2020年5月10日日曜日

多摩川における後北条氏水軍の痕跡

田園調布八幡神社に行ってきました。

田園調布八幡神社

境内掲示による由緒です。

"創建
 田園調布八幡神社の創建は鎌倉時代の建長年間(西暦1249〜1256)と伝えられる。この時代、鎌倉幕府は執権の北条氏が実権を握り、国内基盤固めを行っていた。各地で武士達はもとより村人達も幕府に忠誠を尽くす意味もあり、源氏の氏神を祀る八幡信仰が盛んで、多くの八幡神社が建てられた。
 当時、この村の西側、現在の雙葉学園南側の盆地は篭谷戸(ろうやと…今もそう呼ぶ年配者もいる)と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔々と打ち寄せる自然の良港であり、物資を積んだ舟が盛んに出入りしていた。また、この村の高台部分には東より西へ貫いて鎌倉街道が通り、篭谷戸の港に接続していた。港を中心としてこの一体には多くの鎌倉武士が駐屯し、鎌倉街道の要衝の地となっていた。そして、この八幡神社の地は港の入口に突き出した台地で、舟の出入りを監視できる重要な場所であった。鎌倉武士はその重要な場所に祠を建て、八幡神社を勧請した。以来、この八幡神社の地は聖地となり、人々に崇められてきた。

中興
 天正十八年(西暦1590)小田原北条氏滅亡後、八王子城主、北条氏照の旧臣、落合某がこの村に庵を結び、主家の冥福を祈った。そして、寛永年間(西暦1624〜1644)落合某の孫、落合弥左衛門らによりこの聖地に新たな社殿が創建され、ご神体が祀られた。
 江戸時代、この神社は武蔵国荏原郡世田谷領上沼部村に属し、明治中期の四村合併まで村社であった。寛政四年(西暦1792)には、この村の知行主となった神谷縫之助も氏神とするなど、今日まで常にこの地域の人々の心の拠り所として崇敬されて来たのである。"

赤にした部分が非常に興味深いですね。

まず、この由緒にある地形を迅速測図と陰影図で確認してみましょう。

迅速測図、宇佐神社の直ぐ右上の神社マークは八幡塚古墳
陰影図
標準地図

確かに、田園調布八幡神社がある場所は、真っ直ぐ来ていた国分寺崖線がクイッとする頂点に位置し、田園調布八幡神社の直ぐ西側に細長い入江と、その更に西側にはやや大きな入江、更にその西側に細長い入江が確認出来ますね。

真ん中のやや広い入江は船が出入りする港で、両脇の細長い入江は船倉庫と考えるとreasonableです。

左の細長い入江には伝乗寺と宇佐八幡神社があり、1本実線の荷車道が南から北へ伸びていて、崖上の片側実線片側点線の村道、これが由緒にある鎌倉街道ですが、それに接続しています。

宇佐神社は1062年、源頼義による創建との伝承があり、伝乗寺は開山・開基詳らかならず、ですが、鎌倉期の板碑や小阿弥陀像が多数所蔵されていて、田園調布八幡神社の由緒にある創建時期と合わせて、この辺りは鎌倉期から開けていたことが推定でき、鎌倉時代、この辺りを治めていた人物が誰だか分かりませんが、ここには水運・水軍の拠点があったようです。

宇佐神社
伝乗寺

田園調布八幡神社の由緒には書かれてませんが、時代は下り、後北条氏の時代になってもこの拠点は継続して利用されていたのではないでしょうか。

田園調布八幡湊と奥澤城

この(仮称)田園調布八幡神社湊は、南北の荷車道で鎌倉街道に接続後、片側実線片側点線の村道で奥澤城に繋がってますね。

奥澤城は、後に後北条氏方となった吉良氏によって築城されました。

浄真寺仁王門
仁王門左の土塁

鎌倉街道から奥澤城までの村道の東側は、嘗て千駄丸という所で、"丸"とは城などの軍事拠点で、"駄"は馬一頭で運べる荷物の量の単位、"千"はたくさんという意味ですから、たくさんの量の荷物を保管する倉庫ということになりましょうか、が、あった所です。

(仮称)田園調布八幡神社湊で荷揚げされた荷物は、荷車道で国分寺崖線を上がり、鎌倉街道を経由して千駄丸に保管され、必要の都度、奥澤城に持ち込まれていたようです。

では、荷物はどこから来ていたのでしょうか。

勿論、吉良氏領内、後北条氏の小田原からも来ていたと思われます。複数のルートがあったと思いますが、その内の一つが泉澤寺なのではないかと思います。

泉澤寺と伝乗寺

泉澤寺は1491年に吉良氏により烏山で開山され、1549年に今の場所に移転しました。泉澤寺には周囲にお堀があり、単なる寺というよりは、吉良氏の軍事拠点としての意味合いがあったと言われています。

後北条氏支配領域、吉良氏領内から軍事的な物資がここ泉澤寺に陸送され、物資は、ここから船で多摩川を水運され(仮称)田園調布八幡神社湊に運ばれたのではないでしょうか。

伝乗寺は泉澤寺の末ですから、この為に、元あった小庵から、伝乗寺として開山したのかもしれません。

また、これは今回迅速測図を眺めていて初めて気が付いたんですが、泉澤寺から多摩川への下り口に八幡神社がありますね。

この配置は、対岸と全く同じじゃあないですか。この八幡神社が、田園調布八幡神社同様、監視機能を持っていたのかもしれません。

少し上流に行って、似たような地形が無いかと探してみると、2つありました。

今気づきましたが上野毛稲荷の入江の西側にここにも八幡さんがありますね。

2つ共、湊というよりは船溜まりレベルですが、入江入口にはしっかりと吉良氏家臣が創建・開山に関わった寺社がありますね。

上野毛稲荷神社、上野毛村の名主は田中家で、この稲荷は田中家の邸内にあったもの。田中家は、吉良氏の家臣であった田中筑後の家です。

慈眼寺、1306年、法印定音が小堂を建てたのを始まりとし、1533年、長崎四郎左衝門が、この小堂を崖上の当地に移設しました。長崎氏は後北条氏家臣です。
瀬田玉川神社、1558~1570年に、この村の下屋敷に勧請し、その後、1626年、瀧ヶ谷に長崎四郎右衛門嘉国が寄付をして遷宮しました。ここも長崎氏関連です。(zoom upして狛犬を見てください。)

この辺りも、当時、国分寺崖線まで多摩川が来ていたのか不明ですが、入江状の地形で、その入口高所に後北条氏、吉良氏家臣縁の寺社があることは確かです。

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