- 東京都町田市三輪
- 神奈川県横浜市青葉区奈良町、同県同市同区奈良
しかも、この2つの地区は隣り合ってるんです。
どういうことなのか?
まさか、奈良から移住してきた人達が住んでいる?
はい、そうなんです。
“町田の民話と伝承”によると、
- 奈良県桜井市大字三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)の社史には、武蔵国の三輪神社(上下二社)が、大神神社のご祭神、大物主神を勧請す、と記されている。
- 上下二社とは、上三輪の熊野神社と、下三輪の椙山神社のこと
- 同じくその社史に、斉藤氏、荻野氏を遣わされて移住させ、三輪の名称がつけられた、と記されている。
三輪には鶴見川が流れます。
武蔵国の延喜式古代東海道、浅草の記事で、大和王権勢力が大和川を下って大阪湾に出て、淡路島・四国と紀伊半島の間を抜け、太平洋を東進し、三浦半島を回り込み、東京湾に入って、浅草にあった無数の島々を伝って進出したという話をしました。同様に、品川の記事でも大和王権勢力が品川に進出してきたという話をしましたが、三浦半島を回り込み、本牧岬を過ぎて直ぐの所で口を開けている、鶴見川を遡る勢力もいたのではないか、と、想像するわけです。
ということで今回は、里山癒やししつつ、この2つの地区で、大和王権の足跡を探ってみたいと思います。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
津久井道から藤の木の交差点を南下、二股は左に行き、鶴見川を渡ります。
実はこの辺りは何度も来ているのですが、最近ではこの里山癒しシリーズで来ていますが、武相国境シリーズでも来ています。
その武相国境シリーズのテーマは、“産鉄”。“藤の木”の“藤”は産鉄地名です。今回も産鉄がキーワードになるかもしれません。
さぁ、鶴見川を渡ったら上りです。コースは高蔵寺を左折するんですが、少し先まで行って熊野神社に寄ります。
実はこの辺りは何度も来ているのですが、最近ではこの里山癒しシリーズで来ていますが、武相国境シリーズでも来ています。
その武相国境シリーズのテーマは、“産鉄”。“藤の木”の“藤”は産鉄地名です。今回も産鉄がキーワードになるかもしれません。
さぁ、鶴見川を渡ったら上りです。コースは高蔵寺を左折するんですが、少し先まで行って熊野神社に寄ります。
町田市史によると、プロローグで既述の通り、元慶元年(877)、大和国の城上郡三輪の里より勧請との伝承があります。
しかしその時は三輪神社として創建しています。何故、いつ、熊野になったのでしょうか?
確かに、この辺りは熊野が濃いエリアです。
鶴川駅前の香山園は熊野の出の神蔵家屋敷ですし、“柿生文化”によると、嘗て川崎市麻生区には、上麻生に2社、その他、片平・古沢・万福寺・高石などに8社の熊野神社があったそうです。その内の一社は麻生の大ヶ谷戸の鈴木一族の鎮守で、現柿生駅前のサープラス柿生にありました。そしてこの辺りには鈴木家が多く、その家紋は皆、熊野藤白神社の「下り藤(上り藤)」で、紀州の一族であることが分かります。また、町田市能ヶ谷の郷土史には、鎌倉時代に、紀州から鈴木、神蔵、夏目の氏族が来住し、この地に熊野神社を勧進したとあるそうです。
ですから創建当初は大物主を祀った三輪神社だったのが、鎌倉時代の紀州熊野勢の進出により、熊野神社になっていったのではないか、と、想像しています。大和王権勢力の後は、熊野勢の進出もあったんですね。
ルートに戻る前にもう一つ寄り道し、沢山城に登城します。
風土記によると、“荻野与兵衛が先祖の居跡に造りし”とあります。プロローグの町田の民話と伝承を補強する資料ですね。
ルートに戻り、高蔵寺です。
真言宗豊山派、1362年、足利将軍家祈願所として開山したとのことです。
何故足利氏か?
調べてみると、東隣の武蔵国麻生郷は足利尊氏の所領だったようで、その当時の麻生郷の範囲は不明ですが、後北条氏の時代は三輪も含んでいたことから、時代的にも合いますので、やはり、足利将軍家が所領地に祈願所として開いたということなのだと思います。
また、この辺りの地名は“桜田”といい、産鉄地名です。
先に進みます。
高蔵寺から上り、荻野氏の大邸宅を過ぎると下りになりますが、その途中に白坂横穴古墳群があります。
因みに、“白坂”は、沢山城への“城坂”だったのではないかと言われています。そう言われれば、この辺りは掘割に見えてきます。
話を古墳に戻します。
この白坂横穴古墳群は、7世紀頃と言うことですが、横穴墓自体は、5世紀後半に九州北部で始まり、6世紀中頃には山陰、山陽、近畿、東海まで広がり、7世紀初頭までには北陸、関東、東北南部まで分布しましたから、これもやはり、大和王権を含む西からの勢力が入ってきたことを表しているのだと思います。
下り切り、再び上り返し椙山神社です。
町田市史によると、熊野神社同様、元慶元年(877)、大和国の城上郡三輪の里より勧請との伝承があります。ここの御祭神は日本武尊と大物主です。日本武尊は、三輪神社から杉山神社になった時の後付と思われ、ということは、オリジナルの大物主がちゃんと残ってますね。
この辺りの地名は”藤作”で、産鉄地名です。
この辺りの地名は”藤作”で、産鉄地名です。
七面山を中心とした三輪の中心地を後に、椙山神社の山を下ったら、西ノ谷戸に入り、西谷戸横穴墓群を見てみます。ここの横穴墓群も7世紀に作られたと考えられています。
また、そこにある鶴見川の支流は、その名も"多々良川”。そのものズバリの産鉄地名ですね。
さて、次は三谷戸です。三谷戸の支谷戸の玉田谷戸の奥には、下三輪玉田谷戸横穴墓群があります。ここも、6世紀末から7世紀にかけて作られたと考えられています。
この辺りは非常に多いですね、横穴墓が。整理するとこうなりますね。
- 7世紀の始め頃に、横穴墓を墓制とする西からの勢力が鶴見川を遡り三輪の地に進出
- 877年に、大神神社が荻野氏、斎藤氏を三輪の地に遣わし、三輪神社を創建
- 鎌倉時代、紀州勢が進出し、三輪の東隣、麻生の地に進出、熊野神社を創建、三輪にも拡大し上三輪神社を熊野神社に
寺家と言えばこの切り通しですが、
迅速速図を見ると、今折り返してきた武蔵国多摩郡と都筑郡の郡境尾根道は、切り通しにはなっておらず、西に続いていますね(ここの峠で一本実線の荷車道から片実線・片点線の村道に切り替わって続いています。)。
また、今の切り通しもかなりの迫力がありますし、等高線を見てもかなりの密度で、急峻なヤセ尾根だったと思われます。だからですかね、村道はここでクイッと直角に西に折れてます。辛うじて、一本点線の徒歩道がヤセ尾根を越えて続いているだけとなります。迅速測図が出来たのが明治15年前後ですから、切り通しはその後に出来たということになります。
峠を越え、武蔵国多摩郡から都筑郡に入りました。山田谷戸に寄り道し、寺家を後にしたんですが、この山田谷戸が面白かった。
迅速測図を見ると谷戸奥で徒歩道で村道がある尾根に上がれます。 |
村道との合流点です。クヌギの大木が折れてました。昨年秋の台風でしょう。管理されてない道だということが分かります。 |
これが嘗ての村道、さすがに村道なのでしっかり踏まれてますね。合流点から西に少し行ってから合流点を振り返って撮影。 |
尚、山田谷戸の辺りは”菅ノ入り”という地名で産鉄地名です。
鶴見川を渡り、向かったのはここ、稲荷前古墳群です。
鶴見川を渡り、向かったのはここ、稲荷前古墳群です。
前方後円墳2基、前方後方墳1基、円墳4基、方墳3基の計10基の古墳と3群9基以上の横穴墓から成ります。
今はもう開発で失われましたが、1号墳だった前方後円墳は、4世紀末から5世紀始めに作られたとされています。
前方後円墳と言えば大和王権
そうなんです。私がわざわざここまで寄り道したのは、ここが全ての始まりだったのではないかと思うからなんです。
今一度、整理しましょう。
- 4世紀末から5世紀始めにかけて、大和王権勢力が東国に進出、鶴見川を遡り、稲荷前古墳群の地に、前方後円墳を築造
- 7世紀の始め頃に、横穴墓を墓制とする西からの勢力が鶴見川を遡り三輪の地に進出
- 877年に、大神神社が荻野氏、斎藤氏を三輪の地に遣わし、上下三輪神社を創建
- 鎌倉時代、紀州勢が進出し、三輪の東隣、麻生の地に進出、熊野神社を創建、後に三輪にも勢力を拡大し、上三輪神社を熊野神社に
尚、稲荷前古墳群がある辺りは、“黒須田”や“鉄(くろがね)”と言った産鉄地名が並びます。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
稲荷前古墳群から鴨志田川が作った谷を西へ。奈良に入ります。
ここに松岳院があります。1572年開山の曹洞宗寺院なんですが、そんなことよりと言ったら怒られてしまいますが、ここにはこのLinkにあるように、今は廃寺となった嘗ての末寺、瑞円寺から移設された剣先地蔵が祀られています。
どう見ても男根ですね。
これは全くの想像ですが、瑞円寺が作ったものではなく、瑞円寺付近で発見されたものを、近くの宗教施設だった瑞円寺に納めたものと思われます。
石棒は縄文中後期、中部、関東で、住居の中、特に炉端で発掘されることが多いそうです。そのことから、何らかの火に関連する祭祀儀式に用いられたと考えられています。
その縄文時代の宗教的感覚を引き継いだといえるのが今でも続く金精様信仰で、女性が木や石の男根に触れることで子宝に恵まれるという生殖、再生への願いが信仰となっていますが、縄文時代も同じく信仰だったと思われます。
ここに松岳院があります。1572年開山の曹洞宗寺院なんですが、そんなことよりと言ったら怒られてしまいますが、ここにはこのLinkにあるように、今は廃寺となった嘗ての末寺、瑞円寺から移設された剣先地蔵が祀られています。
どう見ても男根ですね。
これは全くの想像ですが、瑞円寺が作ったものではなく、瑞円寺付近で発見されたものを、近くの宗教施設だった瑞円寺に納めたものと思われます。
石棒は縄文中後期、中部、関東で、住居の中、特に炉端で発掘されることが多いそうです。そのことから、何らかの火に関連する祭祀儀式に用いられたと考えられています。
その縄文時代の宗教的感覚を引き継いだといえるのが今でも続く金精様信仰で、女性が木や石の男根に触れることで子宝に恵まれるという生殖、再生への願いが信仰となっていますが、縄文時代も同じく信仰だったと思われます。
石棒は、縄文時代後期になると、東北地方を中心に、松岳院にあったような抽象的な形状になるそうです。
この剣先地蔵は、縄文時代後期の東北地方にそのルーツを求められるかもしれません。
奈良から奈良川に沿って南下し恩田に入ります。恩田薬師堂です。
そして、地元で足利街道と呼ばれる尾根道を越えた白山谷戸には、白山神社があります。
柴田弘武によると、別所という地名は産鉄地であり奥州俘囚の移配地ということです。山間僻地に多く、そこに東光寺、薬師堂、白山神社を祭り、また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなど、多くの共通要素を備えているということでした。
ここは別所地名ではありませんが、東北の民達の信仰である石棒、薬師堂と白山神社があります。
奈良から奈良川に沿って南下し恩田に入ります。恩田薬師堂です。
そして、地元で足利街道と呼ばれる尾根道を越えた白山谷戸には、白山神社があります。
白山神社、なんともものすごい空気でした。恐らく1200年前と、ここは、何も変わってない、そう、思わせました。 |
崩れてしまった祠を何とかして守るように石が囲んでいます。この白山神社を心の拠り所としてきた人達の思いが感じられます。その中に、御神体の石棒が。 |
柴田弘武によると、別所という地名は産鉄地であり奥州俘囚の移配地ということです。山間僻地に多く、そこに東光寺、薬師堂、白山神社を祭り、また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなど、多くの共通要素を備えているということでした。
ここは別所地名ではありませんが、東北の民達の信仰である石棒、薬師堂と白山神社があります。
また、こちらのサイトによると(勝手にリンクでスミマセン)、地元の方によると、昭和の初め頃までこの近くに皮坊(かんぼう、動物の皮の加工の従事者)と呼ばれた被差別部落があり、白山神社を信仰していたそうです。
恩田川を西に行き、多摩郡と都筑郡の郡境尾根を北上し、子ノ辺神社に行きます。恩田川から多摩郡と都筑郡の郡境尾根に上がる所は、“吹上”で、産鉄地名です。
風土記によれば、“村の西より少く北の方によれり、上屋一間半に二間半、内に稲荷を相殿として小祠を置く、神体は石剱に似て長さ二尺ばかり、半より折てあり、円径三寸ばかりなり、是も徳恩寺持”と、あります。
これも松岳院と同じく、男根で、我が同胞、東北の民達がここに暮らしていた査証かもしれません。またここは、あかね台鍛冶谷公園から分かるように、産鉄地名です。
引き続き、多摩郡・都筑郡郡境尾根を行き、西谷戸を経由して、岡上に入っていきます。途中、“大田平”、“梨子”といった産鉄地名を通り過ぎます。
恩田川を西に行き、多摩郡と都筑郡の郡境尾根を北上し、子ノ辺神社に行きます。恩田川から多摩郡と都筑郡の郡境尾根に上がる所は、“吹上”で、産鉄地名です。
武蔵国多摩郡、都筑郡、郡境尾根道。郡境にある道ということは郡が出来た時に成立した道ということ。と、言うことは律令の時代ですね。 |
郡境尾根道から子ノ辺神社に向かう道 |
子ノ辺神社 |
風土記によれば、“村の西より少く北の方によれり、上屋一間半に二間半、内に稲荷を相殿として小祠を置く、神体は石剱に似て長さ二尺ばかり、半より折てあり、円径三寸ばかりなり、是も徳恩寺持”と、あります。
写真、ほぼ中央、招き猫の奥に石棒があります。風土記とは寸法が違いますが、オリジナルな紛失してしまったか奥に保管されているのかもしれません。 |
これも松岳院と同じく、男根で、我が同胞、東北の民達がここに暮らしていた査証かもしれません。またここは、あかね台鍛冶谷公園から分かるように、産鉄地名です。
引き続き、多摩郡・都筑郡郡境尾根を行き、西谷戸を経由して、岡上に入っていきます。途中、“大田平”、“梨子”といった産鉄地名を通り過ぎます。
気持ちの良い尾根道を行くと嘗て集落があったエリアとなり、この辺りも三輪同様にとても良い所ですね。
東に行き、岡上神社です。
梅と庚申塔 |
こんな徒歩道も残ってます。 |
塞ノ神 |
東に行き、岡上神社です。
神奈川県神社誌によれば、創立年代不詳、明治四十二年三月十六日、四社を諏訪神社に合併し、地名をとって岡上神社とす、とあります。御祭神が日本武尊、健御名方命、大山昨神、稲倉魂命なので、この1社足りませんが。 |
そんなことよりと言ったら怒られますが、ここにはこれがあるんです。
またしても金精様です。
そして、碑文を見るとこれまた面白いことが。
足利義氏、この人は足利家第3代当主で、足利尊氏の5代前となりますが、文治5年(1189)に生まれています。碑文を見ると、足利義氏が生まれた文治5年3月に陽石、これは石棒のことですが、それがこの地で出現したと。一方、伊豆にいた理真上人が密法変生男子によって渡良瀬川の近く、つまり足利の地で足利義氏が生まれた。だからこの石棒は霊験あらたかな金精大明神だと書いてあります。
こういうことでしょうか。
1189年に石棒が発見された。この時はただの石棒として祀っていたが、鎌倉時代となり、この辺りが足利家の領地となった時に、この石棒と足利義氏誕生を結び付けた。
金精様 |
またしても金精様です。
そして、碑文を見るとこれまた面白いことが。
足利義氏、この人は足利家第3代当主で、足利尊氏の5代前となりますが、文治5年(1189)に生まれています。碑文を見ると、足利義氏が生まれた文治5年3月に陽石、これは石棒のことですが、それがこの地で出現したと。一方、伊豆にいた理真上人が密法変生男子によって渡良瀬川の近く、つまり足利の地で足利義氏が生まれた。だからこの石棒は霊験あらたかな金精大明神だと書いてあります。
こういうことでしょうか。
1189年に石棒が発見された。この時はただの石棒として祀っていたが、鎌倉時代となり、この辺りが足利家の領地となった時に、この石棒と足利義氏誕生を結び付けた。
最後に、東光院です。開基開山詳らかならず、ということですが、天正年間で既に11代とのことで、またしても、という感じもありますが、行基が開いたという伝承もある古刹です。
如何でしたか
行った本人の正直な感想としては良かったです。
既述のように、何度も行った所だったんですが、それ以降に経験したものが蓄積されたのか、新たな視点で楽しめました。
また、恩田の白山神社はスゴかったですね。久々の空気感でした。
春の三輪はとても良いです。皆さんも是非!
0 件のコメント:
コメントを投稿