それにしても歪(いびつ)ですよね。
画面真ん中やや左、南北に伸びる線が多摩郡と新座郡の郡境(西が多摩郡、東が新座郡)なんですが、"角" が3本多摩郡側に突き出ています。
これは何なんだということになりますが、これまでのこのシリーズ(1, 2, 3)で得た知見からすると、川の水源があるのでは?, ということになりますが、果たしてどうなんでしょうか。
これは何なんだということになりますが、これまでのこのシリーズ(1, 2, 3)で得た知見からすると、川の水源があるのでは?, ということになりますが、果たしてどうなんでしょうか。
南から見て行きましょう。
で、上保谷 "新田" と、あります。
これは、上保谷村が新田として開発したエリア(村)ということでしょう。
この辺りで新田開発と言えば、以前ご紹介したコレからもお分かりの通り、江戸時代の明暦の大火、玉川上水の開削に伴う新田開発と思われますが、どうでしょうか。
これは、上保谷村が新田として開発したエリア(村)ということでしょう。
この辺りで新田開発と言えば、以前ご紹介したコレからもお分かりの通り、江戸時代の明暦の大火、玉川上水の開削に伴う新田開発と思われますが、どうでしょうか。
調べてみますと、風土記には、
- 本村の民伊右衛門なる者開発せり其年歴詳ならす、地形は東の方へ長く千川上水の水涯に至り凡十八町許西は多摩郡田無村に隣れり、江戸を離れること六里
- 上保谷新田は郡の東北にあり、享保年中上保谷村より開きし故に斯唱えしか
享保年中ということですと、明暦の大火とは無関係ですね、1657年ですから。
1722年に、あの、大岡越前が責任者となって始まった武蔵野新田開発ということになります。
阿波洲神社は、1722年から開発が始まる武蔵野新田の一つ、上保谷新田の鎮守神として、1752年に、粟嶋明神を勧請して始まりました。新田開発の痕跡ですね。 |
と、言うことは、このあまりにも歪な形、もしかしたら、新田開発の為、西に延長された故の角、という可能性がありますね。
つまり、律令時は素直に紫線が郡境で、武蔵野新田開発時に、黒線の状態まで拡張された、と。
水は玉川上水(1653年)と千川上水(1696年)を使ったのだと思います。
先に行きましょう、真ん中の角です。
真ん中の角 |
ここにも川はありません。
下保谷村とあります。角の付け根部分も下保谷村。
調べますとこちらもやはり享保の改革に伴う新田開発で、角の東にあります下保谷村が、切添で開発した新田とのことでした。
切添とは、既にある耕地の奥を地続きで開発することだそうですから、もう、ドモロ、そのまんまですね。延伸したんです。その結果、角になった。
しかし、よく見て下さい。
開発されたはずが、明治13~19年ですから、江戸時代が終わってから10数年しか経ってないこの時期に、畑は無く、雑木林のままです。
このことから、切添で下保谷村が新田開発しようとしたものの、水が確保出来ず、断念したことが想定されます。
ラスト、北の角です。
北の角 |
こちらには野火止用水がありますね。
野火止用水開削後、新田開発されたのではないでしょうか。
と、調べてみると、若干違いましたが、ほぼ、そのようです。
榎本弥左衛門の萬之覚によると、玉川上水の工事が命じられた1653年、川越藩主老中松平信綱は、野火止に新田を開発しようと、50軒程の農家をここに移住させました。この時に出来たのが野火止村、西堀村、菅沢村、北野村ということです。
野火止用水はその2年後に開削されてますから、それより早く開発し始めたということですが、本格化したのはその頃からと思われます。
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さて、3本の角の原因は分かりました。
同時に、江戸時代の新田開発前の、ですから恐らくは758年の新座郡成立時の郡境も分かりました。
が、そもそも、何故、ここが多摩郡と新座郡の郡境になったのか?
武蔵国と相模国の国境は東京湾と相模湾の分水界でした。
荏原郡と豊島郡も分水界。荏原郡と多摩郡も同じ。新座郡と豊島郡も。
豊島郡と多摩郡は、神田川の支流部分と本流部分で分けていました。
何れも川、つまり、水、水の利用権を行政界としていたわけです。
この流れで言えば、新座郡と多摩郡も・・・と、思いたくなりますが、全く、そうではありませんね。
柳瀬川、黒目川、白子川がありますが、全て基本的に西から東に流れてますから、この郡境は柳瀬川と黒目川を横断してます。
川、水じゃないなら、何?
この問に対しては、大胆な仮説をご提案したいと思ってます。
この郡境は、川や水、つまり水利で引かれたわけではありません。
この郡境道は、深大寺エリアから新座郡への、高麗人(高句麗人)の移住の道だったのです。(ジャジャーーーーーン)
深大寺縁起
どこからともなくこの地に現れた、深大寺を開いた満功上人の父福満が、郷長温井右近長者の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵の故事を思い浮べ、深沙大王に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父温井右近長者も母虎もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。
長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、遣唐使で南都に法相を学び、帰郷後、この地に一宇を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(733年), これが深大寺開創の伝説であります。
※深大寺サイトより
深大寺縁起
どこからともなくこの地に現れた、深大寺を開いた満功上人の父福満が、郷長温井右近長者の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵の故事を思い浮べ、深沙大王に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父温井右近長者も母虎もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。
長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、遣唐使で南都に法相を学び、帰郷後、この地に一宇を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(733年), これが深大寺開創の伝説であります。
※深大寺サイトより
深沙大王 |
深大寺、深沙大王寺 |
祇園寺、祇園寺は、満功上人の祖父母、温井右近長者と虎の館跡との伝承があります。 |
虎柏神社、589年創建との伝承が残る古社中の古社で、延喜式論社でもあります。また、深大寺開山の満功上人の祖母虎を祀っているとも言われています。また、元は "高麗" 神社で、"高麗" が、"狛" となり、祖母虎を名も付して、今の虎狛神社となり、誤字で、"柏" となったという説もあるようです。しかしなぜ北向きなんでしょうか。深大寺を向いている、そういう気がしてしまいます。 |
こんなこと言ってる人、誰もいません。私の大胆な仮説、妄想と言っても良い。
が、私なりの根拠は以下の通り。
- 深大寺エリアは高麗人の伝承が色濃く残るエリア
- その深大寺エリアから、真北に真っ直ぐ行くとこの郡境道に乗り、行き着く所が小榑村や駒(高麗)形権現など、やはり、高麗人伝承が色濃く残る新座郡
- 真北と言えば、やはり、高麗人の伝承が色濃く残る大磯から高麗郡への想定移住ルートが、キッカリ真北の位置
- 716年、高麗郡設立時に、上記3のルートで、高麗郡郡司として高麗人をリードし、移住プロジェクトを完遂させたのは高麗 "玄武" 若光で、玄武とは北の守護神。つまり、高麗人にとって、真北というのは大きな意味がある。
新座郡は最終的に新羅人を移住させる為に出来た郡だったんですが、その前は、武蔵野原野で、開発の為に、試験的に渡来人が次々と送り込まれていたんでしょう。
その中で、深大寺エリアから、新座郡の小榑村を中心としたエリアにも移動があったのではないでしょうか。
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如何でしたでしょうか。
新座郡と多摩郡の郡境を巡るexploreだったわけですが、3つの角の経緯から、1,300年前の武蔵国の様子が透けて見えてきましたね。
新座郡側が、あのように延伸しても、多摩郡としても別に構わなかった、それほど、不毛の地であったということ。
武蔵野台地が如何に水に苦しんできたのかが分かります。
そして時代は下り、江戸時代の新田開発ですね。
あれ?, 渡来人に開発させたんじゃなかったっけ?, と思いますよね。
やっぱり水が無く開発しきれなかったんだと思います。それほど厳しい土地だった、武蔵野台地は。
渡来人は水が豊富で低地部分が広い白子川、黒目川、柳瀬川河口付近に集中して住んでたんじゃないかと思います。
また、新田開発しなければならないほど、江戸の町が人で溢れかえったということです。その背景には平和があったんでしょう。
また、新田開発しなければならないほど、江戸の町が人で溢れかえったということです。その背景には平和があったんでしょう。
いやぁ、面白い。
皆さんも是非!!何ならツアーします。
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