2019年10月2日水曜日

延喜式後の武蔵国の古代東海道、品川

このシリーズの前回は、浅草をご紹介しました。

浅草というと浅草寺ですが、浅草寺より前、595年に、待乳山聖天は開創の歴史があります。この595年というのは飛鳥寺や法隆寺と同じくらいの古さ。浅草は、浅草寺だけじゃないんです。

浅草の辺りには、隅田川を始め、幾つもの川が流れ込んでいます。川は土砂を運びます。土砂は、両岸に自然堤防を作り、沖には島を作ります。今でも、待乳山、柳島、浮島などの地名が残ってます。

そういった所に、出雲系や秦氏、大和王権勢力が海を船でやってきて、土着し、寺社を作ったんです。浅草寺も、大和の檜前氏、土師氏が開いています。

正に、"江戸湊"だったんですね。

こうして古くから開かれていた浅草。源頼義・義家親子も、前九年か後三年か、行きか帰りか分かりませんが、この地を通った伝承が多く残り、浅草が延喜式時の古代東海道であったことを証明しています。

さて今回は、京都から見るとその浅草の手前、品川をexplorerしたいと思います。

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現代の地図

この赤い線と青い線は両方共延喜式時の古代東海道です。はっきりとしてはいないんですが、赤の方が古いようです。

都である京都から来ると、多摩川を丸子の渡しで渡り、画面右上の紫マーカー、これが大井駅なんですが、そこに向かいます。

だったら、ど真ん中を、古代官道らしく、ちょうど、新幹線の線路がそのど真ん中になりますが、そこを通れば良いと思うのですが、遠回りしてますよね。

何故か

地形図

地形図を見ると一目瞭然です。ど真ん中を突っ切ると、山あり谷ありが多いんですね。

これが律令全盛期だったら、これぞ古代官道ということで、山は切り通し、谷は埋め、wide & straightで行ったんでしょうが、延喜式の頃になると律令も廃れてきて、そういった土木工事は難しかったんでしょう。

さて、赤の、古い方の道を行きます。

長原の駅の辺りからR1までは実に、実に真っ直ぐな道で、古代官道らしさを感じさせます。

長原駅辺りの真っ直ぐな道

これだけ真っ直ぐなんですが、実に上手いこと谷を避けきれいに尾根に乗っているんです。

南側、朋優学園辺り。にしても雲が秋ですね。
北側、同地区

真っ直ぐな道の終点が、大井駅となります。ここは新しい方の東海道との交点でもあります。

光福寺、大井駅推定地。延暦元年(782)11月、顕教房栄順律師が天台宗神宮寺として開創。それにしても見事な大銀杏です。江戸時代までは目の前の江戸湾航行の際の目印だったそうです。

その北隣には、栄順繋がりの西光寺があります。

西光寺、口伝では開創は天徳2年(958), 寺伝では弘安9年(1286)3月18日天台宗の栄順律師により建立と伝えられます。光福寺の栄順は782年です。こちら西光寺は1286年ということで、時代が大きくずれるので同一人物ではない、あるいは話がごちゃついてしまっているのかもしれないですが。

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江戸時代の品川宿は、賑わっていたのは目黒川を中心としたエリアでしたが、平安期までの寺社分布を見ると、むしろ、大井駅から青物横丁の辺りまでに集中していることが分かります。

※zoom upして、品川付近をご確認ください。

大井駅に近い順で、
  • 来福寺、990年
  • 常行寺、850年
  • 寄木神社、日本武尊伝承(〜43年)
  • 品川寺、806〜810年
と、なります。この先(北)は平安期以前の寺社はありません。
※荏原神社がありますが、今の荏原神社は環座したもので平安期はここには無かったんです。

これ何でなんでしょうねと考えると、やはり、大井が始まりであって、その大井が発展、拡張していった結果だということになりそうです。実際、
  • 光福寺と西光寺は栄順繋がりで、光福寺から西光寺に発展した可能性がある。
  • 来迎院と鹿島神社は、常行寺尊栄による開創
と、このエリア内で拡張した形跡もあります。

これらの寺社は、目黒川と立会川に削られなかった台地と、目黒川が運んだ土砂による微高地に建っています。

浅草に似てますね。

地形図、光福寺~品川寺

来福寺
品川寺、空海の開山
来迎院
鹿島神社

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こうなると品川は大井駅から始まった、と、考えてしまいますが、そうでしょうか。

そんなことありません。

貴船神社

貴船神社は709年創建です。これまで取り上げた寺社の中で一番古い。

藤原伊勢人が、大和国の丹生川上神社より高龗神(たかおかみのかみ)を勧請して創建されました。

"龗"は、"龍"の古語で、龍 = 水神です。だから、鎮座されている場所はここです。

地形図、貴船神社

地形図の通り、貴船神社は目黒川河口部の岬に位置しています。

だから、先端部に行くとこのようになっています。

岬先端部から東方面の眺望、雲が秋ですな

大和国の丹生川上神社から水神を勧請したということから、浅草のように、大和王権勢力が、船で海からやってきて、この目黒川河口の岬に取り付き、土着し、地元の水神様を祀ったと思われます。

その後、西光寺に環座、荏原神社に環座し今に至ります。

品川は、この目黒川河口部の岬、貴船神社から始まり、その後、東海道、大井駅が成立し、更にその後、来福寺、常行寺、品川寺と、拡張していったと言えそうです。

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でも、水神様を祀るなら、来福寺の岬の方が良いようにも思いますが、何故、奥まった位置だったんでしょうね。

空想を膨らませるに、要するに湾内ですよね、こっちは、それも大きな。加えて、今戸越銀座商店街になっている真っ直ぐな川、これは、ドックにちょうど良い感じです。

来福寺の辺りも湾ですが規模が小さい。

だから、奥にしたのではないでしょうか。
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しかし、品川からもう少し視点を広げると、貴船神社より古い、あるいは同等の古さの寺社が確認できます。
  • 寄木神社、日本武尊(〜43)
  • 磐井神社、582-585
  • 品川貴船神社(荏原神社), 709
  • 稗田神社、709, 行基、紀元前29-70
  • 古川薬師、667-749, 行基
  • 光明寺、667-749, 行基、空海
  • 光福寺、782, 栄順
  • 品川寺、806-810, 空海
  • 常行寺、850, 円仁
  • 西光寺、958, 栄順
  • 来迎院、鹿島神社、969, 常行寺尊栄
  • 来福寺、990, 智弁
赤字にした4寺社です。

磐井神社
磐井の井戸
古川薬師
光明寺

でもどうも腑に落ちないんです。

地形図、多摩川河口部から品川まで

光明寺は、岬の先端に位置していて、納得できるんですが、その他3寺社は、海の中じゃないんですかね?1300年前に、本当に、ここに位置していたのでしょうか???

調べてみると稗田神社は円墳があったようなので、大田区蒲田、西蒲田、千鳥、多摩川、下丸子、矢口と言った、低地エリアの古墳を調べてみました。

すると、

青の家マーカーが古墳

稗田神社の周りに、稗田神社も含めて4つ、古墳が密集していることが分かりました。

何故ここに集中しているか、ですが、呑川ではないでしょうか。古墳は呑川の両岸に集中しています。

そうした目で見てみると、この辺りは多摩川と呑川、内川が運ぶ土砂がぶつかる所。古墳時代には既に微高地が出来上がっていたのではないでしょうか。標高を見てみても、5m前後あるんですね。

古川薬師の辺りも5m前後あり、多摩川の土砂を運ぶパワーがすごかったんですね。

こうなると残るは磐井神社ですが、磐井神社は、"磐(岩)"の所にある"井(井戸)"から来ているでしょうから、ここには清水の湧き出る磐座があり、磐座崇拝となると、太古の昔から崇敬されていた可能性があります。

万葉集でも、荒藺の崎の笠島と歌われているということですが、、、でも、しつこいようですが、ここに、岬と島が本当にあったんでしょうかね?!誰か、地質調査して欲しいな。

それから稗田神社、光明寺、古川薬師は行基ですね。これも何かあるような気がしてならないんです。

大磯、渡来の道でご紹介した小野神社と日向薬師もそうでしたが、近接する寺社では、縁起がごちゃまぜになるケースがあります。
  • 小野神社、716年に行基が薬師如来の像を奉安
  • 日向薬師、行基が薬師如来を彫ろうとしていたが良い材料が見つからなかった所に、高麗若光が良材を提供し、無事、薬師如来を納めた。
古川薬師と稗田神社はどうでしょうか。
  • 稗田神社、709年に、行基が、天照、八幡、春日の三神の像を祀る
  • 古川薬師、行基が開創、薬師、阿弥陀、釈迦の、三如来を祀る
似てますね。混ざったかな?!

光明寺ですが、"光明寺 行基"で検索すると、たくさん出て来ますね。
  • 兵庫県美方郡の光明寺、行基開基伝承
  • 山口県美祢市の光明寺、大日如来は行基作の伝承
  • 福岡県筑後市の光明寺、千手観音は行基作
  • 三重県四日市市の光明寺、行基開創伝承
  • 浜松市天竜区の光明寺、行基開創、三満虚蔵菩薩は行基作
  • 徳島県板野郡の金泉寺、元の名を金光明寺と言い、行基開創
  • 島根県出雲市の光明寺、お不動さんは行基作
と、切が無いのでこの辺にしますが、とにかく多い。

これは伝承ではなく史実ですが、東大寺は元の名を大和金光明寺と言い、言わずとしれた行基開創ですから、この影響が大きいのだと思います。

行基の行脚の中心は西なので、大田区の光明寺を含む、東国の行基伝承は、こういった西の伝承の影響と思われます。

光明寺の行基伝承はこのようなこととして、空海については、詳しい伝承が残っていて、信憑性が高いかなと思ってます。

寺伝では天平年間(729~749)に行基(668~749)が開創し、のち弘仁年間(810~824)に、空海(774~835)が再興して、関東高野山宝幢院と称し、真言宗の七堂伽藍が整っていたと伝えられている。
その後、寛喜年間(1229~1232)になって、浄土宗西山派の祖、善慧証空(1177~1247)が再興して浄土宗にかわり、関東弘通念仏最初の道場となり、大金山宝幢院光明寺と称するようになった。
3世行観覚融は、空海の興した密教の道場が浄土宗にかわったため、消滅してしまうことを惜しみ、別に高畑(西六郷)に真言宗の一寺を建立し、同じく大金山宝幢院光明寺と命名し、前者は寺号を、後者は院号を常時称することとした。

と、なると、品川寺の空海伝承も真実味を帯びてきますね。

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武蔵国の古代東海道シリーズですが、神奈川県や千葉県は行ってませんが、過去、行ったことがあるのでひとまずこれにて完了としたいと思います。

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