前回の続きです。
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春、26景、八景坂鎧掛松
これは、"八景坂から鎧掛松を望む"と、読んで下さい。
1858年 |
2019年 |
正面にドーンと見えているのが鎧掛松です。手前の坂が八景坂です。
八景坂ですが、画面右から左にかけて上ってますね。八景坂は南から北に向かって上ってますから、ということは、広重は、西側の高台から眺めていることになります。八景坂の向きからして、目線は北東ですね。
なので、広重の位置から八景坂越しに見える海は東京湾です。松の後ろに半島のように突き出ているのが品川洲崎ということになります。
更にその奥、遠くに聳えているのは、方向的には筑波山だと思うんですがどうでしょうか。房総の山々だとの解説が多いですが、北東なので房総ではなく下総になり、下総だと、ここまでの山はないと思われます。2つの峰もあり筑波山だと思うんですが、広重はいつも向かって左を若干高く描くんです。この絵は微妙ですね。
崖の右手、だから東側は田畑ですね。海との境ら辺に松並木と往来の人が見えますが、これは、江戸期の東海道ということになります。
画面右の海岸沿いの大通りが江戸期東海道、間は水田。そうそう、赤ポイントの少し上に、"八景坂"の文字が見えます。 |
それにしても素晴らしい眺望です。八景坂をようやく上り切って右手に見える眺めがこれなら癒やされたでしょう。絵にもあるように、ここで一服と、休みたくもなるのでしょうね。茶屋があり、繁盛しているようです。
今の眺望を見るとホントかよと思ってしまいますが、正面の木の向こうの古い家屋の更に向こうの白い壁のビル、それが無かったら、八景坂を上り切って台地となった部分が見えて、何となく、当時の雰囲気が感じられたかもしれません。
でも一点疑問があるんですよね。この松、神明神社にあったという伝説なんですが、神明神社は八景坂の最中にあるんです。八景坂を上り切った台地にあるのはこの辺りの地名である山王の由来となった日枝神社と円能寺なんです。立ち位置は間違い無く神明神社だと思いますが、松は、日枝神社の境内や近辺にあったのだと思います。
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さて、何故、ここが名所かというと、この眺望と、もう一つは松です。松自体も美しいんですが、その謂れです。鎧掛松ということで、よくある話ですね、鎧を掛けたり笠を掛けたり馬を繋いだり腰かけたり。ここも、源八幡太郎義家が、後三年の役の際、ここを通り、神明神社に勝利祈願あるいは御礼した時に、この松に鎧を掛けたという伝説があり、その伝説が名所の謂れとなっています。
確かに、この道は、平安期の東海道で、この道筋のこの先、兜町の兜神社や浅草橋の銀杏岡八幡神社等々で義家伝説があります。
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それと、何故、ここが蒲田、羽田と繋がりがあるかですが、江戸期の東海道は、既述のようにもっと東なんですが、こちらを通った人も多かったようなんです。西からの場合、ちょうど、蒲田の梅園から北西に折れ、呑川沿いに進み、平安期の東海道に入って、八景坂を上り、南品川から江戸期の東海道に復帰するという迂回がなされていたそうなんです。
理由ですが、ちょうど、この間に、鈴ヶ森刑場があったからなんです。鈴ヶ森刑場は、見せしめの為、わざわざ往来頻繁な東海道沿いに設置したということですから、磔もあったし、直ぐ隣の海岸では水磔もされていたということですから、特に女性や子供は通りたくないですね。ということで、江戸期の東海道から平安期の東海道へ迂回したそうです。
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如何でしたでしょうか。
実は蒲田の梅園もはねたのわたし 弁天の社もこの八景坂鎧掛松も、この趣味を始めた時に行ってるんです。でもこうしてもう一度行ってみると、なかなか面白い地域です、ここは。地形と日蓮宗寺院の関係なんかも面白そうです。相関がありそうで。
実は蒲田の梅園もはねたのわたし 弁天の社もこの八景坂鎧掛松も、この趣味を始めた時に行ってるんです。でもこうしてもう一度行ってみると、なかなか面白い地域です、ここは。地形と日蓮宗寺院の関係なんかも面白そうです。相関がありそうで。
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