2017年12月5日火曜日

小野路道

小野路道

という道がある。

八王子と小野路を結んだ道なのだが、現在の野猿街道が、昭和の初めまで小野路道と言われていたようだ。

野猿街道は八王子と一ノ宮を結んでいるが、と、いうことは、堀之内の辺りから小野路に向かっていたと思われる。

小野路道の謂れは何なのか。何故、八王子と小野路を結ぶ必要があったのか。

  • 延長2年(924年)、武蔵守、小野隆(孝)泰は、武蔵国多摩郡横山に、石清水八幡宮を勧請し八幡神社を創建した。
  • 天禄年間(970~973年)、国司として武蔵国に赴任した小野隆(孝)泰は、小野路に先祖小野篁を祀る小野神社を創建した。


若干の矛盾(延長2年と天禄年間では約50年も間が空いている。人生50年の時代に無理がある。)はあるものの、八王子と小野路は小野隆(孝)泰で繋がっていたのだ。

でも何故、小野隆(孝)泰は、”小野路に”小野神社を創建したのか。

そもそもこの小野隆(孝)泰とはどんな人物か。

小野妹子や小野小町、上記の小野篁を輩出した小野氏一族で、篁の七代後。子は義隆(孝)で、横山党の始祖となった。

この義隆(孝)は、情報が錯綜しているのだが、一説によると、天慶2年(939年)に勅旨牧の一つである小野牧の別当になっている。父隆(孝)泰がバリバリ働いてる時だし、小野神社創建よりずっと前だし、と、年代的におかしいからどっちかの情報がおかしいんだろうが、いずれにせよ、小野一族が小野牧の別当になったということだ。

少し時代は下って平安末期、小野路のすぐ西隣の小山田にも牧があった。

小野牧は相当規模が大きかったようで、小山田の牧もその一部だったとしたら、横山も小野路も小野(横山)一族の管理地だったということになり、小野神社を、小野路に建立したのも合点がいくというものだ。

今回はその小野路道をExplorerしてきた。下図のように複数ルートが考えられるが、今回は本線の黒~紫~黒のルートを行った。

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Explorerのスタートはやっぱりここです。

八幡八雲神社

八幡八雲神社には、横山氏の祖、横山義隆(孝)を祀る横山神社があります。

横山神社

山田川に架かる橋の名は小野路橋でした。

小野路橋

先を行くと古道の証、地蔵が佇みます。

古道の風景、サンタ

この直ぐ先はJR横浜線と京王線の踏切ですが、名前が良いです。この古道沿いで、先の橋とこの踏切が、唯一の小野路道の目に見える痕跡です。

野猿街道ではなく、小野路街道の名が残る踏切

北野駅の手前には、横山党の一族が創建したという北野天満宮があります。これも痕跡ですね。

銀杏の落葉が美しかった。

さて、ここからえっちらこっちら上りに入ります。住宅街の中、と、今一つ、趣にかけますが、それは気の持ちよう。1,000年前、小野路道が成立していた頃を想像しながら坂を詰めます。

住宅街の旧道を上ると、絹ヶ丘二丁目手前に出ます。

さて、ここからなんですが、

これは現代地図

現代地図
これは明治42年

明治42年

野猿峠は今とほぼ同じ道筋ですね。

でも、これは明治13年なんですが、

明治13年

今の道筋は全く見つけられませんね。
今の道筋(薄紫)の一本東の道筋(紫)だけです。つまり、明治13年から42年までの間に道が現在の道筋に付け替えられたというわけですが、今回は1,000年前の小野氏・横山氏ゆかりの小野路道ですから、紫を行きます。でもその前に、これを。

水飲み場

これも正面に見えるモチーフが猿ですから、野猿峠と言われるようになってから作られたものだということになり、1,000年前は野猿峠とは呼ばれてないから、こちらの道筋は小野路道ではないということが分かります。

さて、小野路道に戻って、住宅街の中をえっちらこっちら坂を上り詰めると、長沼公園の絶景に辿り着きますが、今日は地元のボーイスカウトが入団式をやってて、絶好のランチ場が使えません。仕方が無い、写真だけ取って先へ。

小野路道、長沼公園入り口
癒される~

折角上ったのにあっという間に下り、気が付けば、横山氏にも所縁の永林寺です。

永林寺、赤門

永林寺を過ぎると大栗川沿いのつまらない道になります。道は、堀之内の辺りから南に折れていたと思われますが、今はゴルフ場です。その後、よこやまの道、小野路浅間神社を経て、小野路に至ります。

小野路浅間神社裏、切り通し

この道はこの先横浜麻生道路に接続します。つまり、絹の道でもあったわけです。
また、長沼峠を通るルート(こっちの方が大きな道だ、明治13年地図では)や勾配のきつい野猿峠越えではなく白山神社迂回ルートもあるようで、今後も楽しめそうです。

2017年12月1日金曜日

上海の歴史、泗泾

前回に引き続き、同じ松江区内にある泗泾をご紹介します。

前回ご紹介した嘗ての松江府城、その前は華亭県城が、唐代(618~907)からの歴史があることはご紹介済みですが、同じ松江区内にあるここ泗泾はどうなのか。

北宋の時代(960~1127)に村は起こったといいます。村の名は会波村。南宋の時代(1127~1279)には七間村と変わり、元代(1271~1368)には、当地の外波泾、洞泾、張泾、通波泾の4つの泾が交わる所という意味で、泗泾という名となりました。泗泾は千年の歴史を持つ古鎮なのです。。。

と、まぁ、こういうことなんですが、ここで終わったら面目無い話で、なので、脳内Explorerを続けますが、一時代前、ここから南西に数キロの松江中山中路に華亭県の県衙が出来た。一時代後、ここに泗泾鎮が起こった、ということで、では何故、ここなのか。

色々と考えたくもなるんですよね。

地図を見れば、泗泾溏は南へと続き松江府中心地へと達します。



更にこの水路は南へ行くと黄浦江に接続しています。と、いうことは太湖に繋がっているということになり、太湖~長江という水路の大動脈沿いに位置していたから、泗泾という村が起こったと考えることが出来るのではないでしょうか。

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926年、泗泾に陸宝庵が移転してきて、呉越王から妙法金字蓮華経を賜るなどしてこの辺りは一大仏教エリアとなっていった。967年には泗泾塘を下った浦汇塘沿いにある七宝教寺が開山し、1008年には、今は福田净寺と名を変えた東田禅寺が開山した。

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太湖、黃浦河、泗泾塘、浦汇塘と繋がる水運の大動脈。その河畔に村が出来、寺が出来、そうして、泗泾鎮が成立していったということになりそうです。

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鴨、上海のローカル地区に行くとこの時期よく見られる光景
清代か民国時代の建築
その2
安方塔
福田浄寺
福連橋
橋上から
江達南路

以上

上海の歴史、松江

今ちょうど大河で直虎を放送してますが、その中で、井伊谷の新たな産業として綿花を栽培するというシーンがありました。

日本における綿花栽培はあの頃から本格化したと言われていますが、その前は輸入に頼っていました。

どこから輸入していたか?

主に明と朝鮮でした。ナント!!! 明の時代(1368~1644)、松江の総生産量の90%は日本に輸出されていたそうです。

私は仕事で上海に一年の半分、滞在しています。今や日本経済は中国無しでは考えられませんが、明の時代から、日本と中国は密接な結び付きがあったんですね。

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今の松江は上海市松江区で、その中心地は地下鉄9号線と松江中山中路が交差する辺りでしょうか。車は常に渋滞し、道行く人も多く、非常に賑わっています。

”松江”という地名が登場するのは元の時代(1271~1368)の”松江府”ですが、唐の時代(618~907)から、この辺りは華亭県と呼ばれていて、華亭県には華亭県城があり、県衙は松江中山中路付近と言われていますから、唐の時代から変わらず中心地だったということになります。

雲間第一楼、嘗ての松江府城中心部に再建された。下に、清代の松江府城地図を載せたが、ほぼ中央に、”松江府”と記載があるのがこれだ。

華亭県城はそのまま松江府城となりましたが、地図を見るとその痕跡が見事に残っています。



薄紫のポリゴンが堀と城壁に囲まれた松江府城のエリア。南と、南から東門へ至る堀は残っています。又、東門には東門村という地名が、北門にも北門街という地名が、南門にも南門村という地名が残っています。東西を貫く松江中山中路は、嘗ての東西のメイン水路でした。

清代の松江府城

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"痕跡"こそ残れど、嘗ての松江府城内はすっかり現代の町並みと化し、フォトジェニックさは見られませんが、松江中山中路を西進し、西門を過ぎ、沈泾塘を秀野橋で渡ると、明清時代の建造物が今も未だ残る松江老街に至ります。

清代の建築

しかし何と言ってもハイライトは大倉橋でしょう。

大倉橋、明代の建築
大倉橋前の石畳
橋上から東を望む
川沿いを行く

川沿いに数百メートルしかない老街ですが、逆に、全く観光地化されておらず、地元の人達の生活が垣間見れます。

今回は遠慮して生活の様子を撮れませんでしたが、再訪し、チャレンジしてみたいと思いました。

以上

2017年10月5日木曜日

上海の歴史、真如寺

正殿全景

南宋の嘉定年間だから1208〜1224年に、今の場所より少し東側に万寿寺として開山したのが始まり。

正殿、ズームアップ。この日は若い親子が熱心にお祈りしていました。

その後、元代に入り1320年に今の場所に移動し、名前も真如寺とした。

太平天国の乱で正殿を除く建物がことごとく破壊されたが、正殿の柱や梁は元代のものが残るという古刹です。

境内、非常に清潔。禅寺らしい。

若いお坊さんが修行している姿が垣間見れたり、境内はとても清潔で手入れも行き届いていて、気持ちが良かったです。

2017年8月17日木曜日

延喜式古代東海道 相模国·浜田駅〜武蔵国·店屋駅のルートB: 深見神社・中原街道ルート

ここの所、

  • 橘樹郡衙〜武蔵国衙
  • 都筑郡衙〜武蔵国衙
  • 久良岐郡衙〜武蔵国衙

と、武蔵国の各郡衙から国衙までの官道をexplorerしてきた。

こうなると次は豊島郡衙か荏原郡衙ということになるが、これらは幾度となく行っているし、思いっ切り町中だしで、今一つ。

だけど、乗ヌマ駅と豊島駅の位置によっては杉並ルートと大田ルートがあるので、ぐるっと一周コースになり、それはそれで何かの時に使えそう。とっとこう。

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色々調べると、延喜式古代東海道の相模国·浜田駅から武蔵国·店屋駅間のルートが、2通りありそうだ。

  • 矢倉沢往還ルート、走破済
  • 深見神社·中原街道ルート、未走

深見神社·中原街道ルートを推す理由は以下の3つのようだ。

  1. 式内社、深見神社が官道に面するようになる(逆に、矢倉沢往還ルートだと深見神社と官道が遠過ぎる。他に相模国六社も式内社も無い。)。
  2. 瀬谷は日蓮が池上に向かう時一泊した妙光寺があり、又、北条の頃は宿場が設けられていた往古からの交通の要所
  3. 相模国分寺誌で、『駅路は大住郡箕輪駅より愛甲郡愛甲の辺りを経て、鮎河即ち相模川を渡りて浜田駅に至り、国府に達し、更にい出て深見、瀬谷を過ぎ都筑郡に通じたのである。その古道は浜田より打越、四十坂、国役奴と続いて今尚形跡を存している。』という記述がある。

こうなると、店屋(まちや、みせや、と、2通りの読み方が考えられる。)は、町谷原(まちやはら)ではなく三瀬谷(みせや、上瀬谷·中瀬谷·下瀬谷)で、更に、瀬谷から北上して矢倉沢往還ルートに復帰するのではなく、瀬谷からそのまま東進する中原街道が駅路となる。

まぁつまり、店屋駅が町谷原なら矢倉沢往還ルートだし、瀬谷なら深見神社·中原街道ルートだということか。

確かに、直進性も確保されてるし、深見神社をちゃんと通るってのもデカイ。

赤が深見神社・中原街道ルート、青は矢倉沢往還ルート

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その深見神社、創建は478年、祭神は闇龗神(クラオカミ)、式内社。
クラオカミのクラは日光が滅多に届かないような暗く深い山間の谷を表し、オカミは龍を表す。所謂水神様。直ぐ脇を流れる境川が大本の御神体か。

と、いうのも、元の拝殿本殿は境内西端の東向の稲荷社とのこと。参道が残っており下りればそこは境川。この辺りは丁度蛇行もキツく川底はえぐられ深い水 = 深見だったのだろう。

ということは古道も、東からの参道脇に出る一本実線がそれで、鹿島橋の位置にあった渡しで瀬谷に渡ったものと思われる。
渡った先も、途切れてはいるものの直進路の痕跡が見え、俄然、こっちなんじゃないの?!という気がしてきた。

左の神社マークが深見神社、その直ぐ上の赤ライン、迅速図では一本実線が記事中の古道、その境川を渡った東側に、中原街道まで、途切れ途切れだが直進路の痕跡

もう1つ。

地形図で川に注目すると、矢倉沢往還ルートは川が作る谷によるUp and Downを避けているが、深見神社・中原街道ルートは突っ切っている。この突っ切り具合が官道っぽさ満点なんだが。

しかも、矢倉沢往還ルートの谷の避け具合が絶妙過ぎる。正に避ける為のルート設定でしょう。と、なると、便利な道から不便な道に変更はしないだろうから、少なくとも、深見神社・中原街道ルートの方が矢倉沢往還ルートよりも古いんじゃないかと思う。

地形図

でも瀬谷は武蔵国じゃないんですよね。相模国·鎌倉郡なんですよ。それはでも秀吉の時に境川を武相国境としたからでしょ?との反論もあると思いますが、その前の武相国境は相模湾と東京湾の分水嶺、今の三ツ境の辺り。瀬谷区の中心地、瀬谷区役所は三ツ境の駅の近くにありますが、瀬谷村の中心地といえば宗川寺や妙光寺がある鎌倉街道沿いでした。なのでやはり瀬谷は相模国かな。

やっぱりあり得ないかなー?!
が、ということで今回は未走の深見神社·中原街道ルートを行きたいと思います。

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海老名駅まで輪行。自転車を組み上げいざ出発!!と思ったらパラパラと細かい雨が降り出してきました。せっかくの夏休みもずっと雨でストレスいっぱいだったので、今日は非常に楽しみにしてましたから、無視して出発!!

東口を出て国分関免を左折、程無く相模原台地に上がります。浜田町の丁字路の脇にあるのは浜田歴史公園で、ここが浜田駅の比定地の1つとなっています。

浜田歴史公園、浜田駅比定地の内の一つ。ひっそりとした公園です。

県道406に出、北上すると直ぐ、ひさご塚公園。ここは4~5世紀の前方後円墳です。古代東海道が通る律令より前にこの地は栄えていたということが分かりますね。

ひさご塚

ひさご塚公園の向かいの細道を行きます。この道は、相模国分寺誌に出てきた四十坂。目久尻川に向かって一気に下ります。

四十坂、ここには関があって40文の通行料を取っていたそうです。

目久尻川にかかる橋は今は小園橋、往古は国役橋と言いました。相模国分寺誌に出てきた橋です。

国役橋、その名の通り、国役として作った橋だそうです。国道(国レベルの官道)だったということですね。

国役橋を渡り次の交差点を左折、すると今なお往時の面影が残る伝古代東海道となります。

伝古代東海道

当時のまま、道祖神も

上から。掘割状の道となっているのが分かる。

ここを過ぎると暫くは延喜式古代東海道と同じ道筋となり、大塚本町の交差点一つ手前を右に折れるのが今回のルートBです。

こちらも直進性は確保されている。

その後、厚木基地で道は途切れるが、あとみ坂を経て深見神社に至り、このルートBは終了します。

昼なお暗いあとみ坂

深見神社、この入り口が往古の正式と思われる。

階段を上がると正面に見えるのは嘗て拝殿、本殿があった今のお稲荷さん

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帰りはそのまま中原街道筋を使いましたが、Up & Downが意外に激しく消耗しました。それを考えてもこっちは不便な道。やはり、その点からも、古代東海道ではなかったとしても、延喜式より前にあった道と思われます。

2017年6月4日日曜日

武田信玄小田原攻め、先衆ルート

甲陽軍鑑によると、

“先衆は当麻、ニノ手は磯部、信玄旗本は新戸、跡備は座間で相模川を渡河した。”

という。

信玄旗本と跡備は鎌倉街道山ノ道、現代の町田街道に進路を取る東に大回りしたルートとなる。これは前々回ご紹介した。

ニノ手は御殿峠をそのまま南下し大山道、現代のR129を行き、作ノ口で県道508に南東に折れ、田尻からは県道46号を行って、磯部に至る。これは前回ご紹介した。

今回は、田尻で県道46号に行かず、そのまま県道508号を行く先衆ルートをご紹介したいと思う。


※今回は青ライン

地図をご覧いただきたい。国道、県道と重なる部分も多く、趣には欠けそうな感がある。今回のハイライトは、時宗無量光寺だろう。

無量光寺には面白い縁起がある。

サイトによれば、1261年、一遍諸国遊行の旅の途中、相模川の向こうにある依知の薬師堂に一夜の宿をとり、一心に念佛を唱えていたところ、東の空が急に光り輝き、妙見菩薩が姿を現され、お告げを得、相模川を渡り、東北方の亀形の丘に登ってみると、そこに妙見菩薩の小さなほこらを発見、上人はここに草庵(粗末な住まい)を結び金光院と名付けたということだが、一遍が無量光寺開山時に勧請したとされる三嶋神社縁起によれば、承久の乱で敗れて奥州に配流された河野通信の一子がこの地に隠れ住み、その縁から通信の孫の一遍が無量光寺を開いたという話もある。

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無量光寺山門
明治期の火事により焼失したままの本堂跡に一遍が立つ
仮本堂には河野氏の家紋が
件の三嶋神社、無量光寺のある尾根から川を挟んだ尾根に立つ。
三嶋神社由緒

無量光寺から相模川は直ぐ。先衆はここで相模川を渡河した。

昭和橋上から大山を望む

橋を渡ると直ぐ、依知神社。なんと、平将門所縁。

937年、再建。だからその前からあった。
源頼家寄進のイチョウ

この後はR129を着かず離れずの住宅街の中を行く旧道となり、そこかしこに庚申塔などあるが、フォトジェニックなものはなく、写真には撮らず。程無く、本厚木駅に到着し、輪行で帰宅した。

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