2021年5月1日土曜日

日本のシルクロード、町田街道沿い、椚田~淵野辺

日本のシルクロードシリーズ、前回は、本道とも言える、

八王子 → 鑓水峠 → 町田街道 → 八王子街道 → 横浜港ルート(下図黒線)

の、打越弁財天から浜見場までを行きました。

今回は、

椚田 → 大戸 → 津久井 → 津久井道 → 八王子街道 → 横浜港(下図青線→黒線)ルート

の、椚田~大戸を行き、大戸から、八王子街道(町田街道)を淵野辺まで行きます。

下図の赤ポイントは養蚕縁の寺社、青ポイントは寺社以外の養蚕縁の遺跡、つまり世界一となった生糸輸出のシルクロードの痕跡ですが、ご覧いただいてお分かりの通り、八王子街道(町田街道)沿いに多くあります。ここを行きます。



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高尾まで輪行。椚田から八王子街道(町田街道)を南へ。勿論旧道を行きます。

八王子街道(町田街道)旧道、椚田からここまでズンズンと登り、ピークからの下りがここで、山の中腹をトラバースする道でした。

大戸から川尻には向かわず、八王子街道(町田街道)を東へ。直ぐの所に子ノ神社があります。

入口が分かりづらいです。財団法人の敷地に入り、すると奥に参道の階段があります。さて、どうでしょう?!, 雰囲気良くないですか?

はい、前回も登場しました子ノ神社(鑓水諏訪神社)。

何故、子ノ神社が養蚕守護なのか。

前回は、子ノ聖 → 子ノ神 → 鼠となり、鼠に対して、"どうか繭を食べないで下さい。", という方向性の信仰なのではないか、と、結論付けました。

また、養蚕守護とは無関係ですが、"何故、この地に子ノ聖信仰が", という点に対しては、飯能の天龍寺から、絹の道を通ってこの地に伝わってきたのではないか、と、結論付けました。

こちらの子ノ神社はどうでしょうか。

1536年の創建です。

祭神はやはり子ノ聖でした。

絹の道を通って、生糸だけでなく、子ノ聖信仰も伝わってきたんですね。

あるいは逆かも。っていうか逆ですね、神社創建時期を考えると。いや、当時から生糸は流通してましたね、北条氏照の桑都青嵐もあるし。

何れにせよ、道ができれば人が通る、人が通ればモノだけでなく文化も行き交うということですね。

さて、祭日は220日でした。220日のお祭りとは、立春から220日後の日にお祭りすることですが、この日は台風が多く厄日とされ、風を鎮めるお祭りをしたのです。

と、言うことで養蚕守護には関係無さそうですね。

が、その後、昭和35年頃に祭日を4月に変更したのですが、その理由が、220日辺りは養蚕が多忙でお祭りどころではなかったから、ということですから、この辺りは養蚕が盛んだったということは確かなようです。

先を行きましょう、園林寺です。

素晴らしくキレイで手入れが行き届いていることが分かります。清々しい気分にさせてくれました。ありがとうございました。

1428年の開創、本尊は地蔵菩薩立像と阿弥陀如来坐像で、鎌倉時代の作とも言われています。

北白川宮能久親王の護持仏であった元三大師像も祀られており、元三大師ですから元旦と正月三日にだるま市が開催されます。

日本のシルクロード、世田谷周辺、深大寺編でもご説明しましたが、だるまは養蚕守護となりました。

深大寺は1646年にその殆どが焼け落ちたという火災に遭いますが、元三大師の像だけは火難を免たということがあり、この霊験が、七転び八起きのだるま信仰と習合し、だるま市が開かれるようになります。

さて、蚕は繭を作るまでに4回脱皮しますが、この脱皮のことを、"起きる" といいます。

この、"起きる" と、だるまの七転び八起きが習合し、養蚕農家は、だるまを大切な守り神として祀ってきたのです。

また、園林寺には蚕影尊(コカゲサシ)も祀られています。養蚕の守護神で、4/24が祭日。お祭りが終わると住職からお札をもらい、各戸に配り、シラガミサマと呼んで祀ったのです。(残念ながら境内では見つけられませんでした。恐らく中です。)

シラガミサマとはオシラサマのことで、日本のシルクロード、世田谷周辺、杉並区編でも説明しましたが、中国の捜神記(東晋時代、317~420年)が東北地方を中心に入ってきて若干変化したオシラサマ伝説における神様のことです。養蚕守護となっていきました。

と、言うことでここ園林寺は相当な濃度の痕跡ということになります。

先を行きましょう。

八王子~七国峠~津久井道ルートを越え、八王子~杉山峠(御殿峠)~厚木街道ルートを越える付近で、瑞光寺を訪れます。

こちらも素晴らしく手入れが行き届いているお寺でした。ありがとうございました。

風土記によれば、

開山を聖山大祝と云ふ(天正十九年三月十六日寂す)開基は瑞光月心と傳ふ(俗稱を勘十郎と云ふ、天正十四年十月三日死す、武州多磨郡下相原村の民、五左衛門の祖なり)

ですから、天正かその前の開創と思われます。

同じく風土記には、

蠶影山(仏加介左牟)権現第六天合社。権現は常州筑波山麓、桑寺境内の社を勧請すと云ふ。

と、ありますから、養蚕守護だったんですね。(こちらも残念ながら境内では見つけられませんでした。)

また、直ぐ近くの旧道沿いには蚕種石があります。

蚕種石、平成31にこの地に移設したとのこと。以前は民家敷地にあった。

八十八夜近くになると石の色が緑色に変化し、蚕を孵化させる時期が来たことを知らせたと言います。八十八夜の日には幟が立ち参詣人で賑わったそうです。

訪れた日は偶然にも八十八夜の日。緑色になってますか・・・ね、、、。

この蚕種石がある地区はナント!!!, 字名が、蚕種石なんです。

皇武神社

先を行きましょう。

前回行った本道に出合います。ここには札次神社があり、ここにも、蚕種石が祀られています。

蚕種石

町田の民話と伝承によると、ここ札次神社は鹿島神宮を奉遷した神社なんですが、その時期は詳らかならず、です。

寛文6年12月(1666/12)には検地を受けていますので、その前には創建されていたということになりますが。

が、ここの蚕種石は、弘治年間(1555~1557)に、小山町三ツ目の島崎家の祖先が土着した際、この石を持ってきたと伝えられています。

当初、石は小山町字町有の裏山の俗称瓦尾根(今の尾根緑道)の路傍に祀って、武運長久と子孫繁栄を祈願したといいます。

このようなことから、"子"種石と呼ばれるようになったとのことでした。

養蚕が盛んになってくると、"蚕(やはり、"こ" と読む)"種石として、信仰篤く祀られたそうです。

札次神社は鹿島神宮で、島崎氏は鹿島神宮の代々社家ですから、弘治年間にこの地に落ち延びてきた時に開いて、その時に"子"種石も持ってきた、後に養蚕が盛んになってくると、"蚕"種石として信仰された、という解釈なら筋が通りそうです。(そう言えば先程の1つ目の蚕種石の前の屋敷は島崎家でした。)

先に進みます。札次神社の南、蚕影神社です。

蚕影神社

宮下自治会館に祀られているんですが、明治8年(1875)に会館後、いつの頃か、ここに祀られたとのことです。

先に進みます。本覚院中村不動尊です。

中村不動尊参道前の馬鳴菩薩文字塔

中村不動尊は、明治20年開山ということですが、風土記にも記載されているので、少なくとも江戸期には存在していたということになります。

木曽の覚圓坊の末ということですから、覚圓坊は1351年に園城寺から移転してきてますから、最大ここまで遡れることになりますね。

本山修験なので、明治の廃仏毀釈で一旦無となったはずですが、明治20年に村民により再開されたということですから、明治20年というと廃仏毀釈直後と言ってもよく、余程の信仰があったのでしょうと想像します。

馬鳴菩薩は、貧民の衆生に衣服を与える菩薩として、仏教の伝来と共に日本に伝えられました。

衣服を与えるということから、養蚕信仰に繋がっています。

先に進みます。建久年間(1190~1199)創建の上矢部総鎮守御嶽神社の境内社、蚕影神社です。

向かって左が蚕影神社

一気に行きましょう、先に進みます。持法院常盤不動尊です。

左が日枝神社、右が常盤不動尊

良いですね。

天台宗系の本山修験である常盤不動尊と天台宗の守護神日枝神社が並んでます。

その間に、蚕影神社があります。

蚕影神社

先に進みます。箭幹八幡宮です。

箭幹八幡宮

町田市史によれば、推古24年(616), 勅令によって勧請されたと、八幡宮記(この神社の記)にある古社です。康平5年(1062)には源八幡太郎義家が先勝を祈願したとの伝承もあります。

現存する本殿および随身門は享保5年(1720)の建造ということで、養蚕の時代に入るずっと前から地域の崇拝を集めていたのだと思います。

ここに、御子守神社があります。

御子守神社

子 = 蚕で、蚕を守る神社に、御が付いて御子守神社ですね。

まだ続きます。先を行きましょう。ヤマトタケル伝承がある古社、皇武神社です。

皇武神社境内社の蚕影神社

ここにはオキヌサマの伝承があります。

昔、淵野辺の蚕を飼っている農家で、その一番忙しい時に、働き手の嫁さんが急に熱を出して寝込んでしまいました。

困った農家のおじいさんは、近くの皇武神社の神主さんの所に頼みに行きました。

神主さんは、

『お宅の嫁さんが一日も早くよくなるよう、特別にご利益のあるお札をあげよう。』

と言って帰しました。

次の朝、不思議なことに、神主さんの娘が手伝いに来てくれたのです。

娘はよく働き、家中がぱっと明るくなりました。

間もなく嫁さんの病気も治り、蚕の繭の出来も上々でした。

農家のおじいさんは娘を連れてお礼にきました。

神社の前に来ると、娘は急にひとりで拝殿の方に入っていきました。

変だと思って見ていると、娘は白蛇に姿を変え、中に消えてしまいました。

驚いておじいさんは、一部始終を神主さんに話しました。

『それは神様が私の娘に姿を変え、手伝いに行ったのだ。日頃よく信心するおかげだ。』

と、神主さんは言いました。

それからこのことが評判になり、皇武神社のお札は、"オキヌサマ" と言う人形と一緒に、もらいに来る参拝の人で賑わったそうです。

このオキヌサマ信仰は、秩父にもあるそうです。子ノ聖信仰がこの地に流れてきたことと相通ずるところがありますね。

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に、しても、濃いですね、養蚕痕跡濃度が。

GoogleMapsを見ても、赤 / 青ポイントの密度が最も高いエリアです。

八王子から南に下るルートは、本道の鑓水峠、杉山峠、七国峠、恋路坂(椚田〜大戸)ですが、それらが八王子街道(町田街道)に出合うのがこのエリア、だからでしょうか。

また、子ノ聖信仰とオキヌサマ信仰が生糸と共に秩父・飯能とこの地を結んでいるという点も非常に興味深いことでした。

長くなりましたのでこの辺で

次回はこの続きで八王子街道(町田街道)を横浜方面に進みます。

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