2018年7月1日日曜日

武相国境道、その7, 舞岡の東光寺、白山神社跡を訪ねる

武相国境道シリーズ。第一弾は草戸峠から町田駅まで。第二弾は寄り道シリーズで武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)に沿って展開する産鉄地名、第三弾も寄り道シリーズで鎌倉街道沿いの産鉄地名、第四弾も寄り道シリーズで鶴見川水系に沿って展開する産鉄地名をExploreしました。

武相国境道沿いには産鉄地名が多く、鑪の道ともいわれています。しかしながら地図を細かく見てみると、"沿い"というよりは"周り"と言った方がしっくりくるような分布具合。そう思いながら地図を眺め続けていると、規則性が感じられる分布を幾つか発見。それが、武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)であり、鎌倉街道であり、鶴見川水系だったのです。

が、第四弾の鶴見川水系でハタと気付きます。武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)も、鎌倉街道も、単に、鶴見川水系だということに。産鉄地名の分布に、武相国境も含めて規則性は無く、というか唯一の規則性は鶴見川ということだったわけです。そう思って改めて地図を眺めてみると、河口に向かってもやはり鶴見川水系に分布していました。国境の相模国側など、鶴見川水系ではない所でも、やはり、境川水系など、川沿いなんです。

最初、武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)沿いに分布を発見した時は、いやはや、奥州俘囚の移配地はやはり行政境=無縁の地なのか?!とか、鎌倉街道は産鉄地を結んだ道なのか?!とか、浮足立ったんですが、単に、この辺りは砂鉄を多く含む土地で、川に鉄が集まるのだということだったようです。

と、言うことで、第五弾は寄り道せず武相国境道を行きました。行きつつ、分布の規則性というよりは、鉄分の濃そうな、私的に興味深い所に寄り道することとし、横浜市南区別所の産鉄地名を巡りました。第六弾も同様に、いたち川沿いの産鉄地名を巡りました。

で、今回は、東光寺や白山神社などが嘗てあった、舞岡をexplorerします。

ここで改めて東光寺や白山神社が何故産鉄なのかについてですが、菊池山哉と柴田弘武さんによれば、産鉄の為、蝦夷征討によって捕らえられた東北の俘囚たちが移住させられたエリアには、東光寺、薬師堂、白山神社(本地仏十一面観音)を祭り、また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなどの特徴があるとのことです。

武相国境全体地図です。


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舞岡地区の産鉄地名は、舞岡地区を南北に流れる舞岡川沿いに分布していますが、東の尾根には鎌倉街道中道があるので、今回は、まずはこの鎌倉街道中道を行くことにしました。

下永谷で降り、輪行バッグを解きます。早速上り。日限地蔵の峠を回り込み鎌倉街道中道に入ります。この道、東海道まで続くんですが、意外に未舗装路が多く、往時の面影が残っていました。

意外にもこういう道が残っている。70%位?!

鎌倉街道中道はやがて江戸期東海道にぶつかります。ここで御嶽神社に寄りました。
この神社は建仁2年(1202)に、日本武尊の御功績を追慕して創建されたと伝えられています。1202年と言えば頼朝が鎌倉に幕府を開いてから間も無い頃ですね。と言っても頼朝は関係無さそう。ヤマトタケルと御嶽神社も関係無いことは無いですが、ヤマトタケルだったら大鳥神社とかの方がしっくり来ます。何か、ちぐはぐですね。元々は違う神が祭られていたのでしょうか?! でも境内にはそれらしきものはありませんでした。石棒を探したんですが。。。

御嶽神社

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鎌倉街道探索を終え、産鉄地名巡りです。"薬師台(下)"と、"梶(鍛冶)路免"に行きました。
ここは開けた尾根で風が気持ち良かったです。

ここは駐車場の名にあるように、"薬師台"です。
薬師台の北側の谷戸部分は"梶路免"

次は白山神社跡に向かいますが、Google Mapにも、鳥居マークがあったので、もしや、と期待したんですが、どうも、もう既に、鳥居や神社の跡は無いようです。

この立派な長屋門の後ろの山に嘗て白山神社があった。

明治時代に一村一社令によって白山神社はこの舞岡八幡に合祀されたようです。

舞岡八幡
碑の右に見えているのが白山

少し先には"東光寺"跡がありました。

双体道祖神があるコンクリ基礎の上に東光寺があったそうです。

その東光寺にあった薬師堂が、今は少し先にあります。今日はここがハイライトでした。。。

東光寺薬師堂、ここに移転された。
地元の小学校生徒が書いたと思われる案内板。"目の悪い人が拝むと良い"
薬師堂の脇に道祖神と石棒が・・・

"目が悪い人が拝むと良い"というのは、産鉄では、炉の中を絶えず見ていなければならず、目を悪くする人が多いことから、産鉄地の薬師さんには、このような伝説が残るそうです。

石棒については、縄文時代前期に北海道、東北に現れ、その後、関東や関西に広がっていったと思われていて、東北を象徴する遺跡であり、薬師、白山と共に、移住させられた東北人たちが持ち込んだのではないでしょうか。

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今回、色々と巡って最後に薬師堂を訪れたんですが、コンクリートで整備された参道を行くんですが、その右に土も露わな参道らしきものが見え、でも気にせずコンクリートの方を行き、写真撮影し、お賽銭もして、さぁ帰ろうと振り返えり、歩き出したら石棒が視界に入ってきたんです。

その瞬間、"あぁ、やっぱりここもそうだったんだなぁ", "さぞや苦労したことでしょう、今はゆっくり休んでください。"と、言う気持ちが溢れてきました。東北人の血のなせる業でしょうか。

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