牟礼の神明神社から世田谷に入り、北烏山9丁目屋敷林を訪れます。
ここは恐らく、少なくとも江戸時代から残る農家で、嘗ては養蚕も行っていて、この旧母屋では蚕を育てていたそうです。
今昔マップで1896~1909年の古地図を見ても桑畑が多く見られます。
廻沢稲荷神社は桑畑の中にあると言っても過言ではありません。今は東西南北周りは全て住宅ですが。
稲荷神社は、初午の日に稲荷山に稲荷神が降り立ったという伝承から、初午祭を執り行ってます。
境内の由緒書きを見ると、ここ廻沢稲荷神社も初午祭を執り行っているようですが、前回も説明したように、午(馬)と養蚕は深い関係にあり、午(馬)繋がりで、稲荷神社の初午祭は、養蚕を願うお祭りでもあったようですから、ここ廻沢稲荷神社も、養蚕の痕跡かもしれませんね。桑畑の中に位置してますし。
ここも廻沢稲荷神社同様、ネットで調べてもあまり謂れは出てこないんですが、弁天祭が4/7に行われるそうです。
調べてみると、弁天祭というのは、どこの弁天さんでも大体同じ時期に行われるというものではないようですね。
そんな中、ここの弁天さんは4/7なわけです。4月というと、新暦となってズレてしまってますが、本来は巳の月。蛇の月なんですね。
だからここは、特に蛇の神様として意識されていた弁天さんなのではないか、と、こじつけるわけです。
蛇と言えば鼠の天敵。鼠は蚕を食べてしまいますから、蛇は、養蚕農家の守護神なわけです。
つり鐘池の北側台地は一面桑畑ですし、ここも、養蚕痕跡かもしれません。
先に進みます。
下祖師谷神明神社なんですが、本命は三峯神社なんです。
先に進みます。
下祖師谷神明神社なんですが、本命は三峯神社なんです。
風土記には、神明、八幡相殿、稲荷、熊野は地内と記述で、喜多見氷川神社の記録によると、明治43年に地内の熊野を合祀としか記述が無いので、三峯神社はその後の養蚕が盛んな時期に合祀されたと言えるのではないでしょうか。
先に進みます。
祖師ヶ谷大蔵の駅も越え、三峯神社です。
先に行きます。この崖をトレースすると、愛宕坂と打越坂の出合いに着き、そこには田の神、庚申塔と、もう1つ石塔があります。
田の神というのも個人的には嬉しいんですが、今回は表面が剥がれ、彫られた文字が判読できない謎の石塔、これが本命です。
駒井、猪方エリアに向かいます。
と、言うことになります。
このどちらかが三峯神社 |
先に進みます。
祖師ヶ谷大蔵の駅も越え、三峯神社です。
三峯神社 |
繭玉飾り |
鎌倉街道(祖師谷通り)から三峯神社に向かう道、三峯神社手前に榛名山供養塔 |
ここは推測ではなく養蚕痕跡でした。繭玉飾りが境内にあるんですから、疑う余地無しですね。
戦後、この地に以前から、"三峯講の蚕様"として祀られていた三峯神社を、砧地域の氏神とすることに決め、創建されたということです。
この古地図を見ると、桑畑でいっぱい・・・というほどではないですが、あることはありますね、桑畑が。
戦後、この地に以前から、"三峯講の蚕様"として祀られていた三峯神社を、砧地域の氏神とすることに決め、創建されたということです。
1896~1906年の古地図 |
この古地図を見ると、桑畑でいっぱい・・・というほどではないですが、あることはありますね、桑畑が。
実は榛名山供養塔の存在はだいぶ前から知ってたんですが、で、何故、榛名山?, と、疑問だったんですが、今回のexploreでようやく分かりました。養蚕だったんですね。
蚕の唯一の餌である桑が、霜や雹、嵐によって被害を受け、餌がなく蚕を育てられなくなる事態もありました。榛名神社は、特に雹除け、嵐除けにご利益があるとして、全国に知られていた農業守護の神社です。
蚕の唯一の餌である桑が、霜や雹、嵐によって被害を受け、餌がなく蚕を育てられなくなる事態もありました。榛名神社は、特に雹除け、嵐除けにご利益があるとして、全国に知られていた農業守護の神社です。
先に進みます。
まずは石井戸稲荷神社です。
ここは初午ではなく二の午にお祭りを開いてます。が、妙法寺のブログを拝見すると、ニの午といっても今年は2/8でしたから、立春後の最初の午の日ですから初午じゃあないですか。
仙川と野川の間の尾根から仙川の谷に下りてみましょう。
大蔵運動公園のある台地の縁にあるのが弁天社です。
ここは写真のように崖で湧水が豊富です。実際、この弁天さんが祀られている所も湧水が崖から滲み出ています。だから、この湧水が御神体の弁天さんなんだと思いますが、この弁天さんの直ぐ隣に御嶽神社があるので、セットで考えるとやはり養蚕痕跡なのではないかとこじつけたくなります。
御嶽神社ですが、本社武蔵御嶽神社の境内社に蚕養社(武蔵御嶽神社では、蚕の字は、上のつくりが、"天"ではなく"神"と書いてカイコと読ませるパターン)があり、祭神は保食神で、養蚕の御札も出している為、養蚕農家から信仰を集めていました。
左から、田の神、庚申塔、謎の石塔 |
正面には、"秩父・・・"と彫られていて、なら、三峯神社じゃないか、と。これも、養蚕痕跡と言えると思います。
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私が個人的に、"喜多見旧市街"と呼んでいる、多摩川、野川と小田急線に囲まれているエリア、ここは、1896~1909年の古地図を見ると、桑畑が非常に多い、川沿いの田んぼ以外は桑畑と言っても過言ではないように思います。
まずは、鎌田、宇奈根エリアに行ってみましょう。
が、ここ鎌田、宇奈根エリアは、吉祥院、宇奈根氷川神社というスター級の寺社があるんですが、養蚕痕跡は見つかりませんでした。
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私が個人的に、"喜多見旧市街"と呼んでいる、多摩川、野川と小田急線に囲まれているエリア、ここは、1896~1909年の古地図を見ると、桑畑が非常に多い、川沿いの田んぼ以外は桑畑と言っても過言ではないように思います。
まずは、鎌田、宇奈根エリアに行ってみましょう。
1896~1919年 鎌田・宇奈根エリア古地図 by 今昔マップ、多摩川と野川の間は、"Y"と"L"を合わせたような地図記号の一面の桑畑 |
が、ここ鎌田、宇奈根エリアは、吉祥院、宇奈根氷川神社というスター級の寺社があるんですが、養蚕痕跡は見つかりませんでした。
隣接する吉祥院と鎌田天神社、東京都世田谷区にして奇跡的に今尚神仏習合の名残を残す。鎌田天神社には2つの境内社がありましたが、よく分かりませんでした。風土記には1つは稲荷と記載があります。 |
相変わらずの風格を現す宇奈根氷川神社、境内をくまなく探すも養蚕痕跡無し |
駒井、猪方エリアに向かいます。
ここ駒井、猪方エリアですが、養蚕痕跡が残っていました。まず駒井ですが、御嶽講があって、嘗ては、日枝神社での2月の雹祭の後、くじで代参人を決め、その後、4/中~5/上に武蔵御嶽神社にお参りに行っていたそうです。貰ってきた辻札の1つは、日枝神社の鳥居の脇に立てていたそうです。この御嶽講、今でも続いているそうです。
日枝神社、4/19に訪れた時は、辻札はありませんでした。尚、ここもお隣は円住院で神仏習合の名残です。 |
一方、猪方ですが、こちらは三峯講です。やはり今も続いているそうで、4/中に代参に行くそうです。お札は猪方の辻の庚申塔に立てるそうです。
実は調べたんですが、猪方の辻というのがどこか分からないんですが、ここは品川道から猪方村に抜ける辻ですから、もしかしたらここかなと思ってます。4/19でしたが、お札は立ってませんね。コロナの影響でしょうか。 |
続いて喜多見、岩戸エリアです。
既述しましたが、岩戸川沿いの岩戸エリアは田圃勝ちですが、喜多見は、野川と品川道の間はほぼ全面桑畑です。が、養蚕痕跡は見つけられませんでした。
先に進みましょう。喜多見旧市街以外で、幾つか、養蚕痕跡をご紹介したいと思います。
まずは泉龍寺の弁財天です。
弁天様というと蛇で養蚕農家の守護神なわけですが、ここには頭は人間、胴体は蛇の像、つまり、宇賀神が祀られていたそうです。
次は覚東の子之三島神社です。ここはなかなかですよ。
まず、子之神社の方の祭神ですが、今は、大己貴神ですが、風土記によると子の権現です。廃仏毀釈で大己貴神にされたんですね。まあ、それは今回は主題ではないんですが、子の権現ということになると、普通、飯能の天龍寺の系統ということになりますが、八王子の鑓水に、やはり、子の権現があり、養蚕の信仰対象だったんです。
1896~1909年の古地図 by 今昔マップ |
既述しましたが、岩戸川沿いの岩戸エリアは田圃勝ちですが、喜多見は、野川と品川道の間はほぼ全面桑畑です。が、養蚕痕跡は見つけられませんでした。
先に進みましょう。喜多見旧市街以外で、幾つか、養蚕痕跡をご紹介したいと思います。
まずは泉龍寺の弁財天です。
次は覚東の子之三島神社です。ここはなかなかですよ。
これは、繭を食べる鼠を祀ることで、繭をを食べてくれるなという願いですね。
そのことからすると、ここ子之三島神社も、養蚕の信仰対象だった可能性があるわけです。
また、飯能の円泉寺によると、妙見様を祀っているとのこと。妙見様といえば秩父神社。秩父神社と言えば養蚕の信仰対象です。
と、言うことで、状況証拠の積み上げでしかありませんが、ここ子之三島神社も養蚕の痕跡なのではないでしょうか。
最後は、喜多見不動です。
最後は、喜多見不動です。
ここには、そのものズバリの金色姫が祀られています。
"インドの王と后の間に金色姫という名の娘がいたが、母が亡くなってしまい、継母が来たが、金色姫を憎み、4回も殺そうとしたという。
継母の悪意を知った王は、金色姫の身を案じ、桑の木で作った船で金色姫を海に逃した。
この舟は日本の常陸国の豊浦の湊に流れ着き、その地のとある夫妻に愛された。しかし、病気となり、やがて、死んでしまった。ある夜、夫妻の夢に金色姫が出てきて、「我に食を与えよ、必ずや恩返しを」と告げた。夫婦が金色姫の亡がらを納めた櫃を開けてみたら、中は小蟲で、桑の葉を与えると繭となった。その後、筑波山の神が現れ、繭から糸を取る方法を教えた。"
ここ喜多見不動の金色姫も、桑の木で作った船に乗っております。金色姫ですね。
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如何でしたでしょうか。
ダイダラボッチなどの産鉄地名もそうでしたが、意外にも我が地元にこんなにも豊かな歴史が眠っていました。
いやぁ、面白いです。
それにしてもあらゆるものが養蚕信仰の対象になってますね。それほど、養蚕が盛んだったということだと思います。1900年代には中国を抜いて世界一の生糸輸出国になっています。
前回も含め整理すると、
それにしてもあらゆるものが養蚕信仰の対象になってますね。それほど、養蚕が盛んだったということだと思います。1900年代には中国を抜いて世界一の生糸輸出国になっています。
前回も含め整理すると、
- オシラ様
- 馬鳴菩薩
- 馬頭観音
- 庚申塔
- 三峯神社
- 稲荷神社
- 榛名神社
- 弁財天
- 武蔵御嶽神社
- 子の権現
- 金色姫(蚕影神社)
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