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2020年9月6日日曜日

深大寺道と牟礼道

このシリーズの前々回で、後北条氏による世田谷城陥落を契機とした江戸城防衛ラインについて記事にしました。

今回はその続きです。

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まずは振り返りから

1495年、小田原城を居城としていた大森氏を退け、北条早雲が伊豆韮山から小田原城に入りました。

1504年、小沢城で、扇谷上杉朝良を助ける為、北条早雲の軍勢が山内上杉顕定を打ち破っています。

→1504年辺りから、小沢城は後北条氏の城だった、ということになりますかな。

1524年、北条氏綱は、江戸城を奪取すべく、高縄原(高輪)で、扇谷上杉朝興と戦い、見事、江戸城を奪い取りました。扇谷上杉朝興は、主城の川越城に退却します。

1530年、扇谷上杉朝興は、川越城から度々深大寺城に移動し、江戸城奪還の機会をうかがってました。

一方、多摩川対岸の小沢城には北条氏康が陣取り、牽制します。そしていよいよ、小沢原の戦いが勃発しました。

初陣だった北条氏康、初戦は破れ、小沢城に籠城します。

この時、扇谷上杉朝興は、江戸城との間にある世田谷城にもちょっかいを出しに行き、世田谷城は一旦落城します。

が、結局、初戦の勝ちに酔っていた扇谷上杉朝興に夜襲をかけた北条氏康が勝ち、扇谷上杉朝興は河越城へ退散して、世田谷城は奪還され、江戸城も無事でした。

1537年、この小沢原の戦いが契機となり、江戸城主北条綱高は、深大寺城と江戸城の間、世田谷城の北西に、烏山砦、牟礼砦を築きました。

後北条氏は、小沢城、世田谷城に加え、牟礼砦、烏山砦と、江戸城防衛ラインを築き、扇谷上杉朝興も、深大寺を江戸城奪還の重要拠点として、両陣営鍔迫り合いを繰り広げていたんですが、、、

味方をも騙したのか、それを尻目に、その年、北条氏綱は深大寺城を迂回し、河越城を直接襲い、念願の河越城を奪取、武蔵国全体を手中に収めるに至りました。

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この時の、扇谷上杉朝興側の、川越城〜滝の城〜深大寺城を結ぶ軍道を、"深大寺道" と言い、それに対抗する後北条氏側の、武蔵岡城〜牟礼砦を結ぶ軍道を、"牟礼道" と言います。

今回はこれを行きます!!


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滝坂道で青渭神社まで。

青渭神社前の都道121号線三鷹通りが深大寺道です。ここを南下すれば深大寺城です。

手前の木の奥の森が深大寺城

深大寺道を北上し、滝の城を目指します(今回は川越城までは行かない。)。

道は野崎で都道12号線武蔵境通りに合流します(これも古道)。

今回は後北条氏と扇谷上杉朝興が江戸城を巡って対峙していた時(1524~1546年)に既にあった寺社を巡り、当時の痕跡を探るマイクロツーリズムですが、実は、深大寺城から黒目川河畔の宝泉寺まで、何もありません。

理由は何度か話してます(1, 2)が、ここら辺りは武蔵野原野で、江戸時代に玉川上水が開削されるまで、白子川、黒目川、柳瀬川の河畔以外は、前人未踏の原野だったからです。

と、言うことで、宝泉寺です。

宝泉寺

宝泉寺の由来については明らかではないですが、明治28年の社寺調書に、承和5年慈覚大師円仁の開基と伝う、とあります。また、宝泉寺に現存するもので一番古いものは、文永5年(1268)5月作の不動明王像があります。

と、言うことで、1524~1546年には確実にここにあったでしょうから、扇谷上杉朝興の軍勢も訪れたことでしょう。

先に行きます。

柳瀬川沿いの円通寺です。

円通寺

風土記によれば、

"除地、一段五畝、小名岡にあり、真言宗新義、同郡成木村安楽寺の末山なり、清水山と號す、本堂八間に六間南向、本尊観音木の立像にて長二尺、行基菩薩の作と云、古へ新田義助奥州下向のとき(1340年), 此観音の像を相州鎌倉松ヶ岡より此地に移す、往古は當寺の前に堂ありて安置す、いつの頃か當寺に移し今は本尊とせしなり。此像松ヶ岡より移せしによりて、此あたりを小名に岡と云り、此像霊佛にして古観音堂に安せし比、其前を乗うちするものあれば必落馬す、故に當寺に移すと云、當寺は暦應三年創造せりと、開山詳ならず、中興開山應永三十二年巳三月十日に寂せり。"

と、言うことですから、扇谷上杉朝興も訪れただろうと思いますが、面白いのは脇田義助の話ですね。吉川英治さんの私本太平記は大好きな本ので、思わず身が入ってしまいますが、1340年は、義助が四国に入った年ですから、奥州に下向はないでしょう。義助本人ではないのだろうと思います。

先を行きましょう。

滝の城です。

黒目川にかかる橋から滝の城を望む。高架の向こうの森が滝の城。

この城は、山内上杉家重臣大石氏が築城したと言われています。

扇谷上杉家ではないんですよね。

果たして河越城と深大寺城の連絡城として、扇谷上杉家に使われたんでしょうか???

1537年、北条氏綱が河越城を攻略。

1546年、有名な河越夜戦で、後北条氏は勝利を収め、大石氏は後北条氏に下り、滝の城は後北条氏の城となります。

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牟礼道です。

武蔵岡城です。

住居の向こうの森が武蔵岡城

この城も明確には、北条方だったか分かりません。太田道灌のひ孫の太田康資の居城という伝承もあり、康資の康は、北条氏康の康ですから、北条方なんですが、生まれたのが1531年ですから。

深大寺城と小沢城、世田谷城で丁々発止し、牟礼砦や烏山砦を作ってたのは1524~1546年。

康資、殆どの期間でまだ元服前ですね。

なので牟礼道は、江戸城を巡って丁々発止していた時というより、後北条氏が河越城を奪取し、河越夜戦でも勝った後、割と後半の軍道ということかもしれません。

先に進みましょう。

本仙寺です。

本仙寺

明治17年の過去帳によれば、創建年は天文元年(1532)で、開山は池上本門寺第九世恵眼院日純上人。旧境内付近からは宝篋印塔、板碑等が出土されていますが、このうち最古の年代は貞治五(1366)年であることから、少なくとも14世紀半ばには何らかの堂宇あるいは持仏堂の建立があったと推測されています。

と、いうことで、後北条氏も訪れたかもしれません。

境内に祀られてたオシャクジ様。恐らく近隣で見つかったものなんでしょう。

程なく、東円寺です。

東円寺

開基は詳細不明としていますが、いつの日か荒廃し、法印永慶という僧侶がその荒廃ぶりを見て嘆き、寛弘年中(1004~1012)になって再興に尽力したとありますから、平安に遡る相当な古寺です。

長禄・文明の頃(1457)に太田道灌がこの地を領有した際、寺近くに城を築き、薬師の威徳を崇めんと一時借り受けたところ、戻した方が無事幸いだと夢告げをみたという逸話もあり、この城は武蔵岡城でしょうから、と、なると、太田道灌、子の資康、孫の資高の居城でもあったでしょうから、で、あれば、資高は後北条氏江戸城奪取の立役者ですから、そうなんであれば、丁々発止していた時の、深大寺道に対抗する軍道だったということになりますね。

先を行きます。

泉蔵寺です。

泉蔵寺

風土記によれば、1328年に寂した法印慶誉寂心房を開山としているから、鎌倉時代ということになろうかと思います。1429年や1504年の板碑も発掘されています。

後北条氏も訪れたかもしれません。

次です。

子の神氷川神社です。

子の神氷川神社

風土記によれば、膝折の地名は小栗小次郎助重が賊に追われて馬で当地まで逃れて来たところ鬼鹿毛というその馬が膝を折って死んだことに由来するそうで。また昔高麗の城の落人5人が原野だった当地を開墾したともいいます。

廻国雑記には、1486年、ここで休憩した際に、この地に市が立てられて商人が集まっていたと記されていますので、後北条氏も訪れたことでしょう。

ここまで黒目川沿いに来ましたが、ここから黒目川からは離れ、白子川に向かいますが、それまでは武蔵野原野ですから、何もありません。

次は白子川沿いの妙福寺です。

妙福寺

以前ご紹介済みですが、この妙福寺を中心として、この辺りは日蓮宗の勢力が張った地区。

江戸城主北条綱高の末の弟は日蓮宗の僧で、牟礼に真福寺を開いていますから、この辺りの妙福寺を中心とした日蓮宗の寺は、後北条氏に協力的だったのではないでしょうか。

牟礼道は程なく神明通りにぶつかり、江戸時代の新田開発でスッカリ碁盤の目になってしまって牟礼砦までの道筋は分からす、ここで終了としたいと思います。

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深大寺道は多摩郡と新座郡の郡境道と重なりますので、一度行った道でしたが、視点が違ったので寺社を訪れることは無く、そういった意味では楽しめました。

街中癒やしシリーズ、後北条氏による世田谷城陥落を契機とした江戸城防衛ライン
街中癒やしシリーズ、多摩川における後北条氏水軍の痕跡

2018年11月18日日曜日

小野路道、その3, 武蔵国 小野郷

八王子横山から町田小野路へ行く道を小野路道と言う。何故そう言うかというと、小野路に行く道だからだ。では何故八王子横山から小野路に行かなければならなかったのか。小野氏を祖とし八王子横山を本拠とした横山氏が、その本拠から、小野牧別当として、管理地である小野路(後の小山田牧が小野牧の一部とした場合)に向かう為だった。

・・・と、言うのが前回までで、前々回は小野路道の本道を、前回は恐らく最も古い、平安時代の伝承を持つ白山神社のルートを行きました。

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さて、気になるのは小野路です。小野路は、"路"で既に道の意だから、小野に行く道という意味。地名としての小野路はその小野路沿いにある地という意味となります。

では、小野とはどこか。
  • 武蔵国総社六所宮縁起并社伝
    多東郡小野県を以て本国之府と為す。呼ひて府中と曰ふ也。・・・然るに大国魂の大神小野県に鎮坐するを以て、本国の総社と為す。
  • 新編武蔵風土記稿
    社伝に景行帝の御宇大己貴尊、小川郷小野里に降臨ありしを、里人私に祠を立て祀れり、成務天皇の朝に及て、兄多毛比尊国造を賜ひて此地に来れり、 庁府を開かれし時、大己貴命に素盞鳴尊等の五神を配して、始て宮社を建て祭れり、これを六所宮と称せり
と、あることから、大國魂神社があるエリア、武蔵国国府があるエリアが小野だと言えます。

では何故、小野路から小野に行かなければならなかったのか?

八王子横山と小野路は小野氏を祖とする横山氏で繋がってましたが、小野路と小野は、何で繋がっている? やはり、横山氏(小野氏)?

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小野篁の孫の小野美材の次男である小野利春がいます。養子に入り高向利春と称したんですが、この小野高向利春は、延喜五年(905)八月、宇多上皇に秩父牧の馬を御覧にいれました。小野高向利春は秩父牧の牧司だったんです。

その後、小野高向利春は、延喜十年(910)になると武蔵国司の三席、権小掾となり、翌年には、武蔵国司次席の武蔵介になります。さらにそれから四年後の延喜十八年(918)、武蔵守になります。

高向氏に養子に入ったとは言え、小野妹子や小野篁を輩出した名門小野氏の出。高向氏の高向玄理は遣隋使 小野妹子の留学生として同行したと言いますから、小野氏の方が格上だったんでしょう。格下の高向氏に養子入りし、東国に下向もして、辛酸をなめてきたと思いますが、ようやく、武蔵国のTopになったわけです。

武蔵国のトップとなった小野高向利春は、"小野氏"色を強めていったのではないでしょうか。

924年には、小野氏族の小野隆泰が武蔵守となります。小野高向利春の次の次です。小野隆泰は都から来たんですが、小野高向利春の影響もあったと思います。

その後、小野隆泰の子、義隆は、八王子横山に土着し横山氏を名乗ります。

更に、義隆の子、資隆は、1004年、小野牧の別当となります。

やはり、小野路(地名)と小野は横山氏で繋がってたんですね。だから、小野路(道)が出来た、と、こういう訳です。

こうなると八王子横山と小野とを直接結ぶ道も出来たでしょうが、それが、甲州道中の元になったのではないでしょうか。

まぁでも、府中に行く道だから元々あった可能性の方が高いですかね・・・
でもその場合、府中道と言った方が通りが良いと思いますが、敢えて、小野路と言っているのは、国府ができる前からあったからですかね?!

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さて、大國魂神社の至近に小野神社があります。しかも2社。これらの小野神社ですが、実は祭神も、創建年も、全く同じです。では何故2社あるのか、しかも多摩川を挟んではいるものの至近で。

謎ですね。

これについては諸説あるようですが、先の新編武蔵風土記稿には、

"東殿の三神は櫉扉に印記して、一乃宮小野客来三所瀬織津比咩天下春命倉稲魂神とあり、 一乃宮は即ち多西の一乃宮村祭神天下春命なりと云ふ、小野は本宿村小野神社祭神瀬織津比咩なり、今なを二社各村に其祠宇あり、何の故ありて何かの世神坐を当社に移して、合殿に祀りしや其来由を詳にせず"

と、あり、多摩市一宮の小野神社の祭神は天下春命、府中本宿の小野神社の祭神は瀬織津姫と、祭神が異なっていて、名前こそ同じながら、別の神社だということになります。

また、宝亀三年(772)九月に神祇行政を司る神祇省に対する太政官符が出てるんですがそれでは、

”右、去年九月二十五日、武蔵国司の解を得た。今月十七日、入間郡の正倉四宇に着火し、焼くところの糒穀惣じて一万五百壱拾参斗消失す。百姓十人たちまち重病に臥し、頓死二人なり。卜占するに、郡家の西角にある神、出雲伊波比神が祟りて云く、我常に朝廷の幣帛を受給う。しかるに頃年の間給わらず。これにより郡家内外にあるところの雷神を引率し、この火災を発すなり。よって祝外大初位下小長谷部広麿を勘問するに申して云わく。実に常に朝廷の幣帛を奉る神なり。しかるに頃年の間給ひ下さず。よって案内を検するに、去る天平勝宝七年十一月二日の太政官符に云う、武蔵国の幣帛に預かる社四処、多摩郡小野社、加美郡今城青八尺稲実社、横見郡高負比古乃社、入間郡出雲伊波比社なり。官符に灼然なるも、時々幣帛を奉るに漏れ落すもの。右大臣宣す。勅を奉はるに、例によりて施行せよ。官宜しく承知し、勅に准じて施行せよ。符到らば奉行せよ。”

また、772年当時は、小野神社は、雷神を祀っていたことが分かります。雷神といえば瀬織津姫ですから、府中本宿の小野神社のことを指しているのか、あるいは、多摩市一宮の小野神社にも実は瀬織津姫が祀られていたのかのどちらかだということになります。

では何故、多摩市一宮の小野神社の祭神が天下春命に変わったのか。天下春命は秩父国造の祖なので、秩父から来た小野高向利春が祭神に加えたのかもしれません。

でも小野氏の祖は天押帯日子命なので、この推定は無しかな・・・

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と、いうことでその3となる今回は、小野路のゴール、武蔵国 小野郷をExplorerしたいと思います。

滝坂道→甲州道中でまずは大國魂神社です。

七五三で賑わう大國魂神社

ここの東殿に多摩市一宮小野神社の天下春命と、府中本宿小野神社の瀬織津姫が祀られてます。

古甲州道で府中本宿小野神社へ。

非常に静かな府中本宿小野神社、瀬織津姫が主祭神

新田義貞と同じく、関戸橋を渡って続いて多摩市一宮小野神社へ。

多摩市一宮小野神社、主祭神は天下春命

続いて、多摩一宮小野神社の別当寺だった今はもう無い松蓮寺に、松蓮寺道で向かいます。ここが良かった。

真中の馬頭観音の土台に、"八景山松蓮寺道"と刻まれている。
切り通し
土道で残る古道

百草八幡に着きました。平安の頃には既にあったようです。

百草八幡
鎌倉時代の旧参道

以上です。

2018年11月11日日曜日

小野路道、その2, 白山神社を通る最も古いルート

前回の小野路道のその2です。

小野路の"路"も道の意味だから、"路", "道"と重なってる不思議な古道名です。小野路に行く道だから小野路道なんですが、小野路という町が小野(小野郷、今の府中小野神社、多摩小野神社がある辺りか?!)に行く道にあるから小野路なのでしょう。確かに、小野路は鎌倉街道上道や東海道が通っていて府中に向かっています。

既述の通り、小野路道は小野路に行く道なんですが、ではどこから小野路に行く道なのかと言えば、八王子横山です。では何故、八王子横山から小野路に行く必要があったのか、それについては前回一応の見解を記載しています。

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さて、復習も終わったところで、今回のExplorerのご報告です。この地図にあるように、小野路道は幾つかのルートが考えられます。



始まりと終わりは同じなんですが、浅川と大栗川の間の尾根をどう越えるかで分かれます。本道は濃い紫と思われます。その後は長沼公園を抜ける黒線、明治13年の古地図では両実線と県道クラスの道でした。その後は薄紫、明治44年頃の地図ではこっちの方が県道クラスとなっています。

で、今回は藍線を行きました。沿道に白山神社があり、最も古い道だと思われる道です。

この白山神社は、平安時代に比叡山西搭の僧、あの武蔵坊弁慶の血縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の一社であると伝えられています。文政九年(1826)春、社殿裏の塚より法華経十巻が発見され、その経巻の奥書に、"大歳甲戌、仁平四年(1154)九月時許於 武蔵国西郡船木田御庄内長隆寺 西谷書字了勧進僧弁智血縁者僧忠尊"とあり、村人の伝承が裏付けられました。

八王子中山白山神社
経巻の奥書のあった長隆寺の礎石

さて、今回のハイライトはこの道を見つけたことでした。

明治13年の古地図に小径(徒歩)として描かれている道、平安時代に遡れるかも

Webでいっくら探しても出てなかったので諦めてたんですが、現場で見つけました。これが古道Explorerの楽しみの1つです。

青マーカが白山神社、そこから南東に行く点線が今回発見した古道です。

ではまた

2018年7月22日日曜日

Inokashira Michi, an ancient road of Tokyo


This Edo era signpost is to indicate the way to "井之頭辨財天(Inokashira benzaiten)" temple.

The road from Edo downtown to "井之頭辨財天(Inokashira benzaiten)" temple was called "井之頭道(Inokashira Michi). And a lot of Edo era signposts are still remained along Inokashira Michi.

Let's go to "井之頭辨財天(Inokashira benzaiten)" temple by Edo era signposts!!!


The 2nd signpost is this. As you can see, this is a fork road. Usually Edo era signpost is placed like this.

One more thing, the left road is bigger than the right road. But look at the following map drawn in 1880's. The left road is 1 solid line which means just a "path" and the right road is 1 dotted line and 1 solid line which means "village road". So it's reverse situation, interesting.

One more, the area between the left and right road was "畑(Hatake, Vegetable field)". Look at the photo!!! Still the field!!!




This is the 3rd one. Let's take a look at the rectangular one. "右井ノ頭道(Migi Inokashira Michi)", which means "Make right to Inokashira Michi." is written. But don't follow actually because of that it was moved from the original spot.

By the way, the 1st signpost is pure signpost, but the 2nd and 3rd signposts are originally "庚申塔(Koushin Tou)". "Tou" means "Tower". Yes, very very low tower, but in Japanese, this shape, rectangular is sometimes called like that. Anyway, "Koushin" is a religion. Originally it was from China, "道教(Doukyou, Taoism)" developed in Japan. Koushin Religion is that 3 types of vermin live on a human body, this vermin report every 60 days to "天帝(Tentei, Chinese god of hosts)" evil deed of the host during sleeping, by that the host lifetime is shortened. So followers thought that "During sleeping?" OK, let's have overnight party. By this custom, Koushin Religion became popular. And Koushin Religion connected with Shinto. "申" of "庚申" is "猿", "猿" is suggestive of "猿田彦大神", a Japanese god. "猿田彦大神" is a guide in Japanese myth. That's why "庚申塔" combines signpost function and is placed at junction.


This 4th one is also ”庚申塔”, but combines "題目塔(Daimoku Tou)". "題目塔" is a tower of "日蓮宗", a sect of Japanese Buddhism.


This is not a signpost. But let me introduce. Focus on the left one describing "道供養之塔(Michi Kuyou no Tou)". This is interesting, kind of funny, for even present Japanese people. "道供養之塔(Michi Kuyou no Tou)" means that holding a memorial service for roads. Because roads are always trodden on.

Do you know these stories?


  1. Ichiro Suzuki who is a top pf top major league baseball player has the habit of cleaning up his baseball goods everyday. Of course he can employ somebody.
  2. Russia World Cup Football, there are 2 stories. No. 1  is that Japanese supporters clean up their stadium after the game. No. 2 is that Japan National Team members also clean up their locker room.
I think that the origin of these "道供養之塔(Michi Kuyou no Tou)" and 2 stories is same. Japanese people are awed by tools for work.



Finally arrived at "井之頭辨財天(Inokashira benzaiten)" temple by Edo era signposts.

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Just 10 km short trip from my house, but there are many interesting things in this trip.


  1. Many Edo era signposts remain and by that even the present era, can reach to objective place. That means not so many changes between Edo era and the present era about roads.
  2. The image of the present Japanese people is that very serious, don't make merry. But ancient Japanese people were not, rather party people.
  3. Japanese people have accepted 道教(Doukyou, Taoism) and Buddhism and then combined and mixed with Shinto. The reason why Japanese people can do such things is feeling of awe. Japanese people are awed by many types of things even tools, furthermore foreign country religion.

2017年12月11日月曜日

武田信玄小田原攻め、退路

1569年の武田信玄小田原攻め、その進軍ルートは、これまで、以下のようにご紹介してきた。

信玄旗本ルート
先衆ルート
二ノ手ルート

今回は退路である。



退路は2つのルートが使われたようだ。一つは三増峠、もう一つは志田峠。

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この退路は単なる退路ではなく、ここを舞台に戦国時代最大の山岳戦と言われる三増峠の戦いが繰り広げられたのですが、それについてはたくさんの戦国ファンがご紹介しているので、是非それらを参照頂きたいと思ってます。

私が今回のExplorerで何より感じたのは、残念ながらそのような歴史ではなく、と、言うよりはそれを大きく上回って、河岸段丘が作り出す景色の美しさでした。

では時系列でご紹介します。

三増峠。トンネル手前に入口があり、勾配、足場、共に、結構険しい登りを経て辿り着きました。15分ほど頑張った後、険しい登りを鋭角に左折するといきなり開けこの典型的な峠ビューです。通行止めの看板以外は完璧でした。計画ではこのまま前進でしたが、この後、仕方無く、険しい道を戻りました。
三増峠から戻って、三増峠の戦いの碑です。この碑がある山裾で戦いが繰り広げられたそうです。碑の向こうに見える山が、信玄が陣取った中峠です。
志田峠に向かう上り。三増峠は本当に急峻で、だから真っ直ぐには上れず、九十九折だったのですが、こちら志田峠は勾配が緩くほぼ真っ直ぐに上っていきます。整備されたダブルトラックが峠手前まで続きます。
志田峠。ここを左折すると峠なんですがその手前を振り返って。
でもここで熊出たんですか、、、
下りは全面舗装路だったので一気に。で、韮尾根のこの絶景です。
最後は長竹の信玄道です。河岸段丘の美しい風景が続いてました。
今度は桜の季節に再訪したいです。

2017年12月5日火曜日

小野路道

小野路道

という道がある。

八王子と小野路を結んだ道なのだが、現在の野猿街道が、昭和の初めまで小野路道と言われていたようだ。

野猿街道は八王子と一ノ宮を結んでいるが、と、いうことは、堀之内の辺りから小野路に向かっていたと思われる。

小野路道の謂れは何なのか。何故、八王子と小野路を結ぶ必要があったのか。

  • 延長2年(924年)、武蔵守、小野隆(孝)泰は、武蔵国多摩郡横山に、石清水八幡宮を勧請し八幡神社を創建した。
  • 天禄年間(970~973年)、国司として武蔵国に赴任した小野隆(孝)泰は、小野路に先祖小野篁を祀る小野神社を創建した。


若干の矛盾(延長2年と天禄年間では約50年も間が空いている。人生50年の時代に無理がある。)はあるものの、八王子と小野路は小野隆(孝)泰で繋がっていたのだ。

でも何故、小野隆(孝)泰は、”小野路に”小野神社を創建したのか。

そもそもこの小野隆(孝)泰とはどんな人物か。

小野妹子や小野小町、上記の小野篁を輩出した小野氏一族で、篁の七代後。子は義隆(孝)で、横山党の始祖となった。

この義隆(孝)は、情報が錯綜しているのだが、一説によると、天慶2年(939年)に勅旨牧の一つである小野牧の別当になっている。父隆(孝)泰がバリバリ働いてる時だし、小野神社創建よりずっと前だし、と、年代的におかしいからどっちかの情報がおかしいんだろうが、いずれにせよ、小野一族が小野牧の別当になったということだ。

少し時代は下って平安末期、小野路のすぐ西隣の小山田にも牧があった。

小野牧は相当規模が大きかったようで、小山田の牧もその一部だったとしたら、横山も小野路も小野(横山)一族の管理地だったということになり、小野神社を、小野路に建立したのも合点がいくというものだ。

今回はその小野路道をExplorerしてきた。下図のように複数ルートが考えられるが、今回は本線の黒~紫~黒のルートを行った。

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Explorerのスタートはやっぱりここです。

八幡八雲神社

八幡八雲神社には、横山氏の祖、横山義隆(孝)を祀る横山神社があります。

横山神社

山田川に架かる橋の名は小野路橋でした。

小野路橋

先を行くと古道の証、地蔵が佇みます。

古道の風景、サンタ

この直ぐ先はJR横浜線と京王線の踏切ですが、名前が良いです。この古道沿いで、先の橋とこの踏切が、唯一の小野路道の目に見える痕跡です。

野猿街道ではなく、小野路街道の名が残る踏切

北野駅の手前には、横山党の一族が創建したという北野天満宮があります。これも痕跡ですね。

銀杏の落葉が美しかった。

さて、ここからえっちらこっちら上りに入ります。住宅街の中、と、今一つ、趣にかけますが、それは気の持ちよう。1,000年前、小野路道が成立していた頃を想像しながら坂を詰めます。

住宅街の旧道を上ると、絹ヶ丘二丁目手前に出ます。

さて、ここからなんですが、

これは現代地図

現代地図
これは明治42年

明治42年

野猿峠は今とほぼ同じ道筋ですね。

でも、これは明治13年なんですが、

明治13年

今の道筋は全く見つけられませんね。
今の道筋(薄紫)の一本東の道筋(紫)だけです。つまり、明治13年から42年までの間に道が現在の道筋に付け替えられたというわけですが、今回は1,000年前の小野氏・横山氏ゆかりの小野路道ですから、紫を行きます。でもその前に、これを。

水飲み場

これも正面に見えるモチーフが猿ですから、野猿峠と言われるようになってから作られたものだということになり、1,000年前は野猿峠とは呼ばれてないから、こちらの道筋は小野路道ではないということが分かります。

さて、小野路道に戻って、住宅街の中をえっちらこっちら坂を上り詰めると、長沼公園の絶景に辿り着きますが、今日は地元のボーイスカウトが入団式をやってて、絶好のランチ場が使えません。仕方が無い、写真だけ取って先へ。

小野路道、長沼公園入り口
癒される~

折角上ったのにあっという間に下り、気が付けば、横山氏にも所縁の永林寺です。

永林寺、赤門

永林寺を過ぎると大栗川沿いのつまらない道になります。道は、堀之内の辺りから南に折れていたと思われますが、今はゴルフ場です。その後、よこやまの道、小野路浅間神社を経て、小野路に至ります。

小野路浅間神社裏、切り通し

この道はこの先横浜麻生道路に接続します。つまり、絹の道でもあったわけです。
また、長沼峠を通るルート(こっちの方が大きな道だ、明治13年地図では)や勾配のきつい野猿峠越えではなく白山神社迂回ルートもあるようで、今後も楽しめそうです。