2019年5月27日月曜日

ふじ大山道ルート(異説), 延喜式前の武蔵国の古代東海道

前回前々回と、771年以降、且つ、延喜式前の、武蔵国の古代東海道の、定説と異説ルートをご紹介しましたが。

実走してみてつくづく思ったのが、渡河に伴うup & downです。整地された今でも厄介ですし、哲学堂公園の辺りを見ると、哲学堂公園の妙正寺川だけでなく、他の川も恐らく往時は崖だったのではないか、と、思うのです。

哲学堂公園内、妙正寺川の河岸段丘の崖

定説ルートは古寺社も多く、極めつけは天沼熊野神社の伝承ですが、

天沼熊野神社、すっきりとした佇まいでした。風格があるというか。

その点では良いのですが、でも、やはり、渡河に伴うup & downが気になるのです。

再掲、陰影図・全体。武蔵野台地は、神田川と、その支流である、善福寺川、桃園川、妙正寺川、そして石神井川といった5つもの川が東西方向に流れ、南北方向に行くには、それらを渡らなければならない。

この渡河を回避するルートは無いものか、と、陰影図を見てみれば、あるじゃないですか。

陰影図、全体

上の2つのルートを見てください。武蔵国府国庁を出発し、人見街道を行かずそのまま直進北上です。国分寺崖線は、定説・異説ルート同様、上らざるを得ませんが、その後、渡河するのは仙川。仙川を過ぎて直ぐに東進し、仙川と石神井川、石神井川と善福寺川・妙正寺川の間の尾根を行き、定説ルートと異説ルートの合流後の哲学堂公園の少し北のV字に至るのが、千川上水ルートです。

仙川渡河後、直ぐに東進せず、更に石神井川を渡河後に東進するのがふじ大山道ルートです。

どちらも見事なまでの直線です。古代東海道の跡なのではないか、と、思わせます。

が、千川上水ルートの場合、前々回の記事でも言いましたが、道が先にあったとは考えられず、と、なると、近代の道ということになります。

(でも実に惜しいですね。千川上水ルートの場合、仙川と石神井川を渡河するだけなんですね。しかも、石神井川の方は実走であまり高低差がありませんでした。仙川の方も、陰影図ではあまり高低差が無いようです。つまり、最も、up & downが少ないようなんです。)

一方、ふじ大山道の方ですが、大いに可能性があると思っています。

ただ、仙川と石神井川を渡り、もう一度、下頭橋で石神井川を渡り、更にもう一度、石神井川を渡ります。最後の石神井川は、千川上水ルートと同じなので高低差はあまりありません。が、最初の石神井川と下頭橋での石神井川渡河は、陰影図ではソコソコ高低差がありそうです。

また、古寺社も少ないですね。

そもそもこのふじ大山道ルートは、その名の通り、大山、そしてその後方の富士山への参詣道であり、と、なると、大山信仰が盛んになった近代に出来た道ということになります。

が、果たしてそうでしょうか。下図を見て下さい。

陰影図、豊島氏居城とふじ大山道ルートとの位置関係

平安期から豊島郡を根拠地とし、豊島駅エリアにある平塚城と、練馬城、石神井城を居城とした豊島氏がありますが、この3つの城を単純に直線で結んだ青線と赤線のふじ大山道ルートとを比較して下さい。ほぼ重なります。画面右上はやや離れていますが、地形を見るとその理由が分かります。石神井川を避けてるんですね。

つまり、ふじ大山道ルートは、豊島氏の居城間を結ぶ道であり、そうなると平安期には成立していた可能性もあり、と、なると、それ以前から道があった可能性があります。

ふじ大山道は、近代に成立した、富士山、大山参詣の為の道ではなく、平安期から既にあった道かもしれません。その道が、府中に向かっているとなると、古代東海道の可能性も出てきたのではないでしょうか。

それともう1つ。浅間山なんです。

定説ルートの牟礼山と同じく、浅間山が測量上のランドマークになっていたのではないか、そう思わせます。なので、定説ルートと同じくらい、ふじ大山道ルートも、官道の可能性があるのかもしれないと思った次第です。

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と、言うことで、実走したいと思います。

下高井戸ルートを逆走して浅間山公園に到着です。今回はここが起点。早速、浅間山に登山です。

ちょっと、住宅によって頭しか出てないので分かりづらいですが、新小金井街道の旧道から望む浅間山です。
堂山山頂の浅間神社
女坂より山頂を望む

ムサシノキスゲは終わってたようですが、新緑が実に美しく癒やされました。

で、ランドマークかどうかについてですが、上の写真のように、住宅が立ち並ぶ現代では想像力が重要になって来ざるを得ませんが、充分にあり得たと思います。

浅間山の後は国分寺崖線を上がり、仙川を渡河します。

あまりに高低差が無く通り過ぎてしまい振り返っての一枚。こうして見ると少し下って上がってます。

ご覧の通り、高低差は殆ど感じられません。定説、異説ルート時に神田川水系を渡河した時とは大違いです。

続けて石神井川を渡河しますが、こちらも高低差を殆ど感じることは出来ません。

こちらも殆ど高低差無し。

と、いうことで、実走してみると、このふじ大山道ルート、この最初の2川の渡河はネガティブではないことが分かりました。

小金井公園の先で東に折れ、田無をやり過ごすと、見事なまでの直線です。この直線が、私的にこのルートを推す、最大の理由です。

振り返っての一枚、直線なので先の先まで見えます。

道は程無く、石神井城に到着します。

石神井城、全景。正面のこんもりした森が城跡です。
空堀と土塁
氷川神社、豊島氏が城内に勧請しました。

さぁ、ここからふじ大山道は、石神井城と練馬城とを結ぶルートとなります。up&downも殆ど無い、気持ちの良い直線を行きます。

あっという間に練馬城に着きました。あまりに快適で、また、行き過ぎてしまいました。

向山庭園、練馬城の濠跡と言われている。

としまえんが練馬城の跡になるんですが、そのとしまえんも今は閉園で中には入れません。入れたとしても、残念ながら、殆ど遺構がありません。唯一、現存してるのが、この向山庭園のようです。

練馬城は、北を石神井川、東西を石神井川の支流で囲まれた天然の要害で、向山庭園の中央には、東側の支流、つまり天然の濠が南北に流れています。

陰影図、練馬城
練馬城東の谷を西から撮った写真。右手の緑が向山庭園です。真ん中に窪みがありますがこれが東の谷。結構な深さがあります。この谷が向山庭園まで続いていて今は池になってますが、だから、それは練馬城の濠跡と推定されています。

ふじ大山道ルートに復帰し、石神井川の渡河の為、下頭橋を目指します。この間も直線でup&down無いのであっという間。

石神井川渡河、高低差無し

ここも高低差は殆どありませんでした。


この先は過去のルートと重なるので割愛し、帰路に付きました。

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と、言うことで、実走してみたら、渡河によるup&downは懸念ではなく、直線性は見事で、浅間山はランドマークたり得たという結果となり、充分、古代東海道の可能性があるのではないかと思いました。

定説、異説1, 異説2と、今回、3ルートを行ったわけですが、このルートが最も合理的に思いますが、如何でしょうか。

次回は延喜式か、東山道武蔵路を行こうと思います。

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