2020年5月6日水曜日

後北条氏による世田谷城陥落を契機とした江戸城防衛ライン

我が街世田谷にある世田谷城は、1530年に一度落城してるらしいんです。

世田谷城址公園(2013/3撮影)

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1524年の後北条氏江戸城奪取時、扇谷上杉氏は河越城に退却しました。

それまで、後北条氏の勢力はザックリと、本拠の小田原城から多摩川まででしたが、江戸城奪取により、多摩川から向こう、川越城より下、当時で言うと武蔵国荏原郡と豊島郡も手中に収めた格好となります。

現代地図における小田原城、江戸城、河越城の位置関係。左下が小田原城、右上が江戸城、左上が河越城。小田原城と江戸城の間に多摩川がある。

しかし、多摩郡、今の世田谷区の半分から西ですね、ここは弱かったんでしょう。

1530年、深大寺にあった深大寺城、ここは1490年の扇谷上杉定正の書状によると当時は扇谷上杉氏の城だったので、1530年もそうだったのでしょう、扇谷上杉朝興はここ深大寺城に陣取り、江戸城奪還の機会をうかがってました。一方、多摩川対岸の小沢城には北条氏康が陣取って、小沢原の戦いが勃発しました。

最終的には北条氏康が見事初陣を飾り、扇谷上杉朝興は河越城に退散するんですが、初戦は破れ、小沢城に籠城しました。

この時、扇谷上杉朝興は初戦の勝ちの勢いで最も近い世田谷城にもちょっかいを出しに行った、あるいは、吉良氏も加勢に行き、逆に追い返され、落城したのではないかと思ってます。

上図に黄色ポイントを追加。左下が小沢城、多摩川を挟んで相対するのが深大寺城、その東が世田谷城。

初戦で勝った扇谷上杉朝興は、北条氏康が籠城する小沢城を通り過ぎ、小沢原、今の金程の辺りで夜営します。

そこに、北条氏康が夜襲を仕掛けます。奇襲を仕掛けられた扇谷上杉朝興は河越城へ退散しました。その後、世田谷城は、北条氏康によって奪還されています。

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この小沢原の戦いが契機になったんだと思います。

1537年、後北条氏方江戸城主北条綱高は、深大寺城と江戸城の間に、烏山砦、牟礼砦を築きました。

上図に紫ポイントを追加しズームアップ。左上が牟礼砦、右下が烏山砦。

烏山砦

烏山砦跡、烏山神社
烏山神社境内にある碑

この碑に、"高橋一族が戦国時代にこの地に移り住み", と、あります。この高橋一族が、江戸城主北条綱高です。北条綱高は、元の名前は高橋種政、江戸城奪還の大功により北条姓と、北条氏綱の綱の字をもらい、北条綱種となり、更にその後、北条氏康の時代に北条綱高となっています。

ここ烏山砦を築いたのは弟の高橋氏高だということです。この高橋氏高も、最初の名前は種長で、江戸城攻略の大功により北条氏綱から氏の字をもらい氏種となり、更にその後、兄の北条綱高から高の字をもらい高橋氏高となりました。

弟高橋氏高は高橋姓のままですから、兄北条綱高は別格扱いで家を出て、弟高橋氏高が高橋家を継いだんでしょう。

私は当初、上記碑の高橋一族烏山移住時期は、烏山砦が出来た1537年だと思っていました。砦と言っても小さな城で、一族郎党が生活できるレベルだと思ってたんです。

でも、高橋兄弟が大活躍した江戸城奪還は1524年です。また、兄北条綱高が江戸城主になるのは1537年ですから、なんだか辻褄が合いませんね。

1524年に高橋一族が伊豆雲見から江戸城奪還に参戦し、大活躍したのにまた伊豆雲見に戻って、1537年に烏山に移住して、移住して直ぐに兄北条綱高は江戸城主となり烏山を出て行ったという感じになりますから。後北条氏が小田原に移ったのも1500年前後ですし。

諸々整理すると、以下の方が自然かと。
  1. 1500年前後、後北条氏、小田原進出
  2. その後~1524年に、高橋一族烏山に移住、この時、烏山砦とは別の城(仮称烏山城)を築く
  3. 1524年、烏山城から江戸城へ攻め入る。大功は地の利を活かし一番乗りできたから?!
  4. 1530年、小沢原の戦い、烏山城もやられたか?!
  5. 1537年、兄北条綱高、江戸城主に。この時、烏山城から出て、北条姓をもらったか?!, 烏山城には弟高橋氏高が城主として残る。
  6. 同年、兄北条綱高、世田谷城と烏山城だけでは足りん!!!, と、牟礼砦を追加
  7. 同年、弟高橋氏高も、烏山城近辺に烏山砦を追加
因みに、碑にある三十番神という聞き慣れない神様は、1日ずつかわりばんこに1柱の神様がお守りしてくださり、それが30柱あるわけですから、丸々一月守ってくださるという神様で、日蓮宗で特に信仰されました。

北条綱高の末の弟は目黒碑文谷の法華寺(今の天台宗円融寺)に出家し、日栄という僧になりました。その日栄が開いた牟礼にあるお寺が高橋家菩提寺の真福寺です。

高橋家は日蓮宗に深い関係があったということが、碑の一文から分かります。(醍醐味なんですよね、こういう、んっ?!, と思ったことを調べて繋がっていくという体験が)

真福寺
円融寺(2019/4撮影)

牟礼砦

牟礼砦跡、牟礼神明社

牟礼砦は下記陰影図でも分かる通り、独立峰のようになっており、標高は64m。一方、深大寺城は50mですから、よく見えたことでしょう。

陰影図、上の紫ポイントが牟礼砦、左下の黄色ポイントが深大寺城
牟礼砦から深大寺方面の眺望

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写真は天神山城です。

右手のこんもりとした森が天神山城、西と南には仙川が天然の濠となっている

天神山城の位置ですが、下記迅速測図のようになります。

迅速測図における天神山城の位置。上の紫ポイントが牟礼砦、その右下が烏山砦、更にその右下の黄色ポイントが世田谷城で、この3つの城を結んだ紫ラインが、言わば、江戸城防衛ラインとなる。天神山城は、この江戸城防衛ラインより深大寺城側に飛び出た位置にある。

この天神山城、殆ど何も分かってないんですが、仙川を挟んで直ぐ西にある島屋敷が、中世の頃、武蔵国入間郡を本拠とする村山党金子氏の出の金子時光の居館で、1573~1592年はその孫の金子弾生が住んでいたという伝承があります。

村山党金子氏には、1546年に発行された北条氏康の判物があることから、村山党金子氏は、1546年以前のどこかの時点で、後北条氏勢力に組み敷かれたと判断できます。

じゃあこの天神山城も後北条氏の、と、考えたくなりますが、ただ、この金子時光という人は金子氏の系図に出てこないんですね。勿論、系図に載り切らない人もいるんでしょうけど。

この天神山城から甲州道中にかけては嘗て金子村でした。地名の由来はやはり武蔵国入間郡を本拠とする村山党金子氏の進出だという話があります。

確かに、この金子村の"金子"や、直ぐ東には"入間"という地名もあり、武蔵国入間郡との共通性があります。

その金子村には厳島神社があります。

厳島神社

そこで発見したのがこの三つ鱗でした。

厳島神社、手水舎
厳島神社、賽銭箱

と、言うことで、以下、私の推論です。
  1. 村山党金子氏の金子時光、武蔵国入間郡よりこの地に来る。島屋敷遺跡の出土物から、13~15世紀頃か。
  2. 島屋敷に住み、厳島神社を創建、天神山城を築く
  3. 1524年の後北条氏江戸城奪取以降、後北条氏に組み従うようになる。直ぐ近くに北条綱高・髙橋氏高兄弟も進出してきたし。
  4. 1537年の、烏山砦、牟礼砦築城時は、これらの砦の更に出丸的位置付けとなった。
これを補足する話も見つかりました。

中嶋神社

写真は天神山城と厳島神社の間にある中嶋神社ですが、風土記によれば、"弘治三年(1557)入間郡十王坊勧請す"とあります。十王坊が誰だか分かりませんでしたが、また、入間です。

また、境内にある不動堂については、風土記で、"鼻祖は富永勘解由左衛門と云しよし"とあって、この富永勘解由左衛門という人は、もしかしたら後北条氏の水軍、富永水軍の人かもしれません。

と、なると、この辺りは後北条氏勢力で万全の防衛ラインを固めた地ということになります。

青ポイントで厳島神社と中嶋神社を追加。上が中嶋神社、下が厳島神社。この2社とその直ぐ右上の天神山城があるエリアが金子氏エリア。想像すると、牟礼砦を主城に、天神山城を出丸、烏山砦は後方支援部隊、世田谷城は最後の砦と位置付け、牟礼砦から、先陣を切る隊が青ラインで天神山城経由で滝坂道の尾根を通って深大寺城に迫り、しかし、このルートだと深大寺城との間に野川支流が天然のお堀として立ちはだかるので両社睨み合いになるんですが、一方、赤ラインの人見街道、深大寺道を経由して深大寺城の背後を突く主となる隊があり、挟み撃ちする戦法だったのではないでしょうか。

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こんな、完全防備なる江戸城防衛ラインを築いたんですが、結局、この睨み合いを横目に、1537年、北条氏綱は深大寺城を迂回し、河越城を直接襲い、念願の河越城を奪取、武蔵国全体を手中に収めました。

江戸城をエサに、深大寺城と北条綱高・高橋氏高兄弟 + 吉良氏による江戸城防衛ラインで、言ってみれば東西の睨み合いをさせている隙に、南北ラインで氏綱自ら河越城を奪還したということになります。

如何でしたでしょうか。

正直もう何度も訪れているエリアですが、コロナで遠出も出来ず、新たな視点で再度アプローチしてる状況ですが、天神山城や厳島神社、中嶋神社は初めて訪れましたし、新たな発見も多くあり、マイクロツーリズム、楽しかったです。

深大寺城

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