ラベル 古代官道 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 古代官道 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年10月28日月曜日

武蔵国・相模国の古代官道シリーズの整理(Link集)

武蔵国の古代官道シリーズを整理したいと思います。
  1. 武蔵国
    1. 771年より前
      東山道武蔵路
    2. 771年〜延喜式(927年)まで
      1. 相模国夷参駅〜武蔵国国府
      2. 武蔵国国府〜武蔵国豊島駅
        1. 杉並区天沼ルート
        2. 下高井戸ルート
        3. ふじ大山道ルート
      3. 武蔵国豊島駅〜下総国井上駅(記事)
        同地図
    3. 延喜式(927年)〜
      1. 浅草
      2. 品川
      3. 武蔵国店屋駅~相模国浜田駅
      4. 武蔵国大井駅~武蔵国店屋駅
    4. 郡衙道
      1. 久良岐郡衙~武蔵国府
      2. 都築郡衙~武蔵国府
      3. 橘樹郡衙~武蔵国府
  2. 相模国
      1. 相模国鎌倉郡三浦郡の古代東海道
        1. 六浦ルート
        2. 走水ルート
          続き
        3. 船越ルート
          続き
        4. やまなみルート
      2. 相模国坂本駅〜相模国国府
        1. 南ルート
        2. 北ルート
          1. 松田惣領~千村
          2. 善波峠
      3. 相模国府~武蔵国丸子の渡し
        1. 中原街道ルート
もう制覇しましたね。
いや、特に古い古代官道は、広くて直線ですから〜東山道武蔵路の国分寺市遺構のように〜そんな道は、上に挙げた道ではごく一部だけで、その一部以外の部分は、単に、歴史的農業環境閲覧システムの迅速測図にある古道で繋いだだけなんですが、でも、出来ることはやった感じでしょうか。

一番古い記事は1-2-3で2010/5ですよ。もう、こんなマニアなことを9年以上続けてます。飽きずに。

まぁでも、この趣味が、私の人生に彩りを加えてくれたことは確かです。

実生活でも役に立ちました。今の家は武蔵国府から、江戸湊への古道沿いに建てましたから。尾根道なので、先日のような台風でも、水害の心配は一切ありません。

次は千葉かな!

2019年10月2日水曜日

延喜式後の武蔵国の古代東海道、品川

このシリーズの前回は、浅草をご紹介しました。

浅草というと浅草寺ですが、浅草寺より前、595年に、待乳山聖天は開創の歴史があります。この595年というのは飛鳥寺や法隆寺と同じくらいの古さ。浅草は、浅草寺だけじゃないんです。

浅草の辺りには、隅田川を始め、幾つもの川が流れ込んでいます。川は土砂を運びます。土砂は、両岸に自然堤防を作り、沖には島を作ります。今でも、待乳山、柳島、浮島などの地名が残ってます。

そういった所に、出雲系や秦氏、大和王権勢力が海を船でやってきて、土着し、寺社を作ったんです。浅草寺も、大和の檜前氏、土師氏が開いています。

正に、"江戸湊"だったんですね。

こうして古くから開かれていた浅草。源頼義・義家親子も、前九年か後三年か、行きか帰りか分かりませんが、この地を通った伝承が多く残り、浅草が延喜式時の古代東海道であったことを証明しています。

さて今回は、京都から見るとその浅草の手前、品川をexplorerしたいと思います。

□◇■◆□◇■◆□◇■◆□◇■◆

現代の地図

この赤い線と青い線は両方共延喜式時の古代東海道です。はっきりとしてはいないんですが、赤の方が古いようです。

都である京都から来ると、多摩川を丸子の渡しで渡り、画面右上の紫マーカー、これが大井駅なんですが、そこに向かいます。

だったら、ど真ん中を、古代官道らしく、ちょうど、新幹線の線路がそのど真ん中になりますが、そこを通れば良いと思うのですが、遠回りしてますよね。

何故か

地形図

地形図を見ると一目瞭然です。ど真ん中を突っ切ると、山あり谷ありが多いんですね。

これが律令全盛期だったら、これぞ古代官道ということで、山は切り通し、谷は埋め、wide & straightで行ったんでしょうが、延喜式の頃になると律令も廃れてきて、そういった土木工事は難しかったんでしょう。

さて、赤の、古い方の道を行きます。

長原の駅の辺りからR1までは実に、実に真っ直ぐな道で、古代官道らしさを感じさせます。

長原駅辺りの真っ直ぐな道

これだけ真っ直ぐなんですが、実に上手いこと谷を避けきれいに尾根に乗っているんです。

南側、朋優学園辺り。にしても雲が秋ですね。
北側、同地区

真っ直ぐな道の終点が、大井駅となります。ここは新しい方の東海道との交点でもあります。

光福寺、大井駅推定地。延暦元年(782)11月、顕教房栄順律師が天台宗神宮寺として開創。それにしても見事な大銀杏です。江戸時代までは目の前の江戸湾航行の際の目印だったそうです。

その北隣には、栄順繋がりの西光寺があります。

西光寺、口伝では開創は天徳2年(958), 寺伝では弘安9年(1286)3月18日天台宗の栄順律師により建立と伝えられます。光福寺の栄順は782年です。こちら西光寺は1286年ということで、時代が大きくずれるので同一人物ではない、あるいは話がごちゃついてしまっているのかもしれないですが。

□◇■◆□◇■◆□◇■◆□◇■◆

江戸時代の品川宿は、賑わっていたのは目黒川を中心としたエリアでしたが、平安期までの寺社分布を見ると、むしろ、大井駅から青物横丁の辺りまでに集中していることが分かります。

※zoom upして、品川付近をご確認ください。

大井駅に近い順で、
  • 来福寺、990年
  • 常行寺、850年
  • 寄木神社、日本武尊伝承(〜43年)
  • 品川寺、806〜810年
と、なります。この先(北)は平安期以前の寺社はありません。
※荏原神社がありますが、今の荏原神社は環座したもので平安期はここには無かったんです。

これ何でなんでしょうねと考えると、やはり、大井が始まりであって、その大井が発展、拡張していった結果だということになりそうです。実際、
  • 光福寺と西光寺は栄順繋がりで、光福寺から西光寺に発展した可能性がある。
  • 来迎院と鹿島神社は、常行寺尊栄による開創
と、このエリア内で拡張した形跡もあります。

これらの寺社は、目黒川と立会川に削られなかった台地と、目黒川が運んだ土砂による微高地に建っています。

浅草に似てますね。

地形図、光福寺~品川寺

来福寺
品川寺、空海の開山
来迎院
鹿島神社

□◇■◆□◇■◆□◇■◆□◇■◆

こうなると品川は大井駅から始まった、と、考えてしまいますが、そうでしょうか。

そんなことありません。

貴船神社

貴船神社は709年創建です。これまで取り上げた寺社の中で一番古い。

藤原伊勢人が、大和国の丹生川上神社より高龗神(たかおかみのかみ)を勧請して創建されました。

"龗"は、"龍"の古語で、龍 = 水神です。だから、鎮座されている場所はここです。

地形図、貴船神社

地形図の通り、貴船神社は目黒川河口部の岬に位置しています。

だから、先端部に行くとこのようになっています。

岬先端部から東方面の眺望、雲が秋ですな

大和国の丹生川上神社から水神を勧請したということから、浅草のように、大和王権勢力が、船で海からやってきて、この目黒川河口の岬に取り付き、土着し、地元の水神様を祀ったと思われます。

その後、西光寺に環座、荏原神社に環座し今に至ります。

品川は、この目黒川河口部の岬、貴船神社から始まり、その後、東海道、大井駅が成立し、更にその後、来福寺、常行寺、品川寺と、拡張していったと言えそうです。

--------------------
でも、水神様を祀るなら、来福寺の岬の方が良いようにも思いますが、何故、奥まった位置だったんでしょうね。

空想を膨らませるに、要するに湾内ですよね、こっちは、それも大きな。加えて、今戸越銀座商店街になっている真っ直ぐな川、これは、ドックにちょうど良い感じです。

来福寺の辺りも湾ですが規模が小さい。

だから、奥にしたのではないでしょうか。
--------------------

□◇■◆□◇■◆□◇■◆□◇■◆

しかし、品川からもう少し視点を広げると、貴船神社より古い、あるいは同等の古さの寺社が確認できます。
  • 寄木神社、日本武尊(〜43)
  • 磐井神社、582-585
  • 品川貴船神社(荏原神社), 709
  • 稗田神社、709, 行基、紀元前29-70
  • 古川薬師、667-749, 行基
  • 光明寺、667-749, 行基、空海
  • 光福寺、782, 栄順
  • 品川寺、806-810, 空海
  • 常行寺、850, 円仁
  • 西光寺、958, 栄順
  • 来迎院、鹿島神社、969, 常行寺尊栄
  • 来福寺、990, 智弁
赤字にした4寺社です。

磐井神社
磐井の井戸
古川薬師
光明寺

でもどうも腑に落ちないんです。

地形図、多摩川河口部から品川まで

光明寺は、岬の先端に位置していて、納得できるんですが、その他3寺社は、海の中じゃないんですかね?1300年前に、本当に、ここに位置していたのでしょうか???

調べてみると稗田神社は円墳があったようなので、大田区蒲田、西蒲田、千鳥、多摩川、下丸子、矢口と言った、低地エリアの古墳を調べてみました。

すると、

青の家マーカーが古墳

稗田神社の周りに、稗田神社も含めて4つ、古墳が密集していることが分かりました。

何故ここに集中しているか、ですが、呑川ではないでしょうか。古墳は呑川の両岸に集中しています。

そうした目で見てみると、この辺りは多摩川と呑川、内川が運ぶ土砂がぶつかる所。古墳時代には既に微高地が出来上がっていたのではないでしょうか。標高を見てみても、5m前後あるんですね。

古川薬師の辺りも5m前後あり、多摩川の土砂を運ぶパワーがすごかったんですね。

こうなると残るは磐井神社ですが、磐井神社は、"磐(岩)"の所にある"井(井戸)"から来ているでしょうから、ここには清水の湧き出る磐座があり、磐座崇拝となると、太古の昔から崇敬されていた可能性があります。

万葉集でも、荒藺の崎の笠島と歌われているということですが、、、でも、しつこいようですが、ここに、岬と島が本当にあったんでしょうかね?!誰か、地質調査して欲しいな。

それから稗田神社、光明寺、古川薬師は行基ですね。これも何かあるような気がしてならないんです。

大磯、渡来の道でご紹介した小野神社と日向薬師もそうでしたが、近接する寺社では、縁起がごちゃまぜになるケースがあります。
  • 小野神社、716年に行基が薬師如来の像を奉安
  • 日向薬師、行基が薬師如来を彫ろうとしていたが良い材料が見つからなかった所に、高麗若光が良材を提供し、無事、薬師如来を納めた。
古川薬師と稗田神社はどうでしょうか。
  • 稗田神社、709年に、行基が、天照、八幡、春日の三神の像を祀る
  • 古川薬師、行基が開創、薬師、阿弥陀、釈迦の、三如来を祀る
似てますね。混ざったかな?!

光明寺ですが、"光明寺 行基"で検索すると、たくさん出て来ますね。
  • 兵庫県美方郡の光明寺、行基開基伝承
  • 山口県美祢市の光明寺、大日如来は行基作の伝承
  • 福岡県筑後市の光明寺、千手観音は行基作
  • 三重県四日市市の光明寺、行基開創伝承
  • 浜松市天竜区の光明寺、行基開創、三満虚蔵菩薩は行基作
  • 徳島県板野郡の金泉寺、元の名を金光明寺と言い、行基開創
  • 島根県出雲市の光明寺、お不動さんは行基作
と、切が無いのでこの辺にしますが、とにかく多い。

これは伝承ではなく史実ですが、東大寺は元の名を大和金光明寺と言い、言わずとしれた行基開創ですから、この影響が大きいのだと思います。

行基の行脚の中心は西なので、大田区の光明寺を含む、東国の行基伝承は、こういった西の伝承の影響と思われます。

光明寺の行基伝承はこのようなこととして、空海については、詳しい伝承が残っていて、信憑性が高いかなと思ってます。

寺伝では天平年間(729~749)に行基(668~749)が開創し、のち弘仁年間(810~824)に、空海(774~835)が再興して、関東高野山宝幢院と称し、真言宗の七堂伽藍が整っていたと伝えられている。
その後、寛喜年間(1229~1232)になって、浄土宗西山派の祖、善慧証空(1177~1247)が再興して浄土宗にかわり、関東弘通念仏最初の道場となり、大金山宝幢院光明寺と称するようになった。
3世行観覚融は、空海の興した密教の道場が浄土宗にかわったため、消滅してしまうことを惜しみ、別に高畑(西六郷)に真言宗の一寺を建立し、同じく大金山宝幢院光明寺と命名し、前者は寺号を、後者は院号を常時称することとした。

と、なると、品川寺の空海伝承も真実味を帯びてきますね。

□◇■◆□◇■◆□◇■◆□◇■◆

武蔵国の古代東海道シリーズですが、神奈川県や千葉県は行ってませんが、過去、行ったことがあるのでひとまずこれにて完了としたいと思います。

2019年7月13日土曜日

延喜式後の武蔵国の古代東海道、浅草

以前、延喜式前の武蔵国の古代東海道について、まずは全体感を、次に定説ルート、異説ルートその1, その2, そして、武蔵国が東海道に所属変えとなる前の東山道武蔵路をexploreしました。

延喜式前の武蔵国における古代官道は、これで大体ご紹介出来た、そういうことになります。

※相模国夷参駅〜武蔵国府、武蔵国豊島駅〜下総国井上駅はまだ行ってませんがそれは追々

ここでそもそも、"延喜式"なんですが、前回の全体感の時にご説明したように、古代官道は時の情勢によって変遷しているんですね。

それが書物から読み取れるんですが、延喜式もその1つで、927年に出された内容を見ると、

"店屋・小高・大井・豊島の四駅に各々駅馬十疋を置くとし、都筑・橘樹・荏原・豊島の四郡に各々伝馬五疋を置く"

と、書いてあって、駅は、店屋、小高、大井、豊島だと分かります。

771年以降、延喜式前までは、店屋、武蔵国府、乗潴、豊島でした。

店屋と豊島は同じとして、小高と大井が新しく、大井は今の大井です。ですから、771年〜927年の間のいつかの時点に、下図、黒線から赤線へ変化したことになります。

延喜式前後比較、店屋駅から武蔵国府への道は正確に言うと東海道本路ではなく、店屋駅から武蔵国府への連絡路です。この時の本路は、相模国夷参駅から武蔵国府へ達していました。

また、小高ですが、従って、この赤線上にあることになるわけですが、川崎市新作小学校で発掘された新作小高台遺跡が、確定的ではないものの、該当すると言われています。

と、いうことで整理すると下図のようになります。大きくしてご確認ください。

まず町田市付近に行ってください。その辺りにある紫のマーカが店屋駅です。店屋駅から東へ青線が続いてますが、これが延喜式古代東海道です。店屋駅の次の紫マーカが都築郡衙、次が小高駅、次が橘樹郡衙、多摩川を渡ったら、赤線と青線が延喜式古代東海道です。赤線の方が古いと思われます。赤線を辿っていくと茶色マーカがあり、その次に赤マーカの旗岡八幡がありますが、ここは荏原郡衙です。で、その先の紫マーカが大井駅です。その先、日本橋で青線が分かれますが、西側が、豊島駅が延喜式前と同じだった場合、東側が、変更になった場合です。変更になったとすると、浅草を通ります。浅草寺の開山が628年ですから、延喜式の927年時にはとっくに開かれていただろうし、平安期以前の寺社がこれだけ集中してますから、東側が本命だと思います。



◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□

さて、ではこの延喜式後の古代東海道を、どうexploreするか。

正直言えばもう何度も走った。また、道はただの都会の道だし、魅力的ではない(そう言えば、東山道武蔵路で行った狭山の辺りは美しい田園風景で癒やされた、素晴らしかった。)。

さて、どうするか、と、改めて地図を眺めると、ルート沿いに平安期以前の寺社が集中しているのが分かる。延喜式前のルートは杉並区の辺り、つまり、乗潴駅周辺に集中している。延喜式後のルートでは、浅草が物凄いことになっている。

浅草の特徴としては、
  • まず緑、慈覚大師円仁縁の寺社だ。
  • 次はグレー、日本武尊縁の神社だ。
  • 次は黒、源頼義・義家親子による前九年の役、後三年の役ゆかりの寺社だ。延喜式前のルートの杉並区周辺より数は少ないが、一定程度ある。
  • 最後は茶色、平将門縁の寺社だ。
しかし、この辺りは927年当時、低地であり、海、あるいは湿地で、官道を通すに適さなかったのでは?とも思う。地形図で確認してみよう。

地形図

図真ん中やや左下からルート(青線)が来ている。皇居の辺りで東へ直角に曲がる。その後は隅田川沿いに北上するのだが、まるで綱渡りするように、ものの見事に微高地を行っていることが分かる。

逆に、青い所は、現在は、単に標高の低い所だが、当時は海だっと理解して良い。海の中に川が、この図だと、西から、隅田川、荒川放水路、新中川と、南北にあるが、頭の中で川は消し去り、海だと思ってもらいたい。例えば隅田川の両岸にもポツリポツリと自然堤防微高地があるが、それは島だったということ。

因みに、図真ん中やや左下、茶色マーカがあるがこれは新橋にある烏森神社。その東に北北東から伸びている半島が江戸前島。烏森神社は江戸前島の突端に建てられたのだ。深い意味がありそう。江戸前島と皇居の間の入り江が日比谷の入り江で、江戸前寿司とはここで取れたネタで作った寿司のことを言う。

その江戸前島を北北東に行くと寺社が固まっている所があるがここが日本橋。ここに微高地が無ければ延喜式後の古代東海道は寸断されていた訳だが、では何故ここに微高地が出来たのか。

不忍池が分かると思うがその先は石神井川、石神井川の西の本郷台地、その西の谷は神田川(平川)の谷。今の神田川は本郷台地を貫いているがこれは家康によるもの。本来の川筋はこの谷筋の通り今の日本橋川。

この2本の川が出合う所が日本橋。更に東からは隅田川が、南東からは潮が、土砂を寄せ合い集まり堆積していくピンポイントが日本橋。だからここに微高地が出来た。

隅田川の西岸も同様に川の蛇行によって土砂が盛り上がり自然堤防となっていった微高地。これらの微高地は、既述のように、浅草寺が628年開山だから、その時は既に成立していたことになる。

この隅田川沿い自然堤防微高地と上野の大地の間、ここは、嘗て、隅田川の氾濫による姥が池、千足池、長江の入江があった。

それを避けるには、今の日光街道の微高地を辿っていかなければならない。これが延喜式前の古代東海道の道筋か。

ここで忘れてはならないのが豊島駅。豊島駅に寄ろうとすると、日本橋から本郷台地を駆け上がり、豊島駅に行き、石神井川の東の台地を南下、日光街道の微高地を来なければならず、遠回り。なので、延喜式後は、豊島駅を隅田川渡河点、石浜神社の辺りに移動した、というのが1つの説となっている。

◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□

と、いうことで、延喜式後の古代東海道をトレースするのではなく、浅草を中心としたエリアに絞ってexploreしたいと思います。

滝坂道、大山街道で三宅坂まで。お堀に沿って、皇居外苑を突っ切り、将門塚に向かいます。

将門塚、土曜の朝7時過ぎでしたが、黒塗りの高級車で来られた初老の方など、引っ切り無しに人々が訪れ参拝が途絶えません。

その名の通り将門がフィーチャーされてますが、ここは神田神社の旧社地で、730年にこの地に創建されました。古いですね。この地が早くから陸地化し、開けていたことが分かります。

730年というと、延喜式前の古代東海道の時代ですが、ここは通っておらず、通らずとも、開かれていたんですね。

そう言えば、深大寺(狛江)エリアもそうでした。あそこも古代東海道からは遠く離れていましたが、深大寺開山は733年です。高句麗の民たちは、陸路ではなく、海、多摩川のルートでここに上陸したのでした。

このエリアも同様に、海路で開かれたエリアだったのだと思います。

話を神田神社に戻します。

祭神は大国主命。出雲系が海路、この地に、上陸してきたことが垣間見えてきます。

続いては三越エリアにある福徳神社です。

福徳神社

貞観年間ですから859〜876年には、既にここに鎮座されていたとのことですから、こちらも古いですね。

祭神は倉稲魂命なのでお稲荷さんです。

が、相殿が、天穂日命、大国主命、少彦名命、事代主命、三穂津姫命と、出雲系勢揃いで、どのような謂れで相殿となったか調べましたが分からなかったんですが、もしかしたら、先の神田神社(将門塚)と合わせ、出雲系が海を渡ってこの地に上陸したのではないかと思われます。

更に、源義家の信仰も篤かったということで、義家縁でもあったんですね。

福徳神社の南には兜神社があります。

兜神社
兜岩

兜神社自体は明治の創建ですが、その元となった兜岩には、
  • 前九年の役で奥州に向かう義家が、戦勝を祈願して岩に兜をかけた。
  • 後三年の役の凱旋時ここに立ち寄り、東夷制定を祈願して、兜を埋め兜塚としたものがいつの間にか兜岩となった。
  • 藤原秀郷が将門の首を京の都へ運ぶ時、将門の兜をこの地に埋め供養した。
という伝承があり、ここ兜神社も義家と将門縁です。

濃いですね、義家と将門色が。このエリアは。

兜神社の直ぐ近くには、鎧橋があり、ここは元鎧の渡しですが、ここにも兜神社と似た伝承があります。兜神社とセットというか、元は同じ伝承のような気がします。

鎧の渡し、2019年
鎧の渡し、1858年

  • 義家が奥州征伐に向かう際、この地で暴風雨に遭い、大きな淵を渡れず難儀していた。鎧を沈め龍神に祈った所、暴風雨が止んだ。いつしかここを鎧淵と呼び、鎧の渡し、鎧橋となっていった。
  • 将門が兜と鎧をこの地に収めた。
先に進みます。

福徳神社の北には、これまた興味深い、福田稲荷神社があります。

福田稲荷

なんと、709年に本家本元伏見稲荷が創建された僅か2年後に勧請されたといいます。

本家本元伏見稲荷の創建は、社記では和銅4年、711年とされていますが、山城国風土記では和銅年中、つまり、708〜715年とされているので、辻褄が合うということになりますが、に、しても、早過ぎませんか?!というのが本音ですが、何れにせよ、先の福徳神社といい、ここ福田稲荷といい、お稲荷さん = 秦氏勢力も、海を渡ってこの地に上陸したのでしょうか。

先に進みますと、椙森神社があります。

椙森神社

ここも古い。931年の創建と伝わります。940年頃には、藤原秀郷が、将門征伐成功のお礼として、白銀の狐を奉納したといいます。祭神は沢山あるんですが、このことから、元はお稲荷さんと思われます。

ここも将門ですね。

このルートが、その当時から、武蔵国から常陸国(将門本拠地)に行く主要なルート、つまり、東海道だったことを証明しているようにも思えます。

先に進み、家康が掘った神田川を渡り総武線を越えて直ぐにあるのが銀杏岡八幡神社です。

銀杏岡八幡神社

ここも義家。また、"岡"ですから、ここも自然堤防微高地で周囲より少し高かったんでしょう。

頼義・義家親子が、ですから前九年の役に向かう時、戦勝を祈願しここに銀杏を植え、帰途、ですから1062年、見事勝利となったので、八幡神社を勧請したとの伝承があります。

その直ぐ先には須賀神社があります。

須賀神社

須賀神社ですから須佐之男命ですね。大国主命の父です。出雲系ですね。

推古天皇9年ですから601年に、この地に疫病が流行った時、白衣の異人が海から現れ、"我こそは牛頭天王なり。我を祭れば疫病は避けられる。"と言い、消え、牛頭天王を彫り祭った所、疫病が去ったという伝承があります。

この伝承などは、そのものズバリで、"出雲系である須佐之男命(牛頭天王)が海から現れ", ですから、出雲系の民が海からこの地に上陸したという、これまでの仮説を補強する伝承ですね。

須賀神社の直ぐ近くには鳥越神社があります。

鳥越神社

ここは隅田川が作った自然堤防の微高地の中でも一際高い丘だったようで、日本武尊東征の折、この地を訪れ、皇祖ニ柱を祭り、後世の651年、村人が日本武尊を白鳥明神として奉祀したのが始まりです。

ついに登場しました、日本武尊です。

ここはお馴染み義家伝承もあって、頼義・義家親子が奥州征伐の折、白鳥明神前の海をどうやって渡渉しようか思案していた所、白鳥が歩いて渡るのを見て、これは白鳥明神のご加護と、以降、鳥越の名を奉じたという内容です。

鎧の渡しの伝承と似てますね。

さて、頼義・義家親子はどこを渡渉したのか。

地形図、鳥越神社、牛島

恐らく黄色ラインを渡渉したのだと思います。

左下、グレーが鳥越神社です。赤は船江神社旧社地で、この辺りから北に自然堤防微高地が続いていて、牛嶋神社がある"牛島"があったと思われます。

頼義・義家親子は、鳥越神社から牛島に渡渉したのではないでしょうか。

先に進みます。

黒船稲荷神社

940年に、将門征伐を成功した藤原秀郷が勧請したと言います。藤原秀郷が夢で黒船に乗った白狐を見たということで、椙森神社と殆ど同じ伝承ですね。

さて、次はいよいよ浅草寺です。

駒形堂、2019年
駒形堂、1858年
浅草寺

"推古天皇36年(628)3月18日早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が江戸浦で漁労中、投網の中に一体の仏像を見付け、これを土師中知(はじのなかとも)が拝し聖観世音菩薩の尊像であることを知り、自ら出家し屋敷を寺に改めて深く帰依した。"

これが、お馴染みの浅草寺縁起ですが、ここで、注目は、まず、漁をしていたのが隅田川ではなく、"江戸浦", 海なんですね。

もう1つの注目点が、"土師"中知と、"檜前"浜成・竹成です。土師氏は出雲系で、檜前はヤマトにルーツを持つ氏族ですから、やはり、出雲系、大和王権勢力が、海路、この地に来て、上陸し、土着していったものと思われます。時期的には628年より前ということになりますね。

最後にもう1つ、1070年には義家が戦勝祈願に訪れています。ここも義家でした。

次は、待乳山聖天本龍院です。

待乳山聖天

ここも古い。浅草寺よりも古い、595年です。

鳥越神社同様、自然堤防微高地なんですが、周りより更に少し高かったようで、だから、山号の意味以外でも、"山"でした。

この山を切り崩して、姥が池、千足池、長江の入江を埋め立てました。また、待乳山聖天の直ぐ北を山谷堀が流れてますが、その土手は日本堤で、この堤防もこの山の土で作られ、千足池の水を堰止める為のもので、山谷堀は水逃しの為に作られたものでした。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
それにしても浅草寺はスゴイですね。

浅草寺縁起に、628年に観音様が現れた時、金の鱗を持つ龍が天から現れたという行があります。

浅草寺の子院である待乳山聖天の縁起も、595年に山が現れ、そこに天から金龍が舞い降り山を護り、その後、601年に、十一面観音が聖天に姿を変え現れ、人々を救済したということがあり、ほぼ同じ内容なので、元は同じかもしれません。

で、何が凄いのかということなんですが、
  • 仏教公伝、538 or 552年
  • 日本最古の寺、飛鳥寺、蘇我馬子建立の発願588年、創建596年
  • 法隆寺、607年創建
と、いうことで、ナント!日本最古の寺、飛鳥寺やあの法隆寺と肩を並べる位の古さなんです。

まあ、余りにも古過ぎるんで、多少あれだとしても、日本に仏教が公式に伝来した時とほぼ同じ時に、遠く離れた東国で、仏教寺院が建立されたというのはホントに凄いことです。

何故、このようなことが実現出来たか。

キーワードは、"檜前", "土師"です。

先にも触れましたが、檜前氏は、289 (あるいは409)年に渡来した阿智使主の末裔で、大和国高市郡檜前郷(今の奈良県高市郡、明日香村のある郡)に住んでいた氏族です。渡来時に仏教を持ち込んでもおかしくないでしょう。

一方、土師氏は、天照大神、天穂日命、出雲国造の系列で、野見宿禰を祖とする氏族。垂仁朝に起こりました。ですから、紀元前29〜70年の間ですね。

その後、現在の大阪府藤井寺市道明寺付近を根拠地としました。道明寺は土師氏の氏寺で、6世紀末創建と言われていますから、飛鳥寺などとほぼ同じ時に創建されたことになります。

その土師氏は、埼玉県岩槻市の久伊豆神社や群馬県藤岡市のその名も土師神社など、東国にも足跡があり、600年位の時に、仏教を携えて、海路、浅草に来たんでしょう。檜前氏も同様と思われます。

浅草はホントに凄い!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

次は今戸神社です。

今戸神社

1063年、頼義・義家親子が奥州征伐の帰途、創建しました。

義家ですね。

それよりも気になるのが、"今戸"という地名です。"戸"ですから、港だったんですね。で、"今"ですから、"古"戸や"古"津もあるはずです。どこなんでしょうか。

先に進みます。

770年ですからここも古い、保元寺です。

保元寺

先に進みます。

ここも古い、760年開山、橋場不動院です。

橋場不動院、ここ、雰囲気が良かったです。

こことセットなのが、玉姫稲荷です。橋場不動院が別当を務めていましたから。

玉姫稲荷

757〜764年に、この辺りの砂尾長者の園内に創建されたと言います。

この砂尾長者に繋がる話として、この辺りから千住大橋の方に向かって砂尾堤という堤防がありました。

砂尾堤

この堤は、調べましたが分からなかったんですが、もしかしたら元は自然堤防微高地で、この堤が、豊島郡衙へと続く道だったのではないでしょうか。徳川将軍も、鷹狩の際、江戸城を出て隅田川に入り石浜から船を上がり砂尾堤で千住方面に行っていました。

さて、隅田川西岸としては最後、石浜神社に向かいます。

石浜神社

724年の創建、しかも、聖武天皇の勅で建てられたということです。何故なんでしょうね。府中とかなら分かりますが。

尚、今回のexploreとしては初の神明です。

橋場の渡しを渡りましょう。

隅田川東岸に出て白鬚公園内を行き隅田川神社に到着です。

隅田川神社

隅田川の自然堤防微高地で、浮島と言われていたこの地。ここも、須田神社同様、水神上陸の伝承があります。神代ですから紀元前660年より前の伝承です。それは余りにも、としても、創建は相当昔まで遡れる可能性があります。

祭神は速秋津日子神、速秋津比売神で、この2柱は夫婦神で、別名、水戸神です。水の戸 = 門、港ということですから、この地が、今戸に対する古戸だったのではないでしょうか。時代と共に徐々に水が引いていき、今戸の辺りが今の戸になっていったと。

公園内を北へ。木母寺を訪れます。

木母寺

977年開山です。人買いの信夫藤太が梅若丸を奥州で売払おうと大津を出発しこの地を通りますが、12歳の梅若丸はここで力尽き果てました。

このルートは武蔵国から常陸国を経由し奥州へと行く延喜式古代東海道だったのです。

◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□

と、いうことで、如何でしたでそょうか。

浅草は浅草寺だけじゃない!

とても、deepなエリアでした。

まず思ったのは、海だったということです。

隅田川はあるにはありましたが、河口は今よりずっと北で、石浜神社の辺りが、"古津(戸)"でした。そこから南は海だったんです。

だから、大和王権、出雲系、秦氏などが、海路、この地にやってきて上陸します。それが、神社の祭神や伝承に残されています。

その後、日本橋や隅田川の自然堤防微高地が安定してくると、武蔵国から常陸国、奥州へ向かう古代東海道となり、頼義・義家親子や将門、将門を征伐する側の藤原秀郷、あるいは円仁が、この道を行き来するようになったんです。

寺社開山、創建出雲系将門秦氏義家大和王権円仁他
隅田川神社神代〇(水神)
鳥越神社110年〇〇
待乳山聖天595年〇〇
須賀神社601年〇
浅草寺628年〇〇〇〇
福田稲荷711年〇
石浜神社724年〇
神田神社730年〇〇
橋場不動院760年〇
玉姫稲荷760年〇
保元寺770年〇
福徳神社859年以前〇〇〇
牛嶋神社860年〇〇
椙森神社931年〇
黒船稲荷940年〇
兜神社不明〇〇
木母寺970年〇
銀杏岡八幡1062年〇

正に、浅草無くして江戸は無し、東京も無し、だったんだと思います。江戸湊だったんですね。

こう考えると品川は、武蔵国の国府が710年頃に府中に置かれましたが、その辺りから国湊として栄えていったんだと思います。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
もう1つ、言っておきたいことがあります。円仁です。

浅草周辺には、今回訪問してない所を含めて、円仁縁の寺社が、以下のように多数あります。

浅草寺(駒形堂), 待乳山聖天、長命寺、牛嶋神社、如意輪寺、東光院、清水寺

更に延喜式古代東海道を南下すれば品川に常行寺

品川道を目黒に行けば瀧泉寺、成就院、安養院、円融寺

延喜式前の古代東海道沿いでは大覚寺、宝泉寺、大円寺、安養寺

と、実に、東京都内だけで16もの寺社を創建しています。

追って調べてみれば、東北に331, 関東に209あるといいます。

何故、円仁(天台宗)は、こんなにも、東国に天台寺院を建てなければならなかったのか。

ネガティブな背景としては、空海(真言宗)によって、都を中心とした西国は駆逐されんとしていた、そういった危機感があったということがあります。

では東国にと東に目を向けると徳一(法相宗)が勢力を振るわんとしていました。

ポジティブな背景としては、律宗でありながら天台宗と密接な関係を構築できていた道忠集団が東国の下野にありました。

というような、宗派の生き残りをかけた勢力争いが背景としてあったということがありました。

もう1つ、800年に坂上田村麻呂が奥州征伐したとは言え、奥州はまだ安定的とは言えず、武力の次は宗教で教化していく必要があると考えた桓武朝、それを引き継いだ清和朝が、天台にそれを指示したということがありました。

だから、こんなにも、円仁縁の寺社が多いんです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□

帰りは延喜式前の古代東海道を行きます。

隅田川を渡り、砂尾堤を行き、千住大橋に出ます。

橋の袂には、義家伝承がある南千住熊野神社と出雲系須佐之男命伝承がある須佐之男神社があります。

熊野神社
素戔嗚神社

須佐之男神社の縁起にも、須賀神社とほぼ同じ伝承があり、出雲系が海路この地にやってきたことを伺わせます。

尚、行きませんでしたが、牛嶋神社も同じく、慈覚大師円仁が、須佐之男命の権現である老翁の託宣により建立ですから、同じですね。

この辺りは本当に出雲系の海路進出が多かったものと思われます。

ここから隅田川や利根川を遡り、大宮の辺りに進出していったのかもしれません。

さて、ここから、日光街道沿いに微高地が続き、三ノ輪から西へ折れ微高地の旧道を行きます。

このルートは上記地図の通り、古寺社がそう無いんですが、迅速測図を見ると興味深い光景が広がっています(いました。)。

三河島、迅速測図

流れてる川は隅田川です。右上で隅田川を渡っている通りが日光街道です。ここを南に行くと、途中からUの字を描くように西へ来ているのがルートで、このルートの南が本郷台地です。

さて、面白いのは真ん中です。田圃の中に、ポツンと集落が2つありますね。まるで島のよう。そうです。これが三河島なんですね。正に島なんです。本郷台地から眺めたら、象潟のような光景が広がっていたのではないか、そう思いますが今はどうでしょうか。

この後、さほど、見所も無く、豊島郡衙にトウチャコ、その後は延喜式以前の古代東海道で家にトウチャコです。

◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□

如何でしたでしょうか。

意外に、濃い、良い、exploreでした。