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2021年5月9日日曜日

ブログ、引っ越しました。

ブログ、引っ越しました。

というか、実は2つ前のブログに戻ったんですが。

URLは以下となります。

引き続きのご訪問お願いいたします。

参考までに、歴代のブログURLを以下に:

2020年8月16日日曜日

世田谷の氷川様

大蔵(小田急小田原線祖師ヶ谷大蔵駅の、"大蔵" です。)出身で幕府の書物奉行にもなった石井至穀が書いた、"大蔵村旧事項" によると、宇奈根に大己貴尊(一の宮), 大蔵に素戔嗚尊(二の宮), 北見(喜多見)に奇稲田姫(三の宮), 石井戸大神宮に手摩乳(四の宮), 岩戸八幡(狛江市)に脚摩乳(五の宮)が勧請された、とあります。

一の宮の宇奈根氷川神社。大蔵村旧事項に拠れば、大己貴尊が祀られている。但し、神社側では素戔嗚尊。

これってほぼ完璧な出雲の神様のラインナップですね。

まぁ、氷川神社なんで当たり前と言えば当たり前なんですが。

因みに、脚魔乳が父、手魔乳が母、その娘が寄稲田姫、寄稲田姫を妻としたのが素戔嗚尊で、ヤマタノオロチの神話の登場人物達です。大己貴尊は、素戔嗚尊の嫡男で、出雲大社に祀られています。

二の宮の大蔵氷川神社。こちらは神社側も素戔嗚尊。

氷川神社はほぼ荒川水系のみに分布している神社です。

それが何故、世田谷の多摩川沿いに?, それが興味を引いたのでした。

三の宮の喜多見氷川神社、大蔵村旧事項では奇稲田姫です。神社側は素戔嗚尊と奇稲田姫です。

と、言いながら、実は、多摩川沿いにもう1つ、氷川神社があります。

奥多摩の奥氷川神社です(実走無し)。

奥氷川神社は、奥多摩町史に拠れば、

"景行天皇の御代、日本武尊東国平定の折、素戔嗚尊、大己貴命が陣中を守護され、これによって祀られたのを起源とする。
貞観二年(860), 簸川修理大輔土師行基が再興して社号を奥氷川大明神とする。
嘉応三年(1171), 相殿として建御名方命を祀る。
貞治三年(1363), 細川頼春の家人、村野武清、祭祀を起こしその裔相継ぎ奉仕して近代に及ぶ。"

また、奥氷川神社明細帳に拠れば、

"武蔵國、氷川ノ社大小数十社アリト雖トモ就中足立郡大宮鎮座一ノ宮氷川神社ニ対シ入間郡三ケ島村長(中)宮ヲ中氷川神社ト称シ当社ヲ奥氷川神社ト称ス"

と、由緒正しき古社大社です。

四の宮の岩戸八幡神社です。

一方、宇奈根、大蔵、喜多見の氷川神社の伝承に、

"鎌倉時代に多摩川の上流から龍ヶ渕(竜王淵)に三人の兄弟が流れ着き、その三人が宇奈根、喜多見、大蔵の氷川神社に祀られた。"

が、あるので、どうやら、世田谷の多摩川沿いの氷川様は、奥多摩の奥氷川神社が起源のようです。

四の宮の石井戸稲荷神社の旧社地です。

いやしかし、奥多摩町史をよく見てみれば、どんでん返しの説明もありました。

"牟邪志(後の武蔵)最初の国造は出雲臣伊佐知直ですが考証によれば、この出雲臣は当初多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見、ここへ祖神の氷川神を勧請したのが武蔵に数多い氷川神社の起源で、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国街を府中に移して氷川神を中氷川へ、さらに大宮へ移したのだろうといわれるのです。"

そうなんです。出雲族は、最初、宇奈根、大蔵、喜多見の今氷川三明神がある辺りに進出していたようなんです。

もしかしたら、
  1. 宇奈根に最初の氷川神社創建
  2. 奥氷川神社創建
  3. 中氷川神社創建
  4. 大宮氷川神社創建
かも、しれません。だとしたらスゴイですね。

五の宮の岩戸八幡神社です。脚魔乳を祀ってます。神社側は応神天皇です。

以上です。

2020年6月7日日曜日

武蔵野

"昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。"

今の武蔵野 国木田独歩 1898年

1898年に国木田独歩が、"今の武蔵野"で描いた武蔵野の美は、当時は林でしたが、嘗ては、一面の萱(茅、ススキなど)の原でした。

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東は五日市街道が神明通りと交差する地点から、西は、五日市街道が千川上水と交差する地点まで、五日市街道の周囲に広がるエリアは、嘗て、江戸幕府御用達の茅刈場で、武蔵野御札茅場千町野と呼ばれていました。

そうです。

江戸時代のある時点まで、この辺りは、嘗ての武蔵野の美を象徴するエリアだったのです。

迅速測図を見てみましょう。


このエリアは、茅場千町野だったわけですが、迅速測図は明治13~19年作成ですから、
  • 1657年に明暦の大火がありましたが、延焼の一つの原因が茅葺屋根だったということで、茅葺屋根が禁止となり、茅刈場が不要になった。
  • 延焼を防止する目的で、火除地を設けることとなり、そのエリアにいた住民を移住させる必要が生じた。
  • 1653年に玉川上水が敷設されていた。
と、言うことが重なった結果、茅刈場を廃止し、火除地となり移住の必要が出た住民を移住させ、次々と、新田として開発されていった後の姿となります。

ある時点とは1657年の明暦の大火でした。

江戸幕府御用達茅刈場だから人家も無いし、地形的にも、迅速測図を見て分かる通り、善福寺池・善福寺川と、井の頭池・神田川に挟まれた台地で、起伏も無く真っ平らですから、道は自由に引けたんですね。

だから、五日市街道は本当に直線ですし、五日市街道と直角に交差する道~地割~も、直線です。

真っ直ぐな五日市街道、遠くまで見通せます。家康江戸入府時、荒廃していた江戸城再建の為、漆喰の材料である石灰は青梅から青梅街道で、石材は五日市から五日市街道で運びました。だから五日市街道は江戸初期に成立したものと思われます。青梅街道は1603年です、ほぼ同時期でしょう。

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五日市街道が出来てから50年後の1653年に玉川上水が出来ます。

そして、1657年に明暦の大火が起きます。

武蔵国豊島郡関村の名主、井口八郎右衛門は、武蔵野御札茅場千町野の野銭を徴収し代官に納める野守でした。

が、既述のように、明暦の大火によって武蔵野御札茅場千町野が廃止となり、言ってみれば、仕事が無くなった、収入源が1つ絶たれたわけですね。

そこで井口八郎右衛門は、900両の上納金をもって武蔵野御札茅場千町野の開発をしたわけです。

その井口八郎右衛門が創建したのがこの大宮前春日神社です。

恐らく地元関村にあったんでしょう。入植時に遷座したものと思われます。

大宮前春日神社

地割について、幅2間ですから3.6mの五日市街道の両サイドに60戸分地割しました。

地割の間口は20間ですから36m, 奥行は全部で250間ですから450mという細長い短冊型。

配分も決まっていて、まず家屋が5畝10歩ですから15m弱、次に、上畑、中畑、下畑という畑地で、最後に林でした。

下記写真は大宮前春日神社の少し西の、五日市街道から正に10数メートル北に入った所に残っている畑です。1658年当時の痕跡ですね。

今尚残る畑
迅速測図での大宮前新田、真ん中やや左上に大きく、"大宮前新田"の地名が記載されています。ど真ん中の青点が春日神社、地図にも説明記載がありますね。赤線が五日市街道で街道沿いに家があるのが分かります。この幅が20間ということです。地割は上下の紫線まであります。上の畑の写真は春日神社から西に2つ目の点線辺りかと思います。
現在の空中写真です。黄色点が撮影地。撮影地の左と右2つの地割は五日市街道から15mの家屋、その次に畑があるのが分かります。流石に江戸時代当時のままとはいかず、途中から畑が売られたんでしょう、一般の家々が並んでますし、林も無くなってます。

五日市街道を西へ進むと、西高井戸松庵稲荷神社があります。

西高井戸松庵稲荷神社、ピントがチャリに合っちゃいました。
迅速測図、明治13~19年当時ということになります。

迅速測図を見て下さい。松庵村という文字の直ぐ下に、"稲荷社"という文字が見えますね。で、五日市街道を挟んで直ぐの所にも、"稲荷社"とあります。

五日市街道の北が松庵村の鎮守のお稲荷さんで、南が中高井戸村の鎮守のお稲荷さんだったんですが、昭和9年に中高井戸村の鎮守のお稲荷さんが松庵村鎮守のお稲荷さんに合祀され今の形となっています。

迅速測図を見るとその様子が分かりますね。

松庵村は1658~1660年に、松庵という医者が開いたと伝えられています。開村の背景は不明ですが、時期からして、大宮前新田同様、明暦の大火、玉川上水が関連しているものと思われます。

中高井戸村は、一説によると、玉川上水の為、移住させられた高井戸の住民により開かれと言われています。

水は高い所から低い所に流れますから、上水は、標高が高い所から少しだけ低い所を選んで、それを繰り返し開削していきますので、移住させられる人たちもいたんだと思います。

更に西に進み、緊急事態宣言解除で賑わってしまっている吉祥寺も過ぎて、西窪稲荷神社を訪れます。

西窪稲荷神社

1657年の明暦の大火で、時の将軍家綱から移住を命じられた芝西窪城山町の住民が、地元の氏神様だったお稲荷さんも遷座しここに祀られています。

少し西に行った所には、関前八幡神社があります。

関前八幡神社、氏子の皆さんが境内を清掃中でした。

ここは明暦の大火から少し間を置いた1678年に創建されています。

関前村は、北にある千川上水を越えた先に武蔵関公園がありますが、そこら辺りに関村があり、そこの住民が進出し新田開発した村となります。

これまでご紹介した大宮前新田、中高井戸村、松庵村、西窪村は、明暦の大火の直後に入植、開発されていましたが、ここ関前村はその凡そ20年後。更に、明暦の大火の被害に遭わなかった練馬の人によって開発されました。

と、言うことは、新田開発が上手くいっていたということなのではないでしょうか。だから、俺達も、ということで、まだ空いていたこのエリアの開発に名乗りを上げたのだと想像します。

ん?!

関村と言えば大宮前新田を開発したのも関村名主井口八郎右衛門でしたね。

大宮前新田開発の成功により、2匹目の泥鰌ということでしょうか。

迅速測図における関村と関前村の位置関係、黄色ポイントしてます。

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さて、国木田独歩が言う武蔵野の美、武蔵野御札茅場千町野の開発の歴史を見てきたわけですが、もう一度、迅速測図を見てみましょう。

武蔵野御札茅場千町野

マーキングしちゃったんですけど、武蔵野御札茅場千町野だったから人家は無いし、地形的にもほぼフラットだから道は自由に真っ直ぐに引ける・・・と言っていたのに、突然の斜め道ですね。

これは何なのかと言うと、こういうことなんだと思います。

3八幡と井之頭弁財天

  • 井之頭弁財天、平安時代の天慶年間(938~947年)に、関東源氏の祖、源経基が創建
  • 武蔵野八幡宮、延暦8年(789年), 坂上田村麻呂が奥州征伐に向かう際、この地で兵馬が病気となり、進軍できなくなった。そこで坂上田村麻呂は、持っていた宇佐八幡宮の御分霊を井の頭池北の丘陵地に安置、祈願したところ、たちまち兵馬は回復した。坂上田村麻呂は、奥州征伐凱旋の途中、この地に立ち寄り、社を建立した。
  • 荻窪八幡神社、寛平年間(889~898年)に創祀されたものと伝えられ、永承6年(1051年)に、源頼義奥州東征の際、戦捷を祈願、康平5年(1062年), 凱旋時に社を修めた。
  • 井草八幡宮、創建当時、春日社だったが、源頼朝奥州征伐(1189年)の際、戦勝祈願をし、以来八幡宮を奉斎するようになった。
ということで、この斜め道は、奈良時代にまで遡れる古道で、奥州に向かう道だということが分かります。

(東北人としては、こうして改めて何度も征伐されたことを思い出させられ、複雑ですが。)

武蔵野の美、江戸時代に武蔵野御札茅場千町野と呼ばれた一面の茅(ススキ)の原は、しかし、一筋の奥州古道だけは、存在していたということになります。

想像してみて下さい。

一面のススキの原に、騎馬武者が進んでいくのを。

井之頭弁財天
武蔵野八幡宮
荻窪八幡神社
井草八幡宮

因みに、明暦の大火と、実は翌年には吉祥寺火事もあったんですが、これによって、更にその翌年、吉祥寺門前の住民には、幕府御用の茅刈り場であった札野が替え地として与えられ、移住を命じられました。これが今の吉祥寺村です。

ですから吉祥寺村も、大宮前新田、中高井戸村、松庵村、西窪村、関前村と同じく、明暦の大火キッカケで開発されたんですが、違いは、神社は持ってくる必要が無かったという点ですね、武蔵野八幡宮という立派なものがありましたから。

武蔵野八幡宮の境内社の覆殿の扉の彫刻

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帰り道、連雀に寄り道しました。連雀も同じような成り立ちです。

1657年の明暦の大火によって火除地とされた神田連雀町の住民25人は、代替地としてここ茅場千町野を指定され、新田開発しました。村の名は元の連雀としました。

少し経った1664年、八幡神社を遷座しました。それが今の下連雀鎮守、八幡大神社です。

八幡大神社

上連雀は、ナント!!, 大宮前新田、関前村を開発した井口家によって新田開発され、鎮守の上連雀神明社は、1672年に創建されています。

上連雀神明

井口家は新田開発のプロ集団だったんですね。

2020年5月10日日曜日

多摩川における後北条氏水軍の痕跡

田園調布八幡神社に行ってきました。

田園調布八幡神社

境内掲示による由緒です。

"創建
 田園調布八幡神社の創建は鎌倉時代の建長年間(西暦1249〜1256)と伝えられる。この時代、鎌倉幕府は執権の北条氏が実権を握り、国内基盤固めを行っていた。各地で武士達はもとより村人達も幕府に忠誠を尽くす意味もあり、源氏の氏神を祀る八幡信仰が盛んで、多くの八幡神社が建てられた。
 当時、この村の西側、現在の雙葉学園南側の盆地は篭谷戸(ろうやと…今もそう呼ぶ年配者もいる)と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔々と打ち寄せる自然の良港であり、物資を積んだ舟が盛んに出入りしていた。また、この村の高台部分には東より西へ貫いて鎌倉街道が通り、篭谷戸の港に接続していた。港を中心としてこの一体には多くの鎌倉武士が駐屯し、鎌倉街道の要衝の地となっていた。そして、この八幡神社の地は港の入口に突き出した台地で、舟の出入りを監視できる重要な場所であった。鎌倉武士はその重要な場所に祠を建て、八幡神社を勧請した。以来、この八幡神社の地は聖地となり、人々に崇められてきた。

中興
 天正十八年(西暦1590)小田原北条氏滅亡後、八王子城主、北条氏照の旧臣、落合某がこの村に庵を結び、主家の冥福を祈った。そして、寛永年間(西暦1624〜1644)落合某の孫、落合弥左衛門らによりこの聖地に新たな社殿が創建され、ご神体が祀られた。
 江戸時代、この神社は武蔵国荏原郡世田谷領上沼部村に属し、明治中期の四村合併まで村社であった。寛政四年(西暦1792)には、この村の知行主となった神谷縫之助も氏神とするなど、今日まで常にこの地域の人々の心の拠り所として崇敬されて来たのである。"

赤にした部分が非常に興味深いですね。

まず、この由緒にある地形を迅速測図と陰影図で確認してみましょう。

迅速測図、宇佐神社の直ぐ右上の神社マークは八幡塚古墳
陰影図
標準地図

確かに、田園調布八幡神社がある場所は、真っ直ぐ来ていた国分寺崖線がクイッとする頂点に位置し、田園調布八幡神社の直ぐ西側に細長い入江と、その更に西側にはやや大きな入江、更にその西側に細長い入江が確認出来ますね。

真ん中のやや広い入江は船が出入りする港で、両脇の細長い入江は船倉庫と考えるとreasonableです。

左の細長い入江には伝乗寺と宇佐八幡神社があり、1本実線の荷車道が南から北へ伸びていて、崖上の片側実線片側点線の村道、これが由緒にある鎌倉街道ですが、それに接続しています。

宇佐神社は1062年、源頼義による創建との伝承があり、伝乗寺は開山・開基詳らかならず、ですが、鎌倉期の板碑や小阿弥陀像が多数所蔵されていて、田園調布八幡神社の由緒にある創建時期と合わせて、この辺りは鎌倉期から開けていたことが推定でき、鎌倉時代、この辺りを治めていた人物が誰だか分かりませんが、ここには水運・水軍の拠点があったようです。

宇佐神社
伝乗寺

田園調布八幡神社の由緒には書かれてませんが、時代は下り、後北条氏の時代になってもこの拠点は継続して利用されていたのではないでしょうか。

田園調布八幡湊と奥澤城

この(仮称)田園調布八幡神社湊は、南北の荷車道で鎌倉街道に接続後、片側実線片側点線の村道で奥澤城に繋がってますね。

奥澤城は、後に後北条氏方となった吉良氏によって築城されました。

浄真寺仁王門
仁王門左の土塁

鎌倉街道から奥澤城までの村道の東側は、嘗て千駄丸という所で、"丸"とは城などの軍事拠点で、"駄"は馬一頭で運べる荷物の量の単位、"千"はたくさんという意味ですから、たくさんの量の荷物を保管する倉庫ということになりましょうか、が、あった所です。

(仮称)田園調布八幡神社湊で荷揚げされた荷物は、荷車道で国分寺崖線を上がり、鎌倉街道を経由して千駄丸に保管され、必要の都度、奥澤城に持ち込まれていたようです。

では、荷物はどこから来ていたのでしょうか。

勿論、吉良氏領内、後北条氏の小田原からも来ていたと思われます。複数のルートがあったと思いますが、その内の一つが泉澤寺なのではないかと思います。

泉澤寺と伝乗寺

泉澤寺は1491年に吉良氏により烏山で開山され、1549年に今の場所に移転しました。泉澤寺には周囲にお堀があり、単なる寺というよりは、吉良氏の軍事拠点としての意味合いがあったと言われています。

後北条氏支配領域、吉良氏領内から軍事的な物資がここ泉澤寺に陸送され、物資は、ここから船で多摩川を水運され(仮称)田園調布八幡神社湊に運ばれたのではないでしょうか。

伝乗寺は泉澤寺の末ですから、この為に、元あった小庵から、伝乗寺として開山したのかもしれません。

また、これは今回迅速測図を眺めていて初めて気が付いたんですが、泉澤寺から多摩川への下り口に八幡神社がありますね。

この配置は、対岸と全く同じじゃあないですか。この八幡神社が、田園調布八幡神社同様、監視機能を持っていたのかもしれません。

少し上流に行って、似たような地形が無いかと探してみると、2つありました。

今気づきましたが上野毛稲荷の入江の西側にここにも八幡さんがありますね。

2つ共、湊というよりは船溜まりレベルですが、入江入口にはしっかりと吉良氏家臣が創建・開山に関わった寺社がありますね。

上野毛稲荷神社、上野毛村の名主は田中家で、この稲荷は田中家の邸内にあったもの。田中家は、吉良氏の家臣であった田中筑後の家です。

慈眼寺、1306年、法印定音が小堂を建てたのを始まりとし、1533年、長崎四郎左衝門が、この小堂を崖上の当地に移設しました。長崎氏は後北条氏家臣です。
瀬田玉川神社、1558~1570年に、この村の下屋敷に勧請し、その後、1626年、瀧ヶ谷に長崎四郎右衛門嘉国が寄付をして遷宮しました。ここも長崎氏関連です。(zoom upして狛犬を見てください。)

この辺りも、当時、国分寺崖線まで多摩川が来ていたのか不明ですが、入江状の地形で、その入口高所に後北条氏、吉良氏家臣縁の寺社があることは確かです。

2020年5月6日水曜日

後北条氏による世田谷城陥落を契機とした江戸城防衛ライン

我が街世田谷にある世田谷城は、1530年に一度落城してるらしいんです。

世田谷城址公園(2013/3撮影)

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1524年の後北条氏江戸城奪取時、扇谷上杉氏は河越城に退却しました。

それまで、後北条氏の勢力はザックリと、本拠の小田原城から多摩川まででしたが、江戸城奪取により、多摩川から向こう、川越城より下、当時で言うと武蔵国荏原郡と豊島郡も手中に収めた格好となります。

現代地図における小田原城、江戸城、河越城の位置関係。左下が小田原城、右上が江戸城、左上が河越城。小田原城と江戸城の間に多摩川がある。

しかし、多摩郡、今の世田谷区の半分から西ですね、ここは弱かったんでしょう。

1530年、深大寺にあった深大寺城、ここは1490年の扇谷上杉定正の書状によると当時は扇谷上杉氏の城だったので、1530年もそうだったのでしょう、扇谷上杉朝興はここ深大寺城に陣取り、江戸城奪還の機会をうかがってました。一方、多摩川対岸の小沢城には北条氏康が陣取って、小沢原の戦いが勃発しました。

最終的には北条氏康が見事初陣を飾り、扇谷上杉朝興は河越城に退散するんですが、初戦は破れ、小沢城に籠城しました。

この時、扇谷上杉朝興は初戦の勝ちの勢いで最も近い世田谷城にもちょっかいを出しに行った、あるいは、吉良氏も加勢に行き、逆に追い返され、落城したのではないかと思ってます。

上図に黄色ポイントを追加。左下が小沢城、多摩川を挟んで相対するのが深大寺城、その東が世田谷城。

初戦で勝った扇谷上杉朝興は、北条氏康が籠城する小沢城を通り過ぎ、小沢原、今の金程の辺りで夜営します。

そこに、北条氏康が夜襲を仕掛けます。奇襲を仕掛けられた扇谷上杉朝興は河越城へ退散しました。その後、世田谷城は、北条氏康によって奪還されています。

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この小沢原の戦いが契機になったんだと思います。

1537年、後北条氏方江戸城主北条綱高は、深大寺城と江戸城の間に、烏山砦、牟礼砦を築きました。

上図に紫ポイントを追加しズームアップ。左上が牟礼砦、右下が烏山砦。

烏山砦

烏山砦跡、烏山神社
烏山神社境内にある碑

この碑に、"高橋一族が戦国時代にこの地に移り住み", と、あります。この高橋一族が、江戸城主北条綱高です。北条綱高は、元の名前は高橋種政、江戸城奪還の大功により北条姓と、北条氏綱の綱の字をもらい、北条綱種となり、更にその後、北条氏康の時代に北条綱高となっています。

ここ烏山砦を築いたのは弟の高橋氏高だということです。この高橋氏高も、最初の名前は種長で、江戸城攻略の大功により北条氏綱から氏の字をもらい氏種となり、更にその後、兄の北条綱高から高の字をもらい高橋氏高となりました。

弟高橋氏高は高橋姓のままですから、兄北条綱高は別格扱いで家を出て、弟高橋氏高が高橋家を継いだんでしょう。

私は当初、上記碑の高橋一族烏山移住時期は、烏山砦が出来た1537年だと思っていました。砦と言っても小さな城で、一族郎党が生活できるレベルだと思ってたんです。

でも、高橋兄弟が大活躍した江戸城奪還は1524年です。また、兄北条綱高が江戸城主になるのは1537年ですから、なんだか辻褄が合いませんね。

1524年に高橋一族が伊豆雲見から江戸城奪還に参戦し、大活躍したのにまた伊豆雲見に戻って、1537年に烏山に移住して、移住して直ぐに兄北条綱高は江戸城主となり烏山を出て行ったという感じになりますから。後北条氏が小田原に移ったのも1500年前後ですし。

諸々整理すると、以下の方が自然かと。
  1. 1500年前後、後北条氏、小田原進出
  2. その後~1524年に、高橋一族烏山に移住、この時、烏山砦とは別の城(仮称烏山城)を築く
  3. 1524年、烏山城から江戸城へ攻め入る。大功は地の利を活かし一番乗りできたから?!
  4. 1530年、小沢原の戦い、烏山城もやられたか?!
  5. 1537年、兄北条綱高、江戸城主に。この時、烏山城から出て、北条姓をもらったか?!, 烏山城には弟高橋氏高が城主として残る。
  6. 同年、兄北条綱高、世田谷城と烏山城だけでは足りん!!!, と、牟礼砦を追加
  7. 同年、弟高橋氏高も、烏山城近辺に烏山砦を追加
因みに、碑にある三十番神という聞き慣れない神様は、1日ずつかわりばんこに1柱の神様がお守りしてくださり、それが30柱あるわけですから、丸々一月守ってくださるという神様で、日蓮宗で特に信仰されました。

北条綱高の末の弟は目黒碑文谷の法華寺(今の天台宗円融寺)に出家し、日栄という僧になりました。その日栄が開いた牟礼にあるお寺が高橋家菩提寺の真福寺です。

高橋家は日蓮宗に深い関係があったということが、碑の一文から分かります。(醍醐味なんですよね、こういう、んっ?!, と思ったことを調べて繋がっていくという体験が)

真福寺
円融寺(2019/4撮影)

牟礼砦

牟礼砦跡、牟礼神明社

牟礼砦は下記陰影図でも分かる通り、独立峰のようになっており、標高は64m。一方、深大寺城は50mですから、よく見えたことでしょう。

陰影図、上の紫ポイントが牟礼砦、左下の黄色ポイントが深大寺城
牟礼砦から深大寺方面の眺望

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写真は天神山城です。

右手のこんもりとした森が天神山城、西と南には仙川が天然の濠となっている

天神山城の位置ですが、下記迅速測図のようになります。

迅速測図における天神山城の位置。上の紫ポイントが牟礼砦、その右下が烏山砦、更にその右下の黄色ポイントが世田谷城で、この3つの城を結んだ紫ラインが、言わば、江戸城防衛ラインとなる。天神山城は、この江戸城防衛ラインより深大寺城側に飛び出た位置にある。

この天神山城、殆ど何も分かってないんですが、仙川を挟んで直ぐ西にある島屋敷が、中世の頃、武蔵国入間郡を本拠とする村山党金子氏の出の金子時光の居館で、1573~1592年はその孫の金子弾生が住んでいたという伝承があります。

村山党金子氏には、1546年に発行された北条氏康の判物があることから、村山党金子氏は、1546年以前のどこかの時点で、後北条氏勢力に組み敷かれたと判断できます。

じゃあこの天神山城も後北条氏の、と、考えたくなりますが、ただ、この金子時光という人は金子氏の系図に出てこないんですね。勿論、系図に載り切らない人もいるんでしょうけど。

この天神山城から甲州道中にかけては嘗て金子村でした。地名の由来はやはり武蔵国入間郡を本拠とする村山党金子氏の進出だという話があります。

確かに、この金子村の"金子"や、直ぐ東には"入間"という地名もあり、武蔵国入間郡との共通性があります。

その金子村には厳島神社があります。

厳島神社

そこで発見したのがこの三つ鱗でした。

厳島神社、手水舎
厳島神社、賽銭箱

と、言うことで、以下、私の推論です。
  1. 村山党金子氏の金子時光、武蔵国入間郡よりこの地に来る。島屋敷遺跡の出土物から、13~15世紀頃か。
  2. 島屋敷に住み、厳島神社を創建、天神山城を築く
  3. 1524年の後北条氏江戸城奪取以降、後北条氏に組み従うようになる。直ぐ近くに北条綱高・髙橋氏高兄弟も進出してきたし。
  4. 1537年の、烏山砦、牟礼砦築城時は、これらの砦の更に出丸的位置付けとなった。
これを補足する話も見つかりました。

中嶋神社

写真は天神山城と厳島神社の間にある中嶋神社ですが、風土記によれば、"弘治三年(1557)入間郡十王坊勧請す"とあります。十王坊が誰だか分かりませんでしたが、また、入間です。

また、境内にある不動堂については、風土記で、"鼻祖は富永勘解由左衛門と云しよし"とあって、この富永勘解由左衛門という人は、もしかしたら後北条氏の水軍、富永水軍の人かもしれません。

と、なると、この辺りは後北条氏勢力で万全の防衛ラインを固めた地ということになります。

青ポイントで厳島神社と中嶋神社を追加。上が中嶋神社、下が厳島神社。この2社とその直ぐ右上の天神山城があるエリアが金子氏エリア。想像すると、牟礼砦を主城に、天神山城を出丸、烏山砦は後方支援部隊、世田谷城は最後の砦と位置付け、牟礼砦から、先陣を切る隊が青ラインで天神山城経由で滝坂道の尾根を通って深大寺城に迫り、しかし、このルートだと深大寺城との間に野川支流が天然のお堀として立ちはだかるので両社睨み合いになるんですが、一方、赤ラインの人見街道、深大寺道を経由して深大寺城の背後を突く主となる隊があり、挟み撃ちする戦法だったのではないでしょうか。

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こんな、完全防備なる江戸城防衛ラインを築いたんですが、結局、この睨み合いを横目に、1537年、北条氏綱は深大寺城を迂回し、河越城を直接襲い、念願の河越城を奪取、武蔵国全体を手中に収めました。

江戸城をエサに、深大寺城と北条綱高・高橋氏高兄弟 + 吉良氏による江戸城防衛ラインで、言ってみれば東西の睨み合いをさせている隙に、南北ラインで氏綱自ら河越城を奪還したということになります。

如何でしたでしょうか。

正直もう何度も訪れているエリアですが、コロナで遠出も出来ず、新たな視点で再度アプローチしてる状況ですが、天神山城や厳島神社、中嶋神社は初めて訪れましたし、新たな発見も多くあり、マイクロツーリズム、楽しかったです。

深大寺城