2019年8月17日土曜日

大磯、渡来の道

このシリーズの前々回は、深大寺をexplorerしました。

深大寺を開いた満功の父福満が渡来人で、福満の妻であり満功の母(名無し)の父温井右近長者は高句麗の渡来人だった、このエリアを狛江 = 高麗江という、というストーリーでした。

今回は、その深大寺(狛江)エリア同様、高句麗渡来の伝承が残る、"始まりの地", 大磯をexplorerします。

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日本書紀によると、666年、玄武若光を含む高句麗からの使節団が倭国を訪れます。

668年、高句麗は、唐・新羅連合軍に滅亡させられました。玄武若光らは、まだ日本にいたなら、帰るに帰れなくなってしまったということになります。

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続日本紀によると、703年、高麗若光に、従五位下の官位(貴族)と王(こしき、と読む)の姓(かばね、と読む)を与えたとあります。

660年に百済が滅亡しますが、この時、百済と倭国は同盟を結んでおり、王子である善光は日本にいました。やはり、帰るに帰れなくなり、そのまま日本に土着します。その際、王の姓を与えられ、百済王氏と名乗っています。

このことから、高麗若光(高麗王氏)も高句麗の王子だったと思われ、玄武若光が王子であったことから、やはり、同一人物だったのではないか、と、想定されています。

716年、武蔵国に、東海道7ヶ国から、高句麗人1799人を移住させ、高麗郡を設置しましたが、高麗若光もその中の一人だった、、、というよりも、リーダー(郡司)だったと言われています。

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が、ここまで、高麗若光と大磯を結び付けるものは何もありません。

が、武蔵国高麗郡の高麗若光を祭る高麗神社によると、

「若光の故郷を去って我が国に投下するや、一路東海を指し、遠江灘より東して伊豆の海を過ぎり、相模湾に入って大磯に上陸した。」

とあります。また、大磯の高来神社奉納御船祭(7月)の祝歌は、

「そもそも高麗大明神の由来を尋ぬれば、応神天皇15代の御時(270〜312年)に海騒がしく、浦の者共怪しみて、はるかの沖を見てあれば、唐船一隻八ツの帆を揚げ、大磯の方へ舵を取る、走り寄るよと見る内に、程なく水際に船はつき、浦の漁船、漕ぎよして、かの船の中よりも、翁一人立ち出て、櫓に上がりて声をあげ、汝ら其れにて、良く聞けよ、我は日本の者にあらん、もろこしの高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れて大日本に心掛け、汝らきえする者なれば、大磯浦の守護となり子孫繁昌守るべし、あら有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗りうつり、揚がらせ給ふ、御世よりも、明神様(権現様)を乗せ奉る船なれば、明神丸(権現丸)とは此れを言うなり」

と、言う内容で、時代は大きく異なりますが、高麗神社の伝承に重なります。

と、いうことで、ここまでの話を統合し、高麗若光は、666〜668年、あるいは703年の後辺りに、直接か、ヤマト経由か分かりませんが、兎にも角にも、大磯に来て、土着し、716年には、現在の埼玉県日高市、当時の武蔵国高麗郡に、高句麗人の集団を引き連れて移住した、というストーリーが生まれています。

西から来たことを考えると、深大寺は大磯を経由したと考えられます。

よって、"始まりの地"なんです。

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平塚まで輪行。近代の東海道で大磯に。

高来神社です。

高来神社と高麗山
高来神社拝殿、元高麗寺の観音堂と高麗山
お隣の慶覚院の本堂、元高麗寺の地蔵堂と高麗山

その縁起(関連を含む)を改めて時系列で整理しました。
  • 神武天皇の時代(BC660〜BC582)の創建とする記録がある。
  • 垂仁天皇の時代(BC29~70)に神皇産霊尊と瓊々杵尊を祭神とした。
  • 神功皇后(170~269, あるいは290〜389)が三韓を征伐した時に神霊が御出現して勝利に導いた。因って武内宿禰は奏して東夷静謐の為に、神皇産霊尊(高麗大神和光)を当山の韓館の御宮に遷し奉った。これが高麗権現社の起源(以上、3項は高来神社境内案内板より)
  • 『箱根山縁起』には、「神功皇后三韓を討ち、後に武内大臣奏して云ふ、異朝の大神を請い奉り、令して天下長く安寧なることを祈願す。即ち百済明神を日州に奉遷し、新羅明神を江州に奉遷し、高麗大神和光を当州大磯に奉遷し、聳峰に因りて、高麗寺と名づく」とある。
  • 大磯の御船祭の祝歌(上記)での出来事、高句麗から守護が大磯に辿り着く伝承は応神天皇の時代(270〜312)
  • 安閑天皇の時代(532~535)に応神天皇と神功皇后が合祀された。(高来神社境内案内板より)
  • 668年、高句麗滅亡、若光高句麗へ帰れなくなる
  • 703年、若光従五位下官位、王姓賜わる
  • 716年、若光武蔵国高麗郡へ
  • 717年、行基僧正が巡国折にお祀りしてある千手観音を高麗権現の本地佛とお定めになり高麗寺を開山
  • 855年、円仁により本社の左峰に毘沙門塔を右峰に白山社を建立
  • その後、江戸期には東照宮となり、明治の廃仏毀釈で高麗神社となって、明治30年に高来神社となった。(以上、3項は高来神社境内案内板より)
と、スーパースター揃い踏みのもの凄い縁起です。

加えて、確かに、高麗若光ら高句麗人が大磯に来て、土着したことは間違い無さそうで、だからこの地は"高麗"であり、高麗の地にあるから高麗神社だったのでしょうが、高来神社そのものには、高麗若光は、関係していません。高麗若光が大磯に来るよりずっと前から存在し、祭神は高麗若光ではありません。

また、こうして時系列で改めて見てみると、高来神社奉納御船祭祝唄は、むしろ、神功皇后の凱旋を歌っているようにも思えます。

安閑天皇の時代(532〜535)に応神天皇と神功皇后が祭神に追加されるまではむしろ、渡来色は無く神功皇后三韓征伐伝承が主で、その後、668年の高句麗滅亡に伴い、高句麗人の集団が大磯に来たことで、祝唄の主人公がすり替わったようにも思えます。

また、これが大いなる疑問なんですが、何故、大磯だったのでしょうか?

"東夷静謐の為"との記述がありますが、に、しても、何故、大磯だったのか。

高麗山に登ります。

大堂跡に残る祠、傍らの石は積み石が崩れたものか?

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高麗若光を含む高句麗人の集団は、716年、大磯から武蔵国高麗郡に移住しました。

その時のルートですが、大きく2つあるようです。

1つは、実は、高来神社と武蔵国高麗郡の高麗神社は、キッカリ、南北の位置関係となりますが、この南北ラインに沿って行くルートです。

花水川を遡り、花水川が大きく西に曲がる所でそのまま北へ。津古久峠を越え相模川へ。相模川を遡り、相模川が大きく西に曲がる所でそのまま北へ。杉山峠・七国峠を越え多摩川へ。多摩川は遡らず、高麗峠を越え高麗郡へと行くルート。

もう1つは、相模川が大きく西へ向きを変えるまでは同じで、そこから府中に向かい、府中からは多摩川を遡り青梅に至り、青梅から山を越えて飯能に至るルートです。

尚、深大寺へは海上ルートで行ったものと思われます。



今回はこのルートを相模国愛甲郡玉川郷まで行きます。

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花水川を遡ります。

この道は大山に向かう道でもあったのです。
白髭神社跡

ここに嘗て白髭神社がありました。

この少し手前、鈴川と名前を変えた花水川が大きく西へ向きを変える辺りまで、高句麗人の集団が高麗郡に移住した700年頃は、入江でした。この白髭神社は、その入江に面する位置にあったのです。高麗郡への道中にあり、入江に面していて、白髭神社であることを考えると、これもこのエリアの高句麗遺跡の可能性があります。

さて、道は、伊勢原駅を過ぎ、八王子大山道と重なり、津古久峠を越え、相模国愛甲郡玉川郷に至ります。

土道が残る津古久峠

ここには、延喜式神名帳に載る小野神社があります。

小野神社

この神社は実に興味深い神社です。

まず、名前も、祭神も、全く同じ神社が3つもある内の1つであるということです。

府中市の小野神社、多摩市の小野神社、そしてここ厚木市の小野神社です。

祭神は、天下春命、瀬織津姫(アラハバキ), 春日大神です。

小野路道の時にも考察しましたが、多摩市と府中市の小野神社は、例えば、元は1つの神社で、多摩川氾濫によって分かれた、というように、強い関係があると考えるのが合理的と思われます。

が、厚木市は何なんでしょうか?

厚木市の小野神社ですが、鎌倉時代には、愛甲三郎季隆が当社を篤く信仰していて、古い納札には建久5年(1194年)に当社を再興した記録があります。

この愛甲季隆、元は横山季隆で、横山氏の相模国進出に伴い横山氏の根拠地、武蔵国横山庄から相模国愛甲郡玉川郷に来ています。

その武蔵国横山庄には、既述の2つの小野神社があります。厚木市の小野神社は、愛甲季隆が、愛甲郡に来た際、地元横山庄から持ってきたのかもしれません。

もう1つの伝承に、霊亀2年(716年), 行基が薬師如来の像を刻んで当社に奉安したということがありますが、小野神社の西に日向薬師があり、日向薬師の開山伝承と似ています。これは恐らく、日向薬師の開山伝承と混ざってしまったのかもしれません。つまり、厚木市の小野神社は716年には創建されていなかったと。

そうなると、上記の愛甲季隆が勧請したという説の確度が上がりますが、一方で、厚木市の小野神社は延喜式神名帳に、「相模国十三座の内愛甲郡一座小野神社」と記されているんです。と、いうことは、927年の時点で既にここにあったと言うことになります。

でも、そうなると、厚木市の小野神社、多摩市の小野神社、府中市の小野神社、これら全て、たまたま、祭神が、天下春命、瀬織津姫(アラハバキ), 春日大神と同じで、たまたま、名前も同じで、しかし、別の所に出来たということになり、そんな偶然があるのだろうか、と、思ってしまいます。

あるいは、別の祭神が祭られていた小野神社があり、愛甲季隆がこの地に来た時に祭神を追加し、いつのまにか主祭神となった、ということでしょうか。

そうなると、第六天、稲荷、淡島、金毘羅、山王の内のどれか、ということになります。

それと、これは厚木市だけではないですが、やっぱりアラハバキですね。

アラハバキ神

色々と謎があって面白いです。

アラハバキと言えば、伊勢原駅の手前に三福寺があり、その山門前に子の権現があります。

三福寺の子の権現

境内の説明によれば、子の聖はここ伊勢原に滞在していたようです。その後、飯能の天龍寺を開きます。

子の権現境内の説明

伊勢原と飯能(高麗郡)がアラハバキで繋がった?, のでしょうか。

さて、小野神社から日向薬師に向かいます。

日向薬師への道すがら、切り通し
日向薬師への道すがら、この道は大山へ向かう道

日向薬師に到着です。

参道
日向薬師

(日向神社 = 白髭神社の写真撮り忘れ!これを撮りに行ったと言っても過言ではないのに!)

日向薬師と日向神社には、以下のような伝承があります。

716年、行基が薬師を彫ろうと良い木材を探していた所、高麗若光が良い木材を提供してくれて、無事、薬師如来を彫ることが出来たという内容です。その高麗若光を祭ったのが日向神社となります。

この伝承が本当なら、と言うか、この伝承もあったから、他のご紹介済の伝承と合わさって、高麗若光大磯上陸・高麗郡移住の伝承となったものと想定します。

既述しましたが、高来神社と高麗神社の位置関係はキッチリ南北なんです。

この、"真北"というのは北極星を目印に進んだ、つまり、妙見信仰ということです。

妙見信仰とは、まだ人々が農耕を中心とした社会に入る前、狩猟中心だった時代、日本で言えば弥生に入る前の縄文の時代、全く位置が変わらない北極星は、移動の際の生死を左右する大事な道標だったのですが、それが元となり、やがて北極星が神格化したもので、日本には6世紀頃に入ってきたと言われています。

しかも、"玄武"若光です。

"玄武"とは、中国の四神(青竜、朱雀、白虎、玄武)の1つで、北方の守護神、北極星の象徴です。つまり、若光は、北極星になったのです。

GOT的に言えば、"北の王"でしょうか。

祖国を滅ぼされ、故郷を失った、"北の王", 高麗"玄武"若光率いる高句麗人の集団は、妙見信仰の下、北極星を道標に、北へ、北へ向かっていき、新天地高麗郡を目指したのです。。。

どうですか、ロマンチックなストーリーになりますよね。人はロマンチックを求めます。こうして、高麗若光伝承は、生まれたんだと思います。

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最後に、記事中では、"海上ルート"と、軽く触れただけでしたが、大磯と深大寺(狛江)の関係を見てみます。

大磯の曽我物語と深大寺縁起の共通点を上げてみますと、
  1. 曽我十郎の妾の名は虎御前、温井長者右近の妻の名は虎
  2. 虎御前の母の名は満江御前、深大寺開創は満功上人
  3. 虎御前は山下長者の娘、満功の祖父は温井右近長者
  4. 山下長者が池の中の島にある弁天様に祈願して虎御前が生まれ、虎は十郎の無事をこの弁天様に祈願した。満功上人の父、福満は、池の中の島に隠されていた温井長者右近の娘に会う為に、深沙大王に祈願し、成就後、深大寺を開山し、後に中の島に亀島弁天を祀った。
と、名前と役割は入れ替わってますが、共通点が多いです。

もう1つ。
  1. 多摩川を遡る方向で言えば深大寺(狛江)の手前、世田谷区大蔵の吉祥院は、行基開基、良弁開山で、渡来人の秦氏某が糧材を喜捨して堂宇を建立したという伝承がある。
  2. 日向薬師の伝承は、上記の通り、行基が薬師を彫ろうとし良材を探していたら渡来人の高麗若光が提供してくれた。日向薬師の奥は大山寺で良弁開山。
と、非常によく似ています。

と、いうことで、大磯と深大寺(狛江)の間には、人の流れを感じさせます。やはり、大磯から深大寺(狛江)へ海上ルートで高句麗人の移動があったのだと推定します。

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今回、大いに参考にさせていただいたサイトは以下の通りです。

2019年8月10日土曜日

深大寺から奥多摩・青梅へ 1, 府中崖線、深大寺から立川、渡来の道

このシリーズの前回は、深大寺をexplorerしました。

深大寺を開いた満功の父福満が渡来人で、福満の妻であり満功の母(名無し)の父温井右近長者は高句麗の渡来人だった、このエリアを狛江 = 高麗江という、というストーリーでした。

今回は、その深大寺(狛江)エリアから高麗郡へ向かう道をexplorerします。

尚、一言で、"渡来"と言っても色々ですが、このシリーズでは、高句麗(高麗)を追いかけてみたいと思ってます。

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日本書紀によると、666年、玄武若光を含む高句麗からの使節団が倭国を訪れます。

668年、高句麗は、唐・新羅連合軍に滅亡させられました。玄武若光らは、まだ日本にいたなら、帰るに帰れなくなってしまったということになります。

続日本紀によると、703年、高麗若光に、従五位下の官位(貴族)と王(こしき、と読む)の姓を与えたとあります。

716年、武蔵国に、東海道7ヶ国から、高句麗人1799人を移住させ、高麗郡を設置しましたが、高麗若光もその中の一人だった、、、というよりも、リーダー(郡司)だったと言われています。

玄武若光と高麗若光が同一人物であるとの記録は無いのですが、流れからすると同一人物である可能性が高いと言われています。

仮に、同一人物ではなかったとしても、兎にも角にも、高麗若光という高句麗人が、貴族となり、王(こしき)の姓を与えられ、その後、高麗郡の郡司として高句麗人を率い、高麗郡を開発したというのは間違い無さそうです。

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前回シミュレーションしたように、深大寺エリアに高句麗人が来たのは650年くらいだったと思われます。

ですので、716年の高麗郡設置、高句麗人の移住に際しては、深大寺エリアの高句麗人たちも、高麗郡に移住したのではないかと思われます。

その時のルートはどうだったのか。

結論から先に言えば、2説あるんですが、共通しているのは多摩川ですね。多摩川を青梅まで遡り、山を越えて飯能に出るルートと、拝島から真北に飯能に行くルートです。



チャリでは多摩川は遡れないのと、陸路を行ったグループもあったのではないかとも思うので、陸路だとどこかと考えると、その場合は、まだ律令前なので、官道があるわけでもなく、生活道を辿ったのだと思います。当時の生活道とは、府中崖線なのではないかと思います。

崖上は見晴らしも効いてriskを早く察知できるし、崖下に下りれば水が確保できる。だから縄文の時代から生活の場で、縄文・弥生遺跡、古墳、寺社が多く見られます。

そういった生活の場を繋ぎ自然発生的に発展していったのが、今回の陸路だったのではないかと思います。

と、いうことで迅速測図の地形と明治初期の古道を見ながら引いた線が紫線と黒線になります。

国分寺崖線と府中崖線。今回は府中崖線の崖上を行く。
分かりづらいのでルート線をカット。北の段差が国分寺崖線、南が府中崖線。

崖上は見晴らしも効いてriskを早く察知できるし、崖下に下りれば水が確保できる。だから縄文の時代から生活の場で、縄文・弥生遺跡、古墳、寺社が多く見られます。

そういった生活の場を繋ぎ自然発生的に発展していったのが、今回の陸路だったのではないかと思います。

と、いうことで迅速測図の地形と明治初期の古道を見ながら引いた線が紫線と黒線になります。

今日はここを行きます。

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深大寺エリアのスタート地点は、祇園寺としました。

祇園寺

地図を見てください。

前回も言いましたが、深大寺エリアから真っ直ぐに多摩川に向かう道があります。宮田太郎氏曰く、これは、多摩川を遡ってきた高句麗人たちが使った、深沙大王堂の参道ではないかとのことです。では船着き場は。それこそが、布田天神だったのではないかということです。

古天神公園、嘗ての布田天神。そこから多摩川方面の眺望。ここは府中崖線の崖上、崖下まで多摩川が来ていたのか。

ここから出来る限り崖上を、時には崖下を行き、宅地化されたところは住宅地を迂回し進んでいきます。

ここは崖上エッジをトレースしていることが良く分かる所です。
幅一間の道も残ります。

で、到着したのが瀧神社です。

崖上の鳥居越しの霊峰富士山と大山
府中崖線から湧水が今でも

この瀧神社、創建は詳らかならずも、この瀧(水)が元々のご神体であったことは想像に難くない。と、なると、相当昔に、下手すれば縄文の時代にも遡れると思い、寄った次第です。

しかしこの瀧神社、何故、御祭神が賀茂なんでしょう?, どなたかご存知の方、教えてください。

道はやがて大國魂神社に辿り着きますが、今回は趣旨ではないのでスルー。次の立ち寄り値はその先の高倉塚古墳です。

高倉塚古墳
墳丘から南の眺め。眺望がきいていて、府中崖線に乗っていることが分かります。

次に訪れたのは谷保天満宮です。

谷保天満宮、崖下にあります。
湧水、かなりの透明度でした。

何故ここに立ち寄ったかと言えば、湧水です。崖線の象徴ですので。加えて、涼を求めて。

この後、崖上の道は根川貝殻板橋まで続き、その後、甲州道中に吸収されます。その後は奥多摩街道に名を変え、青梅まで続きますが、今回はここまで。

ママ下湧水公園の湧水、癒されました。

2019年7月13日土曜日

延喜式後の武蔵国の古代東海道、浅草

以前、延喜式前の武蔵国の古代東海道について、まずは全体感を、次に定説ルート異説ルートその1, その2, そして、武蔵国が東海道に所属変えとなる前の東山道武蔵路をexploreしました。

延喜式前の武蔵国における古代官道は、これで大体ご紹介出来た、そういうことになります。

※相模国夷参駅〜武蔵国府、武蔵国豊島駅〜下総国井上駅はまだ行ってませんがそれは追々

ここでそもそも、"延喜式"なんですが、前回の全体感の時にご説明したように、古代官道は時の情勢によって変遷しているんですね。

それが書物から読み取れるんですが、延喜式もその1つで、927年に出された内容を見ると、

"店屋・小高・大井・豊島の四駅に各々駅馬十疋を置くとし、都筑・橘樹・荏原・豊島の四郡に各々伝馬五疋を置く"

と、書いてあって、駅は、店屋、小高、大井、豊島だと分かります。

771年以降、延喜式前までは、店屋、武蔵国府、乗潴、豊島でした。

店屋と豊島は同じとして、小高と大井が新しく、大井は今の大井です。ですから、771年〜927年の間のいつかの時点に、下図、黒線から赤線へ変化したことになります。

延喜式前後比較、店屋駅から武蔵国府への道は正確に言うと東海道本路ではなく、店屋駅から武蔵国府への連絡路です。この時の本路は、相模国夷参駅から武蔵国府へ達していました。

また、小高ですが、従って、この赤線上にあることになるわけですが、川崎市新作小学校で発掘された新作小高台遺跡が、確定的ではないものの、該当すると言われています。

と、いうことで整理すると下図のようになります。大きくしてご確認ください。

まず町田市付近に行ってください。その辺りにある紫のマーカが店屋駅です。店屋駅から東へ青線が続いてますが、これが延喜式古代東海道です。店屋駅の次の紫マーカが都築郡衙、次が小高駅、次が橘樹郡衙、多摩川を渡ったら、赤線と青線が延喜式古代東海道です。赤線の方が古いと思われます。赤線を辿っていくと茶色マーカがあり、その次に赤マーカの旗岡八幡がありますが、ここは荏原郡衙です。で、その先の紫マーカが大井駅です。その先、日本橋で青線が分かれますが、西側が、豊島駅が延喜式前と同じだった場合、東側が、変更になった場合です。変更になったとすると、浅草を通ります。浅草寺の開山が628年ですから、延喜式の927年時にはとっくに開かれていただろうし、平安期以前の寺社がこれだけ集中してますから、東側が本命だと思います。



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さて、ではこの延喜式後の古代東海道を、どうexploreするか。

正直言えばもう何度も走った。また、道はただの都会の道だし、魅力的ではない(そう言えば、東山道武蔵路で行った狭山の辺りは美しい田園風景で癒やされた、素晴らしかった。)。

さて、どうするか、と、改めて地図を眺めると、ルート沿いに平安期以前の寺社が集中しているのが分かる。延喜式前のルートは杉並区の辺り、つまり、乗潴駅周辺に集中している。延喜式後のルートでは、浅草が物凄いことになっている。

浅草の特徴としては、
  • まず緑、慈覚大師円仁縁の寺社だ。
  • 次はグレー、日本武尊縁の神社だ。
  • 次は黒、源頼義・義家親子による前九年の役、後三年の役ゆかりの寺社だ。延喜式前のルートの杉並区周辺より数は少ないが、一定程度ある。
  • 最後は茶色、平将門縁の寺社だ。
しかし、この辺りは927年当時、低地であり、海、あるいは湿地で、官道を通すに適さなかったのでは?とも思う。地形図で確認してみよう。

地形図

図真ん中やや左下からルート(青線)が来ている。皇居の辺りで東へ直角に曲がる。その後は隅田川沿いに北上するのだが、まるで綱渡りするように、ものの見事に微高地を行っていることが分かる。

逆に、青い所は、現在は、単に標高の低い所だが、当時は海だっと理解して良い。海の中に川が、この図だと、西から、隅田川、荒川放水路、新中川と、南北にあるが、頭の中で川は消し去り、海だと思ってもらいたい。例えば隅田川の両岸にもポツリポツリと自然堤防微高地があるが、それは島だったということ。

因みに、図真ん中やや左下、茶色マーカがあるがこれは新橋にある烏森神社。その東に北北東から伸びている半島が江戸前島。烏森神社は江戸前島の突端に建てられたのだ。深い意味がありそう。江戸前島と皇居の間の入り江が日比谷の入り江で、江戸前寿司とはここで取れたネタで作った寿司のことを言う。

その江戸前島を北北東に行くと寺社が固まっている所があるがここが日本橋。ここに微高地が無ければ延喜式後の古代東海道は寸断されていた訳だが、では何故ここに微高地が出来たのか。

不忍池が分かると思うがその先は石神井川、石神井川の西の本郷台地、その西の谷は神田川(平川)の谷。今の神田川は本郷台地を貫いているがこれは家康によるもの。本来の川筋はこの谷筋の通り今の日本橋川。

この2本の川が出合う所が日本橋。更に東からは隅田川が、南東からは潮が、土砂を寄せ合い集まり堆積していくピンポイントが日本橋。だからここに微高地が出来た。

隅田川の西岸も同様に川の蛇行によって土砂が盛り上がり自然堤防となっていった微高地。これらの微高地は、既述のように、浅草寺が628年開山だから、その時は既に成立していたことになる。

この隅田川沿い自然堤防微高地と上野の大地の間、ここは、嘗て、隅田川の氾濫による姥が池、千足池、長江の入江があった。

それを避けるには、今の日光街道の微高地を辿っていかなければならない。これが延喜式前の古代東海道の道筋か。

ここで忘れてはならないのが豊島駅。豊島駅に寄ろうとすると、日本橋から本郷台地を駆け上がり、豊島駅に行き、石神井川の東の台地を南下、日光街道の微高地を来なければならず、遠回り。なので、延喜式後は、豊島駅を隅田川渡河点、石浜神社の辺りに移動した、というのが1つの説となっている。

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と、いうことで、延喜式後の古代東海道をトレースするのではなく、浅草を中心としたエリアに絞ってexploreしたいと思います。

滝坂道、大山街道で三宅坂まで。お堀に沿って、皇居外苑を突っ切り、将門塚に向かいます。

将門塚、土曜の朝7時過ぎでしたが、黒塗りの高級車で来られた初老の方など、引っ切り無しに人々が訪れ参拝が途絶えません。

その名の通り将門がフィーチャーされてますが、ここは神田神社の旧社地で、730年にこの地に創建されました。古いですね。この地が早くから陸地化し、開けていたことが分かります。

730年というと、延喜式前の古代東海道の時代ですが、ここは通っておらず、通らずとも、開かれていたんですね。

そう言えば、深大寺(狛江)エリアもそうでした。あそこも古代東海道からは遠く離れていましたが、深大寺開山は733年です。高句麗の民たちは、陸路ではなく、海、多摩川のルートでここに上陸したのでした。

このエリアも同様に、海路で開かれたエリアだったのだと思います。

話を神田神社に戻します。

祭神は大国主命。出雲系が海路、この地に、上陸してきたことが垣間見えてきます。

続いては三越エリアにある福徳神社です。

福徳神社

貞観年間ですから859〜876年には、既にここに鎮座されていたとのことですから、こちらも古いですね。

祭神は倉稲魂命なのでお稲荷さんです。

が、相殿が、天穂日命、大国主命、少彦名命、事代主命、三穂津姫命と、出雲系勢揃いで、どのような謂れで相殿となったか調べましたが分からなかったんですが、もしかしたら、先の神田神社(将門塚)と合わせ、出雲系が海を渡ってこの地に上陸したのではないかと思われます。

更に、源義家の信仰も篤かったということで、義家縁でもあったんですね。

福徳神社の南には兜神社があります。

兜神社
兜岩

兜神社自体は明治の創建ですが、その元となった兜岩には、
  • 前九年の役で奥州に向かう義家が、戦勝を祈願して岩に兜をかけた。
  • 後三年の役の凱旋時ここに立ち寄り、東夷制定を祈願して、兜を埋め兜塚としたものがいつの間にか兜岩となった。
  • 藤原秀郷が将門の首を京の都へ運ぶ時、将門の兜をこの地に埋め供養した。
という伝承があり、ここ兜神社も義家と将門縁です。

濃いですね、義家と将門色が。このエリアは。

兜神社の直ぐ近くには、鎧橋があり、ここは元鎧の渡しですが、ここにも兜神社と似た伝承があります。兜神社とセットというか、元は同じ伝承のような気がします。

鎧の渡し、2019年
鎧の渡し、1858年

  • 義家が奥州征伐に向かう際、この地で暴風雨に遭い、大きな淵を渡れず難儀していた。鎧を沈め龍神に祈った所、暴風雨が止んだ。いつしかここを鎧淵と呼び、鎧の渡し、鎧橋となっていった。
  • 将門が兜と鎧をこの地に収めた。
先に進みます。

福徳神社の北には、これまた興味深い、福田稲荷神社があります。

福田稲荷

なんと、709年に本家本元伏見稲荷が創建された僅か2年後に勧請されたといいます。

本家本元伏見稲荷の創建は、社記では和銅4年、711年とされていますが、山城国風土記では和銅年中、つまり、708〜715年とされているので、辻褄が合うということになりますが、に、しても、早過ぎませんか?!というのが本音ですが、何れにせよ、先の福徳神社といい、ここ福田稲荷といい、お稲荷さん = 秦氏勢力も、海を渡ってこの地に上陸したのでしょうか。

先に進みますと、椙森神社があります。

椙森神社

ここも古い。931年の創建と伝わります。940年頃には、藤原秀郷が、将門征伐成功のお礼として、白銀の狐を奉納したといいます。祭神は沢山あるんですが、このことから、元はお稲荷さんと思われます。

ここも将門ですね。

このルートが、その当時から、武蔵国から常陸国(将門本拠地)に行く主要なルート、つまり、東海道だったことを証明しているようにも思えます。

先に進み、家康が掘った神田川を渡り総武線を越えて直ぐにあるのが銀杏岡八幡神社です。

銀杏岡八幡神社

ここも義家。また、"岡"ですから、ここも自然堤防微高地で周囲より少し高かったんでしょう。

頼義・義家親子が、ですから前九年の役に向かう時、戦勝を祈願しここに銀杏を植え、帰途、ですから1062年、見事勝利となったので、八幡神社を勧請したとの伝承があります。

その直ぐ先には須賀神社があります。

須賀神社

須賀神社ですから須佐之男命ですね。大国主命の父です。出雲系ですね。

推古天皇9年ですから601年に、この地に疫病が流行った時、白衣の異人が海から現れ、"我こそは牛頭天王なり。我を祭れば疫病は避けられる。"と言い、消え、牛頭天王を彫り祭った所、疫病が去ったという伝承があります。

この伝承などは、そのものズバリで、"出雲系である須佐之男命(牛頭天王)が海から現れ", ですから、出雲系の民が海からこの地に上陸したという、これまでの仮説を補強する伝承ですね。

須賀神社の直ぐ近くには鳥越神社があります。

鳥越神社

ここは隅田川が作った自然堤防の微高地の中でも一際高い丘だったようで、日本武尊東征の折、この地を訪れ、皇祖ニ柱を祭り、後世の651年、村人が日本武尊を白鳥明神として奉祀したのが始まりです。

ついに登場しました、日本武尊です。

ここはお馴染み義家伝承もあって、頼義・義家親子が奥州征伐の折、白鳥明神前の海をどうやって渡渉しようか思案していた所、白鳥が歩いて渡るのを見て、これは白鳥明神のご加護と、以降、鳥越の名を奉じたという内容です。

鎧の渡しの伝承と似てますね。

さて、頼義・義家親子はどこを渡渉したのか。

地形図、鳥越神社、牛島

恐らく黄色ラインを渡渉したのだと思います。

左下、グレーが鳥越神社です。赤は船江神社旧社地で、この辺りから北に自然堤防微高地が続いていて、牛嶋神社がある"牛島"があったと思われます。

頼義・義家親子は、鳥越神社から牛島に渡渉したのではないでしょうか。

先に進みます。

黒船稲荷神社

940年に、将門征伐を成功した藤原秀郷が勧請したと言います。藤原秀郷が夢で黒船に乗った白狐を見たということで、椙森神社と殆ど同じ伝承ですね。

さて、次はいよいよ浅草寺です。

駒形堂、2019年
駒形堂、1858年
浅草寺

"推古天皇36年(628)3月18日早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が江戸浦で漁労中、投網の中に一体の仏像を見付け、これを土師中知(はじのなかとも)が拝し聖観世音菩薩の尊像であることを知り、自ら出家し屋敷を寺に改めて深く帰依した。"

これが、お馴染みの浅草寺縁起ですが、ここで、注目は、まず、漁をしていたのが隅田川ではなく、"江戸浦", 海なんですね。

もう1つの注目点が、"土師"中知と、"檜前"浜成・竹成です。土師氏は出雲系で、檜前はヤマトにルーツを持つ氏族ですから、やはり、出雲系、大和王権勢力が、海路、この地に来て、上陸し、土着していったものと思われます。時期的には628年より前ということになりますね。

最後にもう1つ、1070年には義家が戦勝祈願に訪れています。ここも義家でした。

次は、待乳山聖天本龍院です。

待乳山聖天

ここも古い。浅草寺よりも古い、595年です。

鳥越神社同様、自然堤防微高地なんですが、周りより更に少し高かったようで、だから、山号の意味以外でも、"山"でした。

この山を切り崩して、姥が池、千足池、長江の入江を埋め立てました。また、待乳山聖天の直ぐ北を山谷堀が流れてますが、その土手は日本堤で、この堤防もこの山の土で作られ、千足池の水を堰止める為のもので、山谷堀は水逃しの為に作られたものでした。

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それにしても浅草寺はスゴイですね。

浅草寺縁起に、628年に観音様が現れた時、金の鱗を持つ龍が天から現れたという行があります。

浅草寺の子院である待乳山聖天の縁起も、595年に山が現れ、そこに天から金龍が舞い降り山を護り、その後、601年に、十一面観音が聖天に姿を変え現れ、人々を救済したということがあり、ほぼ同じ内容なので、元は同じかもしれません。

で、何が凄いのかということなんですが、
  • 仏教公伝、538 or 552年
  • 日本最古の寺、飛鳥寺、蘇我馬子建立の発願588年、創建596年
  • 法隆寺、607年創建
と、いうことで、ナント!日本最古の寺、飛鳥寺やあの法隆寺と肩を並べる位の古さなんです。

まあ、余りにも古過ぎるんで、多少あれだとしても、日本に仏教が公式に伝来した時とほぼ同じ時に、遠く離れた東国で、仏教寺院が建立されたというのはホントに凄いことです。

何故、このようなことが実現出来たか。

キーワードは、"檜前", "土師"です。

先にも触れましたが、檜前氏は、289 (あるいは409)年に渡来した阿智使主の末裔で、大和国高市郡檜前郷(今の奈良県高市郡、明日香村のある郡)に住んでいた氏族です。渡来時に仏教を持ち込んでもおかしくないでしょう。

一方、土師氏は、天照大神、天穂日命、出雲国造の系列で、野見宿禰を祖とする氏族。垂仁朝に起こりました。ですから、紀元前29〜70年の間ですね。

その後、現在の大阪府藤井寺市道明寺付近を根拠地としました。道明寺は土師氏の氏寺で、6世紀末創建と言われていますから、飛鳥寺などとほぼ同じ時に創建されたことになります。

その土師氏は、埼玉県岩槻市の久伊豆神社や群馬県藤岡市のその名も土師神社など、東国にも足跡があり、600年位の時に、仏教を携えて、海路、浅草に来たんでしょう。檜前氏も同様と思われます。

浅草はホントに凄い!
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次は今戸神社です。

今戸神社

1063年、頼義・義家親子が奥州征伐の帰途、創建しました。

義家ですね。

それよりも気になるのが、"今戸"という地名です。"戸"ですから、港だったんですね。で、"今"ですから、"古"戸や"古"津もあるはずです。どこなんでしょうか。

先に進みます。

770年ですからここも古い、保元寺です。

保元寺

先に進みます。

ここも古い、760年開山、橋場不動院です。

橋場不動院、ここ、雰囲気が良かったです。

こことセットなのが、玉姫稲荷です。橋場不動院が別当を務めていましたから。

玉姫稲荷

757〜764年に、この辺りの砂尾長者の園内に創建されたと言います。

この砂尾長者に繋がる話として、この辺りから千住大橋の方に向かって砂尾堤という堤防がありました。

砂尾堤

この堤は、調べましたが分からなかったんですが、もしかしたら元は自然堤防微高地で、この堤が、豊島郡衙へと続く道だったのではないでしょうか。徳川将軍も、鷹狩の際、江戸城を出て隅田川に入り石浜から船を上がり砂尾堤で千住方面に行っていました。

さて、隅田川西岸としては最後、石浜神社に向かいます。

石浜神社

724年の創建、しかも、聖武天皇の勅で建てられたということです。何故なんでしょうね。府中とかなら分かりますが。

尚、今回のexploreとしては初の神明です。

橋場の渡しを渡りましょう。

隅田川東岸に出て白鬚公園内を行き隅田川神社に到着です。

隅田川神社

隅田川の自然堤防微高地で、浮島と言われていたこの地。ここも、須田神社同様、水神上陸の伝承があります。神代ですから紀元前660年より前の伝承です。それは余りにも、としても、創建は相当昔まで遡れる可能性があります。

祭神は速秋津日子神、速秋津比売神で、この2柱は夫婦神で、別名、水戸神です。水の戸 = 門、港ということですから、この地が、今戸に対する古戸だったのではないでしょうか。時代と共に徐々に水が引いていき、今戸の辺りが今の戸になっていったと。

公園内を北へ。木母寺を訪れます。

木母寺

977年開山です。人買いの信夫藤太が梅若丸を奥州で売払おうと大津を出発しこの地を通りますが、12歳の梅若丸はここで力尽き果てました。

このルートは武蔵国から常陸国を経由し奥州へと行く延喜式古代東海道だったのです。

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と、いうことで、如何でしたでそょうか。

浅草は浅草寺だけじゃない!

とても、deepなエリアでした。

まず思ったのは、海だったということです。

隅田川はあるにはありましたが、河口は今よりずっと北で、石浜神社の辺りが、"古津(戸)"でした。そこから南は海だったんです。

だから、大和王権、出雲系、秦氏などが、海路、この地にやってきて上陸します。それが、神社の祭神や伝承に残されています。

その後、日本橋や隅田川の自然堤防微高地が安定してくると、武蔵国から常陸国、奥州へ向かう古代東海道となり、頼義・義家親子や将門、将門を征伐する側の藤原秀郷、あるいは円仁が、この道を行き来するようになったんです。

寺社開山、創建出雲系将門秦氏義家大和王権円仁
隅田川神社神代〇(水神)
鳥越神社110年
待乳山聖天595年
須賀神社601年
浅草寺628年
福田稲荷711年
石浜神社724年
神田神社730年
橋場不動院760年
玉姫稲荷760年
保元寺770年
福徳神社859年以前
牛嶋神社860年
椙森神社931年
黒船稲荷940年
兜神社不明
木母寺970年
銀杏岡八幡1062年

正に、浅草無くして江戸は無し、東京も無し、だったんだと思います。江戸湊だったんですね。

こう考えると品川は、武蔵国の国府が710年頃に府中に置かれましたが、その辺りから国湊として栄えていったんだと思います。

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もう1つ、言っておきたいことがあります。円仁です。

浅草周辺には、今回訪問してない所を含めて、円仁縁の寺社が、以下のように多数あります。

浅草寺(駒形堂), 待乳山聖天、長命寺、牛嶋神社、如意輪寺、東光院、清水寺

更に延喜式古代東海道を南下すれば品川に常行寺

品川道を目黒に行けば瀧泉寺、成就院、安養院、円融寺

延喜式前の古代東海道沿いでは大覚寺、宝泉寺、大円寺、安養寺

と、実に、東京都内だけで16もの寺社を創建しています。

追って調べてみれば、東北に331, 関東に209あるといいます。

何故、円仁(天台宗)は、こんなにも、東国に天台寺院を建てなければならなかったのか。

ネガティブな背景としては、空海(真言宗)によって、都を中心とした西国は駆逐されんとしていた、そういった危機感があったということがあります。

では東国にと東に目を向けると徳一(法相宗)が勢力を振るわんとしていました。

ポジティブな背景としては、律宗でありながら天台宗と密接な関係を構築できていた道忠集団が東国の下野にありました。

というような、宗派の生き残りをかけた勢力争いが背景としてあったということがありました。

もう1つ、800年に坂上田村麻呂が奥州征伐したとは言え、奥州はまだ安定的とは言えず、武力の次は宗教で教化していく必要があると考えた桓武朝、それを引き継いだ清和朝が、天台にそれを指示したということがありました。

だから、こんなにも、円仁縁の寺社が多いんです。
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帰りは延喜式前の古代東海道を行きます。

隅田川を渡り、砂尾堤を行き、千住大橋に出ます。

橋の袂には、義家伝承がある南千住熊野神社と出雲系須佐之男命伝承がある須佐之男神社があります。

熊野神社
素戔嗚神社

須佐之男神社の縁起にも、須賀神社とほぼ同じ伝承があり、出雲系が海路この地にやってきたことを伺わせます。

尚、行きませんでしたが、牛嶋神社も同じく、慈覚大師円仁が、須佐之男命の権現である老翁の託宣により建立ですから、同じですね。

この辺りは本当に出雲系の海路進出が多かったものと思われます。

ここから隅田川や利根川を遡り、大宮の辺りに進出していったのかもしれません。

さて、ここから、日光街道沿いに微高地が続き、三ノ輪から西へ折れ微高地の旧道を行きます。

このルートは上記地図の通り、古寺社がそう無いんですが、迅速測図を見ると興味深い光景が広がっています(いました。)。

三河島、迅速測図

流れてる川は隅田川です。右上で隅田川を渡っている通りが日光街道です。ここを南に行くと、途中からUの字を描くように西へ来ているのがルートで、このルートの南が本郷台地です。

さて、面白いのは真ん中です。田圃の中に、ポツンと集落が2つありますね。まるで島のよう。そうです。これが三河島なんですね。正に島なんです。本郷台地から眺めたら、象潟のような光景が広がっていたのではないか、そう思いますが今はどうでしょうか。

この後、さほど、見所も無く、豊島郡衙にトウチャコ、その後は延喜式以前の古代東海道で家にトウチャコです。

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如何でしたでしょうか。

意外に、濃い、良い、exploreでした。