安藤広重の名所江戸百景を巡る旅を復活させたいと思ってます。
名所江戸百景巡りは、私の時空を超えたExploreの初期のテーマで、船堀在住時は頻繁にExploreしていたんですが、大体回ったということもあり、以降、実施していませんでした。
が、輪行せずに行ける近場も、テーマとして持っておきたいと思う(前回の三浦半島の古代東海道、走水ルートは、衣笠まで輪行で2時間掛かりましたし)ようになったことと、あれから私も色々なテーマを熟し、新たな視点を追加出来そうだということもあって、復活させたいと思います。
記念すべき復活第一弾は、(近場の)目黒です。
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目黒は全119景の内、5つを占めています。
- 春 23景 目黒千代か池
- 同 24景 目黒新富士
- 同 25景 目黒元不二
- 秋 85景 目黒爺々が茶屋
- 冬 112景 目黒太鼓橋夕日の岡
上野は日光街道も通る交通の要衝で、また、徳川将軍家の菩提寺、寛永寺を擁する町。門前町は大いに栄えました。江戸一番と言っても過言ではありません。
だから上野が5景あるのは納得できます。が、何故、目黒ごとき(他意はありません、上野に比して、の、意味です。)が5景も?
下図は江戸の範囲を示す地図です。どこからどこまでが江戸なのかというのは、時代によって変化してます。それでは不便だということで、1818年に範囲を決めようということになりました。
東京都公文書館から拝借・・・ |
黒い線が町奉行の管轄範囲で、これが1つの江戸。赤い線は寺社奉行の管轄範囲で、もう1つの江戸範囲となります。赤線の方が大きいですが、"基本、江戸は黒線なんだけど、まぁ、赤線までは江戸って言っても良いかな", そんな感じでしょうか。
はい、お気付きだと思います。南西部分が変ですよね。黒がはみ出してる。実はここが目黒なんです。
この地図を見れば分かる通り、目黒は、本来なら江戸ではないんですが、何か理由があって、はみ出してでも江戸にしたんですね。その理由というのが、1858年の古地図でも、田畑と百姓地の中に忽然と描かれている、目黒のお不動さん、瀧泉寺なんです。
詳しくはwikiなどをご確認頂ければと思いますが、目黒御殿、富くじ、目黒飴などなどのキーワードで表されるように、江戸時代は隆盛の極みでした。
だから、江戸の範囲をはみ出させてでも、目黒を江戸にした、それ程の名所だった、だから広重も5景も描いた、そういうわけです。
詳しくはwikiなどをご確認頂ければと思いますが、目黒御殿、富くじ、目黒飴などなどのキーワードで表されるように、江戸時代は隆盛の極みでした。
だから、江戸の範囲をはみ出させてでも、目黒を江戸にした、それ程の名所だった、だから広重も5景も描いた、そういうわけです。
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この瀧泉寺の縁起なんですが、目黒区の説明によると2説あって、慈覚大師円仁により開基されたのは同じなんですが、円仁は、794年に下野国で生まれ、9才で出家し、808年、15才の時に、比叡山に上りましたが、第1説は、この時に目黒で一泊し、夢に出た神人を翌朝彫り、目黒の地に安置したのが瀧泉寺の御本尊であり、瀧泉寺の始まりというもので、第2説は、この時は仏像は彫らず、その後、遣唐使で唐に行った時に長安の青竜寺で見た不動明王が、この時に見た神人と同じだったということで、帰国後早速彫り、安置したというものです。第2説なら、847年以降ですね。
でも不思議ですね。第1説の場合、東山道の下野国から比叡山がある都までは普通東山道で行きます。武蔵国は通りません。808年なら武蔵国は東山道から東海道に所属変えになってますから(東山道のままだとしても、わざわざ武蔵国には連絡道で行かなければならず、更にその先の目黒まで行くには不便極まりない。)。
東山道と瀧泉寺の位置関係、東山道から目黒まではえらい遠い |
ちょっと考えづらい。
蛸薬師こと成就院、安養院の開山と、瀧泉寺の堂宇建立は、円仁が唐から帰国後この地を訪れた858年です(円融寺は853年)。
このことから、15歳の時はこの地は通らず素直に東山道で都に行き、唐から帰国後にこの地を訪れ、瀧泉寺、成就院、安養院、円融寺と、次々と寺を開いていったのではないかと、私は思います。
では何故、目黒の地に来たのか。
それは、やはり産鉄でしょう。
別所、柿木坂という地名、衾は塞坐大神(ふせぎますおおかみ)から転化した地名という説があります。東光寺があり、自由が丘にある白山神社は、その東光寺にあったものです(この東光寺は、元は東岡寺で、吉良冶家が、その嫡子祖朝の追福の為、1365年に創建したので、産鉄とは無関係に思えますが、白山神社もそこにあったというのが果たして偶然なのかと思ってしまいます。)。そもそも目黒の黒は鉄の古語、クロガネのクロかもしれません。
また、下記写真は、目黒川と蛇崩川の合流点ですが、水酸化鉄でオレンジ色に染まっていました。目黒川を遡れば産鉄地名の代田があり、その代田と共に産鉄由来のダイダラボッチの足跡として伝説が残るのは呑川柿の木坂支流です。
目黒川と蛇崩川の合流点。手前が目黒川、奥から合流してきているのが蛇崩川。ここは特にオレンジが目立つが、目黒川も所々オレンジが見られ、両河川共に、水酸化鉄が採れると思われる。 |
奥州の蝦夷達を、彼らが持つ優れた産鉄技術で鉄を作らせる為に、ヤマト王権は、日本全国に移住させました。彼らを教化、慰める秘密の任務を持ち巡礼の旅に出たのが円仁だったのではないでしょうか。
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話を名所江戸百景に戻しましょう。
春、25景、目黒元不二、1858年 |
春、25景、目黒元不二、2019年。跡形も無いですが、抜け感は雰囲気が残ってますかね。画面右のケヤキの向こう、このマンションの駐車場に富士塚があり、マンションが無ければ富士山が見えたわけです。 |
春、24景、目黒新富士、1858年 |
春、24景、目黒新富士、2019年。広重の絵の川は三田用水だと思われます。と、なると、別所坂からこれくらい離れないといけないのです。左のマンションの所に富士塚があったことになります。右のマンションやら何やらで富士山は見えません。 |
この2景は2つで名所だと思います。その名の通り、元不二が先で新富士が後、新富士は1819年に出来て、広重が名所江戸百景を描いたのは1858年ですから、その頃は2つ共あったんですね。1つだけだと他にも幾らでもあったでしょう。が、目黒川が削った谷を西に見る崖に、だからさぞかし富士山がよく拝めた所に、富士塚が2つもあったんですから名所になったんですね。
青マーカから西に延びている黒線が富士山の方向 |
秋、85景、目黒爺々が茶屋、1858年 |
秋、85景、目黒爺々が茶屋、2019年。左のマンションが3本の松がある崖か。今でも切り通しっぽくなっていて若干雰囲気は残る。右手の庭木茂る所が茶屋で、止まれの向こうのマンションが東屋か。にしても、清掃工場でミレーの田園は見れない。 |
爺々が茶屋の方は、家光が鷹狩の際、寄った茶屋だということなんですが、もし本当にそうだとしたらそりゃ名所なんですが、将軍がふらっとその辺の茶屋に寄りますかね?
まぁでも爺々が茶屋をタイトルにしてるわけですからやっぱりこの茶屋が名所だということになり、茶屋が名所なら将軍が寄ったから名所だということになりますかね。ちょっと今回は調べ切れませんでした。
ここまでの3景は、目黒の崖から富士山を望む眺望を題材としたものでしたが、個人的には爺々が茶屋が一番好きです。既述のようにこの坂を下りたら田畑だらけなわけです。夕日に照らされ黄金色に輝く稲などが美しいですね。ミレーっぽい。
春、26景、目黒千代が池、1858年 |
春、26景、目黒千代が池、2019年。本当ならもう少し後退して崖斜面に行かなければならないが、private areaなので入れない。 |
千代が池はなんと言ってもこの絵にあるように段々になった滝を中心とした庭園が名所だったのです。ここは肥前島原藩松平主殿の屋敷だったわけですが、抱え屋敷だったが故に一般の人も入れたようです。
ピンを打った所が松平主殿の下屋敷 |
冬、112景、目黒太鼓橋夕日の岡、1858年 |
冬、112景、目黒太鼓橋夕日の岡、2019年。橋が同じ場所に残ってるので雰囲気はある。 |
さて、最後は何とも風情たっぷりの、目黒太鼓橋夕日の岡です。いやぁしかし、広重ブルーが雪に映えますね。
これは、"目黒の太鼓橋から夕日の岡を望む"と、読んで下さい。既述のようにここは西側が開けてますから夕日が良く見えるんですね。夕日の岡はよほどの名所だったらしく、広重自身も他のシリーズで描いてますし、色々な人が描いています。
だからか、夕日が見える崖から西向きの眺望とは逆向きで、夕日ではなく夜で、しかも雪景色を描いたのでした。
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