2020年3月25日水曜日

川崎市中原区・高津区・多摩区の、府中道から多摩川側、暴れ多摩川流路変更の痕跡と江戸期の村々を繋ぐ村道巡り。パート2

前回の続き

現代の地図です。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【宇奈根村】

村道で宇奈根村に入っていきます。


上図迅速測図を見ていただいてお分かりの通り、ここ宇奈根村は、等々力村や下野毛村と同様に、多摩郡と橘樹郡の郡境が川崎市側に食い込んでるエリアなので、等々力、下野毛と同じく、その後の多摩川の北への流路変更によって、世田谷区側と川崎市側とに分断されました。

と、言うことで、宇奈根と言えば氷川神社ですが、川崎市側にも宇奈根神社があります。下野毛の宇佐神社もそうでしたが、悲哀がありますね。分祀された側は。


こちらは世田谷区側の氷川神社です。立派です。さすがは本家。


そしてここ宇奈根も下野毛と同じく、宇奈根の渡しの真っ正面に、氷川神社が見えました。分断された側の村民の悲哀が感じられます。

正面の3階建てビルの左に松並木がありますがそれが氷川神社です。真っ正面です。分断された村民の思いが伝わります。

【堰村】

堰村は、非常に面白い謂れがあります。開墾は1594年、秀吉の小田原攻めが終わり、徳川の江戸統治が始まったころですね。その頃に、新座郡上保谷村、今の西東京市から移り住んだ6家によって行われたと伝わってるんです。その内の保谷家が、代々村名主を務めたそうです。

諏訪河原村は諏訪氏、二子村は小山田氏が、秀吉の小田原攻めの後、暴れ多摩川が故に荒れ地のまま放置されていた多摩川べりに入植しましたが、ここ堰村には保谷から住民が移り住んできたんですね。

そんな堰村にはとても素晴らしい歴史がある龍源寺があります。


風土記によれば、深大寺の末で、開山開基は伝えを失へり、と、言うことですが、ここがスゴイのは、寺宝の大黒天像で、伝教大師最澄の彫刻なり、ということです。また、聖観音は慈覺大師円仁の作ということで、仏教界天台宗のスーパースター2人の作となる仏像があるということです。スゴイですネ!

龍厳寺から南武線の線路を越えて西隣の宿河原村に行くんですが、その途中に畑で採れた野菜の無人販売をお屋敷の軒先でやられていたんですが、表札を見ると、"保谷"とありました。秀吉の小田原攻めの後、保谷から移住してこられた6家の1つで代々名主を務めてこられた保谷家であると思います。

南武線を渡ったら右折なんですが、線路沿いにひっそりと佇んでいたのがこのお地蔵さんです。村境ですかね、堰村と宿河原村の。


【宿河原村】

宿河原とは宿があった河原かと思いきや、この辺りには宿があった形跡は無いそうです。

"宿"は、"夙"であろうとされ、その根拠は、吉川英治の私本太平記ファンならお馴染みの吉田兼好は徒然草にあるそうです。勝手にリンクですがhttps://roudokus.com/tsurezure/115.htmlをご覧下さい。

徒然草 第百十五段は宿河原が舞台なんですね。そこで書かれている宿河原は、当時"ぼろぼろ"と呼ばれていた河原に住み念仏を唱える渡世人達が多く住んでいました。この、"ぼろぼろ"が、"夙"です。所謂、"河原者"ですね。これは多摩川に限ったことではなく広く河原なら共通ですが、多摩川のように暴れ川だと尚、河原は荒れ地のままとなり、河原者が住み着き易かったと推定されます。これも、人々が多摩川ととどう付き合ってきたのかの一端だと思います。

宿河原の徒然草の碑

さて、迅速測図を見れば分かる通り、宿河原は二ヶ領用水の南側に展開している村です。今でこそ、駅は二ヶ領用水の北側、つまり多摩川側にありますが。


この二ヶ領用水の多摩川側は、迅速測図を見ると一部畑もありますが、基本、荒れ地ですね。

また、二ヶ領用水の流れが、この湾曲具合といい、人工的に掘ったとは思えない自然な感じだし、嘗ての多摩川の流路だったものを活用して二ヶ領用水を作ったと考えられませんか?

と、なると、荒れ地であること、故に宿河原村はその外側に展開していること、が、合点がいきます。ここまでは多摩川が乗り上げなかったんですね。

と、言うことで、なのか、庚申塔などが良く残っています。以下、東から順番に一気にご紹介します。


桜を撮ろうとして無理な構図となってしまいました、稲荷社です。

その稲荷社にある塞ノ神です。伝統的な男根と丸石ですね。"夙"河原っぽいです。





また、迅速測図をよくご覧いただくと、宿河原村は、等々力や宇奈根と同様に、世田谷区と川崎市に分断されてるんですが、中心部は川崎側にあるんです。だから、悲哀があるのは世田谷区側。その象徴がこの宿河原稲荷神社です。

この写真に写ってる範囲ぐらいが取り残された宿河原。下野毛や宇奈根よりも考えようによってはもっと悲哀です。もう地名は残っていませんから。

【登戸村】

登戸は津久井道の宿場なんですが、今回はそのご紹介ではないので登戸稲荷神社に飛びます。


それにしても、彫刻と漆喰が見事ですが、ここ登戸稲荷神社は、諏訪河原村の諏訪氏、二子村野小山田氏、堰村の保谷氏を始めとした6家と同様、秀吉の小田原攻めの後に、武田氏家臣の小荷駄奉行、吉沢兵庫が帰農し創建しました。

【中野島村、布田】

中野島村はその名の通り、多摩川の中洲だったようです。

迅速測図を見ると、宿河原同様に二ヶ領用水が自然な流れで多摩川の旧流路であることを示唆しています。中野島村はその内側ですから、島だったんだと思います。


ここ中野島も宿河原に似て、石塔群が多く残っています。中野島の中心、御本尊の観音像は滋覚大師円仁作と伝わる観音寺と合わせ、東から順番に一気にご紹介です。

村道から観音寺に向かう道の辻に立つ薬師さん

途中にある地蔵

観音寺




最後に布田ですが、迅速測図を見てお分かりの通り、等々力や下野毛、宇奈根のように分断され、且つ、主力は東京都側です。

江戸時代には一軒だけ、川崎市側に取り残されたそうで、迅速測図を見ると確かにポツンと一軒屋があります。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

如何でしたでしょうか。

本日の主役、多摩川です。昨年の台風の傷がまだ癒えませんね。でも水はようやく透明度が戻ってきましたかな。


少し盛り沢山過ぎましたかね?!

辛抱してご覧下さりありがとうございました。

多摩川の暴れっぷりと、それ故に分断された村々がありました。分断された側の本村への思いが渡し場に表れ、分祀神社には悲哀が表れてましたね。また、暴れ川が故に荒れ地として長らく放置され、鎌倉時代には河原者が集まり、秀吉の小田原攻めの後、つまり、戦乱の世が終わった後には、帰農した武士達が開墾に入植したのが、この地でした。その痕跡がよく分かるexploreでした。

ここは本当に東京近郊にも関わらず田舎風情が残っていて雰囲気が良かったです。ご紹介しませんでしたが、昔からの屋敷も多く、カバーはされてましたが茅葺屋根も幾つも確認出来ましたし。

距離的にもポタリングにはもってこいと思います。

皆様も是非

0 件のコメント:

コメントを投稿