2017年3月10日金曜日

上海の歴史、七宝

五代十国時代に開山となった七宝教寺。

上海100年、七宝1000年の謂れとなる歴史ある寺院だ。



近くには水郷古鎮もある。地下鉄で気軽に行ける大人気スポット。に、してもすごい人。



上海の歴史、龍華寺

呉の孫権が開山したと言われる古寺、龍華寺。

文化大革命で仏教を信じる人なんていなくなったと思ったらとんでもない。大変な賑わい、皆、熱心にお祈りしてました。

ここも、日本軍に空襲されています。




上海の歴史、高橋鎮

吴淞江が長江に合流する辺りに位置する高橋鎮。吴淞江が運ぶ土砂によって、宋代には陸地化し高橋鎮が生まれた。

古くは塩の産地として、明清代は紡績で栄えた。
今でこそ、上海の外れ、田舎だが、上海中心部よりよっぽど歴史深い、栄えた街だった。

その高橋鎮は、今、上海市によって歴史風致地区に指定され、東街、西街、北街、南街の老街が残っている。

まずは東街。殆ど開発されたが一軒だけ、威風堂々たる邸宅が残っている。

仰賢堂

次に南街。ここは取り残された一帯のようだ。

この見事な石庫門は清代か

次は西街。ここがメイン通りで、恐らく直しは入ってると思われるが、昔のままの姿を留めるような直し方をしたんだと思う。






宇田津が連なる

独りトランプで時間を潰す





最後に北街。ここも南街同様取り残された一帯。


観光地化されていることもあって、老街と言えど、上海県城ほどは汚くなかったのが好印象でした。

2017年3月3日金曜日

上海の歴史、十六舗

1292年の上海県成立の頃から、十六舗は商業港として大いなる賑わいを見せていた。

租界時代にあってもその賑わいは衰えを見せなかった十六舗も、今や王家码头路より北は高層マンションが建ち並び、往時を見る影も無い。

外倉橋街と王家码头路の辻から北を望む

それでも何か面影はあるか、あるいはその変化をこの目で確かめようと、地下鉄で小南門に向かった。

董家渡路の風景。この木造は清の時代かな?! 董さんちの渡への道

辛うじて当時の面影が残る董家渡路も、外倉橋街から東は一面の更地。

董家渡路から東を望む

そんな中、ポツンと建ってるのは上海歴史建築の董家路天主堂。

董家天主堂

外倉橋街は布地の街。布地屋さんがズラッと並ぶ。

カメラが曲がってるんじゃないですよ。この木造も清かな。78と76とあるけど、どこが堺?

外倉橋街

しかし、上海県城でも思ったが、華界の人は本当によく働く。働く中国人を最後に。

なんか、良かったな、今回の散歩は。

2017年2月4日土曜日

御殿峠、鑓水峠パート1

ようやく、御殿峠と鑓水峠です。

よこやまの道関連の、例えば軍事戦略鎌倉道とか奥州古道 長坂道とか、宮田先生のお示し頂いている古道はほぼ行き尽くしたのがもう2, 3年前だから、それ以来、行きたいと思ってたんですが、冬しか行けないですよね。基本、山なんで。藪と蚊を考えると。

上海出張とかあってなんだかんだで行きそびれてたんですが、ようやくです。

道案内とか御殿峠の解説とかは先輩方に譲るとして(私も勉強させていただきましたから), 今回はそういったネット上の記事にはあまり書かれていないこととして、以下の二点をフィーチャーしたいと思います。

  • 武田軍、北条小田原攻めルート
  • 深大寺周辺、及び大磯周辺渡来人の高麗郡移住ルート


武田軍、北条小田原攻めルート

1569年8月、武田軍は、甲斐を発ち、韮崎、佐久、碓氷峠、安中を経て氏邦の鉢形城を攻め、氏照の滝山城を攻め、御殿峠を南下して、相原、橋本、上溝、原当麻、勝坂、新戸と東に大きく迂回しながら南下し、相模川を渡り、岡田、厚木、金田、三田、妻田、国府津、前川、酒匂と進み、いよいよ小田原城を包囲した。。。

と、いうことのようです。

御殿峠は5kmに満たないコースなんで、なんとか、他のコースと組み合わせて長く出来ないかな、と、思ってたんで、御殿峠を中心に、南は小田原まで、更には、武田軍撤退ルートも繋いで、北は氏照の滝山城までのコースとしたいと思います。

深大寺周辺、及び大磯周辺渡来人の高麗郡移住ルート

武田軍の小田原攻めルートは橋本から大きく東に迂回しますが、御殿峠からの古道はそのまま南下し、当麻で相模川にぶつかります。相模川を南下すれば平塚、平塚からは古代東海道で大磯に辿り着きます。

一方、深大寺から多摩川を遡って拝島に至り、拝島から御殿峠に繋がる古道を北上すれば高麗に至ります。

つまりこのルートは、深大寺と大磯から渡来人が716年に高麗郡に移住したルートなんじゃないかと思うんです。

これまたロマン溢れるではないですか。拝島から先、高麗まで繋ぐルーティングとしたいと思います。

それでは出発です。

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全体としてすごく長いルートなので、今回は御殿峠で、帰り道として絹の道を使ってみました。

まずは御殿峠です。

想像よりも掘割が状態良く迫力をもって残っていたので感動しました。良かったです。

落ち葉フカフカのシングルトラック、最高です。

想像より状態良く残ってますね、掘割が。

ここも良く残ってます。ここは迫力ある。

日本閣の辺りで旧16号に切り通され、古道は寸断されます。日本閣は関係者以外立ち入り禁止で先に進めず。仕方なく、旧16号を行き片倉まで。片倉からは絹の道で折り返しました。


ここも掘割状になっていて、明治の絹の道以前の古道だったことを想像させます。

小泉家

走り足りなかったので帰りは奥州古道で唐木田まで。

おまけの一枚。いつもの。


2017年1月17日火曜日

上海の歴史、虹口老街

虹口鎮の中心地として、清末には十六舗に次ぐ賑わいを見せたという虹口老街。
が、東側は高層マンションが建ち並び、今は昔か。

東漢陽路から虹口老街(北)を望む。東側は高層マンション。

そんな中、辛うじて残っている当時の面影。

虹口老街東側里弄入口、木造住宅が残る。明代か?
清代?
1つポツンと残された住宅、これ以外は一面の更地

しかし、この老街は開発によって無くなったのではない。1937年の第二次上海事変で一面焼け野原になったのだ。

その後建てられた住宅も開発で今無くなろうとしている。

2017年1月7日土曜日

平安の道〜慈覚大師円仁の東京における足跡から

七福神詣でで目黒を廻ろうと思い、改めて目黒のお不動さんのことを調べた所、15歳の慈覚大師円仁が、故郷の下野国から比叡山に向かう途中、この地に泊まり、夢に従い仏像を彫り、この地に安置したのが始まりと言う。808年のことだそうだ。

古道マニアはここで一つ疑問に思うはず。下野から比叡山なら東山道でしょ?808年という時代的にも。

結論から言うとこの理由は分かり切らなかったんですが、新たな発見もありました。

目黒不動龍泉寺は鎌倉街道 中道 新宿御苑ルート沿いなんですね。

もしやと思って慈覚大師円仁開山のお寺を地図上にプロットしてみると、ものの見事に鎌倉街道 中道 新宿御苑ルートに沿ったのです。(現代地図参照)



  • 渋谷区 宝泉寺
  • 新宿区 宝泉寺
  • 豊島区 正法院
が、鎌倉街道 中道 新宿御苑ルートに沿っていました。

これだけでは勿論、808年に慈覚大師円仁が比叡山に向かった時の道とは言えませんが、比叡山に行き、修行して、大師となって東国での布教活動をする時に、全く、縁も縁も無い所には行かないだろうと推測すると、鎌倉街道 中道 新宿御苑ルートを行った可能性も出てくるわけです。

こうなると、鎌倉街道 中道 新宿御苑ルートは、平安時代に既に存在していたということになります。

龍泉寺から京都向きのルートですが、最終的には古代東海道に接続するんだと思いますが、恐らくは、円融寺を経由したルートだったのではないでしょうか。

この道は円融寺からは見事なまでの直線で古代東海道に接続しています。

それでは目黒に残る平安の道、慈覚大師円仁の足跡を辿るAncient Road Explorerに出発です。

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自宅から滝坂道、太子堂~池尻道と行き、下馬で鎌倉街道 中道 新宿御苑ルートに接続します。中目黒から環6の一本西の古道を行き目黒のお不動さんに到着です。


お参りを済ませ、円融寺に向かいます。

この通りは地蔵、庚申塔が残っており、古道の趣がありました。


円融寺に到着です。

円融寺の仁王門と釈迦堂。釈迦堂は室町時代の創建。国指定重文。
これは江戸名所図会の円融寺ですが、描かれている道はこのルートのように思えます。

左下から参道に向かう道、途中で左(西)に分かれているこの道が今回のルートと思われる。法華寺とあるが、この時代、日蓮宗に改宗していて、寺の名前も今とは違っていた。