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2020年11月16日月曜日

武蔵国郡境を行く、久良岐郡

前回も言いましたように、都筑郡の初回では、都筑郡の郡域を、下図のように想定したんでした。

左上から、まず南南東にグレー太線→黒線→黒線が東へ→黒線二股に分かれるもそのまま東へ→黒線海へここは帷子川河口。次に東へピンク太線→南の黒線→紫線→ピンク太線→黒線北→短いピンク太線南へ→黒線東南東→短くピンク太線→紫線→一瞬黒線→紫線で海へここは鶴見川河口。

早渕川~鶴見川のラインと赤線のすぐ北にあり平行している黒線に囲まれたエリアが麻生郷で、忌部氏による麻栽培開発と杉山神社の関係、都築郡の中心エリア、そういう話をしました。

そして前回、ポッカリと空いてしまう都筑郡中心エリアの南西部について、立野牧の痕跡が残る立野郷 = 小山田と、八朔郷の西八朔杉山神社をexploreしました。

そこで今回は、ポッカリと空いた麻生郷の南東部をexploreします。

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少し調べてみました。

都筑郡郡域南東部をzoom up

黄マーカに注目してください。右上が寺尾、その少し左上、青マーカと重なってしまっていて分かりづらいんですがそこが諸岡(師岡), 左下黄マーカが星川で、これらはどうやら嘗て久良岐郡だったようなんです。
  • 小田原衆所領役帳(1520~1555年)に、"諏訪三河守、二百貫文、久良岐郡寺尾"
  • 和名類聚抄(931~938)に、久良郡八ヶ郷として、"諸岡郷" の記載アリ
  • 和名類聚抄(931~938)に、久良郡八ヶ郷として、"星川郷" の記載アリ
少し調べれば分かることを、橘樹郡は多摩川水系、都筑郡は鶴見川水系という推論の確立に興奮し、手を抜いてしまったんですね。


そうして改めて迅速測図を地形視点で見てみると、まず北西と北東を鶴見川に囲まれた台地、寺尾、諸岡(師岡)がある地域ですね、ここは久良岐郡だと。

そのまま黒線(これは鶴見川)を西に行くと、ピンク太線が2つありますが、これは帷子川と鶴見川の分水嶺なんですね。

都筑郡初回も言ったように、鶴見川は都築郡の川だというなら、このピンク太線より南の帷子川水系エリアは久良岐郡だと、帷子川は久良岐郡の川なんだと、そう言うとスッキリするんですが、このエリアにある赤マーカ、ここは今の二俣川なんですが、和名類聚抄に記載がある幡屋郷で都筑郡なんですね。

と、なると、どこかで線引きしなければならないんですが、逆に、何かの理由で線引きしたものが、迅速測図における橘樹郡と都築郡の郡境ということなんでしょうか?

いやぁ、でもそうすると星川村(下星川村)は久良岐郡で上星川村は都筑郡になってしまうんですよね。これは違和感です・・・

また、榛谷御厨も気になる所です。その領域は、凡そ、保土ヶ谷区と旭区で、これは、帷子川水系とビタッと重なります。

いやぁ、どっちなんでしょうか。。。

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タイトルを久良岐郡としていますが、久良岐郡はその殆どを相模国と接していて、だから郡境は武相国境ということになって、それは既に完走してますから、何れにせよ、今回のスコープは、上記の、北西と北東を鶴見川に囲まれた台地、寺尾、諸岡(師岡)がある地域ですね、ここと、帷子川水系エリアに絞りたいと思います。

町田まで輪行。町田から、武相国境道 = 町田街道を南東へ。東名の横浜町田インターを過ぎて直ぐ左折し、鶴見川と帷子川の分水嶺尾根古道に入ります。

ここが良かった。癒やされました。

畑の中を分水嶺尾根古道が通ります。

尾根から盆地に降ります。

先程の尾根を降りるとこの盆地、撮影場所は更に1つ先の尾根から。ここの畑は迅速測図にも見られるので、少なくともその時代から続いているのでしょう。横浜ですよ!!!!!

三保市民の森の尾根道です。自転車は押しですが、通れます。

で、エリアに到着です。川井地区ですね。

正直言って、これと言った律令時代の痕跡手がかりは無さそうですが、まずはこちらにお邪魔しました。

川井山観音院長源寺

山号からして、川井の中心だったろうことが想像されますね。

739年、あの行基による開山との伝承もあります。

印融(1435〜1519)による中興という話もあるので、少なくとも、室町には存在していたということになりますが、何れにせよ、真言宗がこの辺り、勢力を張ってたということになります。

先を行きましょう、上川井神明社です。

上川井神明社

この神社も面白いですね。

まず、創建年ですが、詳らかならずも鎌倉期には川井郷の総鎮守だったとの伝承がありますが、このエリア = 榛谷御厨で神明社ですから、神明社として創建されたなら、最も早くて神戸神明社と同じ970年頃と言うことになりますし、元々は他の神社で、榛谷御厨成立後に神明社になったのなら、これはまた違う回答になります。

ということで神明社として創建されたなら祭神は天照大御神だろうとチェックすると、ナント!!, 国常立尊じゃあないですか。

妙見など、神仏習合で祭神を国常立尊にした神社はあるようですが、最初から国常立尊を祀ってる神社なんてあるんでしょうか?

無さそうなのですね。と、いうことは、元は妙見で、榛谷御厨成立時に神明社にさせられたのかな、、、と、思いきや、更に調べたら、伊勢神道では、豊受大神と国常立尊は同一神とされているそうです!!!!

だから合ってるんですね。神明社で国常立尊はおかしくない。

上川井神明社は、神明社として創建され、だから祭神は豊受大神と同一神の国常立尊で、と、なると、最も早くて970年の創建、かもしれない。と、いうことです。

神戸神明社の伝承では、天照大御神が榛谷の地に影向し、川井、二俣川、保土ヶ谷と三遷したという内容がありますが、川井の地にあることといい、天照大御神でもなく豊受大神でもなく国常立尊が祭神だということ、何だか意味深と言うか、もしかしたらここが件の地なのかもしれませんね。

川井の古い寺社はこれくらいなので分水嶺尾根に戻りましょう。

しかし、分水嶺尾根に取り付くにはズーラシアを経由しなければならないんですが、そうだろうとは思ってましたがやはり通れません。

大きく迂回し、車に轢かれた狸などをやり過ごし、ようやく里山ガーデンの分水嶺尾根に取り付きましたが、途中、なかなか良い道もありました。

アスファルトですが幅一間の古道

分水嶺尾根から、次は二俣川です。

ここには件の本村神明社があります。

本村神明社、今日は七五三が多い

ここも上川井神明社と同じく、創建年詳らかならず、風土記に神明社とはあるが祭神無し、今の祭神は国常立尊ではなく神明社としてはノーマルな天照大御神です。ここは、川井、二俣川、保土ヶ谷と三遷した二俣川の件の神社とされています。

先を行きましょう。分水嶺尾根に戻り星川に入ります。

ここではここを訪れなければなりません。神戸神明社です。

神戸神明社、夕方のような空気感ですがまだ2時過ぎ。秋の日は釣瓶落としですね。

件の神明社、3つ目です。

ここの神社は非常に素晴らしいですね。清掃が行き届いているし、ホームページも素晴らしい。

既述のように、上川井神明社、本村神明社、神戸神明社の由緒は、970年に、天照大御神が、まず、本村神明社に来て、その後、上川井に移り、再度、本村に来るもそれは仮で、最終的に神戸に来てそこで落ち着いた、というものですが、これは勿論真実ではなく、神明社は榛谷御厨に伴うものであって、榛谷御厨は、小山田有重の寄進によるものだから、970年ではなく1150年〜の平安末期の頃となるし、本村→川井→本村→神戸というのは、榛谷御厨の範囲拡大を表しているということでしょう。

そうして今一度地図を見てみると、黒ポイントが現存する神明社(合祀されたものは基本的に反映してません。)ですが、ものの見事に今回のスコープエリアに集中していることが分かりますね。



ここでもう一つ、星川に紫マーカが集中しているのも分かると思います。

これは、


ということで何れも別当が東福寺に繋がっていく杉山神社ということになります。

都筑郡でも指摘しましたが、既にあった杉山神社を土台・道筋にして、真言宗勢力が進出・拡大を図った痕跡なのか、あるいは、真言宗勢力が拡大する為に杉山神社を次々と創建していったのか。

後者なら、せいぜい遡って、東福寺開山の1243〜47年ということになり、論社ではないということになります。

何れにせよ、この辺りは東福寺を中心として真言宗が広がっていったんだということが分かりますね。

さて、緑マーカも杉山神社なんですが、真言宗に繋がってない神社なんです。

逆に言えばこの2つの神社は、真言宗から独立している点で、論社の可能性も出てくると思いますが、星川杉山神社は、江戸名所図会で論社だと言われている杉山神社となります。

星川杉山神社、いやぁ、ここまでの登りが凄かったですね。

江戸名所図会の星川杉山神社、右上の説明に、論社との記載がある

別当は真言宗ではなく日蓮宗の法性寺と、風土記に書かれていますし、、、日蓮宗というのが引っ掛かったんで、詳しく調べてみた所、横浜市史稿に、

"往古、當寺境内に近く大日山蓮華寺と云へる眞言宗の一宇が在つた。此寺の僧某、日在の法門を聽き、深く日宗に歸依し、文祿の頃、遂に日蓮宗に改めた。元和二年、日在は今の地に一宇を創建し、開基檀那より奉納した日法上人自作の祖師尊像と、比企能員の手寫と稱する紺紙金泥の法華經一部八卷を奉安し、光榮山法性寺と號した。"

と、ありまして、追って蓮華寺について調べた所、中野に移転していることが分かりました。

中野の蓮華寺の由緒によれば、蓮華寺は池上本門寺第4世の日山聖人により、星川の地に開かれたとのこと。

日山聖人は、川越の妙昌寺を1375年に開いているので、蓮華寺も同じ頃も思われます。

でもちょっと辻褄が合いませんね。

蓮華寺が日在によって日蓮宗に改宗したのは元和2年頃ですから1616年頃、その蓮華寺は日山により開山で時期は1375年頃、もうその時は日蓮宗ですよね。

まぁでもどうなんでしょう。あまり根拠も無いですが、何となく、真言宗の蓮華寺はそれ以前からあって、1375年辺りに日山によって改宗されたということでしょうか。

と、いうことで星川杉山神社は、1375年辺りまで遡れるものの、紫マーカの杉山神社と同じく、真言宗勢力の進出・拡大に関連する杉山神社で、もしかしたら平安期より後、室町期の創建かもしれませんね。

時期的に符合するので、もしかしたら、蓮華寺も東福寺の末だったかもしれません。

1200〜1300年頃の、東福寺を中心とし、杉山神社をそのルートとした真言宗勢力の拡大が見えてきました。

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如何でしたでしょうか。

都筑郡の初回2回目は、郡成立時、律令時代の痕跡をexplore出来た感じがしますが、今回は久良岐郡成立時の痕跡は見つけられませんでした。が、その少し後の時代、平安後期から鎌倉期の、榛谷御厨の痕跡は大いに発見できました。

サイクリングとしても楽しかったです。雰囲気のある古道が多かったですし、尾根で見晴らしも良かったし。up & downも多く鍛えられました。

それにしても横浜って広いですね。

是非

2020年11月8日日曜日

武蔵国郡境を行く、都筑郡の続き

前回都筑郡では、都筑郡の郡域を、下図のように、今思えばやや強引に、想定しました。

左上から、まず南南東にグレー太線→黒線→黒線が東へ→黒線二股に分かれるもそのまま東へ→黒線海へここは帷子川河口。次に東へピンク太線→南の黒線→紫線→ピンク太線→黒線北→短いピンク太線南へ→黒線東南東→短くピンク太線→紫線→一瞬黒線→紫線で海へここは鶴見川河口。

そして、橘樹郡が多摩川の郡であるように、都筑郡は鶴見川の郡とし、この都筑郡郡域の中にある赤線、これは、ほぼ、早渕川~鶴見川のラインなんですが、この赤線とその赤線とほぼ並行している赤線のすぐ北にある黒線(これは都筑郡と橘樹郡の郡境で、鶴見川と多摩川の分水嶺), この両線に囲まれたエリアが麻生郷(荘、庄)で、ここが、中央氏族としての忌部氏、部民阿波忌部氏が海路進出し、麻栽培の開発をして、大和王権に麻布を献上していた、都築郡の中心エリアだという話をしました。

しかし、そうなると、都筑郡中心エリアの南西と南東が、中心エリアより大きく、放置されてしまいます。

素直に若干の違和感というか、ここはどんなエリアなんだ?, ここにもstoryがあるだろう、という興味が、探求心が出てきてしまいました。

と、言うことで今回は、都筑郡の続きとして、麻生郷の南西側をexploreしたいと思います。

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都筑郡郡域の一番左上部分、そこは、立野郷と推定しました。

立野郷の "立野" は、立野御牧の立野で、この辺り = 小山田地区は、馬に関する地名が多く残り、

小山田公園内の野球場とサッカー場があるこの窪地は、"馬場窪"。この地形は確かに馬場にはうってつけですね。

こちらは、"馬駆"。牧場というと大草原を思い浮かべますが、こうした谷戸も、谷戸入口に冊をしてしまえば、残りの三方は尾根に囲まれてますから、好適地でした。ここ馬駆はご覧の通り谷戸の詰め部がこの通りの断崖絶壁で、正に、好適地でしょう。

また、この辺りを領していた小山田有重は、別当と呼ばれていました。御牧の管理者も別当と言います。

小山田有重の初見は1155年の大蔵合戦ですから、立野牧成立が909年なので、時期がズレますが、立野牧を御牧のまま、あるいは私牧として引き継いだのが小山田氏だとすれば解消されます。

嘗ての小山田城、大泉寺

小山田神社、小山田有重の妻を祀る。

テーマには関係ありませんが、この辺りは東京都内ですがホントに癒やしエリアです。

稲刈り後、干してました。

そしてこれは知る人ぞ知る、なんですが、大泉寺前のバス停です。

何ともレトロなバス停、現役です。

しかし残念なことにこのバス停、exploreした翌日に取り壊しになったようです。

画面やや右に取り壊しの張り紙が。それと、バス停内の広告の電話番号に注目して頂くと分かりますが、相当に古いですよ。

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癒やしの小山田を後にし、恩田川と鶴見川の分水嶺を行きながら、恩田川沿いの杉山神社を訪ねましょう。

木もれ陽の七国峠

薬師公園、ここでランチ

前回で、杉山神社とは?, ということについても一定の解を得たように思ってます。

杉山神社は、中央氏族としての忌部氏と阿波忌部氏の、麻栽培開発の為の早渕川・鶴見川遡上進出に伴うもので、この地域を麻生郷と言う、そういう内容でした。

ですから早渕川と鶴見川沿い以外の杉山神社は、、、

逆に言えばそういう感じなんですが、でも、恩田川沿いにも杉山神社はあります。

成瀬杉山神社

この成瀬の杉山神社は、鶴見川水系最上流とのこと。

いやいや実はここまでが杉山神社の勢力圏、忌部氏の勢力圏、麻生郷はここまでだったんだ、、、ということなのかと言うと、そうではないように思うんです。

この成瀬杉山神社、風土記では、図師の修験寺である大蔵院持ちと記載されています。

図師の修験大蔵院はもう無いようですが、図師修験大蔵院で検索すると、小山田の白山神社や図師の熊野神社、町田駅前の熊野神社などがヒットしてきますし、小山田有重との交流もあったようです。

はい。つまり、杉山神社勢力が恩田川に沿ってここまで進出してきたというよりは、小山田勢力の範囲がここまでに及んでいた、そう考えた方が良いように思います。

恩田川と鶴見川の分水嶺は玉川学園で遮断され、つまらない道を行きます。しかも、折角登ったのに降るを繰り返す、イヤな道です。

桜台上交差点でようやく尾根道に入りますが、住宅街のやはりつまらない道でした。

246, 東名とやり過ごし、着いたのはここです。

西八朔杉山神社、両部鳥居が神仏習合の名残でしょう。すぐ隣は極楽寺(真言宗豊山派)ですし。

論社の1つです。

その根拠と、ここは本命ではないとする根拠は説明済なので省略しますが、実際に訪れてみて思ったのは修験ですね。

つまらない住宅街の尾根道からこの杉山神社がある南西斜面に降りると西光寺緑地があり、その辺りから空気がガラッと変わりまして、杉山神社まで続いています。

西光寺は真言密教の秘儀、火祭の風習が残っていますが、西光寺緑地で行うそうです。

ここは和名類聚抄の都筑郡針圻郷です。

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如何でしたでしょうか。

麻生郷の南西側、北部は立野郷で、地形や地名に立野牧の痕跡が感じられました。

南部は八朔郷で、論社杉山神社はありますが、それ以外、八朔郷とは、を感じさせる痕跡は見つかりませんでしたし、杉山神社も、後世の遺跡だと思いますから。

全く触れませんでしたが、このエリアには店屋郷(町谷)もあります。ただの交差点なので寄りませんでしたが。

次回は都筑郡の南東部をexploreしたいと思います!!

ではまた

2020年10月31日土曜日

武蔵国郡境を行く、都筑郡

橘樹郡(1, 2)の次は都筑郡です。

前回の橘樹郡では、橘樹郡と都筑郡の郡境は、多摩川水系と鶴見川水系の分水嶺だと結論付けました。

これを頭に入れながら、迅速測図が示す、迅速測図当時(1880~1886)の郡境を確認していきましょう。下記地図の黒線です。



※矢野口辺りから目線をお願いします。

同じ多摩川水系の五反田川と三沢川の分水嶺を西進して来た橘樹郡と多摩郡の郡境は、向原、金程の辺りで南下し麻生川に乗ります。

台地を下り切って津久井道の手前で、東に行くのが橘樹郡と都筑郡の郡境、西に行くのが都筑郡と多摩郡の郡境です。

都筑郡と多摩郡の郡境を見ていきます。これは、麻生川上流と、麻生川支流の古沢を流れる(仮称)古沢川、それと片平川の両川との分水嶺となります。

その後、北西進を続け、三沢川を突っ切り、横山の道(乞田川と三沢川の分水嶺、共に多摩川水系)に乗って南西進し、突如、南下して、ナント!!!三沢川を再び突っ切って、その後、布田道(多摩川と鶴見川の分水嶺尾根)に乗って北東進し、このエリア最後は、片平川と真光寺川(共に鶴見川水系)の分水嶺尾根(鎌倉街道早ノ道)に乗って南下し、津久井往還に至ります。

いやぁ、どうでしょう。

三沢川(多摩川水系)を突っ切ってるのが気になりますね。それも2回。

ここはやっぱり紫線なのではないでしょうか。

この紫線(婆々尾根)なら、三沢川は突っ切らないし、且つ、片平川も源頭を掠めません。鶴見川水系の片平川を都筑郡の内側に取り込めます。

逆に言えばそうなるように紫線をセットしたんですが、この婆々尾根は、多摩川と鶴見川の分水嶺なんですね。

こうなってくると多摩川と鶴見川の分水嶺が気になってきて、これを引いてみると、左上(鶴見川源流の泉付近)から、
  • まずは東方面では、ピンク太線よこやまの道→黒線布田道→紫線婆々尾根→ピンク太線→黒線橘樹郡多摩郡郡境→ピンク太線→黒線橘樹郡都筑郡郡境を有馬古墳まで→ピンク太線→高田村紫線→赤線南側→加瀬山で終了
  • 次に南方面、これは武相国境になりますが、グレー太線→黒線→帷子川河口で終了
となって、この、多摩川と鶴見川の分水嶺と武相国境に囲まれたエリア、つまり、鶴見川水系エリアですが、これが、オリジナルの都筑郡なのではないか、と、直感的に思ったのです。

前回の橘樹郡でも言いましたが、こうすると実にスッキリします。橘樹郡は多摩川水系、都筑郡は鶴見川水系ですから。

こう仮置きしておいて、和名類聚抄にある郷を考えてみると、
  • 余部(あまるべ), これは戸数が50に満たない郷のこと
  • 店屋(まちや), 町田市町谷原
  • 駅家(えきや), 郡衙がある荏田
  • 立野(たての), 立野牧の立野であって、町田市小山田
  • 針折(はざく), 八朔
  • 高幡(たかはた), 不明
  • 幡屋(はたや), 二俣川
となって、高幡以外は一応比定できることになります。

と、言うことで、このblogでは都筑郡は多摩川と鶴見川の分水嶺と武相国境(東京湾と相模湾の分水嶺)に囲まれた、鶴見川水系の郡、ということとしたいと思います。

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と、いうことで鶴見川の郡境が決まったんですが、困ったことがあります。

多摩川と鶴見川の分水嶺は前回実走したし、武相国境(1, 2)も実走済みですし、じゃあって言うんで迅速測図の郡境を行ってみようかと思っても、ここも散々行った所(鎌倉街道早ノ道三輪1, 三輪2, 武相国境)です。つまり、走る所が無い。

と、言うことで、武蔵国郡境を行く、が、テーマですが、今回都筑郡では、郡境は行かず、都筑郡とは?, をテーマにexplorerしたいと思います。

都筑郡とは?, を考える時、都筑郡衙は外せませんが、ここも何度も行っている(1, 2, 3, 4)・・・

と、なるともう杉山神社しかありませんね。


杉山神社は主に鶴見川水系沿いにしかない神社です。この、特定の地域にしかない、川沿い、ということでいえば、氷川神社もそうですね。

また、杉山神社は式内社ですが、特定されてません。上表は論社です。

上表を見て思うのは、
  • 殆どが、御神体がお不動さんで別当が真言宗寺院です。これは、一説によると、金沢北条氏の金沢称名寺を起点とした真言宗の勢力拡大だということで、と、なると、真言宗勢力は、杉山神社を頼りに勢力拡大を図ったということになって、鎌倉期以前から、杉山神社は都築郡の有力な勢力だったということになりそうだ、ということ。
  • 御祭神は日本武尊、あるいは五十猛命ですが、一説によると、廃仏毀釈の際、宛がわれたということで、上記真言宗との関わりからしても納得のできる話であり、と、なると、御祭神は、式内を考える際には当てにしない方が良いということ。
  • やっぱり、鶴見川沿いということを考えると、太平洋から東京湾に入り、本牧岬を越えて、大きく口を開けた(仮称)鶴見湾に入ってきた場合、鶴見川本流より、むしろ、早淵川の方が真っすぐで、船団はむしろ早淵川にスーッと入っていったのではないかということ。※下図参照
  • その早淵川沿いに論社が4つ、集中していて、その先に都筑郡衙があるということ。※下図参照

早淵川と杉山神社論社4社。鶴見川河口から来ると紫線、これが早渕川の想定旧流路ですが、そっちの方がスーッと行きそうではありませんか?

こうなってくると、伝承(上表参照)からしても、茅ヶ崎に惹かれてしまいますね。

風土記では、茅ヶ崎杉山神社に関し、

"春分ノ日、神供神酒ヲ献シ、神畑ニ麻種ヲ散ズ、神人等之ヲ勤ム 古ハ当郡麻生庄15ヶ村是ヲ勤ト言フ 7月7日梶葉供養、梶ノ葉ニ飯ヲ盛ッテ献ズ、梶トハ楮ノ事ナリ"

"立秋ノ日、高机ニ主麻ヲ奉ジ、此麻ヲ氏子受ケテ産婦ノ守トス、此日麻生庄中ヨリ六所宮ヘ新麻ヲ献ズ"

とあり、迅速測図によれば麻生は早渕川の最上流部の近くにありますが、そこが、大國魂神社へ捧げる麻を栽培する特別なエリアだったことが分かります。

また、少しエリアを広げて武蔵国の麻の栽培について、風土記では、

"天武天皇の御世の天武元年(671年), 阿波の国より神職の一族忌部氏が都筑の地に渡来、苧麻を栽培し、麻布を朝廷に献上した"

とあります。

また、阿波国忌部神社の神紋は梶の葉ですから、これで、茅ヶ崎杉山神社、麻生が、忌部氏で繋がり、茅ヶ崎杉山神社の伝承も補完されました。

ということで今回は、茅ヶ崎杉山神社を中心に、早渕川沿いの杉山神社論社を巡り、最後に麻生に寄るexplorerとしたいと思います。

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古代官道中原街道からまずは新吉田の杉山神社です。

新吉田杉山神社

由緒等は上表の通りですが、境内の説明を一部抜粋すると、

"そもそも杉山神社は安房の忌部氏によって武蔵国南部、都築郡に祭祀され、同郡の鶴見川とその支流の早淵川流域の開拓によって広く分祀されていったといされる。"

と、客観的な物言いではありますが、自身の由緒としても、忌部氏によるものであることを示唆しています。

既述のように、ここ新吉田杉山神社を論社とする根拠は、杉山神社背後旧家森家なんですね。その森家は杉山神社の直ぐ西隣にありました。

杉山神社の位置ですが、大きくは早淵川沿いということなんですが、細かく見ると、こういうことになっていそうです。

新吉田杉山神社は、早淵川の真っ正面に位置しているのではなく、早淵川の支流に少し入った所に位置していて、あたかも船のドックのようです。波風の影響をより受けないですからね。太平洋、東京湾、(仮称)鶴見湾から早淵川に入ってきた忌部氏は、船を安心して係留できる入江(支流)に拠点を設け、杉山神社を創建していったということなのかもしれません。

大棚の杉山神社に向かいましょう。

大棚中川杉山神社の旧社地

大棚中川杉山神社は、明治45年(1912)まで、旧社地にありました。だから、迅速測図(1880~1886)には残っています。

画面真ん中にピンに注目して下さい。杉山社の文字が見え、鳥居マークも見えます。新吉田杉山神社は早淵川の支流 = 入江 = ドックに位置してましたが、こちらは正々堂々、早渕川のド正面ですね。

この辺りの地名は、"杉の森" というらしく、別当の龍福寺の山号も、"大杉山" です。

新吉田の論社の根拠が、社地の地名が、"杉山" だから、というのがありましたが、だったら、こちら大棚中川の杉山神社も、地名を根拠に論社と言っても良いのでは、と思わせますね。

そして、大棚中川杉山神社のほぼ真南の岡に立地しているのが勝田杉山神社です。

勝田杉山神社

下記迅速測図にあるように、今の中原街道は、嘗ての早渕川の支流、低地を行ってますが、勝田杉山神社は、尾根上の旧道沿いに建てられてます。

新吉田杉山神社同様、早渕川支流のドックに付随して建てられたようにも見えますが、ちょっと分かりづらいんですが、鳥居の向きが北東で、中原街道に沿ってますね。新吉田のようにドックに向いてるのではなく。これは、中原街道が官道となった後に、向きを変えられたんでしょうか・・・。

真ん中やや上の青マーカが勝田杉山神社、その直ぐ東の県道45号線が今の中原街道

それでは本命の、茅ヶ崎杉山神社に向かいましょう。

茅ヶ崎杉山神社

公園内に残る尾根の徒歩道

こちらもドックですね。

画面真ん中のピンが茅ヶ崎杉山神社、分かりづらいですが、杉山社の杉の所にピンを打ってしまいました。鳥居は南面していて、その先は入江になってますね。

それでは最後、麻生に向かいましょう。早渕川を遡り、これまた古代官道だった大山道を左に折れ、一尾根越えて鶴見川に出ます。

その後、鶴見川を遡り、前に来ましたが、稲荷前古墳に寄っていきましょう。

15号墳から16号墳を望む

墳丘からの眺望、大山と富士、手前に鶴見川

その後、麻生の中心地に向かいます。

麻生の中心地、月読神社。この辺りは嘗て、"国領" という地名だった。

さて、麻生の中心地はこの辺りのようなんですが、既述の、茅ヶ崎杉山神社に関する風土記の記述にある麻生庄あるいは麻生郷は、もっと広いエリアだったようです。

早渕川沿いの、新吉田、大棚中川、勝田、茅ヶ崎の4つの杉山神社論社と都筑郡衙(以上、黄色ピン)と、1590年の秀吉による禁制に残る麻生郷9村(水色ピン)

いやあ、こうして俯瞰して見てみると、多摩川と鶴見川の分水嶺(画面左上から右下の黒線)と、早渕川から一尾根越えて鶴見川に行き鶴見川を遡るライン(その南の赤線)に囲まれたエリアが麻生郷で、海から来て早淵川に入ると、4つの論社があり、その4つの論社はほぼ同じエリアに固まっていて、遡ると都筑郡郡衙があり、古墳群もあります。

西の支流を進路に取り、この支流は奥深くまで刺さってますから、ほんの一尾根越えると鶴見川で、鶴見川に降り立ったところに稲荷前古墳があるわけです。

そこを遡ると麻生の中心地でした。更にその目の前には三輪があります。

三輪は言わずと知れた奈良の三輪の里からの移住の地です。

三輪椙山神社

そして、阿波忌部氏の親元となる中央氏族としての忌部氏の根拠地は三輪の里から10km弱の至近にあります。

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如何でしたでしょうか。

都筑郡とはどんな郡か

杉山神社を辿っていったら、何だか分かってきたような気がしています。

都筑郡とは、中央氏族としての忌部氏とその部民である阿波忌部氏の進出によって出来た郡であり、大和王権、あるいは武蔵国総社大國魂神社への麻布の献上を役割としていた郡なのではないか。

中央氏族としての忌部氏とその部民阿波忌部氏は、太平洋から東京湾に入り本牧峠を抜け、(仮称)鶴見湾に入り、中央氏族としての忌部氏は、奥の院的に鶴見川を三輪まで遡りそこを拠点とし、部民阿波忌部氏はその手前の早渕川沿いを拠点として、杉山神社を創建した。部民の更に小集団が、それぞれ、新吉田、大棚中川、勝田、茅ヶ崎の4つに担当を分担した。よって杉山神社は、4つで一体であり、延喜式はこの4つの総体に対して位を与えた。

・・・ということではないでしょうか。

などという戯言を言いたくなりました。

2020年10月24日土曜日

武蔵国郡境を行く、橘樹郡、その2, 有馬古墳~

前回の続き

先を行きましょう。

有馬古墳です。

有馬古墳、円墳

実はこの辺りから古墳ラッシュとなります。次は馬絹古墳です。

馬絹古墳、これも円墳

次は西福寺古墳です。

西福寺古墳、これも円墳です。

何故、こんなに古墳が集中してるのか。

赤線に注目してください。左下から行きます。左下の青マーカが有馬古墳です。すぐ北を流れる川は有馬川です。北東に進み次の青マーカは馬絹古墳です。直ぐ南を流れる川は矢上川です。その直ぐ右(北東)に位置するのは西福寺古墳です。南東に折り返し次のマーカが野川1号墳です。東西を深い谷(矢上川支流)に挟まれた舌状台地に位置していることが分かります。

この写真の3つの古墳は全て川を望む尾根に位置していますね。

しかも、その川は、直ぐに合流し多摩川と鶴見川が作った沖積低地に注いでいます。

古墳時代、この沖積低地は海かあるいは干潟で、これらの古墳は、海から少し入った所に築造されたんでしょう。

それも全部円墳。

前方後円墳は、大和王権そのものや大和王権と関わりが深かった勢力にのみ許された墳形ですから、円墳はローカル勢力の墳墓だということになります。

さて、もう一度、上記地形図に注目してください。

続きを行きます。赤線は二股に分かれていますが、右(南)の方に注目してください。この半島の先端まで伸びています。

先端に最も近い青マーカ、海を望む岬の先端に位置しているのは橘樹神社です。

橘樹神社

その北の等高線が最も高い位置にある青マーカが、富士見台古墳となります。

海からこの地へ来た人の目線で見ると、まず鳥居が見え、その奥の高台に富士見台古墳があるとゆう状況です。いやぁ〜何か、意図的ですね。

弟橘姫の御陵か、富士見台古墳。ここへのアプローチは激坂です!

橘樹神社の社伝は、よくあるように、日本武尊東征の際の、弟橘媛の入水伝承で、媛の御衣、御冠などがこの地に漂着し、それを祀るというものです。

古事記に、それら姫の身につけていたものを御陵に収めたという記述もあり、橘樹神社の後方高台にある富士見台古墳がその御陵だとしています。

日本武尊、弟橘姫と言えば大和王権の象徴ですね。

何故、こんなに古墳が集中してるのか。

その答えは、太平洋に大きく口を開けた多摩川と鶴見川の河口部 = (仮称)鶴見湾から、大和王権の勢力がこの地に進出してきて、半島の岬に上陸、富士見台古墳を築造し、その影響を受けたローカル勢力が、大和王権の古墳に倣い、富士見台古墳の後ろに控えるような位置に、円墳を築造した、ということなんじゃないでしょうか。
※富士見台古墳が前方後円墳だったら完璧なロジックだったんですが、円墳ですね。でも、方墳という記事も見つけました。合わせると前方後円墳ですか・・・ね。

さて、橘樹神社ですが、この神社の社名がそのまま郡名になったということですから、郡成立時には既にあったということになり、相当な古社ということにもなりますね。橘樹郡の総社でもあります。

そして同じ台地に影向寺と郡衙があります。

影向寺

郡衙跡

影向寺は、寺伝によれば、聖武天皇の勅により740年に開山で、橘樹郡の郡寺だったと言います。

総社があり郡寺があり、郡衙があるこの台地が、橘樹郡の中心地ということになります。

影向寺ですが、発掘された軒丸瓦から、その更に数十年前の7世紀後半ですから律令の前に、建立されていました。

こうなって来ると先の寿福寺や寺尾台廃寺などとの関係が気になってきます。

さて、郡境尾根に戻って先を行きましょう。

迅速測図の時代では都筑郡だった旧高田村エリアです。

橘樹郡は郡成立当初、4つの郷からなっていたといいます。
  • 橘樹郷、影向寺一帯
  • 高田郷、横浜市港北区の高田町一帯
  • 御宅(みやけ)郷、加瀬白山古墳のある北加瀬、南加瀬一帯
  • 県守(あがたもり)郷、津田山周辺
はい、高田村は郡成立当初は橘樹郡だったんですね。

黒が迅速測図当時の郡境、紫が想定郡成立時の郡境です。高田村を橘樹郡に入れるなら、矢上川支流の松の川を取り込むこの位置になるんじゃないでしょうか。ここは矢上川と早渕川の分水嶺になります。

松の川、迅速測図の時代では橘樹郡と都筑郡に分断されている。

ここ高田村は慈覚大師円仁所縁の寺が2つある、平安期から開かれた古いエリアです。

塩谷寺、ここは上記迅速測図を見ても分かりますが、郡境尾根から凄まじい激坂を下って辿り着く、三方を囲まれたすごい空気感の場所に立地しています。稲城の妙見寺を思い出しました。

こちらは興禅寺

何故ここに円仁が?

と、思いますが、よく見るとここ高田村の直ぐ西は古代官道だった中原街道が走っています。

また、この中原街道を東京方面に少し戻ると、影向寺がある橘樹郡の核心エリアとなりますが、影向寺も円仁伝承が残る寺となります。ついでに言えば、更に東京方面に進むと目黒エリアとなり、ここも、目黒不動瀧泉寺、成就院、安養院など、円仁所縁の地ですね。

中原街道は、平安期には既に開かれメジャーだった、だから、円仁東国巡礼道に採用されたんでしょう。

先を行きましょう。

郡境はこの後南下しますが、地形図を見るとここも鶴見湾に突き刺す岬となっています。

黒線が郡境で、高田村の後は南下してますが、東を見ると岬状の地形となっています。

と、いうことで寄り道です。迅速測図を見てみれば、高田村からこの岬までは尾根道が付いています。走っても楽しそう。行ってみましょう。

迅速測図

ここに、日吉不動尊金蔵寺があり、由緒としては、円珍が清和天皇の勅により東国教化の巡礼の途中、ここに立ち寄り云々かんぬんという、どこかで聞いたことがあるような伝承です。

金蔵寺

もしかしたら、円珍と円仁を取り違えているのか、と、失礼ながら思ってしまいます。

そしてその直ぐ先にも大聖院があり、こちらは円仁開山の伝承があります。

大聖院

ここは、高田村の塩谷寺、興禅寺、その先の影向寺、能満寺を含め、濃厚な、天台宗エリアだったんですね。

先を行きましょう。

今は夢見が崎と呼ばれる嘗ての御宅郷、加瀬山は、今は、矢上川で東西に分断されていますが、往古は地続きだったそうです。

じゃあ矢上川はどう流れていたか。

私は多摩川の支流だったんじゃないかと思ってます。だから、橘樹郡の郡境は、矢上川と鶴見川水系早渕川の分水嶺なんだと思うのです。

さて、加瀬山にも古墳がありました。

中でも白山古墳は4世紀に作られた87mもの大型前方後円墳でした。

画面真ん中の小山が白山古墳、その奥の山は日吉の山です。

加瀬山古墳群の9号墳、6世紀後半の円墳

加瀬山の先端から(仮称)鶴見湾を望む。ここが一面海あるいは干潟だった?!

やっぱりそうでしたか。

大和王権勢力が太平洋から鶴見湾に入ってきた時、最初に目にする岬はこっちの方ですからね。

まずここに上陸し、前方後円墳を築き、加瀬山の奥にある影向寺や橘樹神社がある橘樹郷のローカル勢力がその影響を受け、円墳を築いた。

大和王権はローカル勢力を上手く取り込んだんでしょう、あるいは強い勢力だったんでしょうか、ともかく、そこを郡の中心、郡衙としたわけです。

しかし、前方後円墳は許さなかった。だから、橘樹郷の古墳は円墳なんだ、ということだと思います。

さて、郡境尾根道に戻りましょう。

と、言ってもまた直ぐに寄り道です。綱 "島" に行きましょう。

地形図を見てお分かりの通り、ここは正に、"島" なんですね。いやいや、ホントに、ポツンと島です。

画面中央の島が綱島

この激坂が島の始まり

ここにも古墳があります。

綱島古墳、5世紀末の円墳

もう2箇所、岬がありますから寄ります。

まずは駒岡です。上記地形図で、綱島の東のこちらもやはり島地形、青マーカ1つが駒岡です。ここにも古墳があります。

駒岡堂の前古墳、6世紀後半の前方後円墳

そしてこちらは古墳こそありませんが、885年創建の師岡熊野神社があります。綱島の南、青マーカ3つの半島地形です。

師岡熊野神社

法華寺

記事を書いてて今気付きましたが、この辺り、鶴見川流域は熊野神社が多いような。

紀州勢も太平洋から鶴見川を遡り進出してきたんだな、、、なんて思っていたら、同じようなことを書いたことを思い出しました。これです。

そう思って古墳分布(勝手にLinkでした。スミマセン。)を見てみると、古墳は矢上川と言うか多摩川と言うか、その流域に特に多く、鶴見川沿いではこの辺りまでが多くて、ここから上流は、ここで書いたように無いことはないんですが少なくなります。

これは多摩川も同様で、どういうことかと言うと、上流に行く頃には古墳時代が終わりを迎えていたということなんだと思います。

だから、古墳の代わりに横穴墓が増えますよね。

さて、20年以上前に4年間住んでいた大倉山を経由して帰りましょう。

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如何でしたか。

正直もう何度も行ったエリアなんですが、新たなテーマを以て、楽しむことが出来ました。

橘樹郡はやっぱり海に面した、開かれた、いや、見方によっては開かされた郡ということができると思います。

4世紀、太平洋から鶴見湾に大和王権勢力が入ってきます。白山古墳などの前方後円墳を、鶴見湾を望む岬の先端、一等地に築造します。

ローカル勢力は仕方なく、その奥に円墳を築くことになります。

200年後、仏教勢力が同じルートで入ってきて、山のテッペンに大型寺院を築きます。

更に200年後、橘樹郡が成立します。郡域は、
  • 橘樹郷、影向寺一帯
  • 高田郷、横浜市港北区の高田町一帯
  • 御宅(みやけ)郷、加瀬白山古墳のある北加瀬、南加瀬一帯
  • 県守(あがたもり)郷、津田山周辺
ですから、上記のような歴史を反映し、多摩川水系、鶴見川水系は早淵川辺りまでの下流域(鶴見湾、入江エリア)までとなっているんだと思います。

このexplorerで分かったことと、郡成立当初の郷から類推する郡成立当初の郡境の最後の部分は早淵川より下流域の鶴見川だったと思われます。尚、早淵川は、現流路(迅速測図時も同じ)の不自然さと、現流路屈曲部分東の地形図での低地加減から、郡成立時の旧流路は上図紫線の通りと思われ、上記推論はこれを前提としています。この郡境が鶴見川の早渕川より下流の部分と重なるまでは、鶴見川と多摩川の分水嶺と重なってます。記事中にも書きましたように、矢上川が多摩川水系なら、橘樹郡と西隣の都筑郡の郡境は鶴見川と多摩川の分水嶺だということになります。これは実にスッキリする仮説です。橘樹郡は多摩川水系、都筑郡は鶴見川水系ということですから。いやぁ、橘樹郡がLの字を反転させたような形だと言いましたが、下辺は後付だったんですね。

そして、ついでと言っては怒られますが、郡成立の100年後に、天台勢力が入ってきます。これは海路ではなく中原街道ルートだったのではないでしょうか。

以上です。