をしました。

そして前回、ポッカリと空いてしまう都筑郡中心エリアの南西部について、立野牧の痕跡が残る立野郷 = 小山田と、八朔郷の西八朔杉山神社をexploreしました。

そこで今回は、ポッカリと空いた麻生郷の南東部をexploreします。

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少し調べてみました。

都筑郡郡域南東部をzoom up

黄マーカに注目してください。右上が寺尾、その少し左上、青マーカと重なってしまっていて分かりづらいんですがそこが諸岡(師岡), 左下黄マーカが星川で、これらはどうやら嘗て久良岐郡だったようなんです。
  • 小田原衆所領役帳(1520~1555年)に、"諏訪三河守、二百貫文、久良岐郡寺尾"
  • 和名類聚抄(931~938)に、久良郡八ヶ郷として、"諸岡郷" の記載アリ
  • 和名類聚抄(931~938)に、久良郡八ヶ郷として、"星川郷" の記載アリ
少し調べれば分かることを、橘樹郡は多摩川水系、都筑郡は鶴見川水系という推論の確立に興奮し、手を抜いてしまったんですね。


そうして改めて迅速測図を地形視点で見てみると、まず北西と北東を鶴見川に囲まれた台地、寺尾、諸岡(師岡)がある地域ですね、ここは久良岐郡だと。

そのまま黒線(これは鶴見川)を西に行くと、ピンク太線が2つありますが、これは帷子川と鶴見川の分水嶺なんですね。

都筑郡初回も言ったように、鶴見川は都築郡の川だというなら、このピンク太線より南の帷子川水系エリアは久良岐郡だと、帷子川は久良岐郡の川なんだと、そう言うとスッキリするんですが、このエリアにある赤マーカ、ここは今の二俣川なんですが、和名類聚抄に記載がある幡屋郷で都筑郡なんですね。

と、なると、どこかで線引きしなければならないんですが、逆に、何かの理由で線引きしたものが、迅速測図における橘樹郡と都築郡の郡境ということなんでしょうか?

いやぁ、でもそうすると星川村(下星川村)は久良岐郡で上星川村は都筑郡になってしまうんですよね。これは違和感です・・・

また、榛谷御厨も気になる所です。その領域は、凡そ、保土ヶ谷区と旭区で、これは、帷子川水系とビタッと重なります。

いやぁ、どっちなんでしょうか。。。

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タイトルを久良岐郡としていますが、久良岐郡はその殆どを相模国と接していて、だから郡境は武相国境ということになって、それは既に完走してますから、何れにせよ、今回のスコープは、上記の、北西と北東を鶴見川に囲まれた台地、寺尾、諸岡(師岡)がある地域ですね、ここと、帷子川水系エリアに絞りたいと思います。

町田まで輪行。町田から、武相国境道 = 町田街道を南東へ。東名の横浜町田インターを過ぎて直ぐ左折し、鶴見川と帷子川の分水嶺尾根古道に入ります。

ここが良かった。癒やされました。

畑の中を分水嶺尾根古道が通ります。

尾根から盆地に降ります。

先程の尾根を降りるとこの盆地、撮影場所は更に1つ先の尾根から。ここの畑は迅速測図にも見られるので、少なくともその時代から続いているのでしょう。横浜ですよ!!!!!

三保市民の森の尾根道です。自転車は押しですが、通れます。

で、エリアに到着です。川井地区ですね。

正直言って、これと言った律令時代の痕跡手がかりは無さそうですが、まずはこちらにお邪魔しました。

川井山観音院長源寺

山号からして、川井の中心だったろうことが想像されますね。

739年、あの行基による開山との伝承もあります。

印融(1435〜1519)による中興という話もあるので、少なくとも、室町には存在していたということになりますが、何れにせよ、真言宗がこの辺り、勢力を張ってたということになります。

先を行きましょう、上川井神明社です。

上川井神明社

この神社も面白いですね。

まず、創建年ですが、詳らかならずも鎌倉期には川井郷の総鎮守だったとの伝承がありますが、このエリア = 榛谷御厨で神明社ですから、神明社として創建されたなら、最も早くて神戸神明社と同じ970年頃と言うことになりますし、元々は他の神社で、榛谷御厨成立後に神明社になったのなら、これはまた違う回答になります。

ということで神明社として創建されたなら祭神は天照大御神だろうとチェックすると、ナント!!, 国常立尊じゃあないですか。

妙見など、神仏習合で祭神を国常立尊にした神社はあるようですが、最初から国常立尊を祀ってる神社なんてあるんでしょうか?

無さそうなのですね。と、いうことは、元は妙見で、榛谷御厨成立時に神明社にさせられたのかな、、、と、思いきや、更に調べたら、伊勢神道では、豊受大神と国常立尊は同一神とされているそうです!!!!

だから合ってるんですね。神明社で国常立尊はおかしくない。

上川井神明社は、神明社として創建され、だから祭神は豊受大神と同一神の国常立尊で、と、なると、最も早くて970年の創建、かもしれない。と、いうことです。

神戸神明社の伝承では、天照大御神が榛谷の地に影向し、川井、二俣川、保土ヶ谷と三遷したという内容がありますが、川井の地にあることといい、天照大御神でもなく豊受大神でもなく国常立尊が祭神だということ、何だか意味深と言うか、もしかしたらここが件の地なのかもしれませんね。

川井の古い寺社はこれくらいなので分水嶺尾根に戻りましょう。

しかし、分水嶺尾根に取り付くにはズーラシアを経由しなければならないんですが、そうだろうとは思ってましたがやはり通れません。

大きく迂回し、車に轢かれた狸などをやり過ごし、ようやく里山ガーデンの分水嶺尾根に取り付きましたが、途中、なかなか良い道もありました。

アスファルトですが幅一間の古道

分水嶺尾根から、次は二俣川です。

ここには件の本村神明社があります。

本村神明社、今日は七五三が多い

ここも上川井神明社と同じく、創建年詳らかならず、風土記に神明社とはあるが祭神無し、今の祭神は国常立尊ではなく神明社としてはノーマルな天照大御神です。ここは、川井、二俣川、保土ヶ谷と三遷した二俣川の件の神社とされています。

先を行きましょう。分水嶺尾根に戻り星川に入ります。

ここではここを訪れなければなりません。神戸神明社です。

神戸神明社、夕方のような空気感ですがまだ2時過ぎ。秋の日は釣瓶落としですね。

件の神明社、3つ目です。

ここの神社は非常に素晴らしいですね。清掃が行き届いているし、ホームページも素晴らしい。

既述のように、上川井神明社、本村神明社、神戸神明社の由緒は、970年に、天照大御神が、まず、本村神明社に来て、その後、上川井に移り、再度、本村に来るもそれは仮で、最終的に神戸に来てそこで落ち着いた、というものですが、これは勿論真実ではなく、神明社は榛谷御厨に伴うものであって、榛谷御厨は、小山田有重の寄進によるものだから、970年ではなく1150年〜の平安末期の頃となるし、本村→川井→本村→神戸というのは、榛谷御厨の範囲拡大を表しているということでしょう。

そうして今一度地図を見てみると、黒ポイントが現存する神明社(合祀されたものは基本的に反映してません。)ですが、ものの見事に今回のスコープエリアに集中していることが分かりますね。



ここでもう一つ、星川に紫マーカが集中しているのも分かると思います。

これは、


ということで何れも別当が東福寺に繋がっていく杉山神社ということになります。

都筑郡でも指摘しましたが、既にあった杉山神社を土台・道筋にして、真言宗勢力が進出・拡大を図った痕跡なのか、あるいは、真言宗勢力が拡大する為に杉山神社を次々と創建していったのか。

後者なら、せいぜい遡って、東福寺開山の1243〜47年ということになり、論社ではないということになります。

何れにせよ、この辺りは東福寺を中心として真言宗が広がっていったんだということが分かりますね。

さて、緑マーカも杉山神社なんですが、真言宗に繋がってない神社なんです。

逆に言えばこの2つの神社は、真言宗から独立している点で、論社の可能性も出てくると思いますが、星川杉山神社は、江戸名所図会で論社だと言われている杉山神社となります。

星川杉山神社、いやぁ、ここまでの登りが凄かったですね。

江戸名所図会の星川杉山神社、右上の説明に、論社との記載がある

別当は真言宗ではなく日蓮宗の法性寺と、風土記に書かれていますし、、、日蓮宗というのが引っ掛かったんで、詳しく調べてみた所、横浜市史稿に、

"往古、當寺境内に近く大日山蓮華寺と云へる眞言宗の一宇が在つた。此寺の僧某、日在の法門を聽き、深く日宗に歸依し、文祿の頃、遂に日蓮宗に改めた。元和二年、日在は今の地に一宇を創建し、開基檀那より奉納した日法上人自作の祖師尊像と、比企能員の手寫と稱する紺紙金泥の法華經一部八卷を奉安し、光榮山法性寺と號した。"

と、ありまして、追って蓮華寺について調べた所、中野に移転していることが分かりました。

中野の蓮華寺の由緒によれば、蓮華寺は池上本門寺第4世の日山聖人により、星川の地に開かれたとのこと。

日山聖人は、川越の妙昌寺を1375年に開いているので、蓮華寺も同じ頃も思われます。

でもちょっと辻褄が合いませんね。

蓮華寺が日在によって日蓮宗に改宗したのは元和2年頃ですから1616年頃、その蓮華寺は日山により開山で時期は1375年頃、もうその時は日蓮宗ですよね。

まぁでもどうなんでしょう。あまり根拠も無いですが、何となく、真言宗の蓮華寺はそれ以前からあって、1375年辺りに日山によって改宗されたということでしょうか。

と、いうことで星川杉山神社は、1375年辺りまで遡れるものの、紫マーカの杉山神社と同じく、真言宗勢力の進出・拡大に関連する杉山神社で、もしかしたら平安期より後、室町期の創建かもしれませんね。

時期的に符合するので、もしかしたら、蓮華寺も東福寺の末だったかもしれません。

1200〜1300年頃の、東福寺を中心とし、杉山神社をそのルートとした真言宗勢力の拡大が見えてきました。

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如何でしたでしょうか。

都筑郡の初回2回目は、郡成立時、律令時代の痕跡をexplore出来た感じがしますが、今回は久良岐郡成立時の痕跡は見つけられませんでした。が、その少し後の時代、平安後期から鎌倉期の、榛谷御厨の痕跡は大いに発見できました。

サイクリングとしても楽しかったです。雰囲気のある古道が多かったですし、尾根で見晴らしも良かったし。up & downも多く鍛えられました。

それにしても横浜って広いですね。

是非

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