2019年10月28日月曜日

武蔵国・相模国の古代官道シリーズの整理(Link集)

武蔵国の古代官道シリーズを整理したいと思います。
  1. 武蔵国
    1. 771年より前
      東山道武蔵路
    2. 771年〜延喜式(927年)まで
      1. 相模国夷参駅〜武蔵国国府
      2. 武蔵国国府〜武蔵国豊島駅
        1. 杉並区天沼ルート
        2. 下高井戸ルート
        3. ふじ大山道ルート
      3. 武蔵国豊島駅〜下総国井上駅(記事)
        同地図
    3. 延喜式(927年)〜
      1. 浅草
      2. 品川
      3. 武蔵国店屋駅~相模国浜田駅
      4. 武蔵国大井駅~武蔵国店屋駅
    4. 郡衙道
      1. 久良岐郡衙~武蔵国府
      2. 都築郡衙~武蔵国府
      3. 橘樹郡衙~武蔵国府
  2. 相模国
      1. 相模国鎌倉郡三浦郡の古代東海道
        1. 六浦ルート
        2. 走水ルート
          続き
        3. 船越ルート
          続き
        4. やまなみルート
      2. 相模国坂本駅〜相模国国府
        1. 南ルート
        2. 北ルート
          1. 松田惣領~千村
          2. 善波峠
      3. 相模国府~武蔵国丸子の渡し
        1. 中原街道ルート
もう制覇しましたね。
いや、特に古い古代官道は、広くて直線ですから〜東山道武蔵路の国分寺市遺構のように〜そんな道は、上に挙げた道ではごく一部だけで、その一部以外の部分は、単に、歴史的農業環境閲覧システムの迅速測図にある古道で繋いだだけなんですが、でも、出来ることはやった感じでしょうか。

一番古い記事は1-2-3で2010/5ですよ。もう、こんなマニアなことを9年以上続けてます。飽きずに。

まぁでも、この趣味が、私の人生に彩りを加えてくれたことは確かです。

実生活でも役に立ちました。今の家は武蔵国府から、江戸湊への古道沿いに建てましたから。尾根道なので、先日のような台風でも、水害の心配は一切ありません。

次は千葉かな!

2019年10月2日水曜日

延喜式後の武蔵国の古代東海道、品川

このシリーズの前回は、浅草をご紹介しました。

浅草というと浅草寺ですが、浅草寺より前、595年に、待乳山聖天は開創の歴史があります。この595年というのは飛鳥寺や法隆寺と同じくらいの古さ。浅草は、浅草寺だけじゃないんです。

浅草の辺りには、隅田川を始め、幾つもの川が流れ込んでいます。川は土砂を運びます。土砂は、両岸に自然堤防を作り、沖には島を作ります。今でも、待乳山、柳島、浮島などの地名が残ってます。

そういった所に、出雲系や秦氏、大和王権勢力が海を船でやってきて、土着し、寺社を作ったんです。浅草寺も、大和の檜前氏、土師氏が開いています。

正に、"江戸湊"だったんですね。

こうして古くから開かれていた浅草。源頼義・義家親子も、前九年か後三年か、行きか帰りか分かりませんが、この地を通った伝承が多く残り、浅草が延喜式時の古代東海道であったことを証明しています。

さて今回は、京都から見るとその浅草の手前、品川をexplorerしたいと思います。

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現代の地図

この赤い線と青い線は両方共延喜式時の古代東海道です。はっきりとしてはいないんですが、赤の方が古いようです。

都である京都から来ると、多摩川を丸子の渡しで渡り、画面右上の紫マーカー、これが大井駅なんですが、そこに向かいます。

だったら、ど真ん中を、古代官道らしく、ちょうど、新幹線の線路がそのど真ん中になりますが、そこを通れば良いと思うのですが、遠回りしてますよね。

何故か

地形図

地形図を見ると一目瞭然です。ど真ん中を突っ切ると、山あり谷ありが多いんですね。

これが律令全盛期だったら、これぞ古代官道ということで、山は切り通し、谷は埋め、wide & straightで行ったんでしょうが、延喜式の頃になると律令も廃れてきて、そういった土木工事は難しかったんでしょう。

さて、赤の、古い方の道を行きます。

長原の駅の辺りからR1までは実に、実に真っ直ぐな道で、古代官道らしさを感じさせます。

長原駅辺りの真っ直ぐな道

これだけ真っ直ぐなんですが、実に上手いこと谷を避けきれいに尾根に乗っているんです。

南側、朋優学園辺り。にしても雲が秋ですね。
北側、同地区

真っ直ぐな道の終点が、大井駅となります。ここは新しい方の東海道との交点でもあります。

光福寺、大井駅推定地。延暦元年(782)11月、顕教房栄順律師が天台宗神宮寺として開創。それにしても見事な大銀杏です。江戸時代までは目の前の江戸湾航行の際の目印だったそうです。

その北隣には、栄順繋がりの西光寺があります。

西光寺、口伝では開創は天徳2年(958), 寺伝では弘安9年(1286)3月18日天台宗の栄順律師により建立と伝えられます。光福寺の栄順は782年です。こちら西光寺は1286年ということで、時代が大きくずれるので同一人物ではない、あるいは話がごちゃついてしまっているのかもしれないですが。

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江戸時代の品川宿は、賑わっていたのは目黒川を中心としたエリアでしたが、平安期までの寺社分布を見ると、むしろ、大井駅から青物横丁の辺りまでに集中していることが分かります。

※zoom upして、品川付近をご確認ください。

大井駅に近い順で、
  • 来福寺、990年
  • 常行寺、850年
  • 寄木神社、日本武尊伝承(〜43年)
  • 品川寺、806〜810年
と、なります。この先(北)は平安期以前の寺社はありません。
※荏原神社がありますが、今の荏原神社は環座したもので平安期はここには無かったんです。

これ何でなんでしょうねと考えると、やはり、大井が始まりであって、その大井が発展、拡張していった結果だということになりそうです。実際、
  • 光福寺と西光寺は栄順繋がりで、光福寺から西光寺に発展した可能性がある。
  • 来迎院と鹿島神社は、常行寺尊栄による開創
と、このエリア内で拡張した形跡もあります。

これらの寺社は、目黒川と立会川に削られなかった台地と、目黒川が運んだ土砂による微高地に建っています。

浅草に似てますね。

地形図、光福寺~品川寺

来福寺
品川寺、空海の開山
来迎院
鹿島神社

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こうなると品川は大井駅から始まった、と、考えてしまいますが、そうでしょうか。

そんなことありません。

貴船神社

貴船神社は709年創建です。これまで取り上げた寺社の中で一番古い。

藤原伊勢人が、大和国の丹生川上神社より高龗神(たかおかみのかみ)を勧請して創建されました。

"龗"は、"龍"の古語で、龍 = 水神です。だから、鎮座されている場所はここです。

地形図、貴船神社

地形図の通り、貴船神社は目黒川河口部の岬に位置しています。

だから、先端部に行くとこのようになっています。

岬先端部から東方面の眺望、雲が秋ですな

大和国の丹生川上神社から水神を勧請したということから、浅草のように、大和王権勢力が、船で海からやってきて、この目黒川河口の岬に取り付き、土着し、地元の水神様を祀ったと思われます。

その後、西光寺に環座、荏原神社に環座し今に至ります。

品川は、この目黒川河口部の岬、貴船神社から始まり、その後、東海道、大井駅が成立し、更にその後、来福寺、常行寺、品川寺と、拡張していったと言えそうです。

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でも、水神様を祀るなら、来福寺の岬の方が良いようにも思いますが、何故、奥まった位置だったんでしょうね。

空想を膨らませるに、要するに湾内ですよね、こっちは、それも大きな。加えて、今戸越銀座商店街になっている真っ直ぐな川、これは、ドックにちょうど良い感じです。

来福寺の辺りも湾ですが規模が小さい。

だから、奥にしたのではないでしょうか。
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しかし、品川からもう少し視点を広げると、貴船神社より古い、あるいは同等の古さの寺社が確認できます。
  • 寄木神社、日本武尊(〜43)
  • 磐井神社、582-585
  • 品川貴船神社(荏原神社), 709
  • 稗田神社、709, 行基、紀元前29-70
  • 古川薬師、667-749, 行基
  • 光明寺、667-749, 行基、空海
  • 光福寺、782, 栄順
  • 品川寺、806-810, 空海
  • 常行寺、850, 円仁
  • 西光寺、958, 栄順
  • 来迎院、鹿島神社、969, 常行寺尊栄
  • 来福寺、990, 智弁
赤字にした4寺社です。

磐井神社
磐井の井戸
古川薬師
光明寺

でもどうも腑に落ちないんです。

地形図、多摩川河口部から品川まで

光明寺は、岬の先端に位置していて、納得できるんですが、その他3寺社は、海の中じゃないんですかね?1300年前に、本当に、ここに位置していたのでしょうか???

調べてみると稗田神社は円墳があったようなので、大田区蒲田、西蒲田、千鳥、多摩川、下丸子、矢口と言った、低地エリアの古墳を調べてみました。

すると、

青の家マーカーが古墳

稗田神社の周りに、稗田神社も含めて4つ、古墳が密集していることが分かりました。

何故ここに集中しているか、ですが、呑川ではないでしょうか。古墳は呑川の両岸に集中しています。

そうした目で見てみると、この辺りは多摩川と呑川、内川が運ぶ土砂がぶつかる所。古墳時代には既に微高地が出来上がっていたのではないでしょうか。標高を見てみても、5m前後あるんですね。

古川薬師の辺りも5m前後あり、多摩川の土砂を運ぶパワーがすごかったんですね。

こうなると残るは磐井神社ですが、磐井神社は、"磐(岩)"の所にある"井(井戸)"から来ているでしょうから、ここには清水の湧き出る磐座があり、磐座崇拝となると、太古の昔から崇敬されていた可能性があります。

万葉集でも、荒藺の崎の笠島と歌われているということですが、、、でも、しつこいようですが、ここに、岬と島が本当にあったんでしょうかね?!誰か、地質調査して欲しいな。

それから稗田神社、光明寺、古川薬師は行基ですね。これも何かあるような気がしてならないんです。

大磯、渡来の道でご紹介した小野神社と日向薬師もそうでしたが、近接する寺社では、縁起がごちゃまぜになるケースがあります。
  • 小野神社、716年に行基が薬師如来の像を奉安
  • 日向薬師、行基が薬師如来を彫ろうとしていたが良い材料が見つからなかった所に、高麗若光が良材を提供し、無事、薬師如来を納めた。
古川薬師と稗田神社はどうでしょうか。
  • 稗田神社、709年に、行基が、天照、八幡、春日の三神の像を祀る
  • 古川薬師、行基が開創、薬師、阿弥陀、釈迦の、三如来を祀る
似てますね。混ざったかな?!

光明寺ですが、"光明寺 行基"で検索すると、たくさん出て来ますね。
  • 兵庫県美方郡の光明寺、行基開基伝承
  • 山口県美祢市の光明寺、大日如来は行基作の伝承
  • 福岡県筑後市の光明寺、千手観音は行基作
  • 三重県四日市市の光明寺、行基開創伝承
  • 浜松市天竜区の光明寺、行基開創、三満虚蔵菩薩は行基作
  • 徳島県板野郡の金泉寺、元の名を金光明寺と言い、行基開創
  • 島根県出雲市の光明寺、お不動さんは行基作
と、切が無いのでこの辺にしますが、とにかく多い。

これは伝承ではなく史実ですが、東大寺は元の名を大和金光明寺と言い、言わずとしれた行基開創ですから、この影響が大きいのだと思います。

行基の行脚の中心は西なので、大田区の光明寺を含む、東国の行基伝承は、こういった西の伝承の影響と思われます。

光明寺の行基伝承はこのようなこととして、空海については、詳しい伝承が残っていて、信憑性が高いかなと思ってます。

寺伝では天平年間(729~749)に行基(668~749)が開創し、のち弘仁年間(810~824)に、空海(774~835)が再興して、関東高野山宝幢院と称し、真言宗の七堂伽藍が整っていたと伝えられている。
その後、寛喜年間(1229~1232)になって、浄土宗西山派の祖、善慧証空(1177~1247)が再興して浄土宗にかわり、関東弘通念仏最初の道場となり、大金山宝幢院光明寺と称するようになった。
3世行観覚融は、空海の興した密教の道場が浄土宗にかわったため、消滅してしまうことを惜しみ、別に高畑(西六郷)に真言宗の一寺を建立し、同じく大金山宝幢院光明寺と命名し、前者は寺号を、後者は院号を常時称することとした。

と、なると、品川寺の空海伝承も真実味を帯びてきますね。

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武蔵国の古代東海道シリーズですが、神奈川県や千葉県は行ってませんが、過去、行ったことがあるのでひとまずこれにて完了としたいと思います。

2019年9月21日土曜日

深大寺から奥多摩・青梅へ 3, 深大寺エリア、稲城と青梅の関係1、渡来の道

このシリーズの前回は、府中崖線を立川から青梅までexploreしました。

深大寺エリアにいた高句麗渡来人の集団は、基本、多摩川を遡ったと思われますが、陸路で行った班もいたろうし、陸路の場合は府中崖線を行ったのではないかと推測したのです。

崖上は見晴らしも効いてriskを早く察知できるし、崖下に下りれば水が確保できる。だから縄文の時代から生活の場で、縄文・弥生遺跡、古墳、寺社が多く見られます。

そういった生活の場を繋ぎ自然発生的に発展していったのが、今回の陸路だったのではないか、ということでした。

前回で深大寺エリアから青梅まで完走したわけですが、今回は、深大寺エリア、稲城と青梅の式内社を巡る奇妙な関係を見ていき、実走としては、再びの深大寺エリアと稲城をexploreしたいと思います。

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まずはこの地図を見て下さい。



マーカの説明ですが、青が青渭神社、赤が虎狛(柏)神社、黒が大麻止乃豆乃天神社、緑が穴澤天神社です。※紫、黃は後で

4社とも、927年編纂の延喜式神明帳に記載されている古社で、且つ、所謂、"式内社"ですが、何故、複数あるのかというと、何れも確証が無く、推定の域を出ない、所謂、"論社"だからなんです。

そんな中、私が偶然とは思えないなと非常に興味深く思っているのが、その立地なんですね。整理すると下表の通り。

神社深大寺
エリア
稲城青梅
(むあきる野、奥多摩)
青渭神社
虎狛()神社
大麻止乃豆乃天神社
穴澤天神社

深大寺エリア、稲城、青梅に、きれーーーいに集中してます。

4社共、武蔵国多摩郡にあるんですが、多摩郡は今で言うと世田谷を東西半分にした線から西側東京都の全部ですから、もっとバラけて良いはずなんですが、何故、この3エリアなのか???

この内のどれか1つが本物だということになるんですが、逆に、こうは考えられませんか?

最初の地でその神社が出来て、人の移住と共に、元の場所にあった神社を持って行った(勧請した)と?

深大寺エリア⇔稲城⇔青梅の3エリアで人々の移動があり、信仰の対象も移動したなら、どれかが本物というより、どれも本物で移動しただけということになります。


今回の整理から、深大寺エリア→青梅、深大寺エリア→稲城→青梅、稲城→青梅の3パターンがあったのではないか、と、ロマン含め、思っているわけなんです。

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と、いうことで実走です。まずは、もう何度もお邪魔している深大寺エリアの青渭神社です。

深大寺エリアの青渭神社

青渭神社は、珍しく、ほぼ東と言っても良いくらい、東南東を向いています。

何故か?

その先には今は東京都立農業高等学校神代農場がありますが、ここは小規模な谷戸となっていて窪地となっています。今は湧水がチョロチョロと流れているだけですが、嘗ては、湧水の量も多く、満々と水を貯めていた大池だったんです。青渭神社はその谷戸頭に鎮座されてますから、御神体はこの水なわけですね。だから、今設定されている御祭神も記紀に記されている水神様です。

大池跡。少し分かりづらいですが、画面左下の縦の黒い線が、湧水の流れで、撮影地は青渭神社前の道路ですが、ここからストンと落ち込み、大きな窪地になっていることが分かります。

深大寺エリアの青渭神社周辺陰影図。画面左上から右下にかけての崖が国分寺崖線。その南、画面半分まで国分寺崖線に沿っているのが野川。国分寺崖線の上だから武蔵野台地の湧水点から野川の支流となる谷戸が幾つかある。青マーカが青渭神社。その谷戸の1つの谷戸頭に青渭神社があることが良く分かる。因みにその直ぐ西の谷戸は深大寺。

この青渭神社が、人々の移動と共に、稲城に移動したのではないか。あるいは、深大寺エリアが拡張して多摩川対岸の稲城に至ったのではないか、と、いうように想定しているのです。

次は虎狛神社です。

虎狛神社

色々と説はあるのですが、私はこの神社は大磯からこの地にいしてきた高句麗渡来人たちが創建したと思っていて、元は、"高麗(狛)神社"で、後に、深大寺開創の満功の祖母、"虎"の名を合わせて、読みは、"こまじんじゃ"のまま、表記を、"虎狛神社"としたのだと思います。

ですので何を祀っているのかと言えば、満功の祖母、虎です。

それが後の世で、記紀の女神の大歳御祖神になったのではないか、と思っています。

この虎狛神社は、深大寺エリアから直接多摩川を遡り、あるいは府中崖線を行き、青梅に向かった高句麗渡来人たちと共に、青梅に移動したのです。

青梅の虎柏神社も祭神は大歳御祖神です。

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稲城に移動します。

稲城の青渭神社

稲城の青渭神社も大きな沼がありそれがご神体で、御祭神は水神様になっていますが、立地は基本的に多摩川の氾濫原なんですが、加えて、三沢川とその支流の扇状地の扇の要の位置でもあり、水量も多く、沼が形成されたんでしょう。

深大寺にいた高句麗渡来人たちが、深大寺エリアと同じくここ稲城でも沼を見つけ、青渭神社にしたのですね。

真ん中の青マーカが稲城の青渭神社。右上には多摩川が見えている。青渭神社の位置は三沢川とその支流が作る扇状地の扇の要の位置でもあるということが分かる。

青渭神社は、この後、高句麗渡来人の移動と共に、青梅に移動します。

青梅の青渭神社の御祭神は大国主ですが、これは大国主が水神だからで、名の起こりは奥宮付近の枯れることのない霊泉と言われる真名井、つまり、水です。

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さて、ここ稲城には、深大寺エリアには無い、穴澤天神社と大麻止乃豆乃天神社があります。

高句麗渡来人たちが深大寺エリアから稲城に拡張した後、ここ稲城で新たに構築した信仰なのか、あるいは、元々ここにあり、高句麗渡来人たちが土着していく中で、それを信仰していくようになったのか?

穴澤天神社

穴澤天神社の御祭神は少彦名命ですが、本来の御神体は、穴澤天神社の名の起こりである神社下の崖横穴からの湧水(穴澤), つまり、水なのではないかと思ってます。

江戸名所図会、穴澤天神社。穴澤天神社よりむしろ、巌窟と沢のほうが強調された描き方となっています。

今の、穴澤。江戸名所図会の穴澤は崩れてしまいこれは2代目。
本殿裏の谷戸にある横穴

穴澤天神社はあきる野市深沢と、青梅市の先、奥多摩町にありますが、あきる野市深沢の方は、祭神が、
  • 高皇産霊神
  • 神皇産霊神
  • 伊奘諾神
  • 少彦名神
  • 事解之男神
  • 速玉男神
  • 大山祇神
  • 豊受姫命
で、一方、風土記には、深沢村の神社は、
  • 稲荷社
  • 熊野社
  • 白髭社
  • 山神社
  • 第六天社
があったそうで、熊野が速玉と事解と伊弉諾、山の神は大山祇なんだと思いますが、それ以外の御祭神は、少彦名を含め、出自が不明な状態で、地名の棚澤から穴澤となったに過ぎないという通説の1つがやはり有力なのではないか、と思わせます。

一方、羽黒三田神社の方は、出雲の人、土師連行基が、東国に下り、御嶽山で修行中、神のお告げがあり、この地に高皇産霊神と少彦名を祀り穴澤天神社としたという伝承があって、社地南の山麓には崖横穴とそこから御神水が流れ、穴澤天神の名の起こりとなったという伝承もあり、稲城の穴澤天神社との共通点が見られます。

次は大麻止乃豆乃天神社です。

大麻止乃豆乃天神社

何て読むかも分からない、八幡とか熊野とか稲荷みたいなメジャーな名前ではないですが、これは、"おおまとのつのてんじんしゃ"と読みます。旧社地は南多摩水再生センターの辺りでした。

祭神は櫛真智命。記紀にも系図にも登場しない、ただ、延喜式神明帳に、大和国天野香久山神社の祭神として記載されているだけの、謎多き神様です。ト占の神様と言われています。

稲城の大麻止乃豆乃天神社は、深大寺エリアから高句麗渡来人たちが移動してきた時には既に存在しそれを信仰したのか、あるいは高句麗渡来人たちが創建したのか?

恐らく前者でしょう。この神社は、既述の状況から、大和国天野香久山から来たのは間違い無いでしょう。

延喜式によれば、ト占を仕事とする人たちを占部といい、占部は対馬、壱岐、伊豆の三国から選ぶそうで、更に、下図は、ト占遺跡の分布図です。対馬の先には半島がありますからそれも加えると、モノの見事に、

半島→対馬→壱岐→関門海峡→瀬戸内海→大和国→紀伊半島→伊豆→三浦→多摩川→稲城→青梅

という、大和国から稲城→青梅の流れと、更に遡って半島からの流れが見えてきます。

史料・神事にみる卜占の手法より

尚、青梅の大麻止乃豆乃天神社は武蔵御嶽神社ですが、御祭神は稲城と同じく櫛真智命です。

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さて、整理してみましょう。

神社御祭神
御神体
深大寺
エリア
稲城青梅
青渭神社御祭神青渭大神(水神)青渭大神(水神)大国主命(水神)
御神体大池(水)大沼(水)真名井(水)
虎狛(柏)神社御祭神大歳御祖神(N/A)大歳御祖神
御神体深大寺開創満功上人祖母虎(N/A)霊石
大麻止乃豆乃天神社御祭神(N/A)櫛真智神櫛真智神
御神体(N/A)(N/A)(N/A)
穴澤天神社御祭神(N/A)少彦名命高皇産霊神、少彦名命
御神体(N/A)穴澤穴澤

と、言うことで、祭神が同じなのはある意味当たり前なんですが(じゃないと論社になってませんから), 多摩川や府中崖線で繋がっているし、共通点も多く、深大寺エリア、稲城、青梅が、単に地理的なだけでなく、文化的にも繋がっていそうなことは分かりました。



では、稲城はどうでしょうか?

調べてみると、決定的な伝承が見つかりました。

少し分かりづらいですが、画面真ん中の土盛りが鐙塚です。上記地図の紫マーカーです。

この写真の鐙塚がある周辺は、鐙野や鐙原と呼ばれていて、高句麗渡来人の伝承があります。

鐙野

新編武蔵風土記稿の高麗郡の総説に、武蔵鐙というものがあり、それは高麗人(高句麗人)が作ったものだという記事があります。

武蔵名勝図会では、多摩郡坂浜村の項で、ここは武蔵鐙を作った者たちが住んでいた所だとの説明があり、武蔵鐙は高麗人が作りはじめたから、ここに高麗人(高句麗人)が住んでいたんだろうという記述があります。

同じく武蔵名所図会の鐙野の項では、同じような内容で、ここは昔鐙作りの者たちが住んだ所で、だから鐙野というのだが、その鐙は武蔵鐙に違いなく、鐙師は高麗人(高句麗人)が先祖だと説明しています。

繋がりましたね。稲城、深大寺エリア、青梅が。高麗(高句麗)で。

更に、稲城と言えば取り上げざるを得ないのがこの妙見寺、妙見尊です。

妙見寺、上記地図黄マーカー
妙見尊、上記地図黄マーカー

妙見尊の蛇より行事の蛇

妙見と言えば、大磯から寸分の狂い無く真北である高麗郡に、高句麗知来人の集団を引き連れ大移動した、高麗郡の郡司となった高句麗の王、高麗"玄武"若光を思い出します。

稲城の妙見は、高麗"玄武"若光の痕跡でしょうか・・・

次回は青梅です。

2019年9月3日火曜日

品川、名所江戸百景

広重は名所江戸百景で品川を4景描いてます。
  • 品川御殿やま、春、28景
  • 月の岬、秋、82景
  • 品川すさき、秋、83景
  • 南品川鮫洲海岸、冬、109景
品川御殿やまは、ご存知の通り、暴れん坊将軍こと、八代将軍吉宗が、桜を植えて江戸庶民に開放してから桜の名所となりました。この絵の通りですね。

1858年
2019年、当時の場所だとただビルが写るだけなので、少し御殿山を登ったところで撮影

ん、、、でも、確かに桜は描かれてますが、どこか寂し気。御殿山に向かう道はグレーで、御殿山は削られ削られし、土も露になっているから、でしょうか。

実際、御殿山は削られました。その土はどこへ行ったかというと、お台場です。

品川御殿やまと台場、明治13年頃

因みに・・・今も台場は残ってるんです。現在の地図です。

2019年、きれいに残ってますね。黄色いピンを打ちましたが分かりづらいですかね?、ちょうど、北品川駅の右、"東品川"と、書いてあるエリアです。

その、台場付近を描いたのが、月の岬と品川すさきです。

月の岬、1858年
月の岬、2019年

品川すさき、1858年
品川すさき、2019年、分かりますか?, 画面中央の瓦屋根が洲崎弁天、利田神社です。なので手前の広めの歩道は目黒川ですね。

月の岬は、品川宿で一番繁盛していた妓楼、土蔵相模の一室からの江戸湾の風景と満月です。

に、しても、構図が天才的ですね。スゴイな。

その土蔵相模ですが、品川すさきの画面左下にも描かれています。

この2景は確かに連番なんですが、連作でもあるように思います。

俯瞰の構図が品川すさきで、土蔵相模にグーッとズームアップしていくと、月の岬の光景が写り出す、そんな感じです。

それからもう1つ。月の岬と品川すさきには台場が描かれてません。月の岬は構図的な面もあるかもしれませんが、品川すさきの洲崎弁天の向こうには、台場があってもおかしくありません。

にも関わらず、描かれていないのは、単に時期的な問題と思われます。ですので、描かれた順番としては、月の岬・品川すさき→品川御殿やま、なのだと思います。

1858年古地図、台場は描かれてない。ちょうど、この時に、広重が描いたのだと思う。

この3景はほぼ同じ場所で描かれてますが、月の岬と品川すさきは品川宿の賑わいで、品川御殿やまは、広重は何を描きたかったのかということを考えると、月の岬と品川すさきの品川宿の賑わいを対比で用いて、海外列強の侵略の脅威といった幕末情勢、長く続いた江戸という平和な時代の終わり、もっと言えば諸行無常、なのかもしれません。

この10年後、江戸が終わります。

南品川鮫洲海岸は、少し離れます。大森の辺り。



1858年
2019年、場所は少し違いますが、本当の場所だとただただビルを写すだけなので江戸当時の面影が残る唯一の場所、勝島運河です。

何故ここが名所かと言うと、画面の多くを占める海苔ですね。

生類憐れみの令が出た時、江戸と浅草中心部では漁が禁止となってしまいました。江戸の漁師は横浜や木更津に移住したらしいんですが、浅草漁師は、浅草で自然採取していた海苔の適地だと見て、多摩川河口の大森に移住したのです。

その後、浅草漁師は、大森で、海苔の養殖に成功します。大森は養殖海苔発祥の地なのです。だから名所だったんですね。

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そもそも品川は、武蔵国の国湊として大いに栄えた地域です。平安期以前の寺社を見ても、
  • 寄木神社、ヤマトタケル(〜西暦113年)伝説
  • 荏原神社、709年創建
  • 品川寺、806~810年開山
  • 常行寺、850年開山
  • 来福寺、990年開山
と、ヤマトタケルはちょっと、伝説色が濃いとして、最古参は荏原神社で、概ね、律令期の武蔵国成立、府中に国府が置かれて以降(710年以降)に歴史が始まっています。

荏原神社
品川寺

しかし、一点腑に落ちないことがあるんです。

地形図

マーカに説明を書いてないので分かりづらくて恐縮ですが、画面上やや右の黒が荏原神社、その西赤が貴船神社、荏原神社の下青が品川寺、その下グレーが寄木神社(旧地), その下緑が常行寺(旧地), その下青が来福寺です。
※それ以外の2つはここでは無視して良いです。

全体としては、目黒川と、その西にある2つの川の扇状地ですね。

各寺社の位置を個別に見ていくと、荏原神社以外は、微高地も含め、それなりに高いところ、大水の影響を受けにくい所にあります。

一番古い、よって陸地が最も後退していた時期に出来た荏原神社が、最も低い所に鎮座してます。

本当にここにあったのかな?!

と、調べてみたら、旧地は貴船神社ということでした。貴船神社と荏原神社はほぼ同じ由緒で、やはり元は同じ神社と思われます。

709年に、奈良の丹生川上神社から高龗神を勧請し、創建したということですが、丹生川上神社の祭神は罔象女神の神と書いてあります。違う神なのかなというとそうではなく、共に、水神です。

貴船神社の位置を見ると、扇状地が始まる岬の上にありますから、水神様としては好適地ですね。

平安期には、延喜式東海道が、正に貴船神社があった内陸の尾根部を通ってました。目黒川が運ぶ土砂によって陸地化が進むに連れ、生活域も徐々に海側にせり出していき、江戸期には品川を東海道が通り、品川宿ができ、広重が描くに至ったわけです。