2020年3月23日月曜日

川崎市中原区・高津区・多摩区の、府中道から多摩川側、暴れ多摩川流路変更の痕跡と江戸期の村々を繋ぐ村道巡り。パート1

前々から行きたいと思ってたんですが、近いが故に何となく後回しになってしまっていて、行けずにいました。

迅速測図(明治13~19年、1880~1886)を見ると、多摩川の川崎側、駅で言うとJR南武線の武蔵小杉から稲田堤までの間の、府中道から多摩川側のエリア、ここは、村々を繋ぐ村道が割とキレイに残ってるんです。

以前、百合ヶ丘の義経道を行った時、帰りにここ(の一部ですが)を通ったことがあって、庚申塔が多く、古道の空気感が残っていて、帰宅後、迅速測図を見てみたら割と村道が残っていたので、いつか行こうと思っていたのです。


前日に雨が降ったので、横浜の里山トレイルに行こうと思ってたのを、近所でごまかした感もあったんですが、事前机上exploreと実走を通じて、この地は、東京近郊にも関わらず街中に古道が残っているというだけでなく、多摩川の流路変更、暴れっぷりがよく分かるし、人々がそれにどう付き合ってきたかも見えてくる、意外にも、非常に興味深いexploreとなりました。

まずは全体感を掴んで頂きたいと思います。現代の地図をご覧下さい。


緑の線がありますよね。非常にクネクネした蛇行した線、これが、迅速測図当時の行政界で、どの行政かというと、武蔵国の荏原郡、橘樹郡、多摩郡の郡境です。

この辺りの今の東京都と神奈川県の県境は多摩川ですね。このことからも分かる通り、行政界というのは、川か海か山の尾根なんです。

現代地図の緑線、非常にクネクネした蛇行した線が武蔵国の荏原郡、橘樹郡、多摩郡の郡境だということは、武蔵国の荏原郡、橘樹郡、多摩郡が成立した時ですから律令の時代、今から1300年程前には、多摩川がこのように蛇行して流れていたということになります。

(迅速測図の時代には既に多摩川流路は変わっていますが、行政界は、行政界設定時と変わっていなかったんですね。)

スゴくないですか?!, この蛇行っぷり、暴れっぷりは。多摩川が洪水によって流路変更していることは知ってましたが、いやぁ、ここまでスゴイとは思ってませんでした。

川は土砂を運び堆積しやがて自然堤防となります。土手が出来上がるわけですね。

迅速測図にはその土手道が、つまり律令の時代の多摩川流路痕跡が、クッキリと描かれています。

また、流路変更によって、以下の様に、人々の生活が変化させられてきたこともよく分かりました。
  • いつまた洪水で流されるか分からない為、入植、開梱されず、荒れ地として残っていたことに目を付け、秀吉の小田原攻めの後、帰農した武士達がこの地に入ってきた。
  • 元は地続きで1つの村だったのが、多摩川によって分断され、最終的には世田谷区と川崎市に別れてしまっている。
と、言うことで今回は、多摩川流路変更の痕跡と、それにどう人々が付き合ってきたかの痕跡をご紹介したいと思います。

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【等々力村】

武蔵小杉側からアプローチ、大田区側から丸子橋を渡って、戻るようにして土手道に出ます。

迅速測図、等々力村

迅速測図で、U字形のモヤモヤっとした線が土手道です。等々力村にある土手道にマーカーを入れています。現代地図をご覧頂くと、今でもそのまま残っているのが分かりますね(現代地図では濃いオレンジ色の線[一見、茶色に見えるかも]が土手道です。)。

実走してみるとこの通り。

土手上から土手下を撮影、土手の内側が結構低いことが実感出来、川だったことがよく分かります。

このU字の中は"等々力"緑地です。

等々力は世田谷区にもある地名ですね。郡成立時は地続きの一つの村でした。土手道の直ぐ内側に、土手道に沿って強目の点線がありますが、これが武蔵国荏原郡と橘樹郡の郡境で、郡境が土手道に沿っていたことが分かります。ですからここまでが荏原郡等々力村。目線を上に持って行くと、"等等力村"と、縦書きされているのが確認出来ると思います。

【宮内村】

等々力村の西隣は嘗ての宮内村です。

村入口に立つ庚申塔、清掃は行き届いていて、花も新鮮で、とてもよく管理されています。気持ちが良いですね。

ここ宮内村の歴史は古いです。

春日山医王院常楽寺は、真言宗智山派で、縁起によると、奈良時代、聖武天皇の御願所として、あの、行基によって開基されたとのことです。

常照寺の薬師堂

敷地内にある春日神社は、創建時期詳らかならず、ですが、1171年の稲毛荘検注目録によれば、荘内に春日新宮と呼ばれていた神社があったことが分かっており、当社であると推定されています。稲毛荘の荘園領主は藤原北家流九条家ですから、稲毛荘成立時、藤原家の氏神である春日神社を分祀したものと考えられます。九条家の祖、九条兼実は1149~1207ですから、上記目録とも時代が合いますね。


社殿の裏には古墳の石棺もあったということで、古墳時代にまで遡れる、古い地区です。

迅速測図の土手道を見ても、暴れ多摩川も宮内村には乗り上げていないようですし、少し標高が高かったのでしょうか。

【下野毛村】

宮内村の西隣は下野毛村です。

迅速測図、下野毛村

迅速測図を見ると、土手道はここも等々力村同様Uの字。Uの字の左側は真っ直ぐに多摩川に向かわずやや西に流れて府中道と重なってはいますが。が、しかし、やはり、郡境点線はしっかりと多摩川を越え世田谷区側に突き抜けており、やはりやはり、嘗ての多摩川流路は、国分寺崖線まで達していたことが分かります。国分寺崖線沿いに流れているのは六郷用水ですが、六郷用水は、嘗ての多摩川の流路を上手く活用しているということが分かりますね。

宮内村から下野毛村に入る直前、八大龍王弁財天がありました。


説明板によると、この付近の沼の辺りにあったものをここに移設したとのこと。迅速測図を見てみると、確かに沼があります。この沼は嘗ての多摩川流路の名残ですね、土手道に沿っている点からしても。

ほぼ中央の緑の点が撮影地。明治13~19年には確かに2つの沼があったことが分かる。

土手道と村境の状況からお分かりの通り、ここ下野毛も等々力同様、嘗ては川崎側に大きく寄って流れていた多摩川が、その後、北に流路を変えたことによって、世田谷区と川崎市に分断された村だということが分かります。

ということもあって、ここには、川崎市に取り残された?!下野毛宇佐神社があります。


この下野毛宇佐神社、野毛が多摩川で分断された後、川崎市側の住民が、氏神様を分祀し創建されたとのことです。

元の神社はどこかというと、2説あるんじゃないかと思ってまして、1つが同じ野毛村の六所神社です。ここは、六所神社という名前ですが、明治に村内の八幡様が合祀されてます。もう1つが尾山村の宇佐神社です。村は違いますが、名前が同じ宇佐だからです。

でも私は六所神社なんじゃないかと思ってます。下野毛の古い家は野毛の善養寺の檀家だそうです。六所神社は善養寺の隣で善養寺が六所神社の別当ですから。

六所神社、世田谷区側にある

村内を行く村道は、下野毛宇佐神社を経由して下野毛の渡しに続いています。下野毛宇佐神社が分霊される前までは、祭りの時など、ここから六所神社に行ってたんですね。

やはり実走してみることは重要ですね。野毛の渡しの真っ正面に六所神社があることが分かりました。画面中央のこんもりとした森が六所神社。往時はもっとよく見えたことでしょう。やはり、分祀したのは尾山村宇佐神社ではなく、野毛の六所神社だと思います。

いやぁ、それにしても、渡し場の真正面に六所神社があるというのは象徴的でした。分断された野毛住民の思いがここに表れてますね。切なさが身に沁みました。

さて、村道の逆向きは、西隣の北見方村に続いています。

【北見方村】

北見方村に入って少し行くと府中道との三叉路がありそこに石塔が集められています。

地神もありますね。町田以外では珍しい。

石塔群の先を右に折れると白髭神社があります。


創建は1610年と平凡ですが、白髭神社というのが非常に珍しいですね。江戸川区に住んでた頃はよく見たんですが、世田谷区に引っ越してからは殆ど、というか、初めてですかね、この辺りでは。伊勢猿田彦神社より御分霊を迎えて創建とのことですが、何の縁で伊勢の猿田彦を?!と、思います。伊勢出身の人がこの地に入植してきて、地元の氏神様を持ってきたんですかね?, と、思って北見方の名主を調べましたが名主自体が分からずでした。

また、ここは、1738, 1834, 1835と、多摩川の洪水で流され、再建されています。下野毛村のチャプターで言いましたが、郡境を見ると、かなり、世田谷区側に張り出しているので、この辺りは安泰だったのかなと思ってしまいましたが、やはり、そんなことは無かったんですね。

【諏訪河原村】

北見方村の西隣は諏訪河原村です。

村入口の馬頭観音

ここは空気が締まってましたね。良い空気感でした。恐らくこの諏訪神社の影響だと思います。

神主の方が常駐されているようで、ふと目を合わせた時、深く頭を下げられ、私なんかが偉そうに言えませんが、礼節がしっかりされていると感じました。恐らく、諏訪氏が入植して以来、この村をこのような風土で治めてきたんだと直感的に思いました。

何故この多摩川右岸の地に諏訪かということなんですが、諏訪の人、諏訪頼久が、天正~慶長年間(1573~1615)に勧請したからなんです。但し、この諏訪頼久は寛永の生まれ(1644生~1716没)ですからこの伝承とは齟齬があります。

諏訪氏は小笠原氏、村上氏、木曽氏と並んで信濃四大将の1つとされ、代々信濃一宮諏訪大社上社の大祝を務めてきた信濃の名族です。戦国時代には、後北条氏の家臣になりました。

私は、頼久より前の世代が、秀吉の小田原攻めで君主後北条氏が滅んだ後、多摩川の河原で荒れ地だったこの地に入植したのではないかと思っています。

ここ諏訪河原村は宮内村同様、少し標高が高かったようですね。諏方神社、明王院、小黒家(諏訪氏後裔)といった諏訪河原村の中心部に、諏訪天神塚古墳、諏訪浅間塚古墳といった古墳があるようです。今回は未訪問ですが。

【二子村】

二子村に入ります。

少し外れですがここにも古墳です。

二子塚

二子新地駅の方に向かい、二子神社に寄ります。


因みに、二子というと世田谷区側にも二子玉川がありますね。川崎市側の駅名は二子"新地"で、何やら川崎市側が新しい、つまり元々の二子は世田谷区側だという感じがしますが、、、

迅速測図、二子村

迅速測図を見ると分かる通り、二子村と瀬田村の郡境は二子村側、つまり、今の二子新地側に寄っていて、と、言うことは、二子新地が二子村で、二子玉川は瀬田村であることが分かります。それが証拠に、現代地図を見ると、二子橋の川崎市側の河川敷に、僅かに、瀬田という地名が残ります。

さて、二子神社に戻ります。二子神社は、武田氏家臣で秀吉小田原攻めの際、最後の最後で裏切り、勝頼を自害に追い込み、武田氏滅亡に追いやった小山田氏の創建です。諏訪氏同様、秀吉小田原攻めの後に、荒れ地だったここ多摩川右岸に入植したんですね。

大山街道沿いにある光明寺も同様に小山田氏開山です。


【溝口村】

大山街道を行き溝口村に入りました。

村社溝口神社に寄ります。


ここ溝口神社は、元赤城大明神と呼ばれ御神体は毘沙門天と弁財天です。明治になって、廃仏毀釈の流れで天照大神を祭神としました。毘沙門天も弁財天も仏神ですし、風土記に、宝永5年(1708)に僧修禅院日清が造営したと書かれているからです。

実はこれと全く同じ謂れで、故に、兄弟社とも言われる久地神社が、お隣久地村にあります。


更に、津田山の向こうには赤城神社があります。


1184年創建、当初は第六天として。1193年に、稲毛庄を治めていた稲毛三郎重成が、那須に巻狩に行った際、赤城山の霊夢を見、帰郷後、赤城大明神としました。御祭神は磐筒雄命です。

創建の伝承も確からしいし、御祭神も合ってますから、まずこの神社が創建され、近くの久地と溝口にも赤城神社が出来、その後、荒廃したのか、1708年に、日清によって毘沙門天と弁財天が祀られ、神仏習合の神社になったのではないかと想像を膨らませています。

【久地村】

久地村には江戸中期に築かれた、かすみ堤があります。


諏訪河原村から二子村、そして久地村にかけての土手道は、ほぼ今の土手道と同じです。が、迅速測図を見ると、久地村に直線的で人工的な土手道が確認できます。これがかすみ堤です。

迅速測図、かすみ堤

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長くなりそうなので今回はここで一旦終わりとし次回に続けます。

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