2019年8月10日土曜日

深大寺から奥多摩・青梅へ 1, 府中崖線、深大寺から立川、渡来の道

このシリーズの前回は、深大寺をexplorerしました。

深大寺を開いた満功の父福満が渡来人で、福満の妻であり満功の母(名無し)の父温井右近長者は高句麗の渡来人だった、このエリアを狛江 = 高麗江という、というストーリーでした。

今回は、その深大寺(狛江)エリアから高麗郡へ向かう道をexplorerします。

尚、一言で、"渡来"と言っても色々ですが、このシリーズでは、高句麗(高麗)を追いかけてみたいと思ってます。

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日本書紀によると、666年、玄武若光を含む高句麗からの使節団が倭国を訪れます。

668年、高句麗は、唐・新羅連合軍に滅亡させられました。玄武若光らは、まだ日本にいたなら、帰るに帰れなくなってしまったということになります。

続日本紀によると、703年、高麗若光に、従五位下の官位(貴族)と王(こしき、と読む)の姓を与えたとあります。

716年、武蔵国に、東海道7ヶ国から、高句麗人1799人を移住させ、高麗郡を設置しましたが、高麗若光もその中の一人だった、、、というよりも、リーダー(郡司)だったと言われています。

玄武若光と高麗若光が同一人物であるとの記録は無いのですが、流れからすると同一人物である可能性が高いと言われています。

仮に、同一人物ではなかったとしても、兎にも角にも、高麗若光という高句麗人が、貴族となり、王(こしき)の姓を与えられ、その後、高麗郡の郡司として高句麗人を率い、高麗郡を開発したというのは間違い無さそうです。

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前回シミュレーションしたように、深大寺エリアに高句麗人が来たのは650年くらいだったと思われます。

ですので、716年の高麗郡設置、高句麗人の移住に際しては、深大寺エリアの高句麗人たちも、高麗郡に移住したのではないかと思われます。

その時のルートはどうだったのか。

結論から先に言えば、2説あるんですが、共通しているのは多摩川ですね。多摩川を青梅まで遡り、山を越えて飯能に出るルートと、拝島から真北に飯能に行くルートです。



チャリでは多摩川は遡れないのと、陸路を行ったグループもあったのではないかとも思うので、陸路だとどこかと考えると、その場合は、まだ律令前なので、官道があるわけでもなく、生活道を辿ったのだと思います。当時の生活道とは、府中崖線なのではないかと思います。

崖上は見晴らしも効いてriskを早く察知できるし、崖下に下りれば水が確保できる。だから縄文の時代から生活の場で、縄文・弥生遺跡、古墳、寺社が多く見られます。

そういった生活の場を繋ぎ自然発生的に発展していったのが、今回の陸路だったのではないかと思います。

と、いうことで迅速測図の地形と明治初期の古道を見ながら引いた線が紫線と黒線になります。

国分寺崖線と府中崖線。今回は府中崖線の崖上を行く。
分かりづらいのでルート線をカット。北の段差が国分寺崖線、南が府中崖線。

崖上は見晴らしも効いてriskを早く察知できるし、崖下に下りれば水が確保できる。だから縄文の時代から生活の場で、縄文・弥生遺跡、古墳、寺社が多く見られます。

そういった生活の場を繋ぎ自然発生的に発展していったのが、今回の陸路だったのではないかと思います。

と、いうことで迅速測図の地形と明治初期の古道を見ながら引いた線が紫線と黒線になります。

今日はここを行きます。

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深大寺エリアのスタート地点は、祇園寺としました。

祇園寺

地図を見てください。

前回も言いましたが、深大寺エリアから真っ直ぐに多摩川に向かう道があります。宮田太郎氏曰く、これは、多摩川を遡ってきた高句麗人たちが使った、深沙大王堂の参道ではないかとのことです。では船着き場は。それこそが、布田天神だったのではないかということです。

古天神公園、嘗ての布田天神。そこから多摩川方面の眺望。ここは府中崖線の崖上、崖下まで多摩川が来ていたのか。

ここから出来る限り崖上を、時には崖下を行き、宅地化されたところは住宅地を迂回し進んでいきます。

ここは崖上エッジをトレースしていることが良く分かる所です。
幅一間の道も残ります。

で、到着したのが瀧神社です。

崖上の鳥居越しの霊峰富士山と大山
府中崖線から湧水が今でも

この瀧神社、創建は詳らかならずも、この瀧(水)が元々のご神体であったことは想像に難くない。と、なると、相当昔に、下手すれば縄文の時代にも遡れると思い、寄った次第です。

しかしこの瀧神社、何故、御祭神が賀茂なんでしょう?, どなたかご存知の方、教えてください。

道はやがて大國魂神社に辿り着きますが、今回は趣旨ではないのでスルー。次の立ち寄り値はその先の高倉塚古墳です。

高倉塚古墳
墳丘から南の眺め。眺望がきいていて、府中崖線に乗っていることが分かります。

次に訪れたのは谷保天満宮です。

谷保天満宮、崖下にあります。
湧水、かなりの透明度でした。

何故ここに立ち寄ったかと言えば、湧水です。崖線の象徴ですので。加えて、涼を求めて。

この後、崖上の道は根川貝殻板橋まで続き、その後、甲州道中に吸収されます。その後は奥多摩街道に名を変え、青梅まで続きますが、今回はここまで。

ママ下湧水公園の湧水、癒されました。

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