2020年4月13日月曜日

日本のシルクロード、世田谷周辺、その1, 杉並区編

八王子から横浜の絹の道をexploreしようと、事前机上exploreはほぼ完了済も、コロナで不要不急の外出に自粛要請が出ている状況で、サイクリング自体は可能と判断するも、八王子となると、ゆっくりexploreを楽しもうとすれば輪行ということになり、自粛範囲に入ってくる。

我が区世田谷でのサイクリングなら、"近所でのジョギング等の軽い運動"に含まれると判断し、世田谷区の養蚕痕跡を巡るexplore, つまり、"絹の道、 世田谷周辺版"を敢行した。

絹の道、世田谷周辺版のルート地図は下図の通り:



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最初に訪れたのは、蚕糸の森公園です。

蚕糸の森公園、正門。1911年、農商務省原蚕種製造所(後の農林水産省蚕糸試験場)が開設され、1980年に試験場が茨城県つくば市へ移転、1986年より公園として開園。正門など一部当時の建築物残る。

ここに、蚕糸の試験場がありました。

それまで、全国に約1,000種もの蚕が存在していましたが、外国へ輸出する質の良い生糸を生産する目的で、明治44年(1911年)には蚕糸業法が公布されました。この、蚕糸の試験場も1911年設立です。ここで品質チェックしてたんですね。

明らかなる養蚕痕跡です。

1917~1924年の古地図 by 今昔マップ、真ん中やや右下に蚕糸試験場を配置した。こうしてみると意外にも桑畑(YにLを合わせたような地図記号)は少ない。西照寺の辺りだけか。

青梅街道から五日市街道に入り、久我山を目指します。

途中、善福寺川を尾崎橋で渡る際、白幡坂、馬橋みち両坂の追分で、地蔵2基と馬頭観音が祀られていました。

左が馬橋道、右が今下りてきた白幡坂。木々で見づらいが、赤い前掛けをした石像が3基祀られているのが見えると思う。

ここは坂だから馬をよく使っただろうし、だから馬頭観音が祀られているのだと思います。1896~1909年の古地図を見ても、周囲に目立った桑畑もありませんし。

1917~1924年の古地図 by 今昔マップ、真ん中やや右下に尾崎橋を配置、その直ぐ右が馬頭観音がある場所。ここも、桑畑が目立たない。

ですが、馬頭観音も養蚕農家の信仰対象でした。

ルーツは3つありそうです。
  1. 中国の捜神記(東晋時代、317~420年)から
    父親が旅に出て戻ってこないのを心配した娘が、飼い馬に、冗談で、父を連れて帰ってきたらお前の嫁になると言った。すると馬は家を飛び出し父親を連れて帰ってきた。娘を見る馬の様子がおかしいのに気付いた父親が、娘から馬との約束を聞き、怒ってその場で馬を殺し、皮を剥いで庭に干しておいた。娘も庭に出て馬の皮を蹴った。すると、不意に馬の皮は娘を包み込んで飛び去り姿が見えなくなった。数日後、父親は、娘と馬の皮が蚕と化して庭の桑の木の上で糸を吐いているのを発見した。その繭からは通常の繭の数倍も糸がとれたという。
  2. 上記捜神記が東北地方を中心に入ってきて若干変化したものと思われる、オシラ様伝説から
    昔、ある百姓が娘と二人で住んでいた。娘は飼い馬を愛して夜毎厩舎に行って寝ていたが、ついには馬と夫婦になってしまった。これに怒った父親は馬を庭の桑の木に吊るして殺してしまった。それを知った娘は死んだ馬の首にすがって泣き悲しんだ。この様子を見た父はさらに怒って後ろから馬の首を斧で切り落とした。すると、娘は馬の首に乗ったまま天に昇り去ってしまった。オシラサマというのはこのとき生じた神で、馬を吊り下げた桑の枝でその像を作るのだそう。このオシラ様伝説には続きがあって、1つは、父親に愛する馬を殺された娘は、その馬の皮で小舟を造り、桑の木の櫂で海に出たが、悲しみのあまり死んで、ある海岸に漂着した。その皮舟と娘の亡骸から湧き出した虫が蚕であるというものと、もう1つは、父親に愛する馬を殺された娘は、「自分は家を出ていくが、残った父が困らないようにしてある。春三月の十六日の夜明けに庭の臼の中を見てください。」と言って、死んだ馬と共に天に飛び去った。言われた日の朝、父が臼の中を見ると、馬の頭をした白い虫(蚕)がわいていて、桑の葉で育てた。
  3. 馬鳴菩薩
    中国の民間信仰に由来し、貧しい人々に衣服を施す菩薩とされ、そこから、養蚕守護・機織りの神仏とされました。馬鳴菩薩の像容は、馬の背に載る六臂の菩薩が、糸枠、糸、秤、火炎といった、養蚕に関連するものを手に持った姿です。
と、いうことで、上記3つ共、馬絡みなんですね。なので、馬頭観音も養蚕農家の信仰対象になっていったものと思われます。

これも、養蚕の痕跡かもしれせん。

先に進みます。

ここまで、目立った桑畑が無かったんですが、大宮前新田に入ると様相が一変します。五日市街道沿いに桑畑が広がり始めました。

1917~1924年の古地図 by 今昔マップ、五日市街道沿いが網掛けされてますが、これは集落です。その外側に桑畑が広がってます。

そんな中に、庚申塔がありました。

大宮前新田の庚申塔

農家では養蚕が貴重な現金収入源でしたので、蚕のことを「オカイコサマ」「オコサマ」と呼んでそれはそれはもう大切に育てたそうです。また、手間もかかったようでして、蚕は4回脱皮を繰り返し、その間は桑の葉のみを食べ、農家は朝昼晩と桑の葉を与えなければならず、日に1回は蚕の糞や桑の食べかすを掃除し、寒い日には囲炉裏や火鉢に炭を燃やして部屋を暖めなければならなかったそうです。それほど気を使って育てても、全滅してしまうこともあったそうです。

一方、庚申信仰が農家の間で広がっており、庚申の日の夜は寝てはいけませんから、天帝や猿田彦や青面金剛など、庚申の神様を祀り、宴会をしたりして徹夜していたんですが、当時の話題は、貴重な現金収入の手段であり、しかしながら手間が掛かる養蚕が主だったんじゃないかと推測しています。あそこはあーして上手く行った、下手をした等など。

と、いうことで、次第に庚申塔そのものが養蚕農家の信仰対象になっていったんだと思います。

ここ大宮前新田の庚申塔も、そういった謂れがあるのかもしれません。

直ぐ先に、春日神社があり、境内社に三峯神社があります。

春日神社
三峯神社

春日神社は、大宮前新田の名主、井口八郎右衛門勧請により創建ということで、何故、春日神社だったのか、井口家は大和の出身だったのか?, 等々、興味がある所ではありますが、今日の所は三峯神社です。

三峯神社は養蚕守護のお札を出していますので、養蚕農家から信仰を集め、三峯講が多く生まれました。

1804~1829年に編纂された風土記を見ると、春日神社は太神宮(天照大神)と八幡を相殿とあり、明治12年(1879)年の神社明細帳では境内社は稲荷1社とあるので、現在ある第六天と稲荷の相殿、三峯単独殿は、その後に持ってこられたものと思われます。明治12年以降というと、ちょうど、養蚕が盛んな頃ですね。

これも養蚕の痕跡と思われます。

久我山に向かいます。

1896~1909年の古地図、久我山周辺

真ん中に、"久我山"が見えると思います。久我山には、"Y"と"L"を合わせたような地図記号、桑畑が多く見られます。

奇跡的に残っている畑をパノラマ撮影

もう桑の木は無いんですが、このように畑が残っていますね。癒されます。

少し戻るように久我山稲荷神社です。

久我山稲荷神社

ここにも庚申塔があり、養蚕信仰を集めていたとのことです。

境内掲示
更新等と砧

やっぱり、そうだったんですね。庚申塔は養蚕農家の信仰対象だったのです。大宮前新田の庚申塔もやはりそうだったのではないでしょうか。

また、ここ久我山の人たちは、毎年4/15に、榛名正月と称して、榛名神社に五穀豊穣のお参りに行く風習があったそうです。榛名神社と言えば、特に雹除け、嵐除けにご利益があるとして、全国に知られていました。関東の養蚕農家は桑や農作物の無事生育を願い、榛名講をつくって参拝していたそうですから、これも養蚕痕跡ですね。

もう1つ。

神功皇后、応神天皇の時代に数千人から1万人規模で渡来したとの記録が残っていて、土木や養蚕、機織などの技術を持ち込んだとされる秦氏一族ですが、ここ久我山神社境内の寄進者Listはこうなっています。

秦さん一色ですね。秦さんの土地だったということです。これも、養蚕痕跡と言えるかもしれませんね。

久我山から人見街道で牟礼の神明さんに行く途中、欅の大木の根本に庚申塔がありました。

これも養蚕痕跡かもしれません。

実は何度も何度も訪れ撮影している庚申塔です。ひっそりと佇んでいて癒されます。

で、牟礼の神明さんを訪れたんですが、本命はこっちの方だったんです。

牟礼神明社の境内社、榛名神社と三峯神社相殿です。

風土記にも説明が無く、境内の由緒説明版にも説明がありません。逆に言えば、最近~とはいっても明治・大正か~持ってこられたものと推定されます。榛名、三峯ということを合わせて考えれば、これも、養蚕痕跡と言えるでしょう。

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長くなりましたので、杉並区を終えたということもありますので、続きは別記事にしたいと思います。

2020年3月25日水曜日

川崎市中原区・高津区・多摩区の、府中道から多摩川側、暴れ多摩川流路変更の痕跡と江戸期の村々を繋ぐ村道巡り。パート2

前回の続き

現代の地図です。



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【宇奈根村】

村道で宇奈根村に入っていきます。


上図迅速測図を見ていただいてお分かりの通り、ここ宇奈根村は、等々力村や下野毛村と同様に、多摩郡と橘樹郡の郡境が川崎市側に食い込んでるエリアなので、等々力、下野毛と同じく、その後の多摩川の北への流路変更によって、世田谷区側と川崎市側とに分断されました。

と、言うことで、宇奈根と言えば氷川神社ですが、川崎市側にも宇奈根神社があります。下野毛の宇佐神社もそうでしたが、悲哀がありますね。分祀された側は。


こちらは世田谷区側の氷川神社です。立派です。さすがは本家。


そしてここ宇奈根も下野毛と同じく、宇奈根の渡しの真っ正面に、氷川神社が見えました。分断された側の村民の悲哀が感じられます。

正面の3階建てビルの左に松並木がありますがそれが氷川神社です。真っ正面です。分断された村民の思いが伝わります。

【堰村】

堰村は、非常に面白い謂れがあります。開墾は1594年、秀吉の小田原攻めが終わり、徳川の江戸統治が始まったころですね。その頃に、新座郡上保谷村、今の西東京市から移り住んだ6家によって行われたと伝わってるんです。その内の保谷家が、代々村名主を務めたそうです。

諏訪河原村は諏訪氏、二子村は小山田氏が、秀吉の小田原攻めの後、暴れ多摩川が故に荒れ地のまま放置されていた多摩川べりに入植しましたが、ここ堰村には保谷から住民が移り住んできたんですね。

そんな堰村にはとても素晴らしい歴史がある龍源寺があります。


風土記によれば、深大寺の末で、開山開基は伝えを失へり、と、言うことですが、ここがスゴイのは、寺宝の大黒天像で、伝教大師最澄の彫刻なり、ということです。また、聖観音は慈覺大師円仁の作ということで、仏教界天台宗のスーパースター2人の作となる仏像があるということです。スゴイですネ!

龍厳寺から南武線の線路を越えて西隣の宿河原村に行くんですが、その途中に畑で採れた野菜の無人販売をお屋敷の軒先でやられていたんですが、表札を見ると、"保谷"とありました。秀吉の小田原攻めの後、保谷から移住してこられた6家の1つで代々名主を務めてこられた保谷家であると思います。

南武線を渡ったら右折なんですが、線路沿いにひっそりと佇んでいたのがこのお地蔵さんです。村境ですかね、堰村と宿河原村の。


【宿河原村】

宿河原とは宿があった河原かと思いきや、この辺りには宿があった形跡は無いそうです。

"宿"は、"夙"であろうとされ、その根拠は、吉川英治の私本太平記ファンならお馴染みの吉田兼好は徒然草にあるそうです。勝手にリンクですがhttps://roudokus.com/tsurezure/115.htmlをご覧下さい。

徒然草 第百十五段は宿河原が舞台なんですね。そこで書かれている宿河原は、当時"ぼろぼろ"と呼ばれていた河原に住み念仏を唱える渡世人達が多く住んでいました。この、"ぼろぼろ"が、"夙"です。所謂、"河原者"ですね。これは多摩川に限ったことではなく広く河原なら共通ですが、多摩川のように暴れ川だと尚、河原は荒れ地のままとなり、河原者が住み着き易かったと推定されます。これも、人々が多摩川ととどう付き合ってきたのかの一端だと思います。

宿河原の徒然草の碑

さて、迅速測図を見れば分かる通り、宿河原は二ヶ領用水の南側に展開している村です。今でこそ、駅は二ヶ領用水の北側、つまり多摩川側にありますが。


この二ヶ領用水の多摩川側は、迅速測図を見ると一部畑もありますが、基本、荒れ地ですね。

また、二ヶ領用水の流れが、この湾曲具合といい、人工的に掘ったとは思えない自然な感じだし、嘗ての多摩川の流路だったものを活用して二ヶ領用水を作ったと考えられませんか?

と、なると、荒れ地であること、故に宿河原村はその外側に展開していること、が、合点がいきます。ここまでは多摩川が乗り上げなかったんですね。

と、言うことで、なのか、庚申塔などが良く残っています。以下、東から順番に一気にご紹介します。


桜を撮ろうとして無理な構図となってしまいました、稲荷社です。

その稲荷社にある塞ノ神です。伝統的な男根と丸石ですね。"夙"河原っぽいです。





また、迅速測図をよくご覧いただくと、宿河原村は、等々力や宇奈根と同様に、世田谷区と川崎市に分断されてるんですが、中心部は川崎側にあるんです。だから、悲哀があるのは世田谷区側。その象徴がこの宿河原稲荷神社です。

この写真に写ってる範囲ぐらいが取り残された宿河原。下野毛や宇奈根よりも考えようによってはもっと悲哀です。もう地名は残っていませんから。

【登戸村】

登戸は津久井道の宿場なんですが、今回はそのご紹介ではないので登戸稲荷神社に飛びます。


それにしても、彫刻と漆喰が見事ですが、ここ登戸稲荷神社は、諏訪河原村の諏訪氏、二子村野小山田氏、堰村の保谷氏を始めとした6家と同様、秀吉の小田原攻めの後に、武田氏家臣の小荷駄奉行、吉沢兵庫が帰農し創建しました。

【中野島村、布田】

中野島村はその名の通り、多摩川の中洲だったようです。

迅速測図を見ると、宿河原同様に二ヶ領用水が自然な流れで多摩川の旧流路であることを示唆しています。中野島村はその内側ですから、島だったんだと思います。


ここ中野島も宿河原に似て、石塔群が多く残っています。中野島の中心、御本尊の観音像は滋覚大師円仁作と伝わる観音寺と合わせ、東から順番に一気にご紹介です。

村道から観音寺に向かう道の辻に立つ薬師さん

途中にある地蔵

観音寺




最後に布田ですが、迅速測図を見てお分かりの通り、等々力や下野毛、宇奈根のように分断され、且つ、主力は東京都側です。

江戸時代には一軒だけ、川崎市側に取り残されたそうで、迅速測図を見ると確かにポツンと一軒屋があります。

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如何でしたでしょうか。

本日の主役、多摩川です。昨年の台風の傷がまだ癒えませんね。でも水はようやく透明度が戻ってきましたかな。


少し盛り沢山過ぎましたかね?!

辛抱してご覧下さりありがとうございました。

多摩川の暴れっぷりと、それ故に分断された村々がありました。分断された側の本村への思いが渡し場に表れ、分祀神社には悲哀が表れてましたね。また、暴れ川が故に荒れ地として長らく放置され、鎌倉時代には河原者が集まり、秀吉の小田原攻めの後、つまり、戦乱の世が終わった後には、帰農した武士達が開墾に入植したのが、この地でした。その痕跡がよく分かるexploreでした。

ここは本当に東京近郊にも関わらず田舎風情が残っていて雰囲気が良かったです。ご紹介しませんでしたが、昔からの屋敷も多く、カバーはされてましたが茅葺屋根も幾つも確認出来ましたし。

距離的にもポタリングにはもってこいと思います。

皆様も是非

2020年3月23日月曜日

川崎市中原区・高津区・多摩区の、府中道から多摩川側、暴れ多摩川流路変更の痕跡と江戸期の村々を繋ぐ村道巡り。パート1

前々から行きたいと思ってたんですが、近いが故に何となく後回しになってしまっていて、行けずにいました。

迅速測図(明治13~19年、1880~1886)を見ると、多摩川の川崎側、駅で言うとJR南武線の武蔵小杉から稲田堤までの間の、府中道から多摩川側のエリア、ここは、村々を繋ぐ村道が割とキレイに残ってるんです。

以前、百合ヶ丘の義経道を行った時、帰りにここ(の一部ですが)を通ったことがあって、庚申塔が多く、古道の空気感が残っていて、帰宅後、迅速測図を見てみたら割と村道が残っていたので、いつか行こうと思っていたのです。


前日に雨が降ったので、横浜の里山トレイルに行こうと思ってたのを、近所でごまかした感もあったんですが、事前机上exploreと実走を通じて、この地は、東京近郊にも関わらず街中に古道が残っているというだけでなく、多摩川の流路変更、暴れっぷりがよく分かるし、人々がそれにどう付き合ってきたかも見えてくる、意外にも、非常に興味深いexploreとなりました。

まずは全体感を掴んで頂きたいと思います。現代の地図をご覧下さい。


緑の線がありますよね。非常にクネクネした蛇行した線、これが、迅速測図当時の行政界で、どの行政かというと、武蔵国の荏原郡、橘樹郡、多摩郡の郡境です。

この辺りの今の東京都と神奈川県の県境は多摩川ですね。このことからも分かる通り、行政界というのは、川か海か山の尾根なんです。

現代地図の緑線、非常にクネクネした蛇行した線が武蔵国の荏原郡、橘樹郡、多摩郡の郡境だということは、武蔵国の荏原郡、橘樹郡、多摩郡が成立した時ですから律令の時代、今から1300年程前には、多摩川がこのように蛇行して流れていたということになります。

(迅速測図の時代には既に多摩川流路は変わっていますが、行政界は、行政界設定時と変わっていなかったんですね。)

スゴくないですか?!, この蛇行っぷり、暴れっぷりは。多摩川が洪水によって流路変更していることは知ってましたが、いやぁ、ここまでスゴイとは思ってませんでした。

川は土砂を運び堆積しやがて自然堤防となります。土手が出来上がるわけですね。

迅速測図にはその土手道が、つまり律令の時代の多摩川流路痕跡が、クッキリと描かれています。

また、流路変更によって、以下の様に、人々の生活が変化させられてきたこともよく分かりました。
  • いつまた洪水で流されるか分からない為、入植、開梱されず、荒れ地として残っていたことに目を付け、秀吉の小田原攻めの後、帰農した武士達がこの地に入ってきた。
  • 元は地続きで1つの村だったのが、多摩川によって分断され、最終的には世田谷区と川崎市に別れてしまっている。
と、言うことで今回は、多摩川流路変更の痕跡と、それにどう人々が付き合ってきたかの痕跡をご紹介したいと思います。

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【等々力村】

武蔵小杉側からアプローチ、大田区側から丸子橋を渡って、戻るようにして土手道に出ます。

迅速測図、等々力村

迅速測図で、U字形のモヤモヤっとした線が土手道です。等々力村にある土手道にマーカーを入れています。現代地図をご覧頂くと、今でもそのまま残っているのが分かりますね(現代地図では濃いオレンジ色の線[一見、茶色に見えるかも]が土手道です。)。

実走してみるとこの通り。

土手上から土手下を撮影、土手の内側が結構低いことが実感出来、川だったことがよく分かります。

このU字の中は"等々力"緑地です。

等々力は世田谷区にもある地名ですね。郡成立時は地続きの一つの村でした。土手道の直ぐ内側に、土手道に沿って強目の点線がありますが、これが武蔵国荏原郡と橘樹郡の郡境で、郡境が土手道に沿っていたことが分かります。ですからここまでが荏原郡等々力村。目線を上に持って行くと、"等等力村"と、縦書きされているのが確認出来ると思います。

【宮内村】

等々力村の西隣は嘗ての宮内村です。

村入口に立つ庚申塔、清掃は行き届いていて、花も新鮮で、とてもよく管理されています。気持ちが良いですね。

ここ宮内村の歴史は古いです。

春日山医王院常楽寺は、真言宗智山派で、縁起によると、奈良時代、聖武天皇の御願所として、あの、行基によって開基されたとのことです。

常照寺の薬師堂

敷地内にある春日神社は、創建時期詳らかならず、ですが、1171年の稲毛荘検注目録によれば、荘内に春日新宮と呼ばれていた神社があったことが分かっており、当社であると推定されています。稲毛荘の荘園領主は藤原北家流九条家ですから、稲毛荘成立時、藤原家の氏神である春日神社を分祀したものと考えられます。九条家の祖、九条兼実は1149~1207ですから、上記目録とも時代が合いますね。


社殿の裏には古墳の石棺もあったということで、古墳時代にまで遡れる、古い地区です。

迅速測図の土手道を見ても、暴れ多摩川も宮内村には乗り上げていないようですし、少し標高が高かったのでしょうか。

【下野毛村】

宮内村の西隣は下野毛村です。

迅速測図、下野毛村

迅速測図を見ると、土手道はここも等々力村同様Uの字。Uの字の左側は真っ直ぐに多摩川に向かわずやや西に流れて府中道と重なってはいますが。が、しかし、やはり、郡境点線はしっかりと多摩川を越え世田谷区側に突き抜けており、やはりやはり、嘗ての多摩川流路は、国分寺崖線まで達していたことが分かります。国分寺崖線沿いに流れているのは六郷用水ですが、六郷用水は、嘗ての多摩川の流路を上手く活用しているということが分かりますね。

宮内村から下野毛村に入る直前、八大龍王弁財天がありました。


説明板によると、この付近の沼の辺りにあったものをここに移設したとのこと。迅速測図を見てみると、確かに沼があります。この沼は嘗ての多摩川流路の名残ですね、土手道に沿っている点からしても。

ほぼ中央の緑の点が撮影地。明治13~19年には確かに2つの沼があったことが分かる。

土手道と村境の状況からお分かりの通り、ここ下野毛も等々力同様、嘗ては川崎側に大きく寄って流れていた多摩川が、その後、北に流路を変えたことによって、世田谷区と川崎市に分断された村だということが分かります。

ということもあって、ここには、川崎市に取り残された?!下野毛宇佐神社があります。


この下野毛宇佐神社、野毛が多摩川で分断された後、川崎市側の住民が、氏神様を分祀し創建されたとのことです。

元の神社はどこかというと、2説あるんじゃないかと思ってまして、1つが同じ野毛村の六所神社です。ここは、六所神社という名前ですが、明治に村内の八幡様が合祀されてます。もう1つが尾山村の宇佐神社です。村は違いますが、名前が同じ宇佐だからです。

でも私は六所神社なんじゃないかと思ってます。下野毛の古い家は野毛の善養寺の檀家だそうです。六所神社は善養寺の隣で善養寺が六所神社の別当ですから。

六所神社、世田谷区側にある

村内を行く村道は、下野毛宇佐神社を経由して下野毛の渡しに続いています。下野毛宇佐神社が分霊される前までは、祭りの時など、ここから六所神社に行ってたんですね。

やはり実走してみることは重要ですね。野毛の渡しの真っ正面に六所神社があることが分かりました。画面中央のこんもりとした森が六所神社。往時はもっとよく見えたことでしょう。やはり、分祀したのは尾山村宇佐神社ではなく、野毛の六所神社だと思います。

いやぁ、それにしても、渡し場の真正面に六所神社があるというのは象徴的でした。分断された野毛住民の思いがここに表れてますね。切なさが身に沁みました。

さて、村道の逆向きは、西隣の北見方村に続いています。

【北見方村】

北見方村に入って少し行くと府中道との三叉路がありそこに石塔が集められています。

地神もありますね。町田以外では珍しい。

石塔群の先を右に折れると白髭神社があります。


創建は1610年と平凡ですが、白髭神社というのが非常に珍しいですね。江戸川区に住んでた頃はよく見たんですが、世田谷区に引っ越してからは殆ど、というか、初めてですかね、この辺りでは。伊勢猿田彦神社より御分霊を迎えて創建とのことですが、何の縁で伊勢の猿田彦を?!と、思います。伊勢出身の人がこの地に入植してきて、地元の氏神様を持ってきたんですかね?, と、思って北見方の名主を調べましたが名主自体が分からずでした。

また、ここは、1738, 1834, 1835と、多摩川の洪水で流され、再建されています。下野毛村のチャプターで言いましたが、郡境を見ると、かなり、世田谷区側に張り出しているので、この辺りは安泰だったのかなと思ってしまいましたが、やはり、そんなことは無かったんですね。

【諏訪河原村】

北見方村の西隣は諏訪河原村です。

村入口の馬頭観音

ここは空気が締まってましたね。良い空気感でした。恐らくこの諏訪神社の影響だと思います。

神主の方が常駐されているようで、ふと目を合わせた時、深く頭を下げられ、私なんかが偉そうに言えませんが、礼節がしっかりされていると感じました。恐らく、諏訪氏が入植して以来、この村をこのような風土で治めてきたんだと直感的に思いました。

何故この多摩川右岸の地に諏訪かということなんですが、諏訪の人、諏訪頼久が、天正~慶長年間(1573~1615)に勧請したからなんです。但し、この諏訪頼久は寛永の生まれ(1644生~1716没)ですからこの伝承とは齟齬があります。

諏訪氏は小笠原氏、村上氏、木曽氏と並んで信濃四大将の1つとされ、代々信濃一宮諏訪大社上社の大祝を務めてきた信濃の名族です。戦国時代には、後北条氏の家臣になりました。

私は、頼久より前の世代が、秀吉の小田原攻めで君主後北条氏が滅んだ後、多摩川の河原で荒れ地だったこの地に入植したのではないかと思っています。

ここ諏訪河原村は宮内村同様、少し標高が高かったようですね。諏方神社、明王院、小黒家(諏訪氏後裔)といった諏訪河原村の中心部に、諏訪天神塚古墳、諏訪浅間塚古墳といった古墳があるようです。今回は未訪問ですが。

【二子村】

二子村に入ります。

少し外れですがここにも古墳です。

二子塚

二子新地駅の方に向かい、二子神社に寄ります。


因みに、二子というと世田谷区側にも二子玉川がありますね。川崎市側の駅名は二子"新地"で、何やら川崎市側が新しい、つまり元々の二子は世田谷区側だという感じがしますが、、、

迅速測図、二子村

迅速測図を見ると分かる通り、二子村と瀬田村の郡境は二子村側、つまり、今の二子新地側に寄っていて、と、言うことは、二子新地が二子村で、二子玉川は瀬田村であることが分かります。それが証拠に、現代地図を見ると、二子橋の川崎市側の河川敷に、僅かに、瀬田という地名が残ります。

さて、二子神社に戻ります。二子神社は、武田氏家臣で秀吉小田原攻めの際、最後の最後で裏切り、勝頼を自害に追い込み、武田氏滅亡に追いやった小山田氏の創建です。諏訪氏同様、秀吉小田原攻めの後に、荒れ地だったここ多摩川右岸に入植したんですね。

大山街道沿いにある光明寺も同様に小山田氏開山です。


【溝口村】

大山街道を行き溝口村に入りました。

村社溝口神社に寄ります。


ここ溝口神社は、元赤城大明神と呼ばれ御神体は毘沙門天と弁財天です。明治になって、廃仏毀釈の流れで天照大神を祭神としました。毘沙門天も弁財天も仏神ですし、風土記に、宝永5年(1708)に僧修禅院日清が造営したと書かれているからです。

実はこれと全く同じ謂れで、故に、兄弟社とも言われる久地神社が、お隣久地村にあります。


更に、津田山の向こうには赤城神社があります。


1184年創建、当初は第六天として。1193年に、稲毛庄を治めていた稲毛三郎重成が、那須に巻狩に行った際、赤城山の霊夢を見、帰郷後、赤城大明神としました。御祭神は磐筒雄命です。

創建の伝承も確からしいし、御祭神も合ってますから、まずこの神社が創建され、近くの久地と溝口にも赤城神社が出来、その後、荒廃したのか、1708年に、日清によって毘沙門天と弁財天が祀られ、神仏習合の神社になったのではないかと想像を膨らませています。

【久地村】

久地村には江戸中期に築かれた、かすみ堤があります。


諏訪河原村から二子村、そして久地村にかけての土手道は、ほぼ今の土手道と同じです。が、迅速測図を見ると、久地村に直線的で人工的な土手道が確認できます。これがかすみ堤です。

迅速測図、かすみ堤

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長くなりそうなので今回はここで一旦終わりとし次回に続けます。