2020年7月12日日曜日

武蔵国郡境を行く、新羅郡と多摩郡 / Sub Title: 深大寺から小榑村へ、渡来の道



それにしても歪(いびつ)ですよね。

画面真ん中やや左、南北に伸びる線が多摩郡と新座郡の郡境(西が多摩郡、東が新座郡)なんですが、"角" が3本多摩郡側に突き出ています。

これは何なんだということになりますが、これまでのこのシリーズ(1, 2, 3)で得た知見からすると、川の水源があるのでは?, ということになりますが、果たしてどうなんでしょうか。

南から見て行きましょう。

南の角

川は無いっすね。

で、上保谷 "新田" と、あります。

これは、上保谷村が新田として開発したエリア(村)ということでしょう。

この辺りで新田開発と言えば、以前ご紹介したコレからもお分かりの通り、江戸時代の明暦の大火、玉川上水の開削に伴う新田開発と思われますが、どうでしょうか。

調べてみますと、風土記には、
  • 本村の民伊右衛門なる者開発せり其年歴詳ならす、地形は東の方へ長く千川上水の水涯に至り凡十八町許西は多摩郡田無村に隣れり、江戸を離れること六里
  • 上保谷新田は郡の東北にあり、享保年中上保谷村より開きし故に斯唱えしか
と、ありますので、総合して、上保谷村の伊右衛門が中心となり享保年中に開発されたということが分かります。

享保年中ということですと、明暦の大火とは無関係ですね、1657年ですから。

1722年に、あの、大岡越前が責任者となって始まった武蔵野新田開発ということになります。

阿波洲神社は、1722年から開発が始まる武蔵野新田の一つ、上保谷新田の鎮守神として、1752年に、粟嶋明神を勧請して始まりました。新田開発の痕跡ですね。

と、言うことは、このあまりにも歪な形、もしかしたら、新田開発の為、西に延長された故の角、という可能性がありますね。

つまり、律令時は素直に紫線が郡境で、武蔵野新田開発時に、黒線の状態まで拡張された、と。

水は玉川上水(1653年)と千川上水(1696年)を使ったのだと思います。

先に行きましょう、真ん中の角です。

真ん中の角

ここにも川はありません。

下保谷村とあります。角の付け根部分も下保谷村。

調べますとこちらもやはり享保の改革に伴う新田開発で、角の東にあります下保谷村が、切添で開発した新田とのことでした。

切添とは、既にある耕地の奥を地続きで開発することだそうですから、もう、ドモロ、そのまんまですね。延伸したんです。その結果、角になった。

しかし、よく見て下さい。

開発されたはずが、明治13~19年ですから、江戸時代が終わってから10数年しか経ってないこの時期に、畑は無く、雑木林のままです。

今尚残る武蔵野の森

このことから、切添で下保谷村が新田開発しようとしたものの、水が確保出来ず、断念したことが想定されます。

田無神社、今の田無神社の北に当たる宮山に、田無神社の旧称である尉殿大権現が祀られていました。鎌倉期の創建と伝わります。江戸期に、田無神社と保谷の尉殿神社に分祀されました。尉殿大権現は水神で、ゾウトノ、ジュウドノ、ズードノなどと呼ばれ、埼玉や群馬でも同じ呼び名の水神様が確認されています。宮山には白子川の源流部がありますから、その付近に鎮座していたんでしょう。その水を頼りに新田開発しようとしたのだと思いますが、この川は大雨の時だけ川になる川だったようで、新田開発には至らなかったのだと思います。
尉殿神社
白子川源流

ラスト、北の角です。

北の角

こちらには野火止用水がありますね。

野火止用水開削後、新田開発されたのではないでしょうか。

と、調べてみると、若干違いましたが、ほぼ、そのようです。

榎本弥左衛門の萬之覚によると、玉川上水の工事が命じられた1653年、川越藩主老中松平信綱は、野火止に新田を開発しようと、50軒程の農家をここに移住させました。この時に出来たのが野火止村、西堀村、菅沢村、北野村ということです。

野火止用水はその2年後に開削されてますから、それより早く開発し始めたということですが、本格化したのはその頃からと思われます。

今も(恐らく)当時のまま残る畑
撮影した畑の明治13~19年当時の状況、当時も畑だった。
野火止用水
河越藩主老中松平信綱の遺命によって1663年に岩槻からの美止めに移転となった平林寺の仏殿

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さて、3本の角の原因は分かりました。

同時に、江戸時代の新田開発前の、ですから恐らくは758年の新座郡成立時の郡境も分かりました。

が、そもそも、何故、ここが多摩郡と新座郡の郡境になったのか?

武蔵国と相模国の国境は東京湾と相模湾の分水界でした。

荏原郡と豊島郡も分水界。荏原郡と多摩郡も同じ。新座郡と豊島郡も。

豊島郡と多摩郡は、神田川の支流部分と本流部分で分けていました。

何れも川、つまり、水、水の利用権を行政界としていたわけです。

この流れで言えば、新座郡と多摩郡も・・・と、思いたくなりますが、全く、そうではありませんね。

柳瀬川、黒目川、白子川がありますが、全て基本的に西から東に流れてますから、この郡境は柳瀬川と黒目川を横断してます。

川、水じゃないなら、何?

この問に対しては、大胆な仮説をご提案したいと思ってます。

この郡境は、川や水、つまり水利で引かれたわけではありません。

この郡境道は、深大寺エリアから新座郡への、高麗人(高句麗人)の移住の道だったのです。(ジャジャーーーーーン)

深大寺縁起

どこからともなくこの地に現れた、深大寺を開いた満功上人の父福満が、郷長温井右近長者の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵の故事を思い浮べ、深沙大王に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父温井右近長者も母虎もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。

長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、遣唐使で南都に法相を学び、帰郷後、この地に一宇を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(733年), これが深大寺開創の伝説であります。

※深大寺サイトより

深沙大王
深大寺、
祇園寺、祇園寺は、満功上人の祖父母、温井右近長者と虎の館跡との伝承があります。
虎柏神社、589年創建との伝承が残る古社中の古社で、延喜式論社でもあります。また、深大寺開山の満功上人の祖母虎を祀っているとも言われています。また、元は "高麗" 神社で、"高麗" が、"狛" となり、祖母虎を名も付して、今の虎狛神社となり、誤字で、"柏" となったという説もあるようです。しかしなぜ北向きなんでしょうか。深大寺を向いている、そういう気がしてしまいます。

こんなこと言ってる人、誰もいません。私の大胆な仮説、妄想と言っても良い。

が、私なりの根拠は以下の通り。
野火止塚、新羅人の野火によって火田を作る焼き畑農法の際、延焼を防ぐ為に設けられたと思われています。

新座郡は最終的に新羅人を移住させる為に出来た郡だったんですが、その前は、武蔵野原野で、開発の為に、試験的に渡来人が次々と送り込まれていたんでしょう。

その中で、深大寺エリアから、新座郡の小榑村を中心としたエリアにも移動があったのではないでしょうか。

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如何でしたでしょうか。

新座郡と多摩郡の郡境を巡るexploreだったわけですが、3つの角の経緯から、1,300年前の武蔵国の様子が透けて見えてきましたね。

新座郡側が、あのように延伸しても、多摩郡としても別に構わなかった、それほど、不毛の地であったということ。

武蔵野台地が如何に水に苦しんできたのかが分かります。



そして時代は下り、江戸時代の新田開発ですね。

あれ?, 渡来人に開発させたんじゃなかったっけ?, と思いますよね。

やっぱり水が無く開発しきれなかったんだと思います。それほど厳しい土地だった、武蔵野台地は。

渡来人は水が豊富で低地部分が広い白子川、黒目川、柳瀬川河口付近に集中して住んでたんじゃないかと思います。

また、新田開発しなければならないほど、江戸の町が人で溢れかえったということです。その背景には平和があったんでしょう。

いやぁ、面白い。

皆さんも是非!!何ならツアーします。

2020年6月27日土曜日

武蔵国郡境を行く、豊島郡と新羅郡

風土記によれば、新座郡と豊島郡の郡境は、

"東、豊島郡に隣り大抵白子川を界とす"

と、あります。

明治維新から間も無い明治13~19年(1880~1886)に作られた迅速測図でも、ほぼ、白子川が郡境になっています。

律令の時代はどうか

webで調べてみてもそれらしい情報は見つかりませんね。。。

まぁ、川が郡境というのは非常に分かり易い話です。

ですから律令の時代の郡境も白子川だった可能性は十分にあると思います。

これまで、このテーマでは、川そのものではなく川の利権がどの郡に属すかが問題で、だから分水界が郡境になっていたんだろうということで進めてきましたから、"白子川は新座郡の川だ。", ということならば、川そのものではなくて分水界という可能性もあります。

迅速測図を見てみましょう。

迅速測図における荒川と白子川、黒線が迅速測図が示す豊島郡と新座郡の郡境なんですが、今現在辿れるルートにしていますから少しずれています。
少し上流に行き、川越街道付近に、豊島郡側に出る支流が2つあります。
田柄川が接近する辺り、この辺りは支流がありません。
さらに上流、やはり支流はありません。左下の青点は井頭池で、白子川源流の1つ。湧水池です。
最後に、多摩郡、豊島郡、新座郡の3郡郡境付近です。ここにも支流はありません。

と、言うことで、何か、白子川そのものを郡境にした理由が分かるような気がしてきました。

豊島郡側に出る支流が2つしかないんです。じゃあ、もう川で良いや、ということになったのかもしれません。

一応、紫線で、支流も含む白子川水系を横断しないルートを描いてみました。実走ではこちらを行きましょう。



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さて、実走です。南から行きましょう。

富士見池を擁する武蔵関公園です。


武蔵関の、"関" とは、練馬区によれば、風土記に、豊島氏が石神井城にいた頃、関を作ったことに由来するということです。

また、直ぐ東にある天祖若宮八幡宮の由緒を見ると、1974年に関村鎮守の天祖神社と若宮八幡宮を合祀しているんですが、若宮八幡宮の方はというと、奈良時代、この地は京都から奥州に行く道筋で、武蔵関塞が設置された時、その守護神として祀られたと伝えられているそうです。

関は普通、境界に設置しますね。

この辺りが、もしかしたら奈良時代、つまり律令の時代から、郡境だった可能性が出てきました。

でも富士見池は石神井川で、石神井川は豊島郡の川ですから、これまでこのシリーズで言ってきたように、違和感があります。

が、石神井川は小金井が源流で、そこまで遡るのもエリア的にそれはそれで違和感がありますから、富士見池を境としたのでしょう。富士見池も湧水池なので、水利と言う点ではここで石神井川を分断しても、豊島郡としては十分ということかもしれません。そう理解しておきます。

先に進みまして、白子川の源流の1つ、井頭池に寄り道します。"イノカシラ" 池ではなく、こちらは、"イカシラ" 池です。

井頭池から下流を望む

迅速測図を見るとここから更に上流がありますが、この池は湧水池で、よって、白子川の源流の1つであることは間違いありません。

先に進みます。

妙福寺です。


妙福寺ですが、あの、慈覚大師円仁を開基とする天台宗のお寺で、当時は慈東山大覚寺と称し、850年の開創と伝えられている古刹でした。

天祖若宮八幡宮の所で、この地は京都から奥州に行く道筋で、だから関が設けられたと書きましたが、滋覚大師円仁の伝承もあるとは、この地が奥州道であることを補強する状況証拠ですね。円仁も東国巡礼時に通ったんでしょうか。

また、鎌倉時代に中山法華経寺歴代の日高・日祐上人の巡錫に会い、1322年、日祐上人により、法種山妙福寺として日蓮宗に改宗したということです。

イヤイヤ、実はずっと気にかかっていたことですが、この辺りは三十番神が多いですね。

原因は妙福寺だったんですね。

西の中山と称され、実際、山号は西中山。日蓮宗大本山の中山法華経寺の日高、日祐が開いたとなるとここも相当な寺格。

そんな大寺がここで開いたとなると、一気に日蓮宗が席巻しますね。

だから、三十番神も広がっていったのだと思います。

妙福寺境内の三十番神

天祖若宮八幡宮
本立寺

諏訪神社
本照寺

北野神社
妙延寺

しかも、郡を跨いでますね。郡境は物ともせず、日蓮宗が広がっていったことが分かります。

三十番神分布、赤が三十番神神社で、オレンジがその別当寺、勿論日蓮宗。現代地図で確認の場合、上記GoogleMaps参照のこと。

この妙福寺がある辺りは嘗て、"小榑村" と呼ばれたエリアで、諸説あるんですが、この、"小榑(コグレ、コクレ)" は、"コクリョ(高句麗)"から来ていると思うんです。

そもそも新座郡は、758年に新羅からの渡来人を、開発の為に移住させる目的で出来た郡です。

その前後、渡来人に関する出来事は以下のようになっています。
  • 666年、百済人男女2,000人余りを東国に移住させる
  • 684年、百済人僧尼以下23人を武蔵国へ移す
  • 687年、高麗人56人を常陸国、新羅人14人を下野国、高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住させる
  • 689年、下野国へ新羅人を移住させる
  • 690年、新羅人12人が武蔵国に、更に新羅人の若干が下野に移住させる
  • 716年、高麗郡の設置、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1779人を武蔵國に移す
  • 733年、埼玉郡の新羅人徳師ら53人に金姓を与える
  • 758年、新羅郡(後の新座郡)の設置、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移住させる
  • 760年、新羅人131人を武蔵の地へ移住させる
高麗(高句麗)人は、新座郡ではなく、主に、新座郡と同じ経緯で716年に出来た高麗郡に移住させられたんですが、687年に高麗の僧侶を含む22人を武蔵国に移住させていますし、これだけ連続して半島の渡来人を東国に移住させていることから、ここに記載した以外にも移住はあったと思われ、その時に、このエリアに高麗人を住まわせ、地名を小榑としたのではないかと思ってます。

実際、新座市と朝霞市には駒形権現があり、朝霞市の方は、風土記にも、

駒形権現社
除地、一段一畝十五歩、字駒形にあり、本地正観音にして、垂迹は詳ならずと云、今或は高麗方権現ともかけり。是も法蔵寺持。

と、あります。

また、郡境となっている白子川の、"白子(シラコ)" は、"新羅(シラギ)" から来ているという説もありますし、"志木(シキ)" も同様です。

新羅郡は、後、新座郡と書いて、"ニイクラ" 郡と名前を変え、更に後、漢字はそのままに読みが、"ニイザ" 郡になっていて、この中の、"ニイクラ" は、"新倉" という地名に残っています。

先に進みます。

大泉氷川神社です。


先程、この辺りは、日蓮宗の勢力圏内だという話をしましたが、白子川を遡っていくと、この辺りからは氷川神社の勢力圏内に変わっていくんですね。

面白いです。

上記のGoogle Mapsを確認下さい。黒ポイントが氷川神社です。

この大泉氷川神社、風土記によると、祭神は在五中将、つまり、在原業平で、業平東国下向の時、庄、春日、江古田の三人が業平を慕ひ、この地に祀ったということです。が、最後に、

"信ずべからず"

と、あるんですが。

まぁでも、ここからも、この地が京都からの道筋であることが伺われますね。

これが本当なら平安期に遡れる古社ということになります。

そこまでじゃなくても、風土記にある、"庄" とは、庄氏のことで、武蔵七党の児玉党に属す氏で、と、なると、これも平安後期ですね。

こういったこともあってか、文永年間(1264年~1274年)の創建と言う伝承もあるそうです。

それから蛇足ではありますが、同じ庄氏持ちの神社で同じく旧橋戸村にあるのが大泉八坂神社です。


明治7年に氷川神社が橋戸村の鎮守になるんですが、それまでは八坂神社が鎮守でした。

また、迅速測図をみると、両方に鳥居マークあるんですが、八坂神社の方に、"氷川神社" との記載があるんですよね。


どっちが正しいのか混乱します。

同じエリアで同じ庄氏持ちですから、この2社はセットで考えた方が良いかもしれませんね。

先に進みます。

長久保氷川神社、赤塚氷川神社、豊川稲荷神社・氷川神社、下新倉氷川神社をやり過ごし、

東明寺、吹上観音です。


この辺りは建武の新政後、足利尊氏、直義の領地となった関係で、縁の寺があります。

ここ東明寺もそうで、尊氏から、尊氏の師匠、夢窓疎石国師の実の甥、普明国師に寄進され、鎌倉建長寺の末となりました。普明国師は建長寺第54世でした。

また、ここの観音様は行基伝承があります。

まぁ、行基伝承は話半分で聞いておかなければならないんですが、でも、ここが足利尊氏・直義兄弟の領地になった時点で、謂れが分からないくらい以前から存在していた観音様があったことは事実です。

先に進みます。

金泉寺です。


金泉寺は、足利尊氏の師匠、夢窓国師が開山となり創建しました。東明寺と同じく、鎌倉時代の遺構ということになります。

先に進みます。

今回は豊島郡と新座郡の郡境をexploreしているわけですが、風土記による新羅王居跡が、ここ、午王山遺跡となります。


残念ながら証拠となる遺跡は発見されていませんが、ここは迅速測図を見てもお分かりの通り面白い地形で、遺跡があっても不思議ではないと思いました。

画面真ん中、青ポイントがある台地が午王山遺跡です。等高線が3本ですから30m程、周りより高いんですね。頂上は平らです。城の本丸、二の丸のようにも見えます。西南部分以外はストンと落ちてますね。面白い地形です。何かあってもおかしくない感じですね。

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如何でしたでしょうか。

郡境exploreだったんですが、日蓮宗と氷川神社の勢力の状況が分かり、また、京の都から府中を通り奥州に抜ける道筋だったようで、興味深かったです。

ただの街中サイクリングですが、視点を変えると面白くなりますね。

皆さんも是非!!
何なら案内します。

2020年6月7日日曜日

武蔵野

"昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。"

今の武蔵野 国木田独歩 1898年

1898年に国木田独歩が、"今の武蔵野"で描いた武蔵野の美は、当時は林でしたが、嘗ては、一面の萱(茅、ススキなど)の原でした。

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東は五日市街道が神明通りと交差する地点から、西は、五日市街道が千川上水と交差する地点まで、五日市街道の周囲に広がるエリアは、嘗て、江戸幕府御用達の茅刈場で、武蔵野御札茅場千町野と呼ばれていました。

そうです。

江戸時代のある時点まで、この辺りは、嘗ての武蔵野の美を象徴するエリアだったのです。

迅速測図を見てみましょう。


このエリアは、茅場千町野だったわけですが、迅速測図は明治13~19年作成ですから、
  • 1657年に明暦の大火がありましたが、延焼の一つの原因が茅葺屋根だったということで、茅葺屋根が禁止となり、茅刈場が不要になった。
  • 延焼を防止する目的で、火除地を設けることとなり、そのエリアにいた住民を移住させる必要が生じた。
  • 1653年に玉川上水が敷設されていた。
と、言うことが重なった結果、茅刈場を廃止し、火除地となり移住の必要が出た住民を移住させ、次々と、新田として開発されていった後の姿となります。

ある時点とは1657年の明暦の大火でした。

江戸幕府御用達茅刈場だから人家も無いし、地形的にも、迅速測図を見て分かる通り、善福寺池・善福寺川と、井の頭池・神田川に挟まれた台地で、起伏も無く真っ平らですから、道は自由に引けたんですね。

だから、五日市街道は本当に直線ですし、五日市街道と直角に交差する道~地割~も、直線です。

真っ直ぐな五日市街道、遠くまで見通せます。家康江戸入府時、荒廃していた江戸城再建の為、漆喰の材料である石灰は青梅から青梅街道で、石材は五日市から五日市街道で運びました。だから五日市街道は江戸初期に成立したものと思われます。青梅街道は1603年です、ほぼ同時期でしょう。

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五日市街道が出来てから50年後の1653年に玉川上水が出来ます。

そして、1657年に明暦の大火が起きます。

武蔵国豊島郡関村の名主、井口八郎右衛門は、武蔵野御札茅場千町野の野銭を徴収し代官に納める野守でした。

が、既述のように、明暦の大火によって武蔵野御札茅場千町野が廃止となり、言ってみれば、仕事が無くなった、収入源が1つ絶たれたわけですね。

そこで井口八郎右衛門は、900両の上納金をもって武蔵野御札茅場千町野の開発をしたわけです。

その井口八郎右衛門が創建したのがこの大宮前春日神社です。

恐らく地元関村にあったんでしょう。入植時に遷座したものと思われます。

大宮前春日神社

地割について、幅2間ですから3.6mの五日市街道の両サイドに60戸分地割しました。

地割の間口は20間ですから36m, 奥行は全部で250間ですから450mという細長い短冊型。

配分も決まっていて、まず家屋が5畝10歩ですから15m弱、次に、上畑、中畑、下畑という畑地で、最後に林でした。

下記写真は大宮前春日神社の少し西の、五日市街道から正に10数メートル北に入った所に残っている畑です。1658年当時の痕跡ですね。

今尚残る畑
迅速測図での大宮前新田、真ん中やや左上に大きく、"大宮前新田"の地名が記載されています。ど真ん中の青点が春日神社、地図にも説明記載がありますね。赤線が五日市街道で街道沿いに家があるのが分かります。この幅が20間ということです。地割は上下の紫線まであります。上の畑の写真は春日神社から西に2つ目の点線辺りかと思います。
現在の空中写真です。黄色点が撮影地。撮影地の左と右2つの地割は五日市街道から15mの家屋、その次に畑があるのが分かります。流石に江戸時代当時のままとはいかず、途中から畑が売られたんでしょう、一般の家々が並んでますし、林も無くなってます。

五日市街道を西へ進むと、西高井戸松庵稲荷神社があります。

西高井戸松庵稲荷神社、ピントがチャリに合っちゃいました。
迅速測図、明治13~19年当時ということになります。

迅速測図を見て下さい。松庵村という文字の直ぐ下に、"稲荷社"という文字が見えますね。で、五日市街道を挟んで直ぐの所にも、"稲荷社"とあります。

五日市街道の北が松庵村の鎮守のお稲荷さんで、南が中高井戸村の鎮守のお稲荷さんだったんですが、昭和9年に中高井戸村の鎮守のお稲荷さんが松庵村鎮守のお稲荷さんに合祀され今の形となっています。

迅速測図を見るとその様子が分かりますね。

松庵村は1658~1660年に、松庵という医者が開いたと伝えられています。開村の背景は不明ですが、時期からして、大宮前新田同様、明暦の大火、玉川上水が関連しているものと思われます。

中高井戸村は、一説によると、玉川上水の為、移住させられた高井戸の住民により開かれと言われています。

水は高い所から低い所に流れますから、上水は、標高が高い所から少しだけ低い所を選んで、それを繰り返し開削していきますので、移住させられる人たちもいたんだと思います。

更に西に進み、緊急事態宣言解除で賑わってしまっている吉祥寺も過ぎて、西窪稲荷神社を訪れます。

西窪稲荷神社

1657年の明暦の大火で、時の将軍家綱から移住を命じられた芝西窪城山町の住民が、地元の氏神様だったお稲荷さんも遷座しここに祀られています。

少し西に行った所には、関前八幡神社があります。

関前八幡神社、氏子の皆さんが境内を清掃中でした。

ここは明暦の大火から少し間を置いた1678年に創建されています。

関前村は、北にある千川上水を越えた先に武蔵関公園がありますが、そこら辺りに関村があり、そこの住民が進出し新田開発した村となります。

これまでご紹介した大宮前新田、中高井戸村、松庵村、西窪村は、明暦の大火の直後に入植、開発されていましたが、ここ関前村はその凡そ20年後。更に、明暦の大火の被害に遭わなかった練馬の人によって開発されました。

と、言うことは、新田開発が上手くいっていたということなのではないでしょうか。だから、俺達も、ということで、まだ空いていたこのエリアの開発に名乗りを上げたのだと想像します。

ん?!

関村と言えば大宮前新田を開発したのも関村名主井口八郎右衛門でしたね。

大宮前新田開発の成功により、2匹目の泥鰌ということでしょうか。

迅速測図における関村と関前村の位置関係、黄色ポイントしてます。

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さて、国木田独歩が言う武蔵野の美、武蔵野御札茅場千町野の開発の歴史を見てきたわけですが、もう一度、迅速測図を見てみましょう。

武蔵野御札茅場千町野

マーキングしちゃったんですけど、武蔵野御札茅場千町野だったから人家は無いし、地形的にもほぼフラットだから道は自由に真っ直ぐに引ける・・・と言っていたのに、突然の斜め道ですね。

これは何なのかと言うと、こういうことなんだと思います。

3八幡と井之頭弁財天

  • 井之頭弁財天、平安時代の天慶年間(938~947年)に、関東源氏の祖、源経基が創建
  • 武蔵野八幡宮、延暦8年(789年), 坂上田村麻呂が奥州征伐に向かう際、この地で兵馬が病気となり、進軍できなくなった。そこで坂上田村麻呂は、持っていた宇佐八幡宮の御分霊を井の頭池北の丘陵地に安置、祈願したところ、たちまち兵馬は回復した。坂上田村麻呂は、奥州征伐凱旋の途中、この地に立ち寄り、社を建立した。
  • 荻窪八幡神社、寛平年間(889~898年)に創祀されたものと伝えられ、永承6年(1051年)に、源頼義奥州東征の際、戦捷を祈願、康平5年(1062年), 凱旋時に社を修めた。
  • 井草八幡宮、創建当時、春日社だったが、源頼朝奥州征伐(1189年)の際、戦勝祈願をし、以来八幡宮を奉斎するようになった。
ということで、この斜め道は、奈良時代にまで遡れる古道で、奥州に向かう道だということが分かります。

(東北人としては、こうして改めて何度も征伐されたことを思い出させられ、複雑ですが。)

武蔵野の美、江戸時代に武蔵野御札茅場千町野と呼ばれた一面の茅(ススキ)の原は、しかし、一筋の奥州古道だけは、存在していたということになります。

想像してみて下さい。

一面のススキの原に、騎馬武者が進んでいくのを。

井之頭弁財天
武蔵野八幡宮
荻窪八幡神社
井草八幡宮

因みに、明暦の大火と、実は翌年には吉祥寺火事もあったんですが、これによって、更にその翌年、吉祥寺門前の住民には、幕府御用の茅刈り場であった札野が替え地として与えられ、移住を命じられました。これが今の吉祥寺村です。

ですから吉祥寺村も、大宮前新田、中高井戸村、松庵村、西窪村、関前村と同じく、明暦の大火キッカケで開発されたんですが、違いは、神社は持ってくる必要が無かったという点ですね、武蔵野八幡宮という立派なものがありましたから。

武蔵野八幡宮の境内社の覆殿の扉の彫刻

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帰り道、連雀に寄り道しました。連雀も同じような成り立ちです。

1657年の明暦の大火によって火除地とされた神田連雀町の住民25人は、代替地としてここ茅場千町野を指定され、新田開発しました。村の名は元の連雀としました。

少し経った1664年、八幡神社を遷座しました。それが今の下連雀鎮守、八幡大神社です。

八幡大神社

上連雀は、ナント!!, 大宮前新田、関前村を開発した井口家によって新田開発され、鎮守の上連雀神明社は、1672年に創建されています。

上連雀神明

井口家は新田開発のプロ集団だったんですね。