2021年2月11日木曜日

日本のシルクロード、多摩エリア、その6, 甲州道中沿いの府中から立川

前回は三鷹の大沢と府中の人見で養蚕痕跡をexploreしました。

初午の三日後ということもあって、大沢の風習である五色の幟で初午を祝っている姿を見ることができました。養蚕痕跡です。

さて、今回は、人見の西側、甲州道中沿いの府中から立川までをexploreしたいと思います。

府中崖線が始まる狛江から府中までの府中崖線と甲州道中の間(品川道沿い)は以前exploreしましたから、今回はその西の、甲州道中を中心としたエリアを行きます!!

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まず訪れるのは前回exploreした人見の南に位置する、"染屋" です。

今昔マップ(1896~1909)の染屋

地名からして気になりますよね。養蚕に縁があるような。

調べてみると、やはりそうでした。

府中市によれば、

『現在の白糸台地域は、江戸時代には上染屋(かみぞめや)村、下染屋(しもぞめや)村、車返村と称されており、車返村の古名(こめい)を白糸村といいます。染屋(そめや)・白糸という地名は、その名のとおり製糸や布染めに由来するようです。この地域は昔から蚕を飼い絹糸を作っており、それを世田谷の砧に送り、糸をさらし、それを上染屋(かみぞめや)、下染屋(しもぞめや)にまわし、糸を染め上げて、八王子の織屋に送り、これを国府に納めたものである、という言い伝えがあります。近隣の「調布」「布田」といった地名と由来がよく似ています。』

と、言うことでした。

この説明の、"この地域" というのは染屋限定ではなく、もう少し広い地域を指しているように思います。

この辺り、多摩川と甲州道中に挟まれたエリアは、砧、染地、調布、布田、染屋、白糸と、糸や布に関する地名が多く残っています。"この地域" というのは、この辺り一帯を指しているのではないかと思います。

その中で、役割が決まっていたのでしょう。養蚕し、生糸を生産したら、世田谷の砧に送り、多摩川でさらしたんですね。万葉集にも、

"多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだかなしき"

という句が残っています。

その後、染地、あるいは染屋で染色をしたんでしょうね。

上染屋八幡神社、北多摩神社誌によれば、鎮座の起源は正慶二年(一三三三)上野国碓氷郡八幡より、武蔵国府に遷座したと伝えられ、当神社本地仏銘文に上州八幡の庄弘長元年(一二六一)十二月日云々の文字がある。正平十一年(一三五六)武蔵守新田義宗社殿再建、承応二年(一六五三)八月多摩川洪水にて社地が流失したため、現在地へ遷座鎮祭した。昭和三年本地仏は国宝に指定された。

染屋不動尊、府中市によれば、国指定重要文化財の「銅像阿弥陀如来立像」が安置されている。像高48.8cm、台座12cmの小さな仏像で、円満・優美な相貌を持っています。背中の銘から、弘長(こうちょう)元(1261)年に上州八幡庄(群馬県)の友澄(ともずみ)入道によって鋳造されたことがわかる。

下染屋神明社、風土記によれば、社地年貢地、二間に三間の覆屋あり、街道の北側にて稲荷第六天を合祀る、観音院持、後世この地に移せるなり、舊地は神明社地蹟とて、今田間に三所あり、土人併せて是を染屋塚とも又染殿塚ともよべり、傳説に大古日本武尊の御衣を染し瓶を埋て明神を勧請せりと、此事尤妄説信じがたし、別に自ら由来あるべし、未だ考へず、旦三所共に神明社地と稱することいぶかし、其内一箇所神明社にして、餘の二所は或は合殿に祀る所の稲荷第六天の社地ならんか、此等のこと今皆しるべからず。

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今昔マップで1896~1909年の府中周辺を見てみると、国分寺崖線と甲州道中の間の立川段丘と、甲州道中の北側も桑畑(YとLを組み合わせたような地図記号)一色ですね。

今昔マップ(1896~1909)の府中周辺

これを迅速測図(1880~1886)で見てみると、ちょうど、地図のつぎはぎの関係で色が変わっている所から左右で、右は畑のみ(前回訪れた人見付近には桑畑は見られませんね。畑のみです。), 左は桑畑(赤下向き矢印)のみ、と言った感じになっているのが分かります(無地は草地、あるいは樹林帯)。

つまり府中は、空前の生糸ブームの前から養蚕がなされていたということが分かりますね。

迅速測図時代の府中

そんな中、訪れたのは、分梅の天王宮八雲神社です。

と、言っても、今回のテーマでは境内社のお稲荷さんを訪ねます。こちらのお稲荷さんでは、今なお初午祭を執り行っています。訪問したのは初午祭の翌週でしたが、祭りの跡はありませんでした。

そして次は、本宿の稲荷神社です。

1573年創建の伝承あり。ここも初午祭を執り行ってますが、残念ながら痕跡はありませんでした。が・・・

貼り紙が。確かに、今尚初午祭を開催してます。

先を行きましょう、谷保天満宮です。

谷保天満宮

天満宮で養蚕?!, と、思われた皆さん、はい、その通りなんですが、ここでは毎年成人式の頃に、どんど焼きを開催していて、その際、繭玉を模したお餅を焼いて食べるそうです。

どんど焼きが最初というよりは、恐らくですが、お稲荷さんの初午祭の際の養蚕風習が、初午祭は開催しなくなったものの、どんど焼きに引き継がれたということなんだと思います。

谷保天満宮、境内社のお稲荷さん

先を行きましょう、青柳稲荷神社です。

青柳稲荷神社、ここもどんど焼きと初午祭りを執り行っているということでしたが、先週開催されたはずの初午祭りの跡も残ってませんでした。

最後に、矢川弁財天です。

矢川弁財天、

ここは養蚕関係の記事を見つけられませんでしたが、ここまで蛇推しということは、養蚕の守り神だったに違いありません。

弁天池を渡る橋の欄干に蛇

そして狛蛇

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如何でしたでしょうか。

大沢のように初午祭りの痕跡が残っているかと思いましたが、きれいに片付けられていました。残念。

養蚕痕跡というよりは、ただただ神社を巡ったexploreとなりました。

しかし、府中から立川にかけては、迅速測図(1880~1886)でも桑畑が確認できました。これは、人見、大沢、品川道沿い、世田谷区、杉並区とは異なる傾向です。

2021年2月6日土曜日

日本のシルクロード、世田谷周辺、その5, 三鷹の大沢と府中の人見

前回、府中崖線(古品川道、いききの道、あるいは筏道)と甲州道中に挟まれたエリアの養蚕痕跡をexploreしました。

府中崖線の上、ハケ上ですから、水に不便で、水田は出来ず、畑が多かった土地ですが、生糸の輸出急増に伴って、桑畑に変えられていき、今昔マップ(1896~1909)を見ると一面桑畑でしたね。

と、言うことで、次のexplore先を見つけるべく、府中崖線のハケ上、国分寺崖線のハケ上を、今昔マップ(1896~1909)でチェックしてみたのです。

府中崖線、国分寺崖線

すると気付きました。

ハケ上ならどこでも良いというわけではないんですね。

ハケ上の、且つ、人が住んでいる所、そういう所に桑畑があるんです。

ハケ上であっても、人家が無ければ桑畑も無い。

まずこの図は前回同様、府中崖線と国分寺崖線の間、つまり、立川段丘のあるエリアです。前回よりも北、甲州道中より北のエリアとなります。赤丸で囲った所が人家がある集落で、そこにYとLの桑畑地図記号が確認できます。が、人家が無いエリアは針葉樹(三角にチョン)と広葉樹(丸にちょん)の地図記号、つまり樹林帯ですね。ハケ上ならばどこもかしこも桑畑というわけではなく、人家の近くにしか桑畑は分布してませんでした。蚕が唯一口にするのは桑の葉です。それも良質でなければならなかったそうですから、直ぐに駆け付けられる所じゃないといけなかったということが、これからも分かりますね。

前回のエリアは府中崖線と甲州道中の間ですが、人家のある甲州道中から府中崖線までそう遠くなく、だから全面桑畑だったんですね。

前回の品川道周辺の桑畑の密集具合

この気付きに基づいて今昔マップ(1896〜1909)を、前々回の深大寺の西隣から見てみると、まずは大沢の集落に、その西は少し間を空けて人見の集落に桑畑があることが分かります。その間は人家が無く桑畑もありません。人っ子一人住まない樹林帯です。

大沢、人見。大沢の右(東)にも集落ごとに桑畑があるが今は国立天文台になっている。

人見まで来ると直ぐ南が甲州道中ですから、甲州道中を東へなぞってみると、人家がある甲州道中沿いの北側(南側は前回済)はほぼ桑畑ですが、それより北は広葉樹、針葉樹の樹林帯、あるいは草地(白地)です。

と、言うことで今回は、深大寺エリアの西側、三鷹の大沢と府中の人見に養蚕痕跡を探るexploreです。

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まずは大沢の集落です、大沢の里古民家に向かいます。

大沢の里古民家、嘗ての箕輪家の住宅、1902年築造

"三鷹の民俗" によれば、この辺りでは明治の終わりから戦前まで、養蚕が盛んで、農家ならどこでもやっていたそうです。

この古民家でも養蚕をやっていました。上記写真で、屋根の上にまた1つ屋根がありますがこれは換気用で養蚕農家の特徴です。

この屋根裏部屋がお蚕様の部屋でした。

次に向かうのは対岸の大沢の里水車経営農家です。

大沢の里水車経営の農家

ここでも養蚕をやっていました。

お蚕様の屋根裏部屋

養蚕道具

ここ大沢では、養蚕農家は養蚕の無事を祈り、榛名、御岳、蚕影山の講を組織し、代参していたそうです。

榛名神社は雹・雷除けです。蚕の餌となる桑の順調な育成を祈ったのです。

御嶽神社は盗難除け、丹精込めて苦労して育てた蚕や繭、糸などが盗まれないようにということです。

蚕影山神社はそのものズバリですね。

代参の日待ちは、立ち日待ちと帰り日待ちの2回あったそうで、立ち日待ちは当番の家で宴会し、立つ日を待ったそうです。蚕影山神社への立ち日待ちの場合は、更に、小豆粥と餅で繭玉を作ったそうです。

帰り日待ちでは、榛名神社の御札を畑に立て、御嶽神社は蔵や玄関に立て、蚕影山神社は床の間に掛け軸を掛け拝んだそうです。

ハケ上の畑、もしかしたらお札があるかもしれないと思い探索しましたが、ありませんでした。迅速測図でも畑ですから、江戸時代から続く畑だと思います。

しかし、お稲荷さんは、嘗ての養蚕が盛んだった頃の痕跡が残ってました。

ハケ途中のお稲荷さん、犬か狐か判断に迷いましたが、尻尾が大きかったので狐と判断しました。お稲荷さんです。ここ大沢では、初午の際、五色の幟で飾り付け、油揚げとメザシを備えて祝ったそうです。養蚕痕跡ですね。

箕輪家でも

道端のお稲荷さんも

本日は初午の数日後。なので、よく残ってましたね。

先を行きましょう、人見の集落です。

ここには人見稲荷神社があります。

人見稲荷神社

ここはその名の通りお稲荷さんで、1597年に周辺の稲荷神社を合祀したそうですが、養蚕という本題から外れますが、非常に興味深い歴史があります。

風土記には大したこと書いてないんですが、北多摩神社誌によれば、

『武蔵国造兄武比命の祀られた社であり、六所宮客来三所之神と称される。寛喜三年武蔵左衛門尉資頼神殿奉行として三所之宮を造営され・・・』

と、あります。

冒頭の、"武蔵国造兄武比命の祀られた" というのがどうやら解釈の分かれる所のようで、"武蔵国造兄武比命が祀られた(受け身)" と解釈するなら、先代旧事本紀によれば、131~190年の成務天皇の時代に初代无邪志国造となった兄武比命が、誰かによって祀られた、恐らく131~190年より後の時代ですよね、と、言うことになります。

これが、"武蔵国造兄武比命が祀られた(尊敬語)" と解釈するなら、131~190年に、兄武比命自身が何かを祀ったということになります。

では何を祀ったのかと言うと、それが、その後の文言である、"
六所宮客来三所之神" です。

じゃあこの、"六所宮客来三所之神" とは何なのか。

六所宮、つまり、大國魂神社の客来 = 客として来た神 = 三所之神を祀ったということなんですが、じゃあ、"三所之神" とは何なのか。

これは、武蔵国一宮である小野神社の神、倉稲魂神、天下春命、瀬織津姫の三柱のことだというのです。

瀬織津姫を祀る祓戸神社

その後、寛喜三年(1231)に、武蔵左衛門尉資頼、この人は神殿奉行だったんですが、改めて御宮を造営したと。

そうなるとここは4つ目の小野神社ですね。

他にも色々な解釈があるようで、
  1. 兄武比命によって小野神社が創建され、それとは別に、武蔵左衛門尉資頼によって1231年にこの地に勧請された。
  2. 三所之宮は、武蔵国三宮である大宮氷川神社である。
  3. 2については、人見街道を東に行くと大宮八幡神社に至るが、更に行くと~今は道筋がハッキリしませんが~大宮氷川神社に至る。大宮氷川神社は、国府祭の際、大國魂神社に向かう時、ここ人見稲荷神社を御旅所とした。
  4. 三所之宮とは熊野の本宮、新宮、那智のこと
と、何が正解が分かりませんが、武蔵国成立、あるいは武蔵国府がこの地に設定された頃に、何となくルーツがあるような、最も新しかったとしても1231年ですから、非常に歴史深い神社、エリアということになりますね。

さて、養蚕の本題に戻り、稲荷神社ですから、調べると今は初午祭をやってないようですが、嘗ては初午に繭玉団子でも作ったんではないでしょうか。

そのまま浅間山を登り浅間神社を参りましょう。

浅間神社

この山も上記今昔マップ(1896~1909)でお分かりの通り、今は雑木林ですが、一面に桑の木が植えられていたんですね。

いやぁ、本当にスゴイ。

浅間山は立川段丘の独立峰ですから、眺望がよく西への眺望では富士山もよく見えます。

浅間山は3つピークがあって、浅間神社があるピークでは実は富士山は見えません。西のピークからはこのように良く見えます。

だから、浅間神社ということなんだも思いますが、浅間神社の祭神は木花咲耶姫で、火防の神、だけでなく、養蚕の神でもありました。

養蚕盛んなりし頃は、養蚕の無事をお祈りしたのではないでしょうか。

さて、人見村の最後は、養蚕農家の家屋をそのまま活用したカフェに寄りランチとしましょう。

人見稲荷神社参道入口の目の前、おもだか。本日はコロナの影響か臨時休業でランチ頂けず。

その後、甲州道中沿いの稲荷神社を巡りましたが、初午祭をやってる、やってた痕跡も無く、榛名講や御岳講、三峰講の痕跡も無く、今回のexploreはこれにて終了としたいと思います。

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如何でしたでしょうか。

大沢集落の初午の風習が本日のハイライトでした。初午の2/3から3日しか経ってなかったのでよく残ってました。

でも甲州道中沿いの神社には痕跡無し。今昔マップ(1896~1909)を見るとあれだけ盛んだった養蚕ですが、痕跡を探すのは難しいですね。

2021年1月19日火曜日

日本のシルクロード、世田谷周辺、その4, 品川道編

前回は深大寺周辺の養蚕痕跡をexploreしましたが、その時、今昔マップを見て気付いていたんです。

遡ろうと思えば縄文時代まで遡れる、従って最も古い品川道、"古品川道" とでも言いましょうか、"いききの道" や "筏道等" とも呼ばれますが、府中崖線のエッジを行く道、この道と甲州道中に挟まれたエリア、ここが一面桑畑だったんです。

布田付近をzoom upしました。YとLを組み合わせたような記号が桑畑です。

このど真ん中を行く道、それが品川道です。

今回は、行きは古品川道、帰りは品川道を使い、養蚕痕跡をexploreしたいと思います。

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今昔マップ(1896~1909)を見るとこの沖積低地には殆ど桑畑はありません(上図参照)。古品川道と甲州道中の間は、つまり崖上は、こんなにも桑畑だらけなのに。


この時にも言いましたが、府中崖線(古品川道)より多摩川寄りの沖積低地エリアは、多摩川の氾濫原で(多摩川洪水時は遊水地の機能も果たしていました。), よって、人は住めず、しかし、水には恵まれ、肥沃な大地でしたから、一面の田畑で、千町耕地と呼ばれていました。

田畑に合った土地ということで桑畑が無かったんだと思いますが、ごく一部、多摩川沿いにポツポツとあり、それは、養蚕が国策として奨励され、爆発的に広がる前、迅速測図の時代(1880~1886)からあった桑畑です。

ここは、田畑にもならないようなところだったんだと思います。

迅速測図で多摩川沿いに桑畑が確認できる。多くが堤防の内側で、田畑にならない荒れ地中の荒れ地だったと思われる。

下記GoogleMapsを見てください。赤ポイント、赤ポリゴンが桑畑です。品川道沿いの桑畑意外に多摩川縁にもポツポツと桑畑があるのが分かると思います。



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まず最初は柳久保稲荷神社です。

柳久保稲荷神社

色々と調べましたが養蚕に関する風習は確認できず、初午祭を執り行っているかどうかの情報も見つかりませんでした。

が、今昔マップ(1896~1909)では桑畑に囲まれてますから、恐らく養蚕の無事を祈る対象だったと推測します。

画面真ん中の鳥居マークが柳久保稲荷神社、周りは桑畑

また、境内の案内によれば、元はここの南の柳窪と呼ばれるところに鎮座していたが、度重なる洪水により台地上に環座したとのこと。

迅速測図を見るとその時点(1880~1886)で既に現在地にあります。また、すぐ隣には八幡神社があったようですが、今は写真の通りです。

今昔マップ(1896~1909)を見るとその時点で既に八幡様は桑畑にとって代わってますね。お稲荷さんは養蚕守護ですが八幡さんは養蚕には役に立たない、そういうことでしょうか???

画面真ん中に配置。青ポイントが柳久保稲荷神社で、迅速測図にも稲荷の文字がある。その直ぐ東に八幡祠の文字があるが今は無い。

先を行きましょう。何度も来た道ですが、改めて、馬頭観音なんか無いかなと思いながら走ります。

馬頭観音には出会えないまま、上石原若宮八幡神社に到着です。

境内社の稲荷神社

ここで注目は御大の八幡様ではなく境内社の稲荷神社です。ここも養蚕の習慣や初午祭の記事は見つかりませんでしたが、下記今昔マップを見てお分かりの通り、桑畑の中にあったといっても過言ではなく、お稲荷さんということで、初午祭で養蚕守護を祈っていたに違いありません。

画面真ん中に鳥居マークが2つ。東のものが八幡様、西は第六天、牛頭天王、秋葉権現、天満宮の4つとお稲荷さんでした。1909年、西側の敷地は無くなり5柱全て東側の八幡様の敷地に環座されました。この今昔マップではまだ西に在りますね。この今昔マップは1896~1909年ですから、作成時はギリギリまだ残っていたということです。面白い。

先を行きましょう、車返福徳弁財天です。

車返福徳弁財天

弁財天は過去もご紹介しましたが、経典に、"水辺に住む" とあり、水神と集合し、水神は蛇や龍と捉えられ、蛇は蚕や繭を食べる鼠を食べてくれますから、養蚕農家の守護神となっていきました。

車返福徳弁財天は、やはり、WEBで検索してもさしたる情報は出てこないんですが、下記今昔マップのように、桑畑の中にありますから、養蚕の守護神として信仰を集めたと推測します。

今昔マップで確認出来る鳥居マークは2つで、東の方が今回の車返福徳弁才天と思いきや、実はそれは車返稲荷神社であり、西の方はと言うと、車返諏訪神社であって、車返福徳弁才天は今昔マップ(1896~1909)では確認出来ません。しかし、境内の還宮碑によると隣接地にあったとありますから、この辺りにあったことは間違い無く、桑畑の中にあったと言えます。

境内にある還宮碑に、嘗ての鎮座地は、豊かな自然林に囲まれ周囲の濠は川魚の宝庫だったとあるので、今の鎮座地の直ぐ西に針葉樹の地図記号があり、その直ぐ隣に4本の川が合流していますから、ここが嘗ての鎮座地ではないかと想像しています。

実は帰り道に寄ったんですが、この2つの神社もここでご紹介しましょう。

車返八幡神社の境内社稲荷神社

ここもさしたる情報は得られませんでしたが、上図今昔マップで分かる通り、桑畑の真ん中にありましたから、養蚕守護神だったと思われます。

車返諏訪神社

諏訪神社は蛇ですから、弁天様と同じく、養蚕守護神と捉えられていた可能性はあると思います。この車返諏訪神社にはさしたる情報はありませんでしたが、実際、諏訪神社が養蚕守護だとされた神社もあります。

車返稲荷神社

ここは初午祭を執り行っていたそうですから、確かな養蚕痕跡と言えそうです。

先を行きましょう、府中競馬場前の馬頭観音です。

真ん中が馬頭観音

以前も言いましたが、馬頭観音は馬ですから馬繋がりで養蚕守護神となっていきました。

馬頭観音の立地

立地からして、ここもその可能性があると思います。

折り返して、飛田給駅を過ぎた辺り、道生神社です。

道生神社

ここは稲荷神社ですから、他同様、養蚕守護神だったと推測します。

先を行きましょう。赤稲荷です。

この一角、良い雰囲気ですね。

調布市史 民俗編によれば、現在もビシャ講(稲荷講)が続いているそうです。ビシャ講とは初午に行われる初午祭とセットですから、このお稲荷さんは養蚕守護神だったのでしょう。

先を行きましょう、杉崎稲荷と三峯神社です。

杉崎稲荷

ここは初午祭を執り行ってます。養蚕痕跡ですね。杉崎家によって祀られてます。

三峯神社

こちらは三峯神社です。同じく杉崎家です。

以前書いたように三峯神社は養蚕守護のお札を出していましたから、秩父は養蚕が盛んでしたし、だから、養蚕守護神として祀られてました。

中を見るとお札が・・・

みつみねじんじゃに祀られている御札

今日はここがハイライトでした。

最初発見した時、おおーっと思いましたが、よく見ると、養蚕守護御札はありませんでした。流石に、もう、養蚕はやってませんしね。

左から、盗賊除け、眷属拝借盗賊除け火防、火防とあります。お札の新しさから今も講が続いていると想定されます。

明治の養蚕が凄かった頃は、間違い無く、養蚕守護のお札ももらってきていたんだと思います。

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如何でしたでしょうか。

もう何度も行った所。正直モチベーションは終始上がらなかったですが、最後の三峯神社のお札で救われました。養蚕守護御札はありませんでしたが、講が続いていることが分かったからです。間違い無く、嘗ては養蚕守護御札ももらってた、つまり養蚕痕跡だと思います。

2021年1月14日木曜日

日本のシルクロード、世田谷周辺、その3, 深大寺編


金子弁財天への道すがら、都道114号の旧道となる鎌倉街道が国分寺崖線を駆け下りる暗闇坂。路面はアスファルトではあるものの切り通しがよく残っている。坂上には庚申塔も。

まずはこの文章を

『八王子から横浜の絹の道をexploreしようと、事前机上exploreはほぼ完了済も、コロナで不要不急の外出に自粛要請が出ている状況で、サイクリング自体は可能と判断するも、八王子となると、ゆっくりexploreを楽しもうとすれば輪行ということになり、自粛範囲に入ってくる。

我が区世田谷でのサイクリングなら、"近所でのジョギング等の軽い運動" に含まれると判断し、世田谷区の養蚕痕跡を巡るexplore, つまり、"絹の道、 世田谷周辺版"を敢行した。』

これは、昨年4/13の投稿の冒頭部分です。

いやぁ、一年経って全く同じことを言わなければならないなんて、想定してませんでした。

絹の道はザックリ言うと八王子から町田を経由して横浜への道ですが、八王子から一山越えて〜因みに、この一山は武相国境尾根でもあるんですが〜町田に出なければならず、そこが山道で、桜の季節が終わってから年末くらいまでは藪と蚊で不快だし、何と言っても落ち葉の絨毯を行くのが楽しいので、事前机上exploreだけ済ませ、準備万端での、"冬待ち" だったんですが、コロナになり、更に一年待って、"finally" とばかり勇んだものの、"again" ということになってしまいました。

と、言うことで今回も輪行無しご近所explore, 深大寺の養蚕痕跡を巡るexploreに出発です。

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深大寺最大のイベントは、毎年3/3, 4に開かれる厄除元三大師大祭です。

深大寺は1646年にその殆どが焼け落ちたという火災に遭いますが、元三大師の像だけは火難を免たということがあり、この霊験が、七転び八起きのだるま信仰と習合し、だるま市が開かれるようになりました。

さて、蚕は繭を作るまでに4回脱皮しますが、この脱皮のことを、"起きる" といいます。 

この、"起きる" と、だるまの七転び八起きが習合し、養蚕農家は、だるまを大切な守り神として祀ってきたのです。

地図をご覧下さい。赤ポリゴン、赤ポイントが、1896年の今昔マップで桑畑が確認できたエリアです。



深大寺周辺もこれまでご紹介してきた世田谷区、杉並区、狛江市に負けず劣らず、養蚕が盛んでした。農家の7, 8割は兼業していたそうです。

だから深大寺のだるま市は、深大寺周辺の養蚕農家にとっても、とても重要なイベントだったんです。

深大寺元三大師堂、コロナで成人式が中止となり、晴れ着姿の若者たちとその親御さんたちで大いに賑わってました。良いのか悪いのか。。。

深大寺は野川の支流の底に位置し、支流が削った崖を背にしていますから、湧水が豊富です。

その湧水で水車が回され、様々に活用されましたが、生糸の糸巻きにも使われたそうです。

復元された水車

青渭神社の支流と深大寺の支流の間の台地を南へ行くと国分寺崖線を駆け下り佐須エリアとなりますが、少し東に行き昇華学園の西脇、国分寺崖線の途中に、虎狛神社の境外社、里の稲荷神社があります。

里の稲荷神社、名前からは、本宮は遠くにありお参りが大変だから里の近くに設けた里宮という意味ですが、本宮は何処なのか?

ここでは初午祭を執り行っており、繭玉に見立てた団子を作って養蚕の無事を祈る風習が今尚残っています。

初午団子をたくさん振る舞うと、繭から毛羽をとる、"繭かき" 作業が賑やかになって良いと言われ、たくさん作り、余ったものは近所に配る風習もありました。

と、言うことでここ里の稲荷神社は深大寺エリアの養蚕痕跡なわけですが、そもそも、初午と養蚕の関係は?, という疑問が残ると思います。

これについては、詳しく、本シリーズのその1で説明していますので、ここにコピー&ペーストしたいと思います。ご参照頂ければと思いますが、本記事でも簡単に説明したいと思います。

馬は養蚕と強い関係があります。
  • 中国の捜神記(東晋時代、317~420年)では、

    父親が旅に出て戻ってこないのを心配した娘が、飼い馬に、冗談で、父を連れて帰ってきたらお前の嫁になると言った。すると馬は家を飛び出し父親を連れて帰ってきた。娘を見る馬の様子がおかしいのに気付いた父親が、娘から馬との約束を聞き、怒ってその場で馬を殺し、皮を剥いで庭に干しておいた。娘も庭に出て馬の皮を蹴った。すると、不意に馬の皮は娘を包み込んで飛び去り姿が見えなくなった。数日後、父親は、娘と馬の皮が蚕と化して庭の桑の木の上で糸を吐いているのを発見した。その繭からは通常の繭の数倍も糸がとれたという。

  • 上記捜神記が東北地方を中心に入ってきて若干変化したものと思われる、オシラ様伝説では、

    昔、ある百姓が娘と二人で住んでいた。娘は飼い馬を愛して夜毎厩舎に行って寝ていたが、ついには馬と夫婦になってしまった。これに怒った父親は馬を庭の桑の木に吊るして殺してしまった。それを知った娘は死んだ馬の首にすがって泣き悲しんだ。この様子を見た父はさらに怒って後ろから馬の首を斧で切り落とした。すると、娘は馬の首に乗ったまま天に昇り去ってしまった。オシラサマというのはこのとき生じた神で、馬を吊り下げた桑の枝でその像を作るのだそう。このオシラ様伝説には続きがあって、1つは、父親に愛する馬を殺された娘は、その馬の皮で小舟を造り、桑の木の櫂で海に出たが、悲しみのあまり死んで、ある海岸に漂着した。その皮舟と娘の亡骸から湧き出した虫が蚕であるというものと、もう1つは、父親に愛する馬を殺された娘は、「自分は家を出ていくが、残った父が困らないようにしてある。春三月の十六日の夜明けに庭の臼の中を見てください。」と言って、死んだ馬と共に天に飛び去った。言われた日の朝、父が臼の中を見ると、馬の頭をした白い虫(蚕)がわいていて、桑の葉で育てた。

  • 馬鳴菩薩は、

    中国の民間信仰に由来し、貧しい人々に衣服を施す菩薩とされ、そこから、養蚕守護・機織りの神仏とされました。馬鳴菩薩の像容は、馬の背に載る六臂の菩薩が、糸枠、糸、秤、火炎といった、養蚕に関連するものを手に持った姿です。
と、言うことで、馬が養蚕守護として祀られるようになっていったのです。

稲荷神社の本社は伏見稲荷ですが、鎮座は和銅4年(711)2月の初午の日です。

だから全国の稲荷神社は2月の初午の日に初午祭を執り行います。

と、言うことで、稲荷神社の大祭である2月の初午祭に、養蚕守護をお祈りすることになっていったのです。

因みに2021年今年は、新暦で2/23となりますね。

と、言うことで、稲荷神社が養蚕痕跡であることが分かりましたので、このエリアの稲荷神社で、且つ、初午祭を執り行っている神社を巡ってみましょう。

柴崎稲荷神社

柴崎稲荷神社です。

写真の通り、先程の里の稲荷神社同様、国分寺崖線にありますね。

境内がとても広く、それもそのはず、風土記によれば三開寺という羽黒修験の寺があったそうです。

さて、本日のハイライトがここにはありました。

榛名講の御祈祷御札

この柴崎稲荷神社の氏子エリアには、まだ、榛名講が残っているようですね。

群馬県の榛名山にある榛名神社は、特に雹よけ、嵐よけの神として信仰を集めてきました。

蚕のエサは桑ですが、桑の順調な生育には、安定した天候が欠かせません。そういったことから、養蚕農家の間で、榛名信仰が広がり、講が作られたのです。

初午祭も合わせ、決定的な養蚕痕跡と言えるでしょう。

次は中嶋神社です。

中嶋神社

近隣にあった2つの稲荷神社をここに環座し相殿としています。初午祭あります。

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如何でしたでしょうか。

もう何度も訪れている所ですが、新たなテーマで、新鮮に、explorer出来ました。暫くはこのノリで行くしかありませんね。。。