2021年4月25日日曜日

日本のシルクロード、本道、打越弁財天〜鑓水集落

今まで何度も行ってるんですが、それは道としての絹の道であって、養蚕の痕跡をexploreする為ではありませんでした。

だから、横浜までは行ってなかったし、色々調べてみると幾つかルートもあるようですね。

下記、地図をご確認ください。
  1. 八王子 → 鑓水峠 → 町田街道 → 八王子街道 → 横浜港、(黒線)
  2. 八王子 → 鑓水峠 → 町田街道 → 神奈川往還 → 横浜港、(黒線→茶色線)
    ※神奈川往還は、更に、北、南の2ルート有り
  3. 八王子 → 杉山峠(御殿峠) → 厚木 → 厚木街道 → 横浜港、(赤線)
    ※厚木街道は、更に、北、南の2ルート有り
  4. 八王子 → 七国峠 → 津久井 → 津久井道 → 八王子街道 → 横浜港、(紫線→黒線)
  5. 椚田 → 大戸 → 津久井 → 津久井道 → 八王子街道 → 横浜港、(青線→黒線)
  6. 八王子 → 長沼峠(甲山峠[野猿峠]) → 小野路 → 日野往還 → 神奈川往還 → 横浜港、(オレンジ線→茶色線)
    ※1~5は一般に言われているルートで、6は私が迅速測図からこれもそうだろうと思っているルートです。



と、言うことで、暫く楽しめそうです。

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迅速測図(明治13~19年、1880~1886)で、絹の道周辺の桑畑を調べ、現代地図に緑ポイントを打ってみました。

下記迅速測図を例にご説明しますと、下記は町田市小山町、相模原市小山の辺り(今は町田市と相模原市、これは武蔵国と相模国でもあるんですが、に、分かれてしまってますが、嘗ては1つの地域だったことが、"小山" という地名で分かりますね。その辺りのことは過去書いてます。)ですが、緑ポイントを見ていただくと、"桑", "畑及桑", "桑及畑" というように書いてありますね。

単に文字だけが書いてある所と、一帯を薄緑で塗りたくっている所があり、恐らく塗りたくっている所はその通り一面桑畑なんだと思いますが、そうやって迅速測図で桑を確認できた所を現代地図に緑ポイントと緑のポリゴンを打ってみたのです。

小山付近の迅速測図

改めて現代地図をご覧いただくと、絹の道沿いに、明治13~19年当時、桑畑が営まれていたことが分かります。

特に盛んだったのは、相模原市田名、上溝、下溝、上依知、大和市、町田市原町田、鶴間だということが分かります。

逆に、八王子から橋本・町田にかけて、長津田・鶴間・三ツ境から横浜にかけて、それから座間の辺りは全く桑畑がありませんね。

これはやはり迅速測図を見ると分かるんですが、山や河岸段丘の崖なんですね、桑畑が無い所は。また、川沿いは田圃となっていて、山ではなく、且つ、川周りでもない所が畑になっていて、その一部が桑畑になっていることが分かります。

(迅速測図は歴史的農業環境閲覧システムからKMLを頂いていますが、正に当時の農業環境が手に取るように分かります。こういう使い方をするのが正解なんですね。)

・・・と、思っていたんですが、今昔マップで1894年(明治18年)~1909年(明治42年)の状況を見てみたら、そんな甘いもんじゃなかったことが分かりました。

同じエリアの今昔マップ

アルファベットの大文字の、"Y" と、"L" を組み合わせたような地図記号が桑畑です。

一目瞭然、境川と相模川の間は一面、一面一面、いやぁもう本当に一面桑畑です。

是非、今昔マップに直接アクセスして頂き全貌を見ていただければと思いますが、迅速測図の1886年から、今昔マップの1894までのたった8年の間に、これ程までに桑畑が広がったのだなと感心させられますし、つまりはこの8年の間にシルクの海外輸出が本当に盛んになったんだなということが分かります。

いやぁ、スゴイです。

ベアトの、"横浜の近代遺産" から、"横浜周辺外国人遊歩区域図" です。左上に八王子、その南に橋本、黄色の道を辿ると原町田を通り横浜に行っています。これは私の地図でいう黒線ルートですね。その南に東西の黄色に塗られた道がありますがこちらは厚木街道でしょう。これら黄色い道の周囲に、"Mulberry District"と書かれていますがこれが桑畑です。因みに当時横浜の居留区に住む外国人はこの地図に示すエリアで乗馬ツーリングを楽しんでいたようです。どこに行っても自国の文化をやり通すアングロサクソンですね。

最初に開港となった横浜で外国人に生糸を販売したのは1859年だそうです。

以降、約80年間、生糸は日本の輸出トップを占め、更にそれは、全世界の生糸市場の8割を占めていて、その殆どが横浜から出荷されたということですから、本当にスゴかったんだと思います。

と、言うことで、桑が当時のこの辺りの人達にとってどれほど重要なものだったか分かりましたので、それを頭に入れながら、exploreしたいと思います。実走です。

今回は本道とも言える黒線を行きましょう!

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まずは打越弁財天を目指します。

打越弁財天、天正年間ですから1573~1591年に創建されました。

弁才天は仏教の守護神たる天部の内の一つで、ヒンズー教の女神であるサラスヴァティが、仏教に取り込まれる過程で弁才天となりました。

ヒンズー教時代のサラスヴァティは川の名前でもあり、仏教に取り込まれ弁才天となった後も、経典に、『川辺に住む。』とあることから、水神と習合していったと思われます。

蛇行して流れる川は龍や蛇と例えられ、水害は龍や蛇が暴れていると解釈されて、水神は、龍や蛇と習合していきます。

ですから、神社でも祀られていますし、お寺でもそうです。

この打越弁財天は、梅洞寺の塔中だった輝西軒内に建てられた弁才天でしたから、お寺系ですね。

だから鳥居はありません。

鼠は繭を食べます。蛇はその鼠を食べてくれるので、弁才天は養蚕農家から信仰されていました。

特にこの打越弁財天は篤く信仰され、巳年の秘仏弁才天御開帳の際は、数千人の参拝者で賑わったと言います。

打越弁財天の絵馬、白蛇ですね。

あの桑畑の広がり方からすれば頷けますね。

奥の院の弁天様、迅速測図から、元はここが、この祠が打越弁財天そのものだったと思われます。

写真中央に池、その左の山頂に鳥居マーク、ここが上記写真の祠です。

さて、石橋入緑地を経由して大塚山に登ります。

大塚山全景

道了堂跡、1873年に、鑓水商人達の手によって永泉寺の別院として開山

今も残る当時のままの絹の道、広さ、石が敷き詰められている点、これらのことから、この道が当時如何に重要だったのかが分かります。

下界に下りたら絹の道資料館です。ここは鑓水商人八木下要右衛門の住宅跡地に建っています。この石垣は当時のもの。

我がグラベルクロスと石垣と絹の道

そのまま絹の道を進むと大栗川を渡りますがそこには御殿橋道標が。

北面に、"此方八王子道", 西は、"此方はし本津久井大山", 東は、"此方はら町田神奈川ふじさわ" と、彫られている。横浜へは原町田を経由するのでここは東へ。あるいは津久井も相当な生産量を誇ったから津久井に寄るなら西へ、ということでしょう。

元は橋を渡った向こうにありました。

更に進み、次の尾根越えの手前に小泉家屋敷です。屋根を見てください。屋根の上にもう1つ屋根があるのは通気口の為で、屋根裏にお蚕様の部屋があった証拠です。典型的な多摩の養蚕農家屋敷ですね。

小泉家屋敷

御殿橋を渡らずに東へ。永泉寺です。1573年開山、本堂は、鑓水商人八木下要右衛門の屋敷だったものを移築しています。

永泉寺

続きます。少し戻り子ノ神谷戸に入り、諏訪神社を訪れます。

この神社は諏訪神社なんですが、元々は子ノ権現で、この子ノ権現が鑓水の総鎮守でした。

子の権現の旧本殿

明治9年(1876)に、大芦谷戸と日影谷戸の鎮守だった諏訪神社、厳耕寺谷戸の鎮守だった八幡神社を合祀、この時、迎え入れる子ノ権現に棟札が無く、諏訪神社には棟札があった関係で、諏訪神社の名前で登記したとのことです。

この鑓水村総鎮守、子ノ権現の創建年は詳らかならずですが、新本殿(上記写真は旧本殿)が1792年の建立とのことですから、その前の創建ということになります。

一説には北条氏家臣大堂小太郎が1504年創建という話もあるようです。

この大堂小太郎という人物はネットで探し切れなかったんですが、1504年となると初代北条早雲ということになりますね。

早雲が小田原城を奪取したのが1495年ですから、時代的にも合います。

子ノ権現・子ノ神は、主に関東と伊豆に分布していて、これが北条氏の勢力圏と一致することや、初代北条早雲の生まれが子年であることから、子ノ神は北条氏が進出の度にその地に持ち込んだという説もあるそうです。

さて、ここは子ノ神ではなく子ノ権現なんですね。

子ノ神は、そもそもどういう神かは分かりませんが、結果的に大国主大神と習合しているケースが多いです。神話で鼠は大国主大神を救いますね。そこから大国主大神の眷属というように捉えられています。

一方、子ノ権現は、天長9年(832)ですから子の年の、子の月、子の日、子の刻に生まれた子ノ聖という天台宗の僧のことを指します。後に崇め祀られ、飯能の天龍寺が総本山的な位置付けとなっております。

子ノ権現旧本殿を見ると、金属製の草鞋が奉納されています。

画面左上と右下に。右下は一足です。

ここ鑓水の諏訪神社は、子ノ神ではなく子ノ権現であることと、草鞋とを掛け合わせると、天龍寺との関係が深いのではないかと推測します。

地理的に近くはないですが遠くもなく、北に山を幾つか越え多摩川を遡れば青梅に至り、青梅と飯能は一山越えますが交流があったようですし、この鑓水の諏訪神社から南に一尾根越えた町田にも実は子ノ神社があり、そこは子ノ聖、つまり、子ノ権現を祀っています。

八王子には関東近県の生糸が集積しました。天龍寺がある飯能もそうです。なので、天龍寺の勢力は、この絹の道を通ってこの辺りにも進出していたのかもしれません。

と、いうことで、ここ鑓水の子ノ権現は、北条氏、あるいは天龍寺の関係で、まずは子ノ権現として創建されたのではないでしょうか。

その後、由木の民俗には、

"神社の隅には石の色が変わるという蚕種石もあった。"

と、紹介されています。

また、境内の石灯籠を見ると、先程も出てきた鑓水商人の大塚徳左衛門、八木下要右衛門からの奉納が確認できます。

台座を見て下さい。こちらは大塚徳左衛門。

こちらは八木下要右衛門

更に、境内社には蚕影神社もありました。

境内社の覆殿があり、その中の1つが蚕影神社

と、いうことで、養蚕関係者から信仰される神社となっていったんだと思います。

が、何故、子ノ神、あるいは子ノ権現が養蚕関係者から信仰される存在となったのか?

子は鼠ですね。

打越弁財天は鼠を食べる蛇を信仰してましたが???

解釈するに、子ノ聖 → 子ノ神 → 鼠となり、鼠に対して、"どうか繭を食べないで下さい。", という方向性の信仰なのではないか。

あるいは、子ノ聖 → 子ノ神 → 大国主命 = 蛇ということでしょうか?!

いやぁ、拘ると色々と出てきて長くなってしまいます。

先を行きましょう。

町田街道に出るにはもう一山、峠を越えなければなりません。

その地は嘗て、"浜見場" と、呼ばれました。

小山田入り公園の浜見場があった山

この高台からその名の通り横浜が見えたと言うことなんですが、さぁ行くぞと言う意味だけではなく、ここで横浜と通信していたようなんですね。

生糸の価格はその時その時によって大幅に変わります。高い時に持って行けば高く売れる。だから、それが今なのか、そういったことを狼煙を使ってやり取りしていたのではないか、と、言われているそうです。

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如何でしたでしょうか。

生糸のおかげで日清・日露戦争に勝ち、列強の仲間入りしたとさえ言われていますが、その痕跡が、チャリで行ける範囲に、ここまで色濃く残っているとは。

皆様も是非、訪れてみて下さい。(何ならご案内します。)

ではまた

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