上北沢村でのできごとでした。娘がいなくなった鈴木家は家がらもよく、当主の宗保と妻は、だれからも親しまれていた人でした。
それだけに村人たちは、
「あの末娘にかぎって……。人ごとではない」
と、自分の子どもがさらわれたように、心配したのです。
村のおもだった人たちが、かわるがわる娘をさがしに走りまわりました。あるときは甲斐の山路に、上野(こうずけ)の宿場にと、いなくなった娘のうわさを聞くたびに、みんなで手分けしてさがしました。
占師のところにもずいぶん相談に行き、東の方といえば東へ、西の方といえば西にと、たずねてもみたのです。
ところが、ひと月ほどたったある夜ふけのことです。いなくなった娘の声が、宗保の家のうらから、かすかに聞こえてきました。
「父さま、母さま、心配をおかけしました」
だが、どうしたことか、しばらくぶりに聞く娘の声とわかっても、宗保と妻はおきあがることができなかったのです。
また、娘の美しい声がしました。
「私は、いつまでも家や村をお守りするために、井の頭の池の主のところにお嫁入りしたのです。さがさないでそっとしておいて下さい……」
娘の声がとぎれて、立ち去るけはいです。両親はやっとおきあがることができました。いそいで雨戸を開け、月あかりにてらされた庭を見ると、草や木はおしたおされ、そこには一本の道すじができていたのです。井の頭の龍神に嫁いだかわいい娘が、たずねてきたあとだったのです。夫婦は、娘の名を呼びつづけ、おしたおされた草や木の上を、はだしのままで走りつづけると、その道すじは井の頭の池でばったり止まっていました。
「娘は、井の頭の池の主のところに、ほんとうにお嫁入りしたのだ……」
夫婦は、娘の幸福をいのって手を合わせました。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
上記は世田谷の民話、『なわの大蛇で村を救う』ですが、赤字&ボールド&下線した道筋を推測し、実走してみたいと思います。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
上北沢の鈴木家と言えば、上北沢村の名主で、現在の早苗保育園と区立緑丘中学校が邸宅だった。鈴木家は代々当主が左内を名乗ったが、早苗保育園の"早苗(さなえ)"は、その左内(さない)から来ている。
ここには、娘の両親が、娘が井之頭の池の主、龍神に嫁いだ後に建立した左内弁財天がある。ここが基点だ。
左内弁財天、画面左、男性が歩いている道は嘗ての北沢川 |
現在の地図、グレーのポリゴンが鈴木家敷地、赤マーカが左内弁財天 |
迅速測図、明治13~19年、ポリゴンはアースに移行しないようなので、赤マーカで位置関係をご理解ください。その上で、現在の地図と見比べてみてください。明治13~19年と言えば交通手段が江戸時代と同じですから、道も江戸時代とほぼ同じと考えて良いですが、残ってますよね、今も。鍋を横から見た断面図のような形の道筋が。 |
さて、道筋はどうか。下図のように、方角としては北西に向かう。また、赤ラインは、井之頭道の本道とも言える、甲州道中からの道筋だ。
だから一旦甲州道中に出て、というのが、考えられる道筋の一つである。迅速測図を再度確認していただきたい。
画面上、東西に走るひと際太い道が甲州道中だ。北西方向ということを考えれば、鍋断面図の片側実線片側点線、これは村道だが、ここを北北西に行き、東北東に行く一直線の村道に出合ったら、その後はその村道を突き抜け一本実線(こちらは荷車道、だから幅一間(1.8m))で甲州道中に抜けられる。ここを西に行けば井の頭道の甲州道中の基点に出られる。
井之頭道の甲州道中基点には、井之頭弁財天道の立派な道標が残っている。 |
しかし私はこの道ではないと思っている。
"玉川上水の内、井の頭-高井戸間は、江戸時代以前に、井の頭の水を利用する為に、鈴木・秦(久我山)両豪族が掘削していたと言われる。"
これは、鈴木家がある上北沢の上北沢桜並木会議のサイトに記載されていた内容だ。玉川上水の井の頭〜高井戸間は、鈴木家が掘ったのである。江戸時代より前に。ならば、井の頭池の竜神に嫁いだ鈴木家の娘にも馴染みがあっただろう。
だから私は、娘は、玉川上水の土手道を行ったのではないか、そう思っている。
下図がそのルート。青ライン。赤ラインは既述の本道。下記写真の撮影地点は青マーカ。
下図がそのルート。青ライン。赤ラインは既述の本道。下記写真の撮影地点は青マーカ。
玉川上水、岩崎橋から上流を望む。だから玉川上水のこの辺りは鈴木家・秦家が、江戸時代より前に掘った。結構な深さがあることが分かる。 |
玉川上水が、今の人見街道、当時の久我山道と交差する所にある庚申塔。玉川上水はここから蛇行し距離的に無駄なので、私はここから荷車道に行ったのだと思っている。直線的で距離的に無駄が無いからだ。 |
井之頭池 |
井之頭弁財天 |
久我山稲荷 |
奉納者一覧には秦氏がずらりと並ぶ。 |
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
せたがや社寺と史跡による密蔵院(鈴木家の西隣に位置)の縁起によると、
"・・・天正の頃下野国都賀郡水代の城主榎本河内重泰は故あって城を退き、その子文右衛門氏重を連れてこの地に来た。その頃、吉良家の家人鈴木新平重貞がこの地の地頭をしていた。重泰はこの人と親しくなり天正8年(1580)ここに住居を定めた。・・・"
鈴木と榎本と言えば熊野三党。しかも、鈴木さんの方は、"重貞"と、鈴木家の"重"を使っている。だからこの2家は熊野の鈴木さんと榎本さんなんかじゃないかと思うんですよね。
密蔵院 |
勝利八幡神社 |
勝利八幡神社の境内社の説明、熊野神社もちゃんとある。この地には熊野神社もあったのだ。 |
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
世田谷を歩いてて熊野神社は自由が丘が思い付くくらいで殆ど無いように思うんですが、今回をキッカケに、考えてみれば、神田川を越えた杉並区には、多くの、熊野神社がありますね。しかもどれも古社。何か、関係があるのでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿