2019年9月21日土曜日

深大寺から奥多摩・青梅へ 3, 深大寺エリア、稲城と青梅の関係1、渡来の道

このシリーズの前回は、府中崖線を立川から青梅までexploreしました。

深大寺エリアにいた高句麗渡来人の集団は、基本、多摩川を遡ったと思われますが、陸路で行った班もいたろうし、陸路の場合は府中崖線を行ったのではないかと推測したのです。

崖上は見晴らしも効いてriskを早く察知できるし、崖下に下りれば水が確保できる。だから縄文の時代から生活の場で、縄文・弥生遺跡、古墳、寺社が多く見られます。

そういった生活の場を繋ぎ自然発生的に発展していったのが、今回の陸路だったのではないか、ということでした。

前回で深大寺エリアから青梅まで完走したわけですが、今回は、深大寺エリア、稲城と青梅の式内社を巡る奇妙な関係を見ていき、実走としては、再びの深大寺エリアと稲城をexploreしたいと思います。

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まずはこの地図を見て下さい。



マーカの説明ですが、青が青渭神社、赤が虎狛(柏)神社、黒が大麻止乃豆乃天神社、緑が穴澤天神社です。※紫、黃は後で

4社とも、927年編纂の延喜式神明帳に記載されている古社で、且つ、所謂、"式内社"ですが、何故、複数あるのかというと、何れも確証が無く、推定の域を出ない、所謂、"論社"だからなんです。

そんな中、私が偶然とは思えないなと非常に興味深く思っているのが、その立地なんですね。整理すると下表の通り。

神社深大寺
エリア
稲城青梅
(むあきる野、奥多摩)
青渭神社
虎狛()神社
大麻止乃豆乃天神社
穴澤天神社

深大寺エリア、稲城、青梅に、きれーーーいに集中してます。

4社共、武蔵国多摩郡にあるんですが、多摩郡は今で言うと世田谷を東西半分にした線から西側東京都の全部ですから、もっとバラけて良いはずなんですが、何故、この3エリアなのか???

この内のどれか1つが本物だということになるんですが、逆に、こうは考えられませんか?

最初の地でその神社が出来て、人の移住と共に、元の場所にあった神社を持って行った(勧請した)と?

深大寺エリア⇔稲城⇔青梅の3エリアで人々の移動があり、信仰の対象も移動したなら、どれかが本物というより、どれも本物で移動しただけということになります。


今回の整理から、深大寺エリア→青梅、深大寺エリア→稲城→青梅、稲城→青梅の3パターンがあったのではないか、と、ロマン含め、思っているわけなんです。

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と、いうことで実走です。まずは、もう何度もお邪魔している深大寺エリアの青渭神社です。

深大寺エリアの青渭神社

青渭神社は、珍しく、ほぼ東と言っても良いくらい、東南東を向いています。

何故か?

その先には今は東京都立農業高等学校神代農場がありますが、ここは小規模な谷戸となっていて窪地となっています。今は湧水がチョロチョロと流れているだけですが、嘗ては、湧水の量も多く、満々と水を貯めていた大池だったんです。青渭神社はその谷戸頭に鎮座されてますから、御神体はこの水なわけですね。だから、今設定されている御祭神も記紀に記されている水神様です。

大池跡。少し分かりづらいですが、画面左下の縦の黒い線が、湧水の流れで、撮影地は青渭神社前の道路ですが、ここからストンと落ち込み、大きな窪地になっていることが分かります。

深大寺エリアの青渭神社周辺陰影図。画面左上から右下にかけての崖が国分寺崖線。その南、画面半分まで国分寺崖線に沿っているのが野川。国分寺崖線の上だから武蔵野台地の湧水点から野川の支流となる谷戸が幾つかある。青マーカが青渭神社。その谷戸の1つの谷戸頭に青渭神社があることが良く分かる。因みにその直ぐ西の谷戸は深大寺。

この青渭神社が、人々の移動と共に、稲城に移動したのではないか。あるいは、深大寺エリアが拡張して多摩川対岸の稲城に至ったのではないか、と、いうように想定しているのです。

次は虎狛神社です。

虎狛神社

色々と説はあるのですが、私はこの神社は大磯からこの地にいしてきた高句麗渡来人たちが創建したと思っていて、元は、"高麗(狛)神社"で、後に、深大寺開創の満功の祖母、"虎"の名を合わせて、読みは、"こまじんじゃ"のまま、表記を、"虎狛神社"としたのだと思います。

ですので何を祀っているのかと言えば、満功の祖母、虎です。

それが後の世で、記紀の女神の大歳御祖神になったのではないか、と思っています。

この虎狛神社は、深大寺エリアから直接多摩川を遡り、あるいは府中崖線を行き、青梅に向かった高句麗渡来人たちと共に、青梅に移動したのです。

青梅の虎柏神社も祭神は大歳御祖神です。

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稲城に移動します。

稲城の青渭神社

稲城の青渭神社も大きな沼がありそれがご神体で、御祭神は水神様になっていますが、立地は基本的に多摩川の氾濫原なんですが、加えて、三沢川とその支流の扇状地の扇の要の位置でもあり、水量も多く、沼が形成されたんでしょう。

深大寺にいた高句麗渡来人たちが、深大寺エリアと同じくここ稲城でも沼を見つけ、青渭神社にしたのですね。

真ん中の青マーカが稲城の青渭神社。右上には多摩川が見えている。青渭神社の位置は三沢川とその支流が作る扇状地の扇の要の位置でもあるということが分かる。

青渭神社は、この後、高句麗渡来人の移動と共に、青梅に移動します。

青梅の青渭神社の御祭神は大国主ですが、これは大国主が水神だからで、名の起こりは奥宮付近の枯れることのない霊泉と言われる真名井、つまり、水です。

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さて、ここ稲城には、深大寺エリアには無い、穴澤天神社と大麻止乃豆乃天神社があります。

高句麗渡来人たちが深大寺エリアから稲城に拡張した後、ここ稲城で新たに構築した信仰なのか、あるいは、元々ここにあり、高句麗渡来人たちが土着していく中で、それを信仰していくようになったのか?

穴澤天神社

穴澤天神社の御祭神は少彦名命ですが、本来の御神体は、穴澤天神社の名の起こりである神社下の崖横穴からの湧水(穴澤), つまり、水なのではないかと思ってます。

江戸名所図会、穴澤天神社。穴澤天神社よりむしろ、巌窟と沢のほうが強調された描き方となっています。

今の、穴澤。江戸名所図会の穴澤は崩れてしまいこれは2代目。
本殿裏の谷戸にある横穴

穴澤天神社はあきる野市深沢と、青梅市の先、奥多摩町にありますが、あきる野市深沢の方は、祭神が、
  • 高皇産霊神
  • 神皇産霊神
  • 伊奘諾神
  • 少彦名神
  • 事解之男神
  • 速玉男神
  • 大山祇神
  • 豊受姫命
で、一方、風土記には、深沢村の神社は、
  • 稲荷社
  • 熊野社
  • 白髭社
  • 山神社
  • 第六天社
があったそうで、熊野が速玉と事解と伊弉諾、山の神は大山祇なんだと思いますが、それ以外の御祭神は、少彦名を含め、出自が不明な状態で、地名の棚澤から穴澤となったに過ぎないという通説の1つがやはり有力なのではないか、と思わせます。

一方、羽黒三田神社の方は、出雲の人、土師連行基が、東国に下り、御嶽山で修行中、神のお告げがあり、この地に高皇産霊神と少彦名を祀り穴澤天神社としたという伝承があって、社地南の山麓には崖横穴とそこから御神水が流れ、穴澤天神の名の起こりとなったという伝承もあり、稲城の穴澤天神社との共通点が見られます。

次は大麻止乃豆乃天神社です。

大麻止乃豆乃天神社

何て読むかも分からない、八幡とか熊野とか稲荷みたいなメジャーな名前ではないですが、これは、"おおまとのつのてんじんしゃ"と読みます。旧社地は南多摩水再生センターの辺りでした。

祭神は櫛真智命。記紀にも系図にも登場しない、ただ、延喜式神明帳に、大和国天野香久山神社の祭神として記載されているだけの、謎多き神様です。ト占の神様と言われています。

稲城の大麻止乃豆乃天神社は、深大寺エリアから高句麗渡来人たちが移動してきた時には既に存在しそれを信仰したのか、あるいは高句麗渡来人たちが創建したのか?

恐らく前者でしょう。この神社は、既述の状況から、大和国天野香久山から来たのは間違い無いでしょう。

延喜式によれば、ト占を仕事とする人たちを占部といい、占部は対馬、壱岐、伊豆の三国から選ぶそうで、更に、下図は、ト占遺跡の分布図です。対馬の先には半島がありますからそれも加えると、モノの見事に、

半島→対馬→壱岐→関門海峡→瀬戸内海→大和国→紀伊半島→伊豆→三浦→多摩川→稲城→青梅

という、大和国から稲城→青梅の流れと、更に遡って半島からの流れが見えてきます。

史料・神事にみる卜占の手法より

尚、青梅の大麻止乃豆乃天神社は武蔵御嶽神社ですが、御祭神は稲城と同じく櫛真智命です。

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さて、整理してみましょう。

神社御祭神
御神体
深大寺
エリア
稲城青梅
青渭神社御祭神青渭大神(水神)青渭大神(水神)大国主命(水神)
御神体大池(水)大沼(水)真名井(水)
虎狛(柏)神社御祭神大歳御祖神(N/A)大歳御祖神
御神体深大寺開創満功上人祖母虎(N/A)霊石
大麻止乃豆乃天神社御祭神(N/A)櫛真智神櫛真智神
御神体(N/A)(N/A)(N/A)
穴澤天神社御祭神(N/A)少彦名命高皇産霊神、少彦名命
御神体(N/A)穴澤穴澤

と、言うことで、祭神が同じなのはある意味当たり前なんですが(じゃないと論社になってませんから), 多摩川や府中崖線で繋がっているし、共通点も多く、深大寺エリア、稲城、青梅が、単に地理的なだけでなく、文化的にも繋がっていそうなことは分かりました。



では、稲城はどうでしょうか?

調べてみると、決定的な伝承が見つかりました。

少し分かりづらいですが、画面真ん中の土盛りが鐙塚です。上記地図の紫マーカーです。

この写真の鐙塚がある周辺は、鐙野や鐙原と呼ばれていて、高句麗渡来人の伝承があります。

鐙野

新編武蔵風土記稿の高麗郡の総説に、武蔵鐙というものがあり、それは高麗人(高句麗人)が作ったものだという記事があります。

武蔵名勝図会では、多摩郡坂浜村の項で、ここは武蔵鐙を作った者たちが住んでいた所だとの説明があり、武蔵鐙は高麗人が作りはじめたから、ここに高麗人(高句麗人)が住んでいたんだろうという記述があります。

同じく武蔵名所図会の鐙野の項では、同じような内容で、ここは昔鐙作りの者たちが住んだ所で、だから鐙野というのだが、その鐙は武蔵鐙に違いなく、鐙師は高麗人(高句麗人)が先祖だと説明しています。

繋がりましたね。稲城、深大寺エリア、青梅が。高麗(高句麗)で。

更に、稲城と言えば取り上げざるを得ないのがこの妙見寺、妙見尊です。

妙見寺、上記地図黄マーカー
妙見尊、上記地図黄マーカー

妙見尊の蛇より行事の蛇

妙見と言えば、大磯から寸分の狂い無く真北である高麗郡に、高句麗知来人の集団を引き連れ大移動した、高麗郡の郡司となった高句麗の王、高麗"玄武"若光を思い出します。

稲城の妙見は、高麗"玄武"若光の痕跡でしょうか・・・

次回は青梅です。

2019年9月3日火曜日

品川、名所江戸百景

広重は名所江戸百景で品川を4景描いてます。
  • 品川御殿やま、春、28景
  • 月の岬、秋、82景
  • 品川すさき、秋、83景
  • 南品川鮫洲海岸、冬、109景
品川御殿やまは、ご存知の通り、暴れん坊将軍こと、八代将軍吉宗が、桜を植えて江戸庶民に開放してから桜の名所となりました。この絵の通りですね。

1858年
2019年、当時の場所だとただビルが写るだけなので、少し御殿山を登ったところで撮影

ん、、、でも、確かに桜は描かれてますが、どこか寂し気。御殿山に向かう道はグレーで、御殿山は削られ削られし、土も露になっているから、でしょうか。

実際、御殿山は削られました。その土はどこへ行ったかというと、お台場です。

品川御殿やまと台場、明治13年頃

因みに・・・今も台場は残ってるんです。現在の地図です。

2019年、きれいに残ってますね。黄色いピンを打ちましたが分かりづらいですかね?、ちょうど、北品川駅の右、"東品川"と、書いてあるエリアです。

その、台場付近を描いたのが、月の岬と品川すさきです。

月の岬、1858年
月の岬、2019年

品川すさき、1858年
品川すさき、2019年、分かりますか?, 画面中央の瓦屋根が洲崎弁天、利田神社です。なので手前の広めの歩道は目黒川ですね。

月の岬は、品川宿で一番繁盛していた妓楼、土蔵相模の一室からの江戸湾の風景と満月です。

に、しても、構図が天才的ですね。スゴイな。

その土蔵相模ですが、品川すさきの画面左下にも描かれています。

この2景は確かに連番なんですが、連作でもあるように思います。

俯瞰の構図が品川すさきで、土蔵相模にグーッとズームアップしていくと、月の岬の光景が写り出す、そんな感じです。

それからもう1つ。月の岬と品川すさきには台場が描かれてません。月の岬は構図的な面もあるかもしれませんが、品川すさきの洲崎弁天の向こうには、台場があってもおかしくありません。

にも関わらず、描かれていないのは、単に時期的な問題と思われます。ですので、描かれた順番としては、月の岬・品川すさき→品川御殿やま、なのだと思います。

1858年古地図、台場は描かれてない。ちょうど、この時に、広重が描いたのだと思う。

この3景はほぼ同じ場所で描かれてますが、月の岬と品川すさきは品川宿の賑わいで、品川御殿やまは、広重は何を描きたかったのかということを考えると、月の岬と品川すさきの品川宿の賑わいを対比で用いて、海外列強の侵略の脅威といった幕末情勢、長く続いた江戸という平和な時代の終わり、もっと言えば諸行無常、なのかもしれません。

この10年後、江戸が終わります。

南品川鮫洲海岸は、少し離れます。大森の辺り。



1858年
2019年、場所は少し違いますが、本当の場所だとただただビルを写すだけなので江戸当時の面影が残る唯一の場所、勝島運河です。

何故ここが名所かと言うと、画面の多くを占める海苔ですね。

生類憐れみの令が出た時、江戸と浅草中心部では漁が禁止となってしまいました。江戸の漁師は横浜や木更津に移住したらしいんですが、浅草漁師は、浅草で自然採取していた海苔の適地だと見て、多摩川河口の大森に移住したのです。

その後、浅草漁師は、大森で、海苔の養殖に成功します。大森は養殖海苔発祥の地なのです。だから名所だったんですね。

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そもそも品川は、武蔵国の国湊として大いに栄えた地域です。平安期以前の寺社を見ても、
  • 寄木神社、ヤマトタケル(〜西暦113年)伝説
  • 荏原神社、709年創建
  • 品川寺、806~810年開山
  • 常行寺、850年開山
  • 来福寺、990年開山
と、ヤマトタケルはちょっと、伝説色が濃いとして、最古参は荏原神社で、概ね、律令期の武蔵国成立、府中に国府が置かれて以降(710年以降)に歴史が始まっています。

荏原神社
品川寺

しかし、一点腑に落ちないことがあるんです。

地形図

マーカに説明を書いてないので分かりづらくて恐縮ですが、画面上やや右の黒が荏原神社、その西赤が貴船神社、荏原神社の下青が品川寺、その下グレーが寄木神社(旧地), その下緑が常行寺(旧地), その下青が来福寺です。
※それ以外の2つはここでは無視して良いです。

全体としては、目黒川と、その西にある2つの川の扇状地ですね。

各寺社の位置を個別に見ていくと、荏原神社以外は、微高地も含め、それなりに高いところ、大水の影響を受けにくい所にあります。

一番古い、よって陸地が最も後退していた時期に出来た荏原神社が、最も低い所に鎮座してます。

本当にここにあったのかな?!

と、調べてみたら、旧地は貴船神社ということでした。貴船神社と荏原神社はほぼ同じ由緒で、やはり元は同じ神社と思われます。

709年に、奈良の丹生川上神社から高龗神を勧請し、創建したということですが、丹生川上神社の祭神は罔象女神の神と書いてあります。違う神なのかなというとそうではなく、共に、水神です。

貴船神社の位置を見ると、扇状地が始まる岬の上にありますから、水神様としては好適地ですね。

平安期には、延喜式東海道が、正に貴船神社があった内陸の尾根部を通ってました。目黒川が運ぶ土砂によって陸地化が進むに連れ、生活域も徐々に海側にせり出していき、江戸期には品川を東海道が通り、品川宿ができ、広重が描くに至ったわけです。

2019年8月25日日曜日

深大寺から奥多摩・青梅へ 2, 府中崖線、立川から青梅、渡来の道

このシリーズの前回は、深大寺から府中崖線の道を忠実に辿り、府中崖線の道が甲州道中と重なる、立川公園の辺りまでをexplorerしました。

深大寺にいた高句麗渡来人の集団は、基本、多摩川を遡ったと思われますが、陸路で行った班もいたろうし、陸路の場合は府中崖線を行ったのではないかと推測したのです。

崖上は見晴らしも効いてriskを早く察知できるし、崖下に下りれば水が確保できる。だから縄文の時代から生活の場で、縄文・弥生遺跡、古墳、寺社が多く見られます。

そういった生活の場を繋ぎ自然発生的に発展していったのが、今回の陸路だったのではないか、ということでした。

今回はその続き、青梅まで行きます。



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立川公園から先の府中崖線の道は、基本、奥多摩街道です。

立川公園から暫くこれと言って立ち寄る所も無く、典型的な崖上からの眺望も無くて、ただひたすらにチャリを漕ぎ、熊川神社に到着です。

熊川神社

熊川神社は、色々な伝承がある神社で、その1つは、いつの時代かは詳らかではないものの、十数日に亘り多摩川で光が発していて、ある日の夕方、老翁が現れ、「我、この所に降臨して長く本土の守護神となり、疾疫及び諸災害を消除すべし」と告げて姿を消し、そこにあった石を大国主命の荒魂として祀ったというもので、何が面白いかというと、その石は、福生市教育委員会の境内掲示によると、宇賀神なんですね。何故、宇賀神を大国主としたのでしょうか?

宇賀神は中世以降、ですから鎌倉以降に日本で展開したので、多摩川で宇賀神像が見つかったのは中世以降ということになりますね。

しかし、この地の人々は、それを宇賀神と認識できず、大国主と認識したわけです。大国主は要するに蛇ですから、その知識はあったということですね。この辺りの人達は出雲系だったのでしょうか???

ご参考まで、これは井の頭弁財天の宇賀神像です。御覧のように、頭は人間、胴体は蛇です。

2つ目は、平安時代初期、この地に住む松原長者が、弁財天を祀ったことに始まるというもの。弁財天なので宇賀神像と繋がりますね。

3つ目は、平安初期、多摩川の砂鉄で産鉄していた部族が、元々は古墳(礼拝(糠)塚)だった所に、鉄の神として蛇 = 宇賀神を祀ったことに始まるというもの。蛇 = 縄文信仰 = アラハバキ = 鉄、という繋がりですね。

総括すると、元は蛇のような感じがします。直ぐ西には多摩川が流れています。川 = 龍 = 蛇ですしね。

川 = 龍 = 蛇だと瀬織津姫、そうなんです、アラハバキなんです。

熊川神社の末社、稲荷社は、熊川神社禰宜によると、アラハバキということなんです。

右の祠(稲荷と山の神の二柱が祭られている)の向かって左が稲荷

出ましたね、アラハバキ。

熊川神社の対岸には二宮神社があります。

二宮神社拝殿

実はここにもアラハバキがあります。

わらじが祭られてますね。祠の向かって右の柱には、"荒波々伎神社"の文字が確認できます。

更に行くと、阿蘇神社があります。

阿蘇神社拝殿

阿蘇神社、南参道。こちらが正参道。多摩川の堤にあります。

しかしこの阿蘇神社も謎です。何故、阿蘇神社がここ羽村に。

祭神は本家阿蘇神社と全く同じです。ですので、たまたま名前が一緒ということではないようです。

しかし、色々調べても、阿蘇から阿蘇神社を勧請したというような記事は見当たりません。

そんな中、見つけたのがこの記事でした。この記事には納得しました。

要約すると、アゾ = 阿須 = 崩崖という言葉があり、字の通り、川が削った崖地のことで、正に、阿蘇神社が鎮座している地もアゾの上だし、対岸もアゾで、対岸の山は阿須山と言われていて、

阿蘇神社から阿須山を望む

アソ神社は始めその山頂に祀られていた。だからアズ神社と言い、後に、アズ = アソ = 阿蘇 神社となったのではないか。

では何故阿須山山頂に祀られていたのか?, 多摩川の氾濫により、崩崖は、その名の通り、崩れていきます。阿須山の山頂に祀ったのは、もうこれ以上、崩崖が崩れないように、つまりは多摩川が暴れないように、と、いう内容でした。

つまりここも、川 = 龍 = 蛇 = 瀬織津姫 = アラハバキなんでしょうか。。。

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今回、深大寺・狛江エリアの高句麗渡来人たちが、多摩川を遡って高麗郡に向かった、陸路班もいて、彼らは府中崖線を行ったという仮説でexplorerしていく中で、熊川神社、二宮神社、阿蘇神社と、アラハバキが続きました。

大磯の高句麗渡来人たちが高麗郡に行ったルートには小野神社もありました。

が、高句麗渡来人との関連はどうなんでしょうか???

次回は拝島から高麗郡に向かうルートか、青梅から山越えで飯能に行くルートを行こうと思います。

2019年8月17日土曜日

大磯、渡来の道

このシリーズの前々回は、深大寺をexplorerしました。

深大寺を開いた満功の父福満が渡来人で、福満の妻であり満功の母(名無し)の父温井右近長者は高句麗の渡来人だった、このエリアを狛江 = 高麗江という、というストーリーでした。

今回は、その深大寺(狛江)エリア同様、高句麗渡来の伝承が残る、"始まりの地", 大磯をexplorerします。

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日本書紀によると、666年、玄武若光を含む高句麗からの使節団が倭国を訪れます。

668年、高句麗は、唐・新羅連合軍に滅亡させられました。玄武若光らは、まだ日本にいたなら、帰るに帰れなくなってしまったということになります。

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続日本紀によると、703年、高麗若光に、従五位下の官位(貴族)と王(こしき、と読む)の姓(かばね、と読む)を与えたとあります。

660年に百済が滅亡しますが、この時、百済と倭国は同盟を結んでおり、王子である善光は日本にいました。やはり、帰るに帰れなくなり、そのまま日本に土着します。その際、王の姓を与えられ、百済王氏と名乗っています。

このことから、高麗若光(高麗王氏)も高句麗の王子だったと思われ、玄武若光が王子であったことから、やはり、同一人物だったのではないか、と、想定されています。

716年、武蔵国に、東海道7ヶ国から、高句麗人1799人を移住させ、高麗郡を設置しましたが、高麗若光もその中の一人だった、、、というよりも、リーダー(郡司)だったと言われています。

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が、ここまで、高麗若光と大磯を結び付けるものは何もありません。

が、武蔵国高麗郡の高麗若光を祭る高麗神社によると、

「若光の故郷を去って我が国に投下するや、一路東海を指し、遠江灘より東して伊豆の海を過ぎり、相模湾に入って大磯に上陸した。」

とあります。また、大磯の高来神社奉納御船祭(7月)の祝歌は、

「そもそも高麗大明神の由来を尋ぬれば、応神天皇15代の御時(270〜312年)に海騒がしく、浦の者共怪しみて、はるかの沖を見てあれば、唐船一隻八ツの帆を揚げ、大磯の方へ舵を取る、走り寄るよと見る内に、程なく水際に船はつき、浦の漁船、漕ぎよして、かの船の中よりも、翁一人立ち出て、櫓に上がりて声をあげ、汝ら其れにて、良く聞けよ、我は日本の者にあらん、もろこしの高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れて大日本に心掛け、汝らきえする者なれば、大磯浦の守護となり子孫繁昌守るべし、あら有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗りうつり、揚がらせ給ふ、御世よりも、明神様(権現様)を乗せ奉る船なれば、明神丸(権現丸)とは此れを言うなり」

と、言う内容で、時代は大きく異なりますが、高麗神社の伝承に重なります。

と、いうことで、ここまでの話を統合し、高麗若光は、666〜668年、あるいは703年の後辺りに、直接か、ヤマト経由か分かりませんが、兎にも角にも、大磯に来て、土着し、716年には、現在の埼玉県日高市、当時の武蔵国高麗郡に、高句麗人の集団を引き連れて移住した、というストーリーが生まれています。

西から来たことを考えると、深大寺は大磯を経由したと考えられます。

よって、"始まりの地"なんです。

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平塚まで輪行。近代の東海道で大磯に。

高来神社です。

高来神社と高麗山
高来神社拝殿、元高麗寺の観音堂と高麗山
お隣の慶覚院の本堂、元高麗寺の地蔵堂と高麗山

その縁起(関連を含む)を改めて時系列で整理しました。
  • 神武天皇の時代(BC660〜BC582)の創建とする記録がある。
  • 垂仁天皇の時代(BC29~70)に神皇産霊尊と瓊々杵尊を祭神とした。
  • 神功皇后(170~269, あるいは290〜389)が三韓を征伐した時に神霊が御出現して勝利に導いた。因って武内宿禰は奏して東夷静謐の為に、神皇産霊尊(高麗大神和光)を当山の韓館の御宮に遷し奉った。これが高麗権現社の起源(以上、3項は高来神社境内案内板より)
  • 『箱根山縁起』には、「神功皇后三韓を討ち、後に武内大臣奏して云ふ、異朝の大神を請い奉り、令して天下長く安寧なることを祈願す。即ち百済明神を日州に奉遷し、新羅明神を江州に奉遷し、高麗大神和光を当州大磯に奉遷し、聳峰に因りて、高麗寺と名づく」とある。
  • 大磯の御船祭の祝歌(上記)での出来事、高句麗から守護が大磯に辿り着く伝承は応神天皇の時代(270〜312)
  • 安閑天皇の時代(532~535)に応神天皇と神功皇后が合祀された。(高来神社境内案内板より)
  • 668年、高句麗滅亡、若光高句麗へ帰れなくなる
  • 703年、若光従五位下官位、王姓賜わる
  • 716年、若光武蔵国高麗郡へ
  • 717年、行基僧正が巡国折にお祀りしてある千手観音を高麗権現の本地佛とお定めになり高麗寺を開山
  • 855年、円仁により本社の左峰に毘沙門塔を右峰に白山社を建立
  • その後、江戸期には東照宮となり、明治の廃仏毀釈で高麗神社となって、明治30年に高来神社となった。(以上、3項は高来神社境内案内板より)
と、スーパースター揃い踏みのもの凄い縁起です。

加えて、確かに、高麗若光ら高句麗人が大磯に来て、土着したことは間違い無さそうで、だからこの地は"高麗"であり、高麗の地にあるから高麗神社だったのでしょうが、高来神社そのものには、高麗若光は、関係していません。高麗若光が大磯に来るよりずっと前から存在し、祭神は高麗若光ではありません。

また、こうして時系列で改めて見てみると、高来神社奉納御船祭祝唄は、むしろ、神功皇后の凱旋を歌っているようにも思えます。

安閑天皇の時代(532〜535)に応神天皇と神功皇后が祭神に追加されるまではむしろ、渡来色は無く神功皇后三韓征伐伝承が主で、その後、668年の高句麗滅亡に伴い、高句麗人の集団が大磯に来たことで、祝唄の主人公がすり替わったようにも思えます。

また、これが大いなる疑問なんですが、何故、大磯だったのでしょうか?

"東夷静謐の為"との記述がありますが、に、しても、何故、大磯だったのか。

高麗山に登ります。

大堂跡に残る祠、傍らの石は積み石が崩れたものか?

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高麗若光を含む高句麗人の集団は、716年、大磯から武蔵国高麗郡に移住しました。

その時のルートですが、大きく2つあるようです。

1つは、実は、高来神社と武蔵国高麗郡の高麗神社は、キッカリ、南北の位置関係となりますが、この南北ラインに沿って行くルートです。

花水川を遡り、花水川が大きく西に曲がる所でそのまま北へ。津古久峠を越え相模川へ。相模川を遡り、相模川が大きく西に曲がる所でそのまま北へ。杉山峠・七国峠を越え多摩川へ。多摩川は遡らず、高麗峠を越え高麗郡へと行くルート。

もう1つは、相模川が大きく西へ向きを変えるまでは同じで、そこから府中に向かい、府中からは多摩川を遡り青梅に至り、青梅から山を越えて飯能に至るルートです。

尚、深大寺へは海上ルートで行ったものと思われます。



今回はこのルートを相模国愛甲郡玉川郷まで行きます。

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花水川を遡ります。

この道は大山に向かう道でもあったのです。
白髭神社跡

ここに嘗て白髭神社がありました。

この少し手前、鈴川と名前を変えた花水川が大きく西へ向きを変える辺りまで、高句麗人の集団が高麗郡に移住した700年頃は、入江でした。この白髭神社は、その入江に面する位置にあったのです。高麗郡への道中にあり、入江に面していて、白髭神社であることを考えると、これもこのエリアの高句麗遺跡の可能性があります。

さて、道は、伊勢原駅を過ぎ、八王子大山道と重なり、津古久峠を越え、相模国愛甲郡玉川郷に至ります。

土道が残る津古久峠

ここには、延喜式神名帳に載る小野神社があります。

小野神社

この神社は実に興味深い神社です。

まず、名前も、祭神も、全く同じ神社が3つもある内の1つであるということです。

府中市の小野神社、多摩市の小野神社、そしてここ厚木市の小野神社です。

祭神は、天下春命、瀬織津姫(アラハバキ), 春日大神です。

小野路道の時にも考察しましたが、多摩市と府中市の小野神社は、例えば、元は1つの神社で、多摩川氾濫によって分かれた、というように、強い関係があると考えるのが合理的と思われます。

が、厚木市は何なんでしょうか?

厚木市の小野神社ですが、鎌倉時代には、愛甲三郎季隆が当社を篤く信仰していて、古い納札には建久5年(1194年)に当社を再興した記録があります。

この愛甲季隆、元は横山季隆で、横山氏の相模国進出に伴い横山氏の根拠地、武蔵国横山庄から相模国愛甲郡玉川郷に来ています。

その武蔵国横山庄には、既述の2つの小野神社があります。厚木市の小野神社は、愛甲季隆が、愛甲郡に来た際、地元横山庄から持ってきたのかもしれません。

もう1つの伝承に、霊亀2年(716年), 行基が薬師如来の像を刻んで当社に奉安したということがありますが、小野神社の西に日向薬師があり、日向薬師の開山伝承と似ています。これは恐らく、日向薬師の開山伝承と混ざってしまったのかもしれません。つまり、厚木市の小野神社は716年には創建されていなかったと。

そうなると、上記の愛甲季隆が勧請したという説の確度が上がりますが、一方で、厚木市の小野神社は延喜式神名帳に、「相模国十三座の内愛甲郡一座小野神社」と記されているんです。と、いうことは、927年の時点で既にここにあったと言うことになります。

でも、そうなると、厚木市の小野神社、多摩市の小野神社、府中市の小野神社、これら全て、たまたま、祭神が、天下春命、瀬織津姫(アラハバキ), 春日大神と同じで、たまたま、名前も同じで、しかし、別の所に出来たということになり、そんな偶然があるのだろうか、と、思ってしまいます。

あるいは、別の祭神が祭られていた小野神社があり、愛甲季隆がこの地に来た時に祭神を追加し、いつのまにか主祭神となった、ということでしょうか。

そうなると、第六天、稲荷、淡島、金毘羅、山王の内のどれか、ということになります。

それと、これは厚木市だけではないですが、やっぱりアラハバキですね。

アラハバキ神

色々と謎があって面白いです。

アラハバキと言えば、伊勢原駅の手前に三福寺があり、その山門前に子の権現があります。

三福寺の子の権現

境内の説明によれば、子の聖はここ伊勢原に滞在していたようです。その後、飯能の天龍寺を開きます。

子の権現境内の説明

伊勢原と飯能(高麗郡)がアラハバキで繋がった?, のでしょうか。

さて、小野神社から日向薬師に向かいます。

日向薬師への道すがら、切り通し
日向薬師への道すがら、この道は大山へ向かう道

日向薬師に到着です。

参道
日向薬師

(日向神社 = 白髭神社の写真撮り忘れ!これを撮りに行ったと言っても過言ではないのに!)

日向薬師と日向神社には、以下のような伝承があります。

716年、行基が薬師を彫ろうと良い木材を探していた所、高麗若光が良い木材を提供してくれて、無事、薬師如来を彫ることが出来たという内容です。その高麗若光を祭ったのが日向神社となります。

この伝承が本当なら、と言うか、この伝承もあったから、他のご紹介済の伝承と合わさって、高麗若光大磯上陸・高麗郡移住の伝承となったものと想定します。

既述しましたが、高来神社と高麗神社の位置関係はキッチリ南北なんです。

この、"真北"というのは北極星を目印に進んだ、つまり、妙見信仰ということです。

妙見信仰とは、まだ人々が農耕を中心とした社会に入る前、狩猟中心だった時代、日本で言えば弥生に入る前の縄文の時代、全く位置が変わらない北極星は、移動の際の生死を左右する大事な道標だったのですが、それが元となり、やがて北極星が神格化したもので、日本には6世紀頃に入ってきたと言われています。

しかも、"玄武"若光です。

"玄武"とは、中国の四神(青竜、朱雀、白虎、玄武)の1つで、北方の守護神、北極星の象徴です。つまり、若光は、北極星になったのです。

GOT的に言えば、"北の王"でしょうか。

祖国を滅ぼされ、故郷を失った、"北の王", 高麗"玄武"若光率いる高句麗人の集団は、妙見信仰の下、北極星を道標に、北へ、北へ向かっていき、新天地高麗郡を目指したのです。。。

どうですか、ロマンチックなストーリーになりますよね。人はロマンチックを求めます。こうして、高麗若光伝承は、生まれたんだと思います。

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最後に、記事中では、"海上ルート"と、軽く触れただけでしたが、大磯と深大寺(狛江)の関係を見てみます。

大磯の曽我物語と深大寺縁起の共通点を上げてみますと、
  1. 曽我十郎の妾の名は虎御前、温井長者右近の妻の名は虎
  2. 虎御前の母の名は満江御前、深大寺開創は満功上人
  3. 虎御前は山下長者の娘、満功の祖父は温井右近長者
  4. 山下長者が池の中の島にある弁天様に祈願して虎御前が生まれ、虎は十郎の無事をこの弁天様に祈願した。満功上人の父、福満は、池の中の島に隠されていた温井長者右近の娘に会う為に、深沙大王に祈願し、成就後、深大寺を開山し、後に中の島に亀島弁天を祀った。
と、名前と役割は入れ替わってますが、共通点が多いです。

もう1つ。
  1. 多摩川を遡る方向で言えば深大寺(狛江)の手前、世田谷区大蔵の吉祥院は、行基開基、良弁開山で、渡来人の秦氏某が糧材を喜捨して堂宇を建立したという伝承がある。
  2. 日向薬師の伝承は、上記の通り、行基が薬師を彫ろうとし良材を探していたら渡来人の高麗若光が提供してくれた。日向薬師の奥は大山寺で良弁開山。
と、非常によく似ています。

と、いうことで、大磯と深大寺(狛江)の間には、人の流れを感じさせます。やはり、大磯から深大寺(狛江)へ海上ルートで高句麗人の移動があったのだと推定します。

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今回、大いに参考にさせていただいたサイトは以下の通りです。