2019年2月2日土曜日

続き、走水ルート、三浦半島の古代東海道、古代東海道

三浦半島の古代東海道シリーズ、第4弾の続きです。

第1弾は実走無しの全体説明、第2弾は六浦ルート、第3弾はやまなみルート、第4弾は走水ルートを行きましたが、横須賀市公郷町の曹源寺で時間切れ。今回はその続きです。

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衣笠まで輪行、まずは春日神社に向かいます。

春日神社

春日神社は元猿島にありました。

猿島、安房口神社からの眺望

猿島を含むこの辺りが藤原氏の荘園だったので、奈良の春日大社から分霊したといいます。創建は平安期ということですが、なら、藤原氏が衰退する前の平安中期と推定します。

この春日神社には伝説が2つあります。1つは日蓮の伝説で、日蓮が鎌倉に布教に行くので、安房国南無谷から海に出たところ、風が次第に強まり、ついには時化になって、船底に穴が開き海水がたまり始めます。日蓮は船の舳先に立ってお題目を唱えます。すると不思議なことに船底の穴が塞がれ浸水がおさまり、船は猿島へ漂着しました。。。続きはあるんですが主旨ではないのでカットしますが、三浦半島と房総半島の渡海の話です。

2つ目は蛇の伝説で、春日神社が猿島にあったのは明治17年までですが、毎年の例大祭の前後には上総国鹿野山から大蛇が泳いできて、島の洞窟に住み神社の守護神となっていたというものです。これも三浦半島と房総半島の渡海の話です。

尚、この古地図は明治13年から作成開始され、明治19年に完成してるんですが、春日神社は既に猿島ではなく本土の方にありますね。この地区は明治17年以降に作図されたことが分かります。

真ん中に"春日社"

春日神社を後にし、諏訪神社に向かいます。

諏訪神社、背後の山は神岳、空海も登ったそう

この神社も古いです。824年創建です。最澄や空海も訪れたということから、当時から有力な古社だったようです。また、神社サイトによると、"この地は古代にあっては房総への渡津、、、"との記載があり、やはり、三浦半島と房総半島の渡海の話が出ています。

しかし、同じような時期にこの至近で春日神社と諏訪神社というのも面白いですね。

諏訪神社の御祭神建御名方命と春日神社の御祭神建御雷神とは、国譲りで対決した敵同士ですから。

諏訪神社は824年とハッキリしてます。一方、春日神社は平安期ということしか分かってません。平安期といっても400年あるので一概には言えませんが、824年というのは平安初期なので、諏訪神社が先で春日神社が後の可能性が高いですね。

相模国の国造は出雲系ですから、諏訪神社が先にあり、そこに、藤原氏の隆盛と共に荘園とセットで春日神社が出来たんでしょう。

さて、道はここで海ルートと山ルートに分岐します。が、海ルートは標高が2m程度なので、気象条件によっては道としての機能を果たせませんから、山ルートの方が有力なのではないかと思います。

その、山ルートには、安房口神社があります。

安房口神社、素晴らしい雰囲気でした。

その名も、"安房"口神社なわけです。これまた、房総半島との交流が示されています。

安房口神社の御神体は磐座で、安房国の安房大社の御祭神である天太玉命の霊代として、この地に出現飛来したと伝えられています。その磐座の面が安房国を向いているという事から、古来より安房口明神と呼ばれていたとのことです。

安房口神社、それにしても興味深い神社ですね。

まず第一に、安房神社と安房口神社は、主従で言えば、安房神社が主で安房口神社が従ですね。だから向きは安房神社→安房口神社。安房神社は忌部氏が阿波国から黒潮に乗り房総半島先端にやって来て(だから安房国となったと言われてるんですが), その時に開かれた神社ですから、この流れからすると、更に安房国から三浦半島へと進出した時に、安房口神社も出来たのではないかと考えられます。と、なると安房神社創建が神武天皇即位年、紀元前660年ですから、その辺りということになります。

第二に、御神体の磐座なんですが、これは、安房神社御祭神の奥さんである天比理刀咩命を祀っている洲崎神社に元々2つあった内の1つが出現飛来したと言われてます。1つは洲崎神社に残ってるんですが、それがこれです。

たてやまフィールドミュージアムから拝借

で、安房口神社の方はというと、これです。

安房口神社の御神石、磐座

言いたいのはこれらは女性の象徴なのではないかということです。縄文の土偶は殆どが女性でしかも妊娠してる姿ですが、女性崇拝、人間が子を生むことに対しての神性を表しているのではないかと思います。と、なると縄文ですね。

また、社伝によれば、ヤマトタケルノミコト東征の折、ここを訪れたと伝えられています。

ということで、771年以前に遡る相当な古社であることは間違い無さそうです。

さて、これまでご紹介したように、この辺りには古社が集中し、その何れもが、房総半島との交流の伝説を持っています。

何故なのか

そう言えばここは、"大津"です。

"津"や"戸"は、湊を表す地名です。しかも、"大"津ですから、有力な湊だったことが予想されます。

でも、ここは砂浜ですよね。

古地図を見てみましょう。

全体的に海岸まで山なんですが、大津の所だけ、低地ですね。しかも、平作川が作った谷に抜けています。

大津の低地を古地図で。明治17年くらい。
"抜け"部。画面左、歩道橋の左にこんもりとした山と、画面右、公園の縁の土手の間。この前方の平先川が作った谷に抜けている。この後方は大津の低地、つまり海。

縄文海進の頃は衣笠、ですから前回行った曹源寺の辺りまで入江だったそうですし、三浦半島南部は地震の度に隆起するのが特徴で、その際に干潟の一帯が海面より高くなるため陸地が広がり、海岸線から陸に向かって高くなる階段状の地形が残る場合があるそうで、ある調査によると、階段は5段確認出来、各段は1~2mだったそうですから、最も古いものから5~10m隆起しているということになります。

また、ここには吉井貝塚があります。そして、"舟倉"という地名もあります。吉井貝塚近くの怒田城は三浦氏の城ですが、なので、三浦氏の舟蔵だったと言われています。

海だったんですね。

地形図で見る舟倉と大津低地部の位置関係

771年当時がどうだったかは不明ですが、もしかしたら、大津の低地部は、平作川の入江と抜け部で接続され、繋がった湾だったかもしれません。

だとすると、"大津"の名の如く、良港だったのかもしれませんね。

だとすると、古代東海道は走水まで行かずここ大津から渡海したかもしれません。大津から東京湾に行くルート、日蓮と向きは逆ですが同じルートですね。と、抜け部を抜けずにこのまま平作川から久里浜を行くルートです。

さて、先に進みます。山ルートは浦賀を通ります。この写真の向こうはもう海です。ここも渡海点だった可能性があると思います。

浦賀駅前、この先はもう海

ここから、鬼のような階段を担ぎでニ山越えて防衛大学校がある尾根に至り、御所が崎に下りて、走水なんですが、実際走ってみると、何故わざわざ二山越えなきゃならんのだろうと思います。ここから渡海出来ますから。

定説の走水ではなく、ここ浦賀か、先程の大津か、衣笠から久里浜を抜けるルートの方が素直なような気がしますが、でも、やはり、走水を外すわけには行きまけんね。

ちょうど節分祭だった走水神社、真正面に富津岬

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如何でしたでしょうか。

前回と合わせてこれで三浦半島の古代東海道、走水ルートが完了なんですが、座学、実走を通じて思うのは、アリだな、ということです。ルート沿いに古社寺が多く、春日神社、諏訪神社、安房口神社はダメ押しでした。

が、渡海点は走水ではなく衣笠〜久里浜か、大津か、浦賀だと思います。最後の二山は不要と思われます。

以上です。次回は船越ルートを行きたいと思ってます!

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