2019年2月2日土曜日

続き、走水ルート、三浦半島の古代東海道、古代東海道

三浦半島の古代東海道シリーズ、第4弾の続きです。

第1弾は実走無しの全体説明、第2弾は六浦ルート、第3弾はやまなみルート、第4弾は走水ルートを行きましたが、横須賀市公郷町の曹源寺で時間切れ。今回はその続きです。

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衣笠まで輪行、まずは春日神社に向かいます。

春日神社

春日神社は元猿島にありました。

猿島、安房口神社からの眺望

猿島を含むこの辺りが藤原氏の荘園だったので、奈良の春日大社から分霊したといいます。創建は平安期ということですが、なら、藤原氏が衰退する前の平安中期と推定します。

この春日神社には伝説が2つあります。1つは日蓮の伝説で、日蓮が鎌倉に布教に行くので、安房国南無谷から海に出たところ、風が次第に強まり、ついには時化になって、船底に穴が開き海水がたまり始めます。日蓮は船の舳先に立ってお題目を唱えます。すると不思議なことに船底の穴が塞がれ浸水がおさまり、船は猿島へ漂着しました。。。続きはあるんですが主旨ではないのでカットしますが、三浦半島と房総半島の渡海の話です。

2つ目は蛇の伝説で、春日神社が猿島にあったのは明治17年までですが、毎年の例大祭の前後には上総国鹿野山から大蛇が泳いできて、島の洞窟に住み神社の守護神となっていたというものです。これも三浦半島と房総半島の渡海の話です。

尚、この古地図は明治13年から作成開始され、明治19年に完成してるんですが、春日神社は既に猿島ではなく本土の方にありますね。この地区は明治17年以降に作図されたことが分かります。

真ん中に"春日社"

春日神社を後にし、諏訪神社に向かいます。

諏訪神社、背後の山は神岳、空海も登ったそう

この神社も古いです。824年創建です。最澄や空海も訪れたということから、当時から有力な古社だったようです。また、神社サイトによると、"この地は古代にあっては房総への渡津、、、"との記載があり、やはり、三浦半島と房総半島の渡海の話が出ています。

しかし、同じような時期にこの至近で春日神社と諏訪神社というのも面白いですね。

諏訪神社の御祭神建御名方命と春日神社の御祭神建御雷神とは、国譲りで対決した敵同士ですから。

諏訪神社は824年とハッキリしてます。一方、春日神社は平安期ということしか分かってません。平安期といっても400年あるので一概には言えませんが、824年というのは平安初期なので、諏訪神社が先で春日神社が後の可能性が高いですね。

相模国の国造は出雲系ですから、諏訪神社が先にあり、そこに、藤原氏の隆盛と共に荘園とセットで春日神社が出来たんでしょう。

さて、道はここで海ルートと山ルートに分岐します。が、海ルートは標高が2m程度なので、気象条件によっては道としての機能を果たせませんから、山ルートの方が有力なのではないかと思います。

その、山ルートには、安房口神社があります。

安房口神社、素晴らしい雰囲気でした。

その名も、"安房"口神社なわけです。これまた、房総半島との交流が示されています。

安房口神社の御神体は磐座で、安房国の安房大社の御祭神である天太玉命の霊代として、この地に出現飛来したと伝えられています。その磐座の面が安房国を向いているという事から、古来より安房口明神と呼ばれていたとのことです。

安房口神社、それにしても興味深い神社ですね。

まず第一に、安房神社と安房口神社は、主従で言えば、安房神社が主で安房口神社が従ですね。だから向きは安房神社→安房口神社。安房神社は忌部氏が阿波国から黒潮に乗り房総半島先端にやって来て(だから安房国となったと言われてるんですが), その時に開かれた神社ですから、この流れからすると、更に安房国から三浦半島へと進出した時に、安房口神社も出来たのではないかと考えられます。と、なると安房神社創建が神武天皇即位年、紀元前660年ですから、その辺りということになります。

第二に、御神体の磐座なんですが、これは、安房神社御祭神の奥さんである天比理刀咩命を祀っている洲崎神社に元々2つあった内の1つが出現飛来したと言われてます。1つは洲崎神社に残ってるんですが、それがこれです。

たてやまフィールドミュージアムから拝借

で、安房口神社の方はというと、これです。

安房口神社の御神石、磐座

言いたいのはこれらは女性の象徴なのではないかということです。縄文の土偶は殆どが女性でしかも妊娠してる姿ですが、女性崇拝、人間が子を生むことに対しての神性を表しているのではないかと思います。と、なると縄文ですね。

また、社伝によれば、ヤマトタケルノミコト東征の折、ここを訪れたと伝えられています。

ということで、771年以前に遡る相当な古社であることは間違い無さそうです。

さて、これまでご紹介したように、この辺りには古社が集中し、その何れもが、房総半島との交流の伝説を持っています。

何故なのか

そう言えばここは、"大津"です。

"津"や"戸"は、湊を表す地名です。しかも、"大"津ですから、有力な湊だったことが予想されます。

でも、ここは砂浜ですよね。

古地図を見てみましょう。

全体的に海岸まで山なんですが、大津の所だけ、低地ですね。しかも、平作川が作った谷に抜けています。

大津の低地を古地図で。明治17年くらい。
"抜け"部。画面左、歩道橋の左にこんもりとした山と、画面右、公園の縁の土手の間。この前方の平先川が作った谷に抜けている。この後方は大津の低地、つまり海。

縄文海進の頃は衣笠、ですから前回行った曹源寺の辺りまで入江だったそうですし、三浦半島南部は地震の度に隆起するのが特徴で、その際に干潟の一帯が海面より高くなるため陸地が広がり、海岸線から陸に向かって高くなる階段状の地形が残る場合があるそうで、ある調査によると、階段は5段確認出来、各段は1~2mだったそうですから、最も古いものから5~10m隆起しているということになります。

また、ここには吉井貝塚があります。そして、"舟倉"という地名もあります。吉井貝塚近くの怒田城は三浦氏の城ですが、なので、三浦氏の舟蔵だったと言われています。

海だったんですね。

地形図で見る舟倉と大津低地部の位置関係

771年当時がどうだったかは不明ですが、もしかしたら、大津の低地部は、平作川の入江と抜け部で接続され、繋がった湾だったかもしれません。

だとすると、"大津"の名の如く、良港だったのかもしれませんね。

だとすると、古代東海道は走水まで行かずここ大津から渡海したかもしれません。大津から東京湾に行くルート、日蓮と向きは逆ですが同じルートですね。と、抜け部を抜けずにこのまま平作川から久里浜を行くルートです。

さて、先に進みます。山ルートは浦賀を通ります。この写真の向こうはもう海です。ここも渡海点だった可能性があると思います。

浦賀駅前、この先はもう海

ここから、鬼のような階段を担ぎでニ山越えて防衛大学校がある尾根に至り、御所が崎に下りて、走水なんですが、実際走ってみると、何故わざわざ二山越えなきゃならんのだろうと思います。ここから渡海出来ますから。

定説の走水ではなく、ここ浦賀か、先程の大津か、衣笠から久里浜を抜けるルートの方が素直なような気がしますが、でも、やはり、走水を外すわけには行きまけんね。

ちょうど節分祭だった走水神社、真正面に富津岬

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如何でしたでしょうか。

前回と合わせてこれで三浦半島の古代東海道、走水ルートが完了なんですが、座学、実走を通じて思うのは、アリだな、ということです。ルート沿いに古社寺が多く、春日神社、諏訪神社、安房口神社はダメ押しでした。

が、渡海点は走水ではなく衣笠〜久里浜か、大津か、浦賀だと思います。最後の二山は不要と思われます。

以上です。次回は船越ルートを行きたいと思ってます!

2019年1月5日土曜日

走水ルート、三浦半島の古代東海道、古代東海道

三浦半島の古代東海道シリーズ、第4弾です。

第1弾は実走無しの全体説明、第2弾は六浦ルート、第3弾はやまなみルートを行きました。

やまなみルートを行ったなら、天園ルートも行きたいところですが、こっちはメジャーで人多そうだし、チャリは禁止っぽいので止めておきましょう。

と、言うことで第4弾は嘗ての本命!走水ルートです。

久し振りに現代地図を見て下さい。



緑ラインが走水ルートです。

大町大路から小町大路を南に折れ(ここで名越ルートと岐れます。), 材木座、小坪、堀内、一色、上山口、木古庭、金谷、小矢部、大津、走水と行くルートです。

古事記に、ヤマトタケルノミコトが相模国から上総国に渡海する際、

"走水の海を渡った時に、その海峡の神が、波を起こし、船をぐるぐる回すので、進み渡ることができない・・・"

という記述があることから、走水が渡海点であるとし、鎌倉郡衙から走水へのルートが、嘗ては、三浦半島の古代東海道として最有力だったのです。

私的には、地図上のマーカは頼朝鎌倉入り前の寺社を中心とした史跡なんですが、緑ラインが最も万遍なく分布しており、その点については有力性を高めているのではないかと思ってるところです。

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鎌倉まで輪行、西口を出て、西口から南北に走る道を南に、大町大路を東に、小町大路との辻を南に折れ材木座に向かいます。

途中、横須賀線の踏切を渡って直ぐのこれが、1063年源頼義創建の元鶴岡八幡宮、由比若宮です。

住宅街にひっそりと佇む若宮様、1/4ですが、静かでした。

材木座では光明寺の裏山に上り小坪坂を下ります。

小坪峠から一気に姥谷戸に急降下します。階段じゃなかったとしても乗車できないほどの急勾配です。

小坪坂は、1180年、石橋山の戦いの際、ここ小坪で平氏方畠山軍と源氏方三浦軍が合戦を繰り広げた所です。三浦軍は、衣笠城への帰路の途中、ここ、小坪坂で畠山軍と遭遇し、合戦へと発展します。1180年当時、ですから恐らくその前からも、ここは衣笠への道筋だったのです。

明治13年頃の古地図、画面左上が鶴岡八幡宮、若宮大路が真っすぐ由比ガ浜に伸びています。その東の薄緑線が鎌倉郡と三浦郡の郡境、今で言うと鎌倉市と逗子市の市境です。ここは尾根なんです。鎌倉はよく三方を山で守られた要害の地という言われ方をしますが、東側はこの尾根で守られているわけです。そこを抜けるルートの1つが小坪峠(今回のexplorerルート、緑ライン)、もう1つが名越切り通し(赤ライン)です。この鎌倉防衛尾根ですが、因みにそのまま東に行くと前回のやまなみルートとなります。

小坪坂を下り切った所にあるのが須賀神社です。今回はハイライトが2つありますが、その内の1つの一部となります。後述します。

須賀神社ですから御祭神はスサノオノミコト

須賀神社の後は披露山に向かいます。また、上りです。振り向くと、披露山公園の駐車場に行き着く手前に切通しがありました。

披露山公園駐車場手前、披露山神社前の切り通し

ここを、来た道と逆方向に行くと庚申塔が3基祀られています、富士の絶景が見える所に。

富士山と庚申塔、この切り通しが古道であった証明です。

駐車場に入り尾崎行雄記念碑の裏に回ります。今回のハイライト1つ目、披露山七曲の掘割道です。

切り通し1, 入って直ぐの所
出口近く。石垣があるのは近世まで使われていた証拠。明治13年古地図では里(郷)道(村道と県道の間レベル)でした。

綺麗に残ってますね。

さて、掘割道を堪能した後は、逗子開成中学高校の西側の直線路を行き、田越橋で田越川を渡って、鐙摺の切り通しを抜け、日影茶屋、葉山マリーナを抜けて、葉山元町、嘗ての堀内村に到着です。しかし、この辺り、本当に良い所ですね。東京に通勤しなくてよくなったら、この辺りに住むのもアリだと思いました。

葉山元町から、道は、海岸沿いをおさらばし、東に向かいます。マーロウ辺りまでは谷戸なんで楽なんですが、ここから山を越え、一色村に入り、本日2つ目のハイライト、大峰山に向かう為、西に折れます。

ここに、玉蔵院と森山社があります。

森山社。玉蔵院は写真撮り忘れ。

玉蔵院と森山社は共に749年開山・創建で、奈良東大寺初代別当で鎌倉出身と言われる良弁が開いたと言われています。更に、共に、元は、大峰山山頂にあったと言われています。
今の位置はちょうど遥拝所ですね。大峰山が山岳信仰の山だったことが窺われます。

ではその大峰山に登ってみましょう。と、ここで、チェーン鍵を忘れたことに気が付き、チャリを下に置いていこうと思ってたのが担ぐ羽目に。。。これがきつかった!!!

でも頑張って登った御褒美がこの絶景でした。今回はここでランチです。贅沢でした。

大峰山から富士を望む

さて、ここで葉山の地名の由来ですが、端山(はやま)信仰という説があります。端山とは、民が住む里から遠くにある、信仰的にも高さ的にも高い山(奥山、深山)に対して、自分達の里にある、奥山に行く山脈ルート上の低い山(端山)のことを言うのですが、端山信仰では、村で人が死ぬと、死体は端山の麓に葬り、やがてその人の魂は肉体を離れ、端山に登るとされ、しかもそこで33年間、留まると考えられていて、その間、正月、彼岸、盆には里帰りもして、残した家族を見守ると考えられています。そうして、もう大丈夫だと思った33年後に、山脈伝いに奥山に登って、そこから天に行くと考えられています。

しかし、山脈伝いにある奥山が三浦半島にはありません。が、大峰山に登って、奥山は、もしかしたら富士山なのではないかと思いました。

大峰山は端山であり、葉山の由来なのではないかと思うのです。

大峰山の北に、やはり富士山がよく見える仙元山があります。仙元は浅間で、実際、山頂には浅間社があります。富士山が良く見える山の山頂には、浅間社が祭られますが、この仙元山もそうです。

大峰山も富士山が良く見えるんですが、何故、仙元山にはならなかったのか。それは、それ以前から別のカミサマが祭られていたから。それが森山社、玉蔵院であり、更に昔には、端山信仰があったからなのだと思います。

さて、その森山社と小坪の須賀神社は、1200年続く行合祭を執り行っています。行合祭とは、須賀神社のスサノオノミコトが森山社のクシナダヒメノミコトに33年に一度会いに行くというお祭りです。33年です、33年。端山信仰の33年が、いつしか、スサノオとクシナダ夫婦の33年に変化したのではないでしょうか。

さて、この先、走水ルートを行くと、滝の坂不動吾妻神社があります。

滝の坂不動吾妻神社、ここも上りでした。

ヤマトタケルノミコトが上総国に向かう途中、ここで喉を潤したとの伝説が残っています。また、この神社は森山社との関係もあります。

上山口の旧道を楽しみながら先に進みます。木古庭に入った所にあるのが、瀧谷山瀧不動堂です。小坪の所で話した畠山・三浦の戦いの続きがこの辺りで繰り広げられました。

瀧谷山瀧不動堂、ここも上りました。

少し先には滝が。チョロチョロかと思ってましたが結構本格的でした。

畠山重忠が衣笠合戦の戦勝の御礼として不動明王を勧請したその日から滾々と湧き出した滝

瀧谷山瀧不動堂から荷車小径を下り里道に復帰します。その後、アップダウンを繰り返しつつ到着したのは、弘仁年間(820~824)開山の西来寺です。

西来寺

そして、本日最後に訪れたのは、行基開基の伝承が残る曹源寺です。ですから恐らく奈良時代でしょう。

曹源寺

まだ走水には到着してませんが、帰りの時間を考えるとここらが潮時、衣笠駅から輪行で帰りました。

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まず、この走水ルートが古代東海道だったかについてですが、無いことは無いという感想です。その理由ですが、スタートからゴールまで、頼朝鎌倉入り以前の寺社が万遍無く分布していることです。古代東海道ではなかったとしても、奈良平安期からの古道ではないかと思います。

しかし、今回は、古代東海道かどうかというメインテーマより、葉山の地名由来に関することが非常に興味深かったですね。

2018年12月30日日曜日

やまなみルート、三浦半島の古代東海道、古代東海道

武相国境シリーズが完結したので、三浦半島の古代東海道シリーズを再開します。

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三浦半島の古代東海道は、幾つかルートが考えられます。

前回は、朝比奈切通しを通る六浦ルートを行きました。

六浦ルートは、朝比奈切通し開削以降は間違い無く、鎌倉と六浦を結ぶ主要ルートだったんですが、それまでについてはハッキリしていません。

十二所までは、杉本寺など、奈良平安期の寺社があり、可能性は高いと思わせますが、十二所以降は、奈良平安期の寺社が全く確認出来ません。

確かに、鎌倉郡衙から切通しまではずっと川で、峠を越えたら入江という地形は可能性を高めます。実走した感想としても、峠までは高低差はそこまで激しくありませんでした。これで、船越とか曳船とかの地名があれば完璧、、、と、言いたいところですが、切通しは相当な高さがあったことも事実ですね。切通し前に、あそこを"船越"するのはかなり難しいように思います。総合的に、"まぁ、無いことは無い。"、という程度でしょうか。

そんな中、ネットで色々調べてたら、私が信頼するサイトで、このような記述を見つけました。

"・・・斬られたのは上総介平広常で広常の屋敷はここから少し先の朝比奈切通への分岐を直進した七曲谷戸と呼ばれる平地にあったと伝えます。その屋敷跡から山越えの道を七曲坂といい、七曲坂は朝比奈切通が開削される以前の六浦への旧道とも考えられている道なのです。"

と、朝比奈切通し開削以前のルートがあるようなんです。

古地図を見てみましょう。まず、谷戸が確認できます。"水"の文字もあることから水田があったんですね。その谷戸に徒歩小径(1本点線)が描かれてます。この道は東京湾と相模湾の分水嶺尾根に接続しています。また、その道からの分岐も2本ありますね。更に尾根のルートもあるようです。

明治13年頃の古地図、七曲谷戸

現代の道と合わせてみましょう。

電子国土での七曲谷戸

谷戸の道は本線と2本の分岐全て残ってますが、尾根道は消失しているようです。

しかし、鎌倉から六浦を結ぶ道として考えると、六浦ルートは、

明治13年古地図、六浦ルート

十二所でグイっと北に行き、弧を描くように十二所の真東の位置まで下りて来てます。

朝比奈切り通しには行かず、七曲の古道を行くとすると、グイッと北に行った後ですから、一旦北に行ったのをまた南に戻るような感じがして不自然ですね。

古地図、七曲坂

だったら相模国の鎌倉郡と三浦郡の郡境尾根の方が自然なような気がします。調べると、中世から続く生活道で、現在はやまなみルートと呼ばれ、ハイキング道として存続しているようです。

古地図、やまなみルート

古代東海道シリーズ、三浦半島の古代東海道、今回はこのやまなみルートを行きたいと思います。

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小田急で藤沢まで、東海道線に乗り換え大船へ、横須賀線に乗り換え鎌倉まで輪行です。

前回六浦ルートでは訪れなかった奈良平安期の寺社を巡ります。

まずは参道の石畳が美しい寿福寺です。開山は1200年と鎌倉期ですが、ここは頼朝の父、義朝の居館があった地。平安期には既に開かれていた地ということになり、寿福寺前の道である六浦ルートも、少なくとも平安期には既にあったということになります。

寿福寺

踏切渡って直ぐに岩窟不動尊。岩窟不動尊は、吾妻鏡の記述で、1188年には既に存在していたことが分かっています。

岩窟不動尊

鶴岡八幡宮を通り過ぎ次は荏柄天神社です。荏柄天神社は、1104年社殿創建の言い伝えがあります。

荏柄天神社

次は鎌足稲荷に行かなきゃならないんですが、忘れてしまいました。この道、狭くて車からのプレッシャがきついですよね。ついつい先を急いでしまいます。

と、言うことで十二所に到着です。明石橋のミニストップで握り飯補充し、やまなみルート取り付きを目指します。

明治13年頃の古地図、十二所の取り付き部分。尾根を通る村道(1本点線1本実線)の取り付きを探したが・・・

しかし、村道の取り付きは見つからず、相模国鎌倉郡と三浦郡の郡境から取り付きます。ここは清寿苑脇です。

さぁ、ここからはパラダイスでした。乗車率30%程でしたが、久々の山サイは楽しかったです。写真をどうぞ。

今日は山メインなのでSIRRUSです。私のSIRRUSは2005年モデルなのでMTBベース。タイヤをシクロクロス用に履き替えれば29erに早変わりするんです。

切り通し

で、ここが先ほどの村道とやまなみルートの接続部分。現代の地図には何も描かれてないんですが、

現代地図

何やら古地図通りに掘割道が付いてます。

掘割道
ズンズン進んでみます。

軽い藪漕ぎで、、、

きれいな掘割道が続いてました。流石、村道!!!
どうですか。明治13年には皆ここを通ってたんですよ。いやぁ、感慨深い。この先少し進んでみましたが、続いてました。ミニストップまで行けるかもしれません。

きれいな掘割の村道!!!

さて、このやまなみルートは相模国鎌倉郡と三浦郡の郡境尾根を行くんですが、この尾根が米軍池子住宅との境界でもあるんです。なので、こんな感じで道は付いています。

鉄線

壁バージョン

それでも落ち葉フカフカのシングルトラックは快適でした。

掘割状

笹トンネル

米軍に接収される前の海軍弾薬庫の扉だそうです。

足元を見ると紅葉の落ち葉が。見上げるとそこにまだ紅葉が。
絵になる、これぞ切り通しです。

切り通し

程無く果樹園に着き、見晴らし台に寄ったところ、これが絶景でした。

富士山とSIRRUS

富士山と三浦半島のやまなみ、これ、絶景でした。スマホなんで広角だから伝わるかな・・・

ここでランチ。贅沢なランチでした。

ランチ大休止の後、先に進み、相模湾と東京湾の分水嶺尾根に到着、北上し、七曲谷戸からの道を探しますがこの状況。見つかりませんでした。

この正面にあるはずなんですが・・・

諦めてやまなみルートに戻り、横横を渡って住宅地に入ります。Time Travelから帰還です。帰りは金沢八景から京急蒲田まで輪行で帰りました。

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いやぁ、久し振りの山サイ、最高でした。

道はほぼシングルトラックで、ただでさえ細尾根のところに、米軍池子住宅の鉄線やら壁やらがあるので狭いんですね。で、片面が崖ですから危ないんです。なので乗車率は30%程度だと思いますが、でも、楽しかったです。

見晴らし台の絶景、村道が見つけられたのも良かったです。

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で、肝心のテーマ、"この道が古代東海道だったのか"についてですが、まず、細尾根でとても幅10m (古代官道の平均的な道幅)の道は通せませんから、それは無いんだと思いました。

次に、このやまなみルートは、朝比奈切通開削以前の鎌倉と六浦湊を結ぶ道ということなんですが、この変遷を整理すると、以下のようになります。

  1. 朝比奈切り通し開削以前: やまなみルート、相模国鎌倉郡と三浦郡郡境尾根を通るルート
  2. 朝比奈切り通し開削以降、瀬戸橋架橋以前: 六浦ルート、朝比奈切り通し、白山道を通るルート
  3. 瀬戸橋開削以降: 六浦ルート、朝比奈切り通し、瀬戸橋を通るルート
で、2と3の変遷ですが、瀬戸橋を架けたから変遷したんですね。瀬戸橋は、下図で言うと、青マーカが4つありますが、画面やや右に2つ並んでる左の方、これが瀬戸橋です。

この瀬戸橋が架かったから、瀬戸橋の向こうに行くことができるようになった、だから瀬戸橋の向こうがGoal = 六浦湊ということになり、瀬戸橋の右のマーカがそれです。

瀬戸内海

で、紫ラインなんですが、これは当時の海岸線なんです。紫ラインの内側が入江だったんですね、この時代。その名も"瀬戸内海"です。画面左にあるマーカが朝比奈切り通しですが、ここから六浦湊に行く為には、瀬戸内海があるので大回りしなければならず、それが白山道(朝比奈切り通しの少し先で北に折れ瀬戸内海を大回りしているブルーライン)だったということになります。これが変遷の項番2の状況。

で、瀬戸橋が架かったので、ショートカットできるようになったわけです(朝比奈切り通しからそのまま東に行くブルーライン)。項番3です。

この変遷を考えた時に、更にその前であるやまなみルートの時代は当然大回りしなければならないわけです。そうなると、合理的なのは尾根を越えて白山道に接続することだと思われます。

が、これはなんだか不自然なような気がします。クイっと北に行かなければならないので。六浦湊ではなく、ただ単に六浦に行く為、つまり生活道だったら、北にクイっと行く必要が無いのであり得ると思いますが。なので、やはり、やまなみルートは中世の、よしんばそれ以前だとしても、官道ではなく生活道だったのだと思います。

更に、上図の薄緑ラインは武相国境なんです。そうなんです、六浦湊は武蔵国なんですね。東海道ですから、東海道に属す相模国からやはり東海道に属す上総国に行かなければならない。東山道に属す武蔵国は経由してはならないのです。やはり、六浦ルート、やまなみルートは、古代東海道ではないということになりそうです。

ま、武相国境がその当時もココなら、という前提ですが。

それにしてもここが入江だと、相当な良港ですね。また、六浦湊に真っ直ぐ続く道の先、少し高地で大水となっても安心な場所にあるのが称名寺です。ただのお寺ではなさそうですね。