2019年5月5日日曜日

概説、延喜式前の武蔵国の古代東海道

771年より前、武蔵国は東山道に属していました。京都からの場合、上野国新田駅から武蔵国府へ行き、同じ道を戻って、下野国足利駅へと行きます。この、上野国新田駅・下野国足利駅から武蔵国府への道を東山道武蔵路と言います。

尚、この時、東海道は、相模国→上総国→下総国→常陸国というルートであり、相模国→上総国は、三浦半島から房総半島に渡る海上ルートでした。このテーマについては、古代東海道シリーズの前回でご紹介しています。

西の青マーカが上野国国府、東が下野国国府、両国府間を結ぶ青線が東山道で、その間が上野国新田駅。そこから南に延びる青線が東山道武蔵路で、行き着く先が武蔵国府。

768年、続日本紀、『また、下総国井上・浮島・河曲の三駅、武蔵国乗潴・豊島の二駅は、山海両路を承けて、使命繁多なり。乞う、中路に准じて、馬十疋を置かんと。勅を奉るに、奏に依れ。』とあり、これは、下総国の井上、浮嶋、河曲の3駅と、武蔵国の乗潴、豊島の2駅は、東海道と東山道とを連絡しているが非常に良く使われるので、中路に格上げして馬も10匹に増やしましょうという内容で、と、言うことは、本来、繋がらないはずの東山道武蔵国と東海道下総国がこの5駅を通る連絡路で繋がっていたことが分かります。

この連絡路ですが、豊島駅まではほぼ分かっているんですが、問題は、乗潴駅なんです。説が確定されていません。

そもそも、読み方も確定していません。2字目は、 "ヌマ" で決まりなんですが、1字目は、 "アマ" , あるいは、 "ノリ" のどちらかです。つまり、 "アマヌマ" か、 "ノリヌマ" のどちらかとなり、前者なら天沼、後者なら練馬で、天沼の場合、更に、杉並区か大田区の2つの選択肢が出てきます。

ただ、東海道と東山道を結ぶ連絡路ですから、東山道側の接点は武蔵国府と考え、と、なると、乗潴駅は豊島駅と武蔵国府の間に位置していて、練馬か杉並区天沼が妥当だろうとする説があり、少なくともこの時点ではその説を採用しておきたいと思います。

東から、河曲駅、浮嶋駅、井上駅、豊島駅、一番西に武蔵国府。そうすると、豊島駅と武蔵国府の間に杉並区天沼、練馬が位置しました。

771年、続日本紀、『太政官奏すらく、武蔵国は山道に属すと雖も兼ねて海道を承け、公使繁多にして祗共堪へ難し。其の東山の駅路は上野国新田駅より下野国足利駅に達せり。此れ便道なり。而るに枉げて上野国邑楽郡より五ヶ駅を経て武蔵国に到り、事畢りて去る日、また同道を取りて下野国に向ふ。いま東海道は相模国夷参駅より下総国に達せり。其の間四駅にして往還便近し。而るに此を去り彼に就くことを損害極めて多し。臣ら商量するに、東山道を改めて東海道に属せば、公私ところを得て、人馬息ふこと在らん、と。奏可す。』と、あり、これは、武蔵国は東山道に属しているものの東海道と連絡し、非常によく使われている・・・これは768年の話と同じ話をここでも言っていますね・・・で、東山道はというと、上野国新田駅から下野国足利駅に直接繋がったら非常に便利だが、今は5つの駅を経て武蔵国に行き、帰りも同じ道で帰ってこなければならない・・・と、東山道の事情を記述した後・・・東海道は、以前は海上ルートだったけれども今は既に相模国夷参駅から武蔵国を通過し下総国に行っていて、この間、たった4駅で非常に便利なので、いっそ、武蔵国を東山道から東海道に付け替えしてはいかがでしょうという内容で、このことから、768年の続日本紀同様、繋がらないはずの東山道武蔵国と東海道相模国が、相模国夷参駅から東山道武蔵国の武蔵国府(1)に繋がり、以降、乗潴駅(2), 豊島駅(3), 東海道下総国井上駅(4)の4駅で東海道下総国に繋がっていたということが分かります(諸説ありますがこれが有力なようです。)。更に、この時から晴れて武蔵国が東海道に属し、相模国夷参駅、武蔵国府、乗潴駅、豊島駅、井上駅のルートが東海道になります。

一番西が夷参駅

整理すると、武蔵国の官道は、
  1. 771年より前、東山道武蔵路
  2. 768年、東海道下総国井上駅から、東山道武蔵国豊島駅、乗潴駅を経由し武蔵国府へという連絡路
  3. 771年より前、東海道相模国夷参駅から東山道武蔵国府への連絡路と、2のルートを逆走し東海道下総国井上駅へと行く連絡路
  4. 771年以降、武蔵国が東海道へ付け替えとなり、3の連絡路が東海道に昇格
と、言うことになります。変遷としては4ですが、ルートは1と4 (3)の2つですね。

ここで、では何故、東海道は道(どう)が異なる武蔵国と連絡しなければならなかったのか、最終的には武蔵国を東海道に付け替えしなければならなかったのかを考えてみたいと思いますが、やはり、よく言われているように、東北が影響していたと思われます。
  • 724年、陸奥国の国府として多賀城築造
  • 759年、坂東の兵士、民衆を徴発し桃生城(宮城県石巻市), 雄勝城(秋田県横手市付近)を築造
  • 768年、東海道下総国河曲、浮嶋、井上の各駅、東山道武蔵国豊島、乗潴の各駅を中路に格上げし馬数を10匹に増加
  • 771年、武蔵国を東海道へ付け替え
  • 776年、出羽で発生した叛乱の鎮圧のために騎兵を派遣
  • 776年、安房・上総・下総・常陸の4国で船50隻を造って陸奥国に設置
  • 777年、相模・武蔵・下総・下野・越後の5国が甲200領を出羽国に送る。
  • 780年、兵士と食料を多賀城に送る。
  • 781年、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸が陸奥国へ米を海運で送る。
  • 792年、郡司の子弟からなる健児を設け、軍事力の強化が図られ、下総国では150人の設置が指示された。
  • 794年、更に10万人を派兵
  • 801年、坂上田村麻呂を征夷大将軍とした4万人の兵を送り込む。
  • 802年、胆沢城(岩手県奥州市)を築き、駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野といった諸国の浪人4000人を送る。
  • 804年、下総国など坂東諸国が米を陸奥国に送る。
既述の武蔵国東海道付け替えだけでなく、835年には、渡河用の舟が、下総国太日川(今の江戸川)では2艘から4艘に、武蔵国と下総国の境だった隅田川でも2艘から4艘に増やされています。

東北を支配下に入れ国力を上げる必要があり、その為には、最前線となる坂東("坂"は足柄峠のことでそれより東、今の関東のこと)諸国は米や馬、兵、船などを物流する必要があって、武蔵国を東海道に入れる必要があった、ということです。

そもそも何故国力を上げなければならなかったのかと言えば、白村江の戦で敗れ、唐の脅威に備えなければならなかったから。この時、倭から日本に変わっています。

2019年4月17日水曜日

深大寺、渡来の道

深大寺縁起

『縁起』によれば、どこからともなくこの地に現れた、深大寺を開いた満功上人の父福満が、郷長温井右近長者の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵の故事を思い浮べ、深沙大王に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父温井右近長者も母虎もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。

長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、遣唐使で南都に法相を学び、帰郷後、この地に一宇を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(733年), これが深大寺開創の伝説であります。

※深大寺サイトより

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  • 733年、満功上人、深大寺開山
この時、仮に、満功上人が40歳だとすると、
  • 717年、満功上人、遣唐使として唐に渡る
  • 718年、帰国
については、733 - 718 = 15, 40 - 15 = 25歳で帰国、24歳で唐に渡ったことになる。
  • 729〜749年、祇園寺開山
満功上人が、733年で40歳なら、祇園寺開山が最も遅かったとして、749年は、749 - 733 = 16, 40 + 16 = 56歳

と、いうことで、深大寺開山前の遣唐使、後の祇園寺の数字検証を経ても、辻褄は合う。なので、この仮説、 "733年40歳" で、以下、話を進める。

すると、満功上人が生まれた年は、733 - 40 = 693年。子供ができるまでの期間を考えると、この693年の5〜10年前、だから683〜688年頃に、満功上人の父福満が、ここ狛江の地に来たことになる。

また、福満の義理の父温井右近長者は、嘗ての高句麗エリアである江原道金剛山温井里の出身とも言われている。

満功上人が生まれたこの時、娘が20歳、温井右近長者は45歳だとし、温井右近長者が20歳の時に、ここ狛江の地に来たとすると、683〜688 - (45 - 20) = 658〜663年だということになる。

話は変わって大磯の高麗若光伝説によれば、666年、あるいは668年に、高麗若光ら高句麗の人々が大磯に上陸、716年の高麗郡設立まで、大磯に土着している。

ここで、渡来関係の年表は以下の通りとなる。
  • 660年、百済滅亡
  • 666年、百済の男女2,000を東国に移住させる
  • 668年、高句麗滅亡
  • 684年、百済の僧尼、俗人23人を武蔵に
  • 687年、新羅の僧尼と百姓男女22人を武蔵に
  • 690年、新羅の韓奈末許満ら12人を武蔵に
  • 716年、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国に住む高麗人1,799人を武蔵に移住させて高麗郡設置
  • 758年、新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武藏国に住まわせ新羅郡を建郡
※「街道の日本史18 多摩と甲州道中」の巻末年表より

正に、温井右近長者、満功の父福満が狛江の地に来たのは、渡来の波が東国に押し寄せていた時。もしかしたら、大磯からの移動もあったかもしれない(684年に白鳳地震が起きている。大磯は津波の被害を受けたかもしれない。移住の契機になったかもしれない。)。

どこからともなく現れた男とその土地にいた娘が結婚し、土着し、やがて、その地の中心的位置付けになっていくという伝承は、外から来た、東国であれば畿内や朝鮮半島などから来た集団が、その地に入り根付いていく様子を言い表していて、よく言われるように、深大寺縁起も然りで、この地に高句麗からの渡来人がやって来て、根付いていく様子を言い表しているのではないかと思います。

恐らく、多摩川下流域に古墳を造った古代の人々のように、渡来人たちも多摩川を遡ったのでしょう。深大寺を中心とする渡来の里は、田園調布古墳群、野毛古墳群、そして、狛江古墳群の先に位置しています。

迅速測図、右下方向が多摩川河口。右下のマーカ群は田園調布古墳群と野毛古墳群。少し離れて狛江古墳群。マーカの意味は、丸が円墳、四角が前方後円墳、星は帆立貝式古墳。色は、青が4世紀、紫が5世紀、赤が6世紀。そういった古墳群の先に深大寺エリア(黒の神社マーク、寺マーク。途中にあるのはひとまずここでは無視してください。)がある。あたかも、東京湾から多摩川に入り、手前から物色していって、古墳はよく見えたと思います、船から。田園調布、野毛、狛江、と、既に埋まってるエリアをやり過ごし、ようやく、空いていたエリアに上陸した、そういう感じが伺えます。

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それでは、核心エリアに入る前に、まずは大蔵・宇奈根・喜多見から行きます・・・って言うか、逆に、どうも、ここが始まりのようなんです。

吉祥院

理由は良く分かりませんが、ここ大蔵、宇奈根、そして西隣の喜多見は、Deepなエリアです。

その筆頭がこの吉祥院。740年、行基が開基。行基作の地蔵菩薩像を安置し、東覚山地蔵寺と称しました。その後、良弁が、不動明王を自ら彫り開山しました。今でもこの不動明王が本尊です。

ただ、行基、良弁というスーパースターが登場し、古い寺、というだけではありません。その昔この地に60才位の老女がおり、いたく地蔵尊を信仰していたので、秦氏某が糧材を喜捨して堂宇を建立したという伝承が残っています。と、言うことで、渡来の香りがする古寺なのです。

だからか、境内にはこの彫像がありました。

境内の、恐らくはご住職のお住まいの門前には朝鮮式の彫像が。

この伝承を帰宅後に発見したので、実走では、吉祥院周辺のお屋敷の名札をチェックしなかったですが、今でも秦さんがいらっしゃるかもしれません。

次に訪れたのが宇奈根氷川神社です。

宇奈根氷川神社、だだっ広い境内に黒松が聳え、田舎の海辺の神社のよう。好きです、この雰囲気。

氷川神社には、以下のような史実、伝承があります。
  • ここ大蔵、宇奈根、喜多見には氷川神社が3つあり、三所明神と呼ばれていて、同じ木から御神体をつくったといった伝承もある。
  • 鎌倉時代に多摩川の上流から龍ヶ渕(竜王淵)に三人の兄弟が流れ着き、その三人が宇奈根、喜多見、大蔵の氷川神社に祀られたという伝承もある。
  • 大蔵出身で幕府の書物奉行にもなった石井至穀の書いた「大蔵村旧事項」によると、宇奈根に大己貴尊(一の宮), 大蔵に素戔嗚尊(二の宮), 北見(喜多見)に奇稲田姫(三の宮), 石井戸大神宮に手摩乳(四の宮), 岩戸八幡(狛江市)に脚摩乳(五の宮)が勧請されたとある。
  • 大蔵氷川神社には、永禄八年(1565年)の「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神四ノ宮」と記されている棟札がある。
総合すると、この3つの氷川神社は独立したものではなく強い関係があり、宇奈根氷川神社が最も位置付けが上だった感じがします。

また、
  • 宇奈根氷川神社に関し、新編武蔵国風土記稿には、「小名中通りにあり、村内の鎮守なり、本社四尺五寸四方の東向、上屋二間半四方、前に木の鳥居を立つ、神体は白幣、いつの頃鎮座せしと云ことを云へず、村内観音寺持」と、創建年は不明
  • 一方、喜多見氷川神社の創建は740年との伝承あり
  • 喜多見氷川神社は、延文年間(1356~1360年)に多摩川で洪水が起き、神社そのもの、古文書などの一切が流失

大蔵、宇奈根、喜多見の陰影図

で、これは大蔵、宇奈根、喜多見の地形を現した陰影図ですが、寺マークが先程の吉祥院、神社マークが、右(東)から、大蔵氷川神社、宇奈根氷川神社、喜多見氷川神社です。

大蔵氷川神社は仙川と野川の谷に挟まれた台地の東端にあります。喜多見氷川神社は、微妙なんでよく見て下さい。その南側より若干ではありますが微高地になっていますね。それにこの2社は宇奈根氷川神社より内陸にあります。

一方、宇奈根氷川神社は最も多摩川近くにあり標高も低いです。

以上から、洪水で流されたのは実は宇奈根氷川神社で、宇奈根氷川神社が最初に今の位置にあり、創建は740年で、その後の洪水によって流され、喜多見、大蔵に還座された、というように考えることができるのではないでしょうか。

また、既述の赤字にした伝承も気になります。時代は鎌倉となっていますが、それが間違いで、もっともっと古代の伝承だったとしたら、深大寺縁起同様、畿内や渡来など外から来た人たちを想像させます。

吉祥院の開基は行基、今はもう洪水で流され現存しませんが、氷川神社の神像も行基作。行基は多分に伝説めいてはいるものの、行基、あるいは行基でなくともその時代の人がこの地を訪れ、開けていったのは間違い無さそうですが、では、何故、この地に行基は来たのか。

最初に多摩川を遡ってきた渡来人や畿内の人たちが宇奈根に上陸します。上陸地にお社を立てます。そのお社はその後多摩川を遡ってくる渡来人や畿内の人たちにとっての上陸の目印になり、次々と、渡来人や畿内の人たちがやって来て発展していきます。発展すると、付近の東国の人たちもここに集まってきました。大磯からも来たでしょう(その時は船越を越えてきた?!)。行基も良弁も秦さんも・・・と、いうようなことは想像できませんでしょうか。

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さて、次は狛江なんですが、その前に、ここに寄ります。

迅速測図、駒井
狛江6小南の交差点、旧駒井村のこの辺りが中心地

勿論、 "狛江市" として、 "狛江(高麗江)郷" の地名は残っているんですが、 "駒井(高麗居)"も残った地名の一つです。

で、泉龍寺です。

泉龍寺、サイトによれば、 "奈良東大寺の開山として名高く、伊勢原の雨降山大山寺を開いた良弁僧正が天平神護元年(765年), この地にやってきて雨乞いをし、法相宗・華厳宗兼帯の寺を創建したのが泉龍寺のはじめとされています。"

良弁ですね。良弁と言えば、このExplorerでは吉祥院です。繋がりましたね、良弁で。

が、良弁の主な年表を見ると、
  • 740年、華厳経の講師として金鐘寺に審祥を招く
  • 740年、吉祥院、開山
  • 745年、律師
  • 751年、東大寺初代別当
  • 755年、大山寺開基
  • 756年、大僧都
  • 765年、泉龍寺開基
と、言うことで、吉祥院が早過ぎる感が否めませんものの、泉龍寺開基の765年近辺だとしたら素直に繋がります。

この良弁、出自に関して様々な言われがあります、鎌倉生まれ、あるいは福井県小浜市下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられた、そして極めつけは、近江国の百済氏の出身、です。

更に、良弁は既述のように、大山寺を開基してます。大山寺の直ぐ近くには、日向薬師がありまして、そのお寺は行基が開基。またまた繋がりましたね、今度は行基で。この時、行基が薬師像を彫る為の良い材が無く困り果てていた所に、高麗若光が桂の霊木を寄付し、無事、行基は薬師像を彫ることができたという伝承があります。

と、言うことで、吉祥院、泉龍寺、大山寺、日向薬師が、行基、良弁と高麗若光(渡来人)で繋がりました。

狛江エリア、次は、伊豆見神社です。

伊豆見神社の旧地、水神社。伊豆見神社は889年にここで創建。大塚山といったそうで、ここも古墳か?
現在の伊豆見神社、1550年にこの地に還座。珍しく、北向きなんですね。これは本家の大國魂神社を模したのでしょうか。

既述のように伊豆見神社は889年に今の水神社の所で創建されました。多摩川の直ぐ脇です。

陰影図、和泉

これは和泉の陰影図です。ちょうど真ん中に伊豆見神社旧地、水神社を配置しました。その右(東)が今の伊豆見神社、さらに東が泉龍寺です。

地形に注目していただきたいんですが、水神社の位置、ちょうど、岬のようになっていませんか?

水神社から西は、段差は、まず北に向かい、弧を描くように西に続いています。東も、まずほぼ真東に段差が伸び、続いて直角に真南に曲がっているのが分かりますね。一方が北でもう一方が東ですから、ちょうど、四角形の一角のような岬となっています。

岬の上に立つ伊豆見神社。その場所は大塚山。伊豆見神社が出来る前から聖地で何かしらのお社があったとしたら、多摩川を遡ってきた渡来人や畿内の人々にとって、目印になったのではないでしょうか。あるいは、目印としてお社を建てたのかもしれません。ここも、宇奈根氷川神社と同じような役割を持ったお社だったのかもしれませんね。

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いよいよ核心エリアに入ります。まずは多摩川沿いのエリアから。

下布田遺跡

ここは縄文時代後期の下布田遺跡。写真のように崖地にあり、嘗てはここが多摩川岸だったかもしれません。ここに、縄文時代後期に集落がありました。土偶・土版・独鈷石・石剣・石刀・石冠などの呪術的遺物、石棒祭祀を物語る特殊遺構や紅バラの大輪を思わせる赤く塗られた滑車型土製耳飾(国指定重要文化財)が出土、方形配石遺構や合口甕棺墓なども確認されました。

その直ぐ西隣には古天神遺跡があります。

古天神遺跡

ここはその名の通り、布田天神の旧地です。加えて、1万年位前の旧石器や4, 5千年前の縄文時代の人々の生活跡、5世紀ごろの墓、7世紀の堅穴住居、鎌倉時代から室町時代頃の地下式横穴墓、河原石を積んだ室町時代から江戸時代の墓が発見されています。

下布田遺跡からここ古天神遺跡にかけての嘗ての多摩川岸には、石器時代から室町まで続く祭祀、生活の場があったのです。そこから真っ直ぐに、実に真っ直ぐに北に向かう道があり、その道の行き着く先が、深沙大王堂なんだから実に面白いですね。

多摩川岸から真っすぐに続く深沙大王堂参道。一番左(西)が本道で、左下の神社マークが布田天神旧地(古天神公園), 真っ直ぐに北に向かい到着するお寺マークが深沙大王堂。本道以外にも幾筋もある。

まるで、多摩川を遡ってきた渡来人たちを迎える船着き場が下布田遺跡、古天神遺跡で、その目印として布多天神が創建され、そこから真っ直ぐに渡来ロマンの里、深大寺エリアに行く道が整備された、そう、思わざるを得ません。

その、行き着く先の一つが、虎狛神社です。

虎狛神社
"狛江郷" の文字。ここが狛江郷だった証拠。

ここはナント!589年創建との伝承が残る古社中の古社で、延喜式論社でもあります。また、深大寺開山の満功上人の祖母虎を祀っているとも言われています。また、元は "高麗" 神社で、 "高麗" が、 "狛" となり、祖母虎を名も付して、今の虎狛神社となったという説もあるようです。

しかしなぜ北向きなんでしょうか。深大寺を向いている、そういう気がしてしまいます。

虎狛神社を東へ。祇園寺があります。

祇園寺
吉祥院と同じ朝鮮式彫像が

祇園寺は、満功上人の祖父母、温井右近長者と虎の館跡との伝承があります。

この祇園寺の南東の今は畑となっている窪地が、深大寺縁起に見られる湖だと思うのですが、どうでしょうか?

今は畑、左奥が祇園寺です。

そして神明社が温井右近長者と虎との娘がいた中の島なんじゃないかと思わせる程、雰囲気がすごいです。土も盛り上がってるし。

神明社

山を越え、深沙大王堂参道に復帰、深沙大王堂、深大寺に向かいます。

深沙大王堂参道
深沙大王堂
深大寺

"山を越えて" と、言いましたが、陰影図を見てください。

一番左上が深沙大王堂、その右が深大寺、その右が青渭神社。この段差は野川が削った国分寺崖線、その崖下にある神社マークが虎狛神社、その右が祇園寺。

深沙大王堂と深大寺は野川が削った国分寺崖線の奥にあるんですが、台地上にあるのではなく、谷にありますね。だから、参道を行くと山越えになるんですが、ここに、深沙大王堂と深大寺が、虎狛神社、祇園寺の近くに位置しなかったのかの理由があるのではないかと思います。

深沙大王ですから、水であり、湧水が豊富なこの地が選ばれたのではないかと思うのです。御覧のように谷は2つあるんですが、東の方は青渭神社が既にあったのではないかと推測しております。逆に言えば、青渭神社は733年より前からあったということになります。

青渭神社

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如何でしたでしょうか。

濃厚です。非常に濃厚に、渡来の香りがするエリアでした。

また、虎狛神社、青渭神社、布田天神と、延喜式論社が3つもある、東京で最も早くから開けたエリアなのです。渡来人の影響も少なからずあると思われます。

1,000年以上前に日本にやってきた渡来人たち。馴染んで、交じって、今はもう日本人です。こうした歴史をしっかり理解することが、大切なのではないかと思うのです。

今回、大変参考にさせていただいたサイト:



大蔵、宇奈根、喜多見から深大寺向かうのは、基本は多摩川だと思いますが、陸路ならこのハケの道だと思います。ここは私のお気に入りの場所。渡来人もこの富士山を見たのでしょうか。

2019年4月6日土曜日

千束の池袈裟懸松、金杉橋芝浦、名所江戸百景

冬 110景 千束の池袈裟懸松

1858年
2019年

これは、"千束池から袈裟懸松を望む"と読んで下さい。

何故、ここが名所なのか。

タイトルの通り、袈裟懸松が名物だったわけですが、では誰が松に袈裟を懸けたのか。

日蓮さんなんです。

1282年9月8日、常陸国で湯治する為、身延山を出発した日蓮さんは、ここ洗足池の地で一休みします。その際、この松に袈裟を懸けたのです。

因みに、この辺りは"千束"という地名なんですが、"洗足"池という字を当てているのは、この時、日蓮さんが足を洗ったからと言われています。

その後、日蓮さんは、体調が悪化し、結局、この地で御入滅されました。これがキッカケとなって開かれたのが、池上本門寺です。だから、大本山なんですね。

こういうストーリーがある袈裟懸松なので、名物となり、名所となった、と、こういう訳です。

が、私はもう一つ理由があると思ってます。

それが、これです。

秋 80景 金杉橋芝浦

1858年
2019年

これは、"金杉橋から芝浦を望む"と読みます。

これは、池上本門寺での御会式に向かう日蓮宗の信者御一行様を描いたものです。

知らない人が見たら何かのお祭り?!と思いますよね?

御会式は、日蓮宗に限ったことではないんですが、あまりにも、日蓮宗の御会式が有名になった為、御会式 = 日蓮宗という認識になっているようですが、元々は仏教の大事なイベントのことで、例えば、お釈迦様の誕生日である4/8は、灌仏会という御会式です。

日蓮さんが御入滅された10/13も御会式が執り行われ、御入滅の地、池上本門寺では、それはそれは盛大に執り行われます。

日蓮宗は、お題目を唱えることを重視しますから、"南無妙法蓮華経"と、経典のタイトルをひたすら唱えます。必然、リズムとなり、太鼓なども加わって、まるで、お祭りのお囃子のようになります。なので、祭り好きの江戸庶民のハートを射抜いたんでしょう。大人気となりました。

それを描いたのが、この80景なんです。

金杉橋から池上本門寺への想定ルート。上野青ポイントが金杉橋、下の青ポイントが池上本門寺です。江戸期東海道で品川宿まで行き、常行寺の所で西へ折れ延喜式古代東海道に入ります。
前々回の、"続き、蒲田、羽田、大森、名所江戸百景"の時に言いましたが、鈴ヶ森刑場を迂回した場合、ここが切り替え点だと思われます。

日蓮さんが湯治の為、この地を通り、洗足池で袈裟を松に懸け、足を洗い、御入滅なされ、江戸庶民なら誰もが知る、それはそれは盛大な御会式が執り行われるようになった。だから名所なんですね。

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もう1つ面白い話があると思ってるんですが。

地形図

これは先ほどの明治初期作図迅速測図と同じエリアを地形図で表したものです。

上の赤は洗足池、下の赤は池上氏館です。なので、日蓮さんは、赤ルート、多摩川を渡って今の中原街道、これは延喜式古代東海道ですが、ここを行き、洗足池に達し、体調が悪くなったので、尾根伝いに南下して池上氏館に行ったと思われます。

さて、黒ポイントですが、右が瀧泉寺、左が円融寺です。目黒の名所江戸百景の時にもご紹介しましたが、共に慈覚大師円仁さんが開いたお寺です。そうです、ここは、850年頃から、天台宗の濃いエリアだったんです。

天台宗の濃いエリアの南側に、日蓮さん御入滅によって、日蓮宗の濃いエリアが出来ました。

先ほどの、日蓮さんの足跡を池上氏館から逆に辿ってみてください。洗足池に着いた後、緑のルートで、やはり、尾根伝いに行きますと、到着するのが、元法服寺、後法華寺、今円融寺です(もう1本の緑ルートはバリエーションルートです。)。

円融寺

日蓮さん御入滅の翌年、1283年に、早速、日蓮宗の中老僧であった日源さんが、このルートを行き、法服寺を天台宗から日蓮宗に改宗させたんです。日源さんご自身が、元天台宗の僧だったんですが、日蓮さんの説教を聞いて、日蓮さんの弟子になったんです。それを繰り返したわけですね。

右側の緑ルート、バリエーションルートですが、これを行き、夫婦坂から荏原町駅の方に行くと法連寺がありますが、ここは、日蓮宗の六老僧日朗によって教化された領主荏原氏が、その子、徳次郎を出家させ開山したお寺です。

日蓮宗は、尾根伝いにその勢力を伸ばしていったんですね。

尚、このルートは、そのまま北上を続けると、瀧泉寺に辿り着きます。狙ってたんですかね。。。

2019年3月22日金曜日

井の頭の池 弁天の社、名所江戸百景

秋 88景 井の頭の池 弁天の社

これは、井の頭の池から弁天の社を望むと読むんですが、でもこれは井の頭池から弁天さんを望んでいるというより、弁天さん南の崖上から井の頭池と弁天さんを望んでいますね。

1858年
2019年

やはり立地が池なので、江戸の頃からあまり変わってないでしょうから、木さえ無ければほぼ同じ画が撮れたと思います。まぁ、良しとしましょう。

何故ここが名所なのかというと、ズバリですね。弁天さんです。

天慶年中ですから938年から946年の間に、源経基が最澄伝教大師作の天女像を祀ったことに始まります。源頼朝が平家追討の祈願成就に感謝して建久8年(1197年)に堂宇を建立、新田義貞、家康、家光も訪れています。

それにしてもスーパースター勢揃いですね。源経基は、経基→満仲→頼信→頼義→義家→義朝→頼朝ですし、最澄は天台宗の祖で比叡山を開いた人で、新田義貞は北条鎌倉幕府を倒したし、家康・家光は言わずもがなですね。

江戸からの距離もちょうど良い感じで、行楽も兼ね、多くの人が参拝に訪れたようです。

江戸から来るなら甲州街道で、高井戸から分かれ井の頭道を行きました。今でも沿道には地蔵や庚申塔などが多く残り、当時を偲ばせます。


明治初期

それでは、甲州街道から順番に、石塔群をご紹介します。

まずは道標、甲州街道のここから分岐、以降、井の頭道
庚申塔
庚申塔、"右井之頭道"と彫られているのが分かる。
庚申塔 兼 題目塔という、なんともvery Japaneseな石塔です。庚申塔は一応道教、題目塔は仏教日蓮宗です。異なる宗教が一つの石塔に融合してるなんて、なんて、diversityなんでしょう。
地蔵
あんまり知られてないようで、とってもひっそりとしてるんですが、ここが表参道です。鳥居です、鳥居。で、弁天さんは、元々は、ヒンズー教の女神で、日本で仏教に取り入れられ、仏教の守護神の一つとなりました。更に、市杵嶋姫命とも習合しました。だから鳥居なんですが、ヒンズー教、仏教、神道と、いやはや何とも、very Japaneseです。宗教についてはdiversityを徹底してますね。
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如何でしたでしょうか。

そこかしこに石塔が残り、井の頭道をサイクリングでもすれば、江戸庶民気分を味わえます。お勧めです。

2019年3月18日月曜日

続き、蒲田、羽田、大森、名所江戸百景

前回の続きです。

はい。前回、続きがあるつもりではなかったのですが、調べてみたら続きにした方が良さそうなので、急遽、変更です。前回のタイトルも変更しました。

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春、26景、八景坂鎧掛松

これは、"八景坂から鎧掛松を望む"と、読んで下さい。

1858年
2019年

正面にドーンと見えているのが鎧掛松です。手前の坂が八景坂です。

八景坂ですが、画面右から左にかけて上ってますね。八景坂は南から北に向かって上ってますから、ということは、広重は、西側の高台から眺めていることになります。八景坂の向きからして、目線は北東ですね。

なので、広重の位置から八景坂越しに見える海は東京湾です。松の後ろに半島のように突き出ているのが品川洲崎ということになります。

更にその奥、遠くに聳えているのは、方向的には筑波山だと思うんですがどうでしょうか。房総の山々だとの解説が多いですが、北東なので房総ではなく下総になり、下総だと、ここまでの山はないと思われます。2つの峰もあり筑波山だと思うんですが、広重はいつも向かって左を若干高く描くんです。この絵は微妙ですね。

赤ポイントが推定広重立ち位置。赤線が八景坂、南が坂の上り始めで山王二丁目の丁字路、北が上り切ったところで山王口の丁字路。見てお分かりの通り、崖下から崖上に上がっていく道筋となっている。赤ポイントから伸びている直線は、青が品川洲崎へ、緑が筑波山に伸ばしたもの。いやぁ、線引きしてみてびっくりしましたよ。広重の絵でも、品川洲崎がやや左、直ぐ右に筑波山になってますが、その通りだったわけです。広重の目線ですが、品川洲崎、筑波山が画面左ですから、大森ララ辺りだったと思います。

崖の右手、だから東側は田畑ですね。海との境ら辺に松並木と往来の人が見えますが、これは、江戸期の東海道ということになります。

画面右の海岸沿いの大通りが江戸期東海道、間は水田。そうそう、赤ポイントの少し上に、"八景坂"の文字が見えます。

それにしても素晴らしい眺望です。八景坂をようやく上り切って右手に見える眺めがこれなら癒やされたでしょう。絵にもあるように、ここで一服と、休みたくもなるのでしょうね。茶屋があり、繁盛しているようです。

今の眺望を見るとホントかよと思ってしまいますが、正面の木の向こうの古い家屋の更に向こうの白い壁のビル、それが無かったら、八景坂を上り切って台地となった部分が見えて、何となく、当時の雰囲気が感じられたかもしれません。

でも一点疑問があるんですよね。この松、神明神社にあったという伝説なんですが、神明神社は八景坂の最中にあるんです。八景坂を上り切った台地にあるのはこの辺りの地名である山王の由来となった日枝神社と円能寺なんです。立ち位置は間違い無く神明神社だと思いますが、松は、日枝神社の境内や近辺にあったのだと思います。

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さて、何故、ここが名所かというと、この眺望と、もう一つは松です。松自体も美しいんですが、その謂れです。鎧掛松ということで、よくある話ですね、鎧を掛けたり笠を掛けたり馬を繋いだり腰かけたり。ここも、源八幡太郎義家が、後三年の役の際、ここを通り、神明神社に勝利祈願あるいは御礼した時に、この松に鎧を掛けたという伝説があり、その伝説が名所の謂れとなっています。

確かに、この道は、平安期の東海道で、この道筋のこの先、兜町の兜神社や浅草橋の銀杏岡八幡神社等々で義家伝説があります。

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それと、何故、ここが蒲田、羽田と繋がりがあるかですが、江戸期の東海道は、既述のようにもっと東なんですが、こちらを通った人も多かったようなんです。西からの場合、ちょうど、蒲田の梅園から北西に折れ、呑川沿いに進み、平安期の東海道に入って、八景坂を上り、南品川から江戸期の東海道に復帰するという迂回がなされていたそうなんです。

ここが入り口、右手の緑が梅園。古道然としたイイ感じのカーブですね。
こちらは平安期東海道、こっちもイイ感じのカーブ、さすがは東海道。約1000年前、ここを源義家の軍勢が通ったんです。

理由ですが、ちょうど、この間に、鈴ヶ森刑場があったからなんです。鈴ヶ森刑場は、見せしめの為、わざわざ往来頻繁な東海道沿いに設置したということですから、磔もあったし、直ぐ隣の海岸では水磔もされていたということですから、特に女性や子供は通りたくないですね。ということで、江戸期の東海道から平安期の東海道へ迂回したそうです。

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如何でしたでしょうか。

実は蒲田の梅園はねたのわたし 弁天の社もこの八景坂鎧掛松も、この趣味を始めた時に行ってるんです。でもこうしてもう一度行ってみると、なかなか面白い地域です、ここは。地形と日蓮宗寺院の関係なんかも面白そうです。相関がありそうで。