2018年11月18日日曜日

小野路道、その3, 武蔵国 小野郷

八王子横山から町田小野路へ行く道を小野路道と言う。何故そう言うかというと、小野路に行く道だからだ。では何故八王子横山から小野路に行かなければならなかったのか。小野氏を祖とし八王子横山を本拠とした横山氏が、その本拠から、小野牧別当として、管理地である小野路(後の小山田牧が小野牧の一部とした場合)に向かう為だった。

・・・と、言うのが前回までで、前々回は小野路道の本道を、前回は恐らく最も古い、平安時代の伝承を持つ白山神社のルートを行きました。

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さて、気になるのは小野路です。小野路は、"路"で既に道の意だから、小野に行く道という意味。地名としての小野路はその小野路沿いにある地という意味となります。

では、小野とはどこか。
  • 武蔵国総社六所宮縁起并社伝
    多東郡小野県を以て本国之府と為す。呼ひて府中と曰ふ也。・・・然るに大国魂の大神小野県に鎮坐するを以て、本国の総社と為す。
  • 新編武蔵風土記稿
    社伝に景行帝の御宇大己貴尊、小川郷小野里に降臨ありしを、里人私に祠を立て祀れり、成務天皇の朝に及て、兄多毛比尊国造を賜ひて此地に来れり、 庁府を開かれし時、大己貴命に素盞鳴尊等の五神を配して、始て宮社を建て祭れり、これを六所宮と称せり
と、あることから、大國魂神社があるエリア、武蔵国国府があるエリアが小野だと言えます。

では何故、小野路から小野に行かなければならなかったのか?

八王子横山と小野路は小野氏を祖とする横山氏で繋がってましたが、小野路と小野は、何で繋がっている? やはり、横山氏(小野氏)?

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小野篁の孫の小野美材の次男である小野利春がいます。養子に入り高向利春と称したんですが、この小野高向利春は、延喜五年(905)八月、宇多上皇に秩父牧の馬を御覧にいれました。小野高向利春は秩父牧の牧司だったんです。

その後、小野高向利春は、延喜十年(910)になると武蔵国司の三席、権小掾となり、翌年には、武蔵国司次席の武蔵介になります。さらにそれから四年後の延喜十八年(918)、武蔵守になります。

高向氏に養子に入ったとは言え、小野妹子や小野篁を輩出した名門小野氏の出。高向氏の高向玄理は遣隋使 小野妹子の留学生として同行したと言いますから、小野氏の方が格上だったんでしょう。格下の高向氏に養子入りし、東国に下向もして、辛酸をなめてきたと思いますが、ようやく、武蔵国のTopになったわけです。

武蔵国のトップとなった小野高向利春は、"小野氏"色を強めていったのではないでしょうか。

924年には、小野氏族の小野隆泰が武蔵守となります。小野高向利春の次の次です。小野隆泰は都から来たんですが、小野高向利春の影響もあったと思います。

その後、小野隆泰の子、義隆は、八王子横山に土着し横山氏を名乗ります。

更に、義隆の子、資隆は、1004年、小野牧の別当となります。

やはり、小野路(地名)と小野は横山氏で繋がってたんですね。だから、小野路(道)が出来た、と、こういう訳です。

こうなると八王子横山と小野とを直接結ぶ道も出来たでしょうが、それが、甲州道中の元になったのではないでしょうか。

まぁでも、府中に行く道だから元々あった可能性の方が高いですかね・・・
でもその場合、府中道と言った方が通りが良いと思いますが、敢えて、小野路と言っているのは、国府ができる前からあったからですかね?!

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さて、大國魂神社の至近に小野神社があります。しかも2社。これらの小野神社ですが、実は祭神も、創建年も、全く同じです。では何故2社あるのか、しかも多摩川を挟んではいるものの至近で。

謎ですね。

これについては諸説あるようですが、先の新編武蔵風土記稿には、

"東殿の三神は櫉扉に印記して、一乃宮小野客来三所瀬織津比咩天下春命倉稲魂神とあり、 一乃宮は即ち多西の一乃宮村祭神天下春命なりと云ふ、小野は本宿村小野神社祭神瀬織津比咩なり、今なを二社各村に其祠宇あり、何の故ありて何かの世神坐を当社に移して、合殿に祀りしや其来由を詳にせず"

と、あり、多摩市一宮の小野神社の祭神は天下春命、府中本宿の小野神社の祭神は瀬織津姫と、祭神が異なっていて、名前こそ同じながら、別の神社だということになります。

また、宝亀三年(772)九月に神祇行政を司る神祇省に対する太政官符が出てるんですがそれでは、

”右、去年九月二十五日、武蔵国司の解を得た。今月十七日、入間郡の正倉四宇に着火し、焼くところの糒穀惣じて一万五百壱拾参斗消失す。百姓十人たちまち重病に臥し、頓死二人なり。卜占するに、郡家の西角にある神、出雲伊波比神が祟りて云く、我常に朝廷の幣帛を受給う。しかるに頃年の間給わらず。これにより郡家内外にあるところの雷神を引率し、この火災を発すなり。よって祝外大初位下小長谷部広麿を勘問するに申して云わく。実に常に朝廷の幣帛を奉る神なり。しかるに頃年の間給ひ下さず。よって案内を検するに、去る天平勝宝七年十一月二日の太政官符に云う、武蔵国の幣帛に預かる社四処、多摩郡小野社、加美郡今城青八尺稲実社、横見郡高負比古乃社、入間郡出雲伊波比社なり。官符に灼然なるも、時々幣帛を奉るに漏れ落すもの。右大臣宣す。勅を奉はるに、例によりて施行せよ。官宜しく承知し、勅に准じて施行せよ。符到らば奉行せよ。”

また、772年当時は、小野神社は、雷神を祀っていたことが分かります。雷神といえば瀬織津姫ですから、府中本宿の小野神社のことを指しているのか、あるいは、多摩市一宮の小野神社にも実は瀬織津姫が祀られていたのかのどちらかだということになります。

では何故、多摩市一宮の小野神社の祭神が天下春命に変わったのか。天下春命は秩父国造の祖なので、秩父から来た小野高向利春が祭神に加えたのかもしれません。

でも小野氏の祖は天押帯日子命なので、この推定は無しかな・・・

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と、いうことでその3となる今回は、小野路のゴール、武蔵国 小野郷をExplorerしたいと思います。

滝坂道→甲州道中でまずは大國魂神社です。

七五三で賑わう大國魂神社

ここの東殿に多摩市一宮小野神社の天下春命と、府中本宿小野神社の瀬織津姫が祀られてます。

古甲州道で府中本宿小野神社へ。

非常に静かな府中本宿小野神社、瀬織津姫が主祭神

新田義貞と同じく、関戸橋を渡って続いて多摩市一宮小野神社へ。

多摩市一宮小野神社、主祭神は天下春命

続いて、多摩一宮小野神社の別当寺だった今はもう無い松蓮寺に、松蓮寺道で向かいます。ここが良かった。

真中の馬頭観音の土台に、"八景山松蓮寺道"と刻まれている。
切り通し
土道で残る古道

百草八幡に着きました。平安の頃には既にあったようです。

百草八幡
鎌倉時代の旧参道

以上です。

2018年11月11日日曜日

小野路道、その2, 白山神社を通る最も古いルート

前回の小野路道のその2です。

小野路の"路"も道の意味だから、"路", "道"と重なってる不思議な古道名です。小野路に行く道だから小野路道なんですが、小野路という町が小野(小野郷、今の府中小野神社、多摩小野神社がある辺りか?!)に行く道にあるから小野路なのでしょう。確かに、小野路は鎌倉街道上道や東海道が通っていて府中に向かっています。

既述の通り、小野路道は小野路に行く道なんですが、ではどこから小野路に行く道なのかと言えば、八王子横山です。では何故、八王子横山から小野路に行く必要があったのか、それについては前回一応の見解を記載しています。

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さて、復習も終わったところで、今回のExplorerのご報告です。この地図にあるように、小野路道は幾つかのルートが考えられます。



始まりと終わりは同じなんですが、浅川と大栗川の間の尾根をどう越えるかで分かれます。本道は濃い紫と思われます。その後は長沼公園を抜ける黒線、明治13年の古地図では両実線と県道クラスの道でした。その後は薄紫、明治44年頃の地図ではこっちの方が県道クラスとなっています。

で、今回は藍線を行きました。沿道に白山神社があり、最も古い道だと思われる道です。

この白山神社は、平安時代に比叡山西搭の僧、あの武蔵坊弁慶の血縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の一社であると伝えられています。文政九年(1826)春、社殿裏の塚より法華経十巻が発見され、その経巻の奥書に、"大歳甲戌、仁平四年(1154)九月時許於 武蔵国西郡船木田御庄内長隆寺 西谷書字了勧進僧弁智血縁者僧忠尊"とあり、村人の伝承が裏付けられました。

八王子中山白山神社
経巻の奥書のあった長隆寺の礎石

さて、今回のハイライトはこの道を見つけたことでした。

明治13年の古地図に小径(徒歩)として描かれている道、平安時代に遡れるかも

Webでいっくら探しても出てなかったので諦めてたんですが、現場で見つけました。これが古道Explorerの楽しみの1つです。

青マーカが白山神社、そこから南東に行く点線が今回発見した古道です。

ではまた

2018年11月4日日曜日

武相国境道、その8, 瀬上市民の森、金沢市民の森、釜利谷5号緑地、朝比奈北市民の森

Webを見ると以前はチャリで行けたようなんですが、最近はどうもダメらしく、トレッキングで臨みました。行ってみたら禁止の看板は無かったですが、こう人が多いと無理ですね。

さて、今回は表題の武相国境道です。寄り道無しでほぼ自然の尾根道のみなので、写真中心にご紹介したいと思います。トレッキングとしても非常に良かったですよ。


古地図、瀬上市民の森









2018年10月31日水曜日

ご近所シリーズ、代田

松羽稲荷
この写真の鳥居から奥に続く道、この道なんですけどね、、、

え?

そうですよ、これは"道"ですよ、れっきとした。神社の鳥居から拝殿に向かう通路的なものではなく。

写真の奥に赤い鳥居が見えますよね。その右からアスファルトの道に出れるんです(空間が見えます。)。この写真の手前のアスファルト道、ですから撮影者である私の後方に続く道から続いてます。

証拠に地図を見てみましょう。

明治13年頃の古地図、精度の関係でずれてますが、雰囲気は出てます。下の赤線
現代
ほら、一本実線で道が描かれてます。

赤線参照してください。現代地図だと神社敷地で道が途切れてますが、古地図では南北に走る道と繋がってますね。因みに、一本実線は、"小径1"で、荷車が通れる道という意味。幅一間(約180cm)ですね。確かに幅一間くらいです。

因みに、この繋がる先である南北に走る道ですが、鎌倉街道 中道 本道です。と、言うことは、もしかしたらこの神社の鳥居から続く道は、現代に残る貴重な鎌倉遺構かもしれません!!! (後述も)

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さて、この道を、今度は逆に東に行ってみましょう。

先ほどの古地図で分かる通り、この道は古道です。何か、古道の痕跡を探したいんですが、庚申塔や馬頭観音、地蔵など、何も無いですね。。。

加えて、古道の特徴は真っ直ぐであることなんですが、この道は真っ直ぐではありません。が、それが、実は古道の痕跡なんです。この写真を見れば分かります。

ちょっと分かりづらいですが、下ってます。
この写真は、この道を東に進みながら途中の南に別れる道を撮ったものです(実はこの道も古道で、一本点線で描かれてます一本点線は、"小径2"で徒歩でのみ通れる幅です。)。

下ってますよね。

そう、この道は尾根を忠実にトレースした結果、真っ直ぐではなくなったのです。この、尾根をトレースすること、これも古道の痕跡なんです。だって昔は歩きか馬か、下手すると荷車でしょ。平坦な方が良いわけです、多少の遠回りでも。

次の古道の痕跡は、この古そうな大きなお屋敷でしょうか。

道の両サイドに大きな旧家
古地図にも出てますよね。環七に出る直前に、この古道の両サイドに屋敷があるのが。

青で丸したところ
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そうしてこの古道は今の環七に出るわけですが、古地図見てお気付きの通り、環七も古道なんですよ。環七は今来た一本実線古道とは違い、一本点線一本実線ですね。これは一本実線の小径1よりワンランク上の、"村道"です。

更に古地図には入り切れてませんが、この環七村道は、これより少し北で、先程の鎌倉街道 中道 本道に接続します。つまりこの環七村道は、鎌倉街道 中道 支道 環七ルートだと、こういうわけ(私説)です。

と、いうことは、今来た一本実線古道は、鎌倉街道 中道の本道と支道とを結ぶ連絡路ということで、やっぱり!!! この一本実線古道も、神社鳥居の先に続く土道も、鎌倉時代の遺構かもしれないということなんです!!!

いやぁ、楽しいですね。正に、時空を超えたExplorerです。

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さて、現代地図を見て気が付きました。
代田不動尊??? 恥ずかしながら、初めて気が付きました。

青丸
代田不動尊。成田山不動堂という石柱があるから、成田山から勧請したお不動さんですね。と、言うことは、團十郎によって大人気となった江戸時代でしょう。
では何故、お不動さんがここにあるのか?

これも古地図を見れば分かります。

下の方の赤マーカが代田不動尊
精度の関係でずれはあるものの、一本実線古道なわけですね、お不動さんがある道は。

代田不動尊から北に行き新代田駅を過ぎ、スタンドを左に行くと地蔵や庚申塔が集められてる祠があります。ここもそうですね。古道だから、ここにあるんです。古地図で南北の青線一本と東西の青線二本ありますが、上(北)の方の青線がその古道です。

左にあるのがお地蔵さん、左手に宝珠を持つ。右3基は庚申塔。お地蔵さんは元禄(1688~1704)の建立でした。
この古道を西に行くと南北青線古道に行くわけですが、そこにあるのがこの素敵な建物。

素敵です。
星野リゾートなどを手掛ける東利恵という建築家によるものとのこと。

ここは建物だけでなく、この一帯が素晴らしい。羽根木の森と言われ、地主の芹澤氏が14代守ってきた森だそう。古地図にもマーキングしときました。家の地図記号が赤ですよね。Remarkableな大きい家ということです。

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2018年7月22日日曜日

Inokashira Michi, an ancient road of Tokyo


This Edo era signpost is to indicate the way to "井之頭辨財天(Inokashira benzaiten)" temple.

The road from Edo downtown to "井之頭辨財天(Inokashira benzaiten)" temple was called "井之頭道(Inokashira Michi). And a lot of Edo era signposts are still remained along Inokashira Michi.

Let's go to "井之頭辨財天(Inokashira benzaiten)" temple by Edo era signposts!!!


The 2nd signpost is this. As you can see, this is a fork road. Usually Edo era signpost is placed like this.

One more thing, the left road is bigger than the right road. But look at the following map drawn in 1880's. The left road is 1 solid line which means just a "path" and the right road is 1 dotted line and 1 solid line which means "village road". So it's reverse situation, interesting.

One more, the area between the left and right road was "畑(Hatake, Vegetable field)". Look at the photo!!! Still the field!!!




This is the 3rd one. Let's take a look at the rectangular one. "右井ノ頭道(Migi Inokashira Michi)", which means "Make right to Inokashira Michi." is written. But don't follow actually because of that it was moved from the original spot.

By the way, the 1st signpost is pure signpost, but the 2nd and 3rd signposts are originally "庚申塔(Koushin Tou)". "Tou" means "Tower". Yes, very very low tower, but in Japanese, this shape, rectangular is sometimes called like that. Anyway, "Koushin" is a religion. Originally it was from China, "道教(Doukyou, Taoism)" developed in Japan. Koushin Religion is that 3 types of vermin live on a human body, this vermin report every 60 days to "天帝(Tentei, Chinese god of hosts)" evil deed of the host during sleeping, by that the host lifetime is shortened. So followers thought that "During sleeping?" OK, let's have overnight party. By this custom, Koushin Religion became popular. And Koushin Religion connected with Shinto. "申" of "庚申" is "猿", "猿" is suggestive of "猿田彦大神", a Japanese god. "猿田彦大神" is a guide in Japanese myth. That's why "庚申塔" combines signpost function and is placed at junction.


This 4th one is also ”庚申塔”, but combines "題目塔(Daimoku Tou)". "題目塔" is a tower of "日蓮宗", a sect of Japanese Buddhism.


This is not a signpost. But let me introduce. Focus on the left one describing "道供養之塔(Michi Kuyou no Tou)". This is interesting, kind of funny, for even present Japanese people. "道供養之塔(Michi Kuyou no Tou)" means that holding a memorial service for roads. Because roads are always trodden on.

Do you know these stories?


  1. Ichiro Suzuki who is a top pf top major league baseball player has the habit of cleaning up his baseball goods everyday. Of course he can employ somebody.
  2. Russia World Cup Football, there are 2 stories. No. 1  is that Japanese supporters clean up their stadium after the game. No. 2 is that Japan National Team members also clean up their locker room.
I think that the origin of these "道供養之塔(Michi Kuyou no Tou)" and 2 stories is same. Japanese people are awed by tools for work.



Finally arrived at "井之頭辨財天(Inokashira benzaiten)" temple by Edo era signposts.

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Just 10 km short trip from my house, but there are many interesting things in this trip.


  1. Many Edo era signposts remain and by that even the present era, can reach to objective place. That means not so many changes between Edo era and the present era about roads.
  2. The image of the present Japanese people is that very serious, don't make merry. But ancient Japanese people were not, rather party people.
  3. Japanese people have accepted 道教(Doukyou, Taoism) and Buddhism and then combined and mixed with Shinto. The reason why Japanese people can do such things is feeling of awe. Japanese people are awed by many types of things even tools, furthermore foreign country religion.

2018年7月18日水曜日

武相国境道、その5, 別所の石棒と公田のアラハバキ

武相国境道シリーズ。第一弾は草戸峠から町田駅まで。第二弾は寄り道シリーズで武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)に沿って展開する産鉄地名、第三弾も寄り道シリーズで鎌倉街道沿いの産鉄地名、第四弾も寄り道シリーズで鶴見川水系に沿って展開する産鉄地名を巡りました。

前回の記事でも説明しましたが、産鉄地名は、武相国境、郡境、古道沿いというよりは、(ある意味)"ただ単に"鶴見川水系沿いに展開しているということが分かりましたので、今回はそういった寄り道はせず武相国境を行きます。



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今回は武相国境道と大山道との接続点からスタートです。東名を潜り、旧上瀬谷通信施設エリアに入ろうとしたのですが、当初予定していた所はロープが張られており入れず、予備として考えていた他2箇所も入れずで大きく迂回、ようやく、エリアに入れましたと思ったら、ここ、想像を超えるだだっ広さ!、何も無さ!!、で、こんな所、東京のすぐ隣にまだあったのか!!!、と、本当にビックリしました。

50mmレンズでは広大さが今一つ伝わってないですね。。。

上瀬谷通信施設から瀬谷市民の森に入り往時のままの姿を残す武相国境道を楽しみ、

美しいです。


街に出、三ツ境を過ぎ、ズンズンと漕いでいきます。にしても尾根走りは気持ちが良いです。思っていたよりも早く万騎ヶ原のこども自然公園に着きました。ここにも往時のままの姿を残す武相国境道があります。

似たようなアングルになってしまいましたが

武相境道の説明版

が、ゴルフ場で道は遮断されています。大きく迂回し、横浜新道を越え、境木に到着です。ここは気持ち良いですね。尾根だから見晴らしも良いしモニュメントもあり非常にキレイにされていて。

きれいな所でした。

江戸期東海道の権太坂には行かず、その少し先を右に折れ南下します。現在の国道1号線を過ぎ、あっと言う間に別所に到着です。で、ここが今回のハイライトでした。

別所の古地図。北の道で別所に入り、南の道で武相国境道に復帰しました。南の道は鎌倉街道下の道です。

寄り道して良かった。

写真は拝殿の脇にある石碑等が寄せられたところなんですが、右から二番目に注目してください。石棒が祭られています。

別所という地名、鎌倉街道を境に隣町が最(塞)戸、そこに白山神社、と、揃いに揃っています。で、石棒でした。

更に、その先の鍛冶ヶ谷には、アラハバキ神がご鎮座です。

こちらは丸石でしょうか。にしても雰囲気あり過ぎです。

と、鉄分の多い旅でした。

2018年7月15日日曜日

六浦ルート、三浦半島の古代東海道、古代東海道

前回の続きです。

いちいちlink先参照するの面倒でしょうから今号にも地図を。


前回言いましたが、赤ルートが断然、大化の改新から771年までの間の古代東海道だと思うんですが、まずは青ルートを行きます。理由は単純、赤ルートは名越切通があって、web上の写真を見ると、道幅が狭く、どうも、薮と蚊の猛攻に耐えられそうもなかったからです。一方、青ルートは、朝比奈切通は山道ですが、道幅が広く、少なくとも藪漕ぎは不要と推定され、選んだのです。

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藤沢まで輪行。藤沢から鎌倉郡衙までは赤ルートで行きます。

鎌倉郡衙までの赤ルートを俯瞰すると、腰越と長谷に青マーカー(奈良平安期寺社)が集中しているのが分かります。頼朝鎌倉入りの前から、腰越と長谷はそれなりの集落だったことが分かります。

まずは腰越です。たくさん寺社があるんですが、下記2ヶ所に立ち寄りました。

片瀬諏訪神社下社、ナント!!! 養老七年(723年)創建の古社です。本社同様、上下両社有ります。本社以外では珍しいそうです。
こちらは上社、距離は離れていないんですが、上社は山の上にあります。



江ノ電と共に小動で海っぺりに出る手前には義経腰越状で有名な満福寺があります。

744年開山

いやぁ、久し振りに海に来ましたが、やっぱり良いですね。チャリにボード積んで海に向かう人やウェットや水着でボード持って街歩いている人見ると、自分が波乗りしていた頃を思い出します。スローな感じが良いですね。

で、地図だけを見ていた時は、この鎌倉郡衙までの赤ルート、海っぺり過ぎて津波や台風時の高潮なんかに耐えられないんじゃないか、だから紫ルート(大仏坂切り通し)の方が正しいんじゃないか、と、思ってましたが、実走してみると嘗ての古代東海道、今のR134は、海レベルから十分高さがありますね。やはり、奈良平安期の寺社の分布を見てみても、正式ルートは赤ルートで、紫ルートは災害時の緊急ルートだったのではないか、そう思いました。

かの有名な、鎌倉高校前のビーチ。いやぁ、に、しても、波乗り再開したくなったな。

稲村ケ崎で海に別れを告げ、極楽寺を抜け、長谷に向かいます。平安時代後期創建の御霊神社参道との辻には創業300年の力餅家さんがあります。

権五郎力餅を頂きました。

次に立ち寄ったのは鎌倉最古の古社、甘縄神明宮です。

ナント!!! 710年創建

長谷を抜けたら六地蔵で左折、鎌倉郡衙エリアに入ります。
鎌倉郡衙跡を意識したのか、それにしてもいつ見ても立派な、御成小学校です。

この北隣が鎌倉市役所。1300年前の郡衙と同じ場所に市役所が建つなんて。

そして今は誰も振り返りませんが、坂上田村麻呂が801年に創建した巽神社です。

今は地味な感じ

さて、三連休で観光客がごったかえす鶴岡八幡宮を抜け、杉本寺エリアに行きます。

相変わらず苔の石段が美しい、734年開山の杉本寺

その先、十二所からはいよいよ朝比奈切り通し、武相国境越えです。チャリをで行こうと思ってました。Web上の記事でもチャリで行っている方たちも見えましたし。が、行ってみると、入口にバイクとチャリ両方ダメとの看板が。仕方無く、チャリを置き、徒歩で峠に向かいます。

朝比奈峠の切り通し。峠の向こうは武蔵国。に、しても、結構な高さ、切り通してますね。切り通したのが泰時の時代(1224~1242)ですから、その前はとてもじゃないけど船は曳けませんね。また、川もかなり細いです。

峠からは折り返し、チャリに戻り現代の金沢街道を峠越えです。きつかった・・・35度超えの中の峠越えは。

武蔵国に入ってからは、あまり見るものないんですが、これが青ルートの古代東海道の可能性の根拠である、931年創建の雷神社です。

雷神社

でもこの雷神社、よく見ると武相国境を超えた所にあるんですね。

歴史的農業環境閲覧システムより。分かりにくいですが、画面左下にある、3つに分かれている薄い青線が武相国境なんですが、左上から来て、そのまま素直に右下に消えていくのではなくて、右上、雷神社(青マーカー)の方に来るのが武相国境です。右下に消えていくのは三浦半島縦断尾根で、相模湾と東京湾の分水嶺です。

そして終点、夕照橋です。

夕照橋

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まず、鎌倉をこんなにじっくりと走ったのは初めてだったので、35度を超える猛暑でしたが楽しめました。

で、青ルートが古代東海道かどうかと言えば、アリなんじゃないかと思いました。泰時の時に切り通したわけですが、その前から道自体はあって、より、物資を運び易くする為に切り通したんだと思います。道が無いところに、急に切り通しを作り、切り通しが出来たからそこを通す道を作った、というのは無理があるような。

青ルートも峠近くまで川なので、地図だけ見てた時は赤ルート同様、船越だったのかなと思ってましたが、実際行ってみると、既述のように、難しそうでした。

次は緑ルートの予定です。

では